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――沙鬼[サキ]

 知る人も少ない魔法学校の《隠し部屋》で一人、暇を持て余していた沙鬼は、待ち望んだ主の声に目を覚ます。

「マスター、」

 魔力を伴わない呼び声が《言霊》として響くことはなかった。けれど沙鬼は己の声が届いたことを確信して、何もない空間へと両手を差し出す。

「――ここにいたのね」

 次の瞬間、沙鬼はその腕に唯一忠誠を誓う無二の主を抱いていた。マスターと、確かめるように呼べば漆黒の瞳が己を映す。

「王城からだったから、呼んでくれてよかったわ」

 呑み込まれそうな色だ。





「何か急な用事でも?」

 《王城》からの《転移》は干渉が多くていつも苦労させられる。今日のように誰かが《呼んで》くれなければ、諦めて城外まで歩いているところだ。

「仕事よ。おかげで城の干渉の中から《渡る》羽目になったわ。――時間がないから行くわよ」

 でも今日は時間がない。だから無理をして空間を抉じ開けた。

「イエス・マイロード」

 そしてもう一度、今度は沙鬼を連れて私は《次元の狭間》を呼び寄せる。
 《王城》の中からでなければ、どこへ行くにも苦労はしなかった。

「いきなり修羅場になるからそのつもりでね」

 目的地は《王都》から少し離れた所にある《北の森》。そこで近く行われる《儀式》の阻止と《生贄》の保護が今回の仕事だ。――生贄を使う儀式に、新月の今日以上相応しい日もないだろうに。
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「――……」

 目が覚めるとそこは古めかしいアパートの一室で、嗚呼夢かと、私は息をつく。
 いつもと同じ、彼女が私に微笑みかける残酷な夢だ。目覚めは、いつもと同じ単調な毎日を始める合図。輝かしい銀色の欠けた世界で、今日も私は一人限られた時間を浪費していく。

「おはよう御主人様」

 それはあの日、彼女が私の運命を操作することを諦めた瞬間から変わらない、変えられない絶対だ。――なのに、

「どこか具合悪くない? 昨日急に倒れたから、俺心配で…」
「……あなた…」
「ん?」
「誰?」

 喋るたび、艶のない銀色の髪が揺れる。昨夜は夜に同化してわからなかった男の持つ《特別》な色彩に、私は思わず目を細めた。

「ベクシル。ベクシル・ナイト」
「…神モドキじゃないのね」

 落胆と共に見上げた瞳もまた、髪と同じ艶のない銀色。こちらを見ているのに《何》を見ているかわからない両目を片手で覆って、溜息一つ。

「御主人様ー?」

 仕草や言い方が、一々小動物のようだ。

「さっきね、あなたのこと夢にしようと必死に自己暗示かけてたの」
「それで?」
「夢じゃなくて心底残念よ」
「えぇー…」

 だけど目の前にいるのは紛れもない人間で、しかも得体が知れない。

「なんで私の部屋がわかったの? 鍵は?」
「俺《魔法使い》だから」

 疲れてきた腕を下ろして体を起こすと、背中をそっと支えられる。ともすれば気付かないくらいの小さな力で。
 そのさり気無い気遣いがまた彼女を髣髴とさせて、私はベッド代わりのソファーに凭れながら意図的にベクシル・ナイトを視界から排除した。

「…それで? なんで私が《御主人様》?」

 怖かったのかもしれない。

「俺が君の《使い魔》だから」
「答になってない」

 必要最低限のものしかない殺風景な部屋、単調な日常に突如現れた銀色。
 彼女ではないと頭で理解していても、一度動き出した心はそう簡単に諦めてくれない。代わりにしてしまえと、出来もしないことを現金な子供が叫んでいた。

「俺は君の、君だけのためにいる存在だから」
「答になってないってば…」

 苦しい。苦しい。胸が苦しくてたまらない。頭の中がグチャグチャで、いつから私は《こんな風》になってしまったんだろう。

「世界のありとあらゆる存在は、対になるために生まれて来るんだよ、御主人様」
「だからって私の対があなたかはわからないでしょ」
「俺にはわかる」
「私にはわからない」

 昔はもっと色々なものが見えていたはずなのに、今はもう何も見えない。
 光も闇も、なにもかもがごちゃ混ぜだ。

「俺は必要じゃない?」
「えぇ」
「なら命令して」
「…私の前から消えろ」

 全てが混ざり合った毒々しい色合いの《何か》が私の中で渦巻いている。それに子供の主張と大人の諦めが合わさって私を攻め立てた。

「おおせのままに」

 早く早く、全部終わってしまえ。彼女が戻らないのなら。
「ささのは、さーらさら」

 軒端にゆれる

「おほしさま、きーらきら」

 金銀砂子





『美咲[ミサキ]』

 幸せな夢の中では、あなたはいつも私の傍にいてくれる。夢の中だけならずっと、ずっと、あなたは私だけの人。

『見てごらん、星が綺麗だよ』

 十年前の七月七日を永遠に繰り返す私はいつからか、あなたの指差す方向を見て目を輝かせることはなくなった。私は私を抱きしめるあなたの横顔だけをじっと見つめて離さない。そうしている間だけ、私は安らぐことができた。

『誕生日プレゼントはなにがいい?』

 あの日から、私が本当に望んでいるのは唯一人、あなただけ。

『イヴリース』

 美しく気紛れな《銀の魔女》。慈悲深くも残酷な《神の力》。あなたが私のものになってくれたなら、もう何も怖くなんてないのに。

『ん?』
『……約束、して?』
『いいよ』

 あなたは永遠に《彼女》もの。

『私の運命を弄らない、って』

 大好きよイヴリース。たとえ世界中のありとあらゆる存在があなたを愛するよう呪われていたとしても、私の想いだけは本物だって誓えるわ。呪いが解けてあなたが一人になったって、私だけはあなたを愛し続けるから。

『…それをお前が望むなら』

 私を呪わないでイヴリース。どうかどうか、その残酷な優しさで針は止めないで。
 あなたのいない永遠に意味なんてないの。

『私はお前の運命に手をつけないと約束するよ、美咲。だけど憶えておいて』

 優しい優しいイヴリース。愛しい愛しい《銀の魔女》。幼い私の髪を梳く左手の指輪が憎くて憎くてたまらない。それさえなければ、あなたは私にだって目を向けてくれたでしょうに。
 あなたが《彼女》のものであることは、あなたがあなたであることの証明。あなたが許した存在理由。《銀の指輪》に誓われた愛は永遠に絶対。

『私はお前が好きだ』

 幸せな夢の中でなきゃ、あなたは私の傍にいてくれない。










「本当に残酷だったのは、どっちなのかな」

 真夜中の公園で一人きり、錆付いたブランコを揺らしながら私は薄情な《神モドキ》を待っていた。
 来るはずはない。だけどそれでいい。最後に会った日から三年も経てばその姿を探してあてもなく街を歩くことに疲れ、五年も経てば、誕生日くらいにしか再会を願わなくなる。人間なんてそんなものだ。

「今頃何やってんだか…」

 いつの間にか《大人》になった私は、夜な夜な未練がましい夢を見ながら起きている間は彼女の名前さえ口にしない。神モドキ、そう呼ぶのがせいぜいだ。
 夢の中は、差し詰め出来損ないの《ネバーランド》なのだろう。私自身はとうに《子供》であることをやめたのに、捨てられた《子供》の部分が拾って欲しくて私に見せる《自己暗示》。
 彼女のことだけを想っていましょうよ。――幼い私が私に囁く。
 それをお前が望むなら。――同時に聞こえたのは、もの哀しげな彼女の声だ。何かに耐えるよう細められた瞳は彼女越しに見えた星と同じ色をしていたのに、輝きは対照的。
 幼い私は、その時彼女が何を思っていたかなんて考えようともしなかった。

「…かえろ、」

 立ち上がった拍子に、ブランコがギィギィ音を立てる。振り返りもせず歩いていくと、音は段々離れてやがて聞こえなくなった。
 こんな風に幼い私から離れてしまえたらいいのに。

 夜になると途端人気のなくなる住宅街を一人きり、私はとぼとぼ歩きながら空を見上げた。
 もう星を見て目を輝かせる《心》すら失くした私の目に映るのは、キラキラ眩しい沢山の光、ただそれだけ。もうそこに苦しいくらいの感動はなく、夜空に星が見えるという《あたりまえ》があるばかり。
 我ながら可愛げのない育ち方をしたと思う。でもこれでいい。これくらいが、丁度いい。


 だってもう、ここに私の永遠はないのだから。


「――やっと見つけた」

 不意に左手をつかまれて、私は立ち止まる。私以外誰もいなかったはずなのに、という純粋な驚きが一瞬胸を占めて、すぐに消えた。状況的には悲鳴くらい上げてもおかしくはないのに、昔々仕舞い込んだ恐怖はそう簡単に出てきてくれない。

「俺の御主人様」

 振り返って見つけたのは、私より頭一つ分背の高い《青年》で、驚くほど整った容貌の彼は私の顔を見ると嬉しそうに笑った。

『好きだよ』

 いもしない神モドキの声が聞こえたような気がして、私は動けなくなる。打ちのめされ、麻痺したはずの心が大きく脈打った。

「これからよろしく」

 星空が、遠退く。





『美咲』

 あなたがいないと意味がない。

『美咲、誕生日プレゼントはなにがいい?』

 でも傍にいるだけじゃ満足できない。

『お前の運命はお前のものだよ』

 一緒に生きたかったの。

『だからそれ以外で、お前が一番欲しいものを上げよう』

 一緒に生きて欲しかった。





「――……」

 目が覚めるとそこは古めかしいアパートの一室で、嗚呼夢かと、私は息をつく。
 いつもと同じ、彼女が私に微笑みかける残酷な夢だ。目覚めは、いつもと同じ単調な毎日を始める合図。輝かしい銀色の欠けた世界で、今日も私は一人限られた時間を浪費していく。

「おはよう御主人様」

 それはあの日、彼女が私の運命を操作することを諦めた瞬間から変わらない、変えられない絶対だ。――なのに、

「どこか具合悪くない? 昨日急に倒れたから、俺心配で…」
「……あなた…」
「ん?」
「誰?」

 喋るたび、艶のない銀色の髪が揺れる。昨夜は夜に同化してわからなかった男の持つ《特別》な色彩に、私は思わず目を細めた。

「ベクシル。ベクシル・ナイト」
「…神モドキじゃないのね」

 落胆と共に見上げた瞳もまた、髪と同じ艶のない銀色。こちらを見ているのに《何》を見ているかわからない両目を片手で覆って、溜息一つ。

「御主人様ー?」

 仕草や言い方が、一々小動物のようだ。だけど目の前にいるのは紛れもない人間で、しかも得体が知れない。

「さっきね、あなたのこと夢にしようと必死に自己暗示かけてたの」
「それで?」
「夢じゃなかったのね…」
「うん」

 ベクシル・ナイトと名乗った男が嬉しそうに笑っていることは、目が隠れていてもすぐにわかった。弧を描く唇は見るからに無邪気そうで、そこに他意は感じられない。

「なんで私の部屋がわかったの? 鍵は?」
「俺《魔法使い》だから」

 でも、こいつは彼女じゃない。彼女でなければ、私にとって《不必要》な存在だ。

「…それで? なんで私が《御主人様》?」

 さっさと追い出してしまえ。

「俺が君の《使い魔》だから」
「答になってない」

 頭で理解していても、一度動き出した心はどうしようもなく目の前の色を求めていた。代わりでもいいからと、現金な子供が煩い。

「俺は君の、君だけのためにいる存在だから」
「答になってないってば…」

「お前、そろそろ誕生日だったな」

 暑さに負け、開け放していた窓辺に降り立った人影は唐突にそう切り出して、哀しいかなそんな登場に慣れてしまった私は驚くでもなく首肯した。

「そろそろっていうか、明日」
「プレゼントは何がいい?」
「…くれるの?」

 勝手知ったるなんとやらで、上がりこんできた真夜中の来訪者――イヴリース――は、冷蔵庫から麦茶を出してきてソファーに落ち着く。
 グラスは二人分用意されていた。

「何が欲しい?」

 注がれるのを待って手を差し出すと、逆に手招かれ、近付けば強引に隣へ座らされる。

「イヴリース」
「私以外で」

 十年間、私とイヴリースが出逢って以来ずっと繰り返してきたやり取りはまるで何かの《儀式》のようで、私はイヴリースが永遠に《彼女》の物であると知っているのに、そう言わずにはいれない自分の諦めの悪さに小さく笑った。
 《いつかは》という希望は存在しない。この件に関して、イヴリースが根負けして結論を覆すことは絶対にありえなかった。

「じゃあ使い魔とか」

 私は私で、「あなたのほかには何も要らない」なんて可愛くうもウザったい正確の持ち主ではないから、そこそこに多望だ。

「使い魔?」
「うん。家事とかもしてほしいから人っぽいのがいいなぁ」

 イヴリースが《ほぼ》全能であることも知っているので遠慮もしない。

「家事ってお前…」
「最近暑くて動くのが億劫」
「…まぁいいか」

 暫く呆れ顔で私を見ていたイヴリースは諦め混じりに頷いた。

「使い魔だな」
「いつくれるの?」
「明日中」
「やたっ」
「出来の悪い相棒を持つと大変だな」

 見慣れた背中が崩れ落ち、見覚えのない銃を向けられる。
 聞きなれたはずの銃声が耳について離れないのは何故だろう。

「よ、る…」

 伸ばした手は届かない。動かなくなった体は遠く、だんだんと広がっていく血溜りに、美咲[ミサキ]は夜の死を悟った。大口径の銃で容赦なく打ち抜かれた胸にはぽっかりと大穴が開いている。――空っぽだ。

「てめぇも死ね」

 顔の良さだけが取り柄で、よく笑う馬鹿な男はもういない。
 ならばこの男も要らないだろうと、美咲はナイフを振り上げた。

 銃声と、金属音。

 真っ二つにされた銃弾が左右に分かれて壁にぶつかる。男は零れんばかりに目を見開いた。そして身に迫る《死》の存在を肌で感じて恐怖に震える。

「あなたが死ねばいい」

 美咲が突き出したナイフは狂いなく男の胸に吸い込まれていった。心臓の上に柄を生やした不自然な見てくれの男は刺された衝撃で何歩か後退り、倒れ、動かなくなる。
 狭苦しい路地に残されたのは美咲一人で、《脱落者》である二人の体は消えつつあった。

「さよなら」

 二人分の死体が消えて、残されたのは三丁の銃と幾らかの弾、美咲のナイフに、夜の仕込みナイフ。その中から必要な分だけを拾って、美咲はたった今殺した男の仲間が来る前に走り出した。
 明けない夜の街、《ナイトメアフィールド》は夢魔の遊び場。目が覚めれば全てが幻想。終わらせるには夢魔に勝つしかない。だから人は力を欲して銃を向け合う。ここでは《心》の強さだけが存在のより所。最も強い想いこそ真実。

 ふっ、と息を詰め小路から大通りへ飛び出した美咲は、周囲の異様な静けさに思わず足を止めた。
 普段なら建物の上で目を光らせている狙撃手がいない。でなければ、通りのど真中で立ち止まって無事にいられるはずはなかった。――彼らはいつだって獲物をいたぶりたくてウズウズしているのに。

「どういうこと…?」

 思いもよらない状況に美咲はきょろきょろと辺りを見回した。普段狙撃手が陣取っている窓や屋上、物陰にいくら目を凝らしても、人の気配すら見つからない。
 そこで漸く、異質な男の存在に気付いた。

「――夜?」

 グラリと世界が揺らいで、明けない夜の果てに光がさす。抗い難い力に引かれ体は傾き、咄嗟に伸ばした手は空を掻いた。

「なんで…っ」「――――」

 明転。





「――――、」

 目が覚めた直後はいつも同じことを考える。――どちらが現実だ。
 静かに電子音を響かせる目覚まし時計を止めて、美咲は寝覚めの悪さに顔を顰めた。ナイトメアフィールドへ行くようになってから二度寝には縁がなかったが、今日ばかりは考えてしまう。もう一度眠ってあの男の正体を確かめるべきか、否か。
 けれどそれは、必要のない逡巡だった。

「……な、んで…」

 辛うじてそれだけ口にして、美咲は飛び起きる。悲鳴を上げなかったのは《向こう》での慣れが原因だ。

「どうしてここにいるの!?」

 けれど現実世界に夢魔の力は及ばない。だから美咲は、自分の隣にいる男の存在に混乱した。

「――……」
(嗚呼、)

 これが夢ならよかったのに。――程なく目覚めた男に見上げられ、美咲は今更ながらに夜の死を実感した。硝子玉のように澄んだ目をしているという点で男は夜と酷似しているが、夜ではない。

 夜は死んでしまったのだ。

「どうして――ッ」

 突然泣き出した美咲に、男は驚きもせず手を差し伸べた。涙を拭うと同時に囁かれた言葉を美咲は理解できなかったが、穏やかな響きに慰められているということだけは理解する。

「ごめん、なさい…っ」

 それからずっと、美咲が涙を枯らすまで、男は彼女の傍にいた。










「どうぞ」

 差し出されたカップを両手で受け取り、男は窺うように美咲を見上げる。まるで小動物のようだと場違いなことを考えながら美咲が頷いて見せると、それきり疑う素振りも見せずカップの中身を口にした。
 警戒心の欠片もない。

「ねぇ、あなた名前は?」

 尋ねても、男が答えられないことを美咲は知っていた。言葉が通じないのだ。

「?」
「私は美咲。わかる? み・さ・き」

 案の定首を傾げた男に、美咲もこれくらいは理解できるだろうと自分を指差しながら繰り返す。
 男ははたと傾けていた首を戻した。

「ミサキ?」
「そう、美咲。――あなたは?」

 今度は美咲が首を傾げながら男を指差す。

「ベクシル」
「ベクシル?」

 男――ベクシル――は頷いて、もう一度美咲の名前を口にした。ミサキ、ミサキと、繰り返しているうちにアクセントの違いは消えていく。

「美咲」

 五分もしない内にベクシルは美咲の名前を正確に発音できるようになった。心底嬉しそうなベクシルに美咲もつられて笑い、最後のコーヒーを飲みほす。
 よいしょと勢いつけて立ち上がると、ベクシルはやはり小動物のようにその動きを追った。

「ご飯作るね」










――夜――

 ベッドに入って目を閉じ、ナイトメアフィールドに呼び込まれるその瞬間を美咲は何よりも恐れている。夢と現実の境界が曖昧になって溶けていくような錯覚が、彼女を捉えて離さないからだ。美咲は恐れている。夢が現実となり、現実が夢となることを。

「美咲?」
「…来て」

 立ち尽くすベクシルの手を引いて美咲は走り出した。やはり周囲に狙撃手の気配はなく、大通りに危険はなかったが、遠くから複数の足音が近付いてきている。昨日殺した男の仲間だとしたら厄介だ。逃げ切れる確証はないが、甘んじて殺されてやるほどお人好しでもない。
 埃っぽい路地に駆け込んで、複雑に入り組んだ道を奥へ奥へと進む。途中銃の装弾を確認するため手を放しても、ベクシルは美咲について走り続けた。立ち止まったり逸れたりする気配はないが、どの道彼を連れてこの場を切り抜けることは出来そうにない。

(追いつかれる…)

 足音はすぐそこにまで迫っていた。美咲は隣を走るベクシルを一瞥して、一度は手をかけた夜の銃をホルスターに押し戻す。――この小動物に銃が扱えるものか。

 銃声。

 背後からの銃弾は僅かに逸れて右側の壁に当たり、二発目の弾道にいたベクシルを壁際に押しやって、美咲は振り向きざま引き金を引いた。遊び弾はない。最低限の弾数でその場にいる《敵》の息の根をとめる。死体が地面に転がる前にまた走り出すと、ベクシルも当然のようについてきた。

「……」

 突き当りで左右に別れる道の右側から飛び出した人影をろくに見もせず撃ち殺し、左へ曲がる。緩く右へカーブした道は先が見えず、美咲はベクシルに右側を走らせナイフの留め金を弾いた。

『――――!』

 ベクシルが声を上げる。美咲には理解できない言葉の叫びは、真上からの銃声に掻き消された。
 避けられない。――美咲は直感する。ナイフで弾くにしても気付くのが遅すぎた。大通りのことがあって狙撃手はいないと、心のどこかで油断していたのかもしれない。

(私が死んだらっ)

 夜を殺した男に銃を向けられた時でさえ感じなかった感情が胸をよぎる。ナイトメアフィールドで生き残るために殺していた《ノイズ》が息を吹き返した。


 彼を残しては逝けない。


(ベクシル――!)

 暗転。





「漸く出てきたね」

 頭の中でカチリと歯車の合う音がして、ベクシルは哂った。彼が見上げた先で放たれた銃弾が静止する。勢いをなくした鉛玉はぽとりと地面に落ち、建物の屋上で銃を構える少年は舌打した。

「なんだ、記憶失くしたんじゃないの」
「失くしてたよ? 君が現れるまではね」

 少年の姿をした夢魔は笑う。ご苦労様と、小馬鹿にしたような言葉にもベクシルは動じなかった。

「条件はクリアした。悪趣味な遊びはお終いだ」
「夢の中で僕に勝てるとでも?」
「無理して勝つ必要はないよ」

 つ、とベクシルの指先が空間を伝う。夢魔の魔力によって構築された夢の世界に、全く異質な魔力が侵入する。
 刹那弾かれたように夢魔はベクシルへと飛び掛った。本能的な攻撃はベクシルの反応速度を超えていたが、そんなことは関係ない。

「今回、俺はただの《目印》だからね」

 ぐにゃりと、ベクシルと夢魔の間で《夢》が歪んだ。夢魔は恐怖に顔を引きつらせるが、もう遅い。

「 《 消 え 失 せ ろ 》 」

 《歪み》が発した声に、夢魔は苦しむ間もなくその存在を消失する。同時に夢の世界は崩壊を始め、歪みから溢れ出す力がそれを制した。

「――体はどうした」
「ちょっとね」

 歪みの放つ言葉からは、すでに夢魔を殺した凄絶な魔力は消えている。抱きとめた美咲を抱えなおして、ベクシルは歪みに一歩近付いた。
 歪みの向こうにあるはずの《帰るべき場所》が、今はもう見えない。

「体がなければ《こちら》へ戻ることは出来ない」
「知ってるよ」
「残る気か」
「君だって知ってるだろ? イヴリースの口癖を」
「…馬鹿な男だ」
「君に言われたくない」

 明けない夜が明けようとしていた。他でもない歪みの注ぐ力によって。

「あいつは怒るぞ」
「君がいれば大丈夫さ」
「ふん」

 夢が終わろうとしていた。

「妹によろしく」
「あれは私のものだ」
「彼女が君を愛してる限りはね」

 徐々に狭まっていく歪みと薄れていく体に気付き、ベクシルは微笑する。腕の中で美咲の体が掻き消えると同時に意識は一度プツリと途切れた。

『全ては対になるべくしてなるのさ』

 どこからか《銀の魔女》の笑い声が聞こえる。










「美咲。美咲、起きて」

 美咲は恐れていた。

「もう朝だよ」
「ん…」

 夢が現実となり、現実が夢となることを。

「美咲ってば」

 美咲は恐れていた。

「ベ、ク…シル…?」

 現実が夢となり、夢が現実となることを。

「悪夢は終わったよ」

 恐れ、抗い続けてきた。

「おはよう」










 ギシリとスプリングの軋む音がして、女は目を開けた。

「お帰りなさい」
「…起きたのか」

 落とされた口付けには同じものを返して、首筋を撫でた手の平はそっと制するよう押さえ込み、女は何も言わず傍を離れた男を咎めるように睥睨した。
 男は目を閉じる。血のように紅い色をした男の瞳は女の視界から消え、女は男の瞼を指先でなぞった。
 促され、男は目を開ける。

「一人なの?」
「あぁ」
「仕方のない人ね…。――まぁ、いいわ」
「随分と冷たいな」
「あの人もいい大人だもの。私があれこれ言わなくても大丈夫でしょう?」

 何がおかしいのかクスクスと笑いながら、女は男を誘[イザナ]った。伸ばした髪を引かれ抗えず、女の隣に倒れこんだ男は、それもそうだと一つ頷く。

「それに…」

 女は哂った。弧を描く唇に乗った鮮烈な紅が、男の目に焼き付いて離れない。

「夢はいつか覚めるものよ」

 女は哂った。それもそうだと、男は頷く。





「いい夢を」

 暗転。




 ボトリと聞きなれない音がして、ウトガルド・ロキはまどろみから目を覚ます。
 音の原因が《誰》であるかは、初めから分かり切っていた。だがウトガルドには、なぜ《彼女》がそんな音を立てたのかがわからない。

「…リーヴスラシル?」

 ウトガルドが唯一、傍にいることを許した少女は聡明だがまだ幼く、故に他人――特にウトガルドの――邪魔をして、疎まれることを極端に恐れている。
 そんな彼女が立てた《不協和音》に、ウトガルドは少なからず興味を抱きながら音のした方を見遣った。

「ごめんなさい…」

 案の定、リーヴスラシルはまず謝罪した。そしてのろのろと体を起こし、ぶつけたらしい頭を抱える。
 その様子に違和感を覚えて、ウトガルドは居心地のいいソファーを離れた。床に座り込んだままバツの悪そうな顔で見上げてくるリーヴスラシルの容貌は、今朝見た時よりも幾分大人びて見える。

「誰の仕業だ?」

 いや、実際に成長しているのだ。

「や、あの、これは…」
「誰の仕業だと聞いている」

 自分を見下ろす鮮血の瞳が色を増す瞬間を目の当たりにして、リーヴスラシルは言いよどむ。言っていいものかと、刹那の逡巡すらウトガルドの機嫌を更に損ねるには十分だった。

「《リーヴスラシル》」

 無理矢理にでも聞きだしてやろうと、ウトガルドは言葉に魔力を込める。リーヴスラシルが哀しげに肩を揺らしても、力を緩めてやる気はなかった。

「答えろ」
「…残念だけど、」

 はぁ、と深い溜息が、リーヴスラシルの口から洩れる。同時にリーヴは、驚愕と例えようのない感情を胸に一歩後ずさっていた。


 《これ》は《私の》リーヴスラシルではない。


「《今》の私に、《貴方》の言霊は効かないわ」

 確信のない直感を裏付けるように、《女》は立ち上がりウトガルドに宣告した。

「私の言霊だって、今の貴方には届かない」

 ウトガルドの目の前には確かに《リーヴスラシル》がいる。彼のよく知る姿ではなかったが、確かに、《彼女》の持つ《魂》はリーヴスラシルのものだ。

「お前は誰だ」
「私は、__」

 パタパタと、廊下を走る音が近付いてくる。足音の主が誰であるか、考えるまでもなく気付いたウトガルドはきつく眉根を寄せた。

「失せろ」
「言われなくとも」

 おどけるように肩を竦めた女の向こうで空間が歪む。《歪み》の向こうから伸ばされた手は迷うことなく女を引き寄せ、諸共消滅した。

「――ロキ!」
「…どうした」

 泡沫の夢。
 冷たい雨が、降っている。

「――――」

 月も星もない漆黒の空から、絶え間なく降り続く雨のざわつきは、私の耳から他の音を追い出してしまっていた。長く当たりすぎて雨の冷たさももう感じない。感覚の麻痺した指先には、《杖》を握っている感触すらなかった。
 周囲は深い森。一度杖を手放せば、息を潜めこちらの様子を窺っている魔物たちは一斉に襲い掛かってくるだろう。今の今まで散々狩ってきた魔物に引き裂かれて死ぬなんて、あまりぞっとしない末路だ。

 けれど、私のような《魔法師》にはこの上なく相応しい。

 フィーアラル王国の王都《イザヴェル》を発って一月と半分。西の要である観光都市《ブレイザブリク》を発って十日。スカーヴィズ共和国との国境がある《西の森》に入って三日。
 森に入ってからはこの膠着状態が出来上がるまで休む間もなく戦っていたせいで、いい加減限界だ。この際どこでもいいから屋根のあるところで休みたい。

「――――、」

 決着をつけようと、重い杖腕を持ち上げる。魔物たちの殺気立った気配だけは、どんなに雨が降ろうと掻き消されることはなかった。

「そろそろ終わりにしましょう…」

 呪文を唱える、という魔法師にとって当たり前の行為すら面倒で、深く考えもせず魔力を練り上げた。許容量を遥かに超える魔力を送り込まれた杖は痛ましい悲鳴を上げるが、構いはしない。他の魔法師にとって一生物のそれも、私にとっては単なる消耗品だ。

「《 死 ね 》」

 国境近くで大爆発、はいただけない。だから私は言葉を選んだ。
 想像を絶する魔力を帯びた言葉を耳にした魔物たちが、次々に息絶え体を失っていく。《魔法生物》の命そのものである《輝石》が幾つも地面に転がって、ぶつかりあって、甲高い音を雨の合間に響かせた。
 本当は、放っておくと輝石に魔力が残されている限り魔法生物は蘇ることが出来る。けれど私の唱えた《言霊》は、低俗な魔物ごときに復活なんて許しはしない。
 死は絶対であるべきだ。

「…こちらへ」

 小さく杖を振って集めた輝石はどれも魔力を失って、どこにでもある《宝石》に成り果てていた。それを杖ごと《次元の狭間》に放り込む。

「……もうだめ…」

 途端睡魔が押し寄せて、全身から力が抜けた。
 刹那見た空はほんのりと白んでいて、嗚呼もうすぐ朝だと、私は感じもしない眩しさに目を細める。

「――――」

 地面に倒れ込む痛みと衝撃を恐れなかったのは、そもそも、そんなものはないとわかりきっていたからだ。

「馬鹿が」

 さっと抱き上げられて、地面が遠退く。もう何一つ自由にならない体は彼の思うがままで、寄り添う温もりの寄越す心地良さに逆らう術は、幾ら探しても見つからなかった。

「魔力で体力を底上げするのはやめろと、あれほど言っただろうに」

 私を守る《銀》は、呆れ混じりに嘆息する。
 はいはいと、気のない返事をしてやろうと開いた唇も重かった。

「…少し眠れ。雨が止んだら起こすから」
「……」

 冬の終わりを告げる《浄化の雨》は毎年、何日も降り続いて世界に目覚めを促す。止めば春の《大祭》だ。《アルフヘイム》の《妖精王》が地上へ春をまきにやってくる。
 そのための下準備は終わった。この辺りにはもう祭りに紛れて妖精王を襲おうなんて考える馬鹿も、襲えるような実力の魔物もいない。
 任務完了だ。

「ん…」

 これで祭りの間中、私の自由は保障される。元々そういう条件で受けた任務だ。絶対に覆させはしない。
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