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 初めから「やるべきこと」「やらなければならないこと」を持たないリーヴスラシルは下手をすると、日がな一日リーヴをソファーに座らせその膝を枕にごろごろと懐いているようなことも珍しくないような、ぐうたらな姫だった。気分が乗らなければ本当に何もせず、退屈であることを不幸だとも思わない。退屈することさえできなかった過去の経験から、それさえ今は面白がりながら楽しんでもいた。
 巨人の《王》であるリーヴを無為に拘束し続けることへの罪悪感など、露程も覚えはしない。それが当然の権利であるとして、端整な容貌を見上げる視線はいっそ気怠げでさえあった。

「ねぇ、リーヴ」

 伸ばされた手は、ぐいと無遠慮なまでに艶やかな銀の髪を引く。

「ん?」
「暇?」

 そして時折、リーヴに対してそう問いかけた。
 さしたる意味はなく――けれど、返答を誤れば確実に機嫌を損ねる――ただ「聞きたくなったから」と、それだけの理由で発せられる問いかけ。リーヴは迷うことも――偽ることさえ――なく「否」と答え、リーヴスラシルの首元へ置いていた手を擽るように動かした。

「なぁに?」

 くすくすと笑いながら身を捩るリーヴスラシルの声は軽い。肩と頬で挟み込むようリーヴの手の動きを止めながら、気持ち良さそうに目を細めてもいた。
 そうやってリーヴスラシルのことを見ているだけで、リーヴとしては割と楽しい。少なくとも、退屈だとは思わなかった。

「リーヴは私のことが好きすぎるわね」
「不満か?」
「いいえ。愛されることは好きよ、私は何をおいても愛されていたい」

 まず愛されていることが重要なのだと、リーヴスラシルは言う。リーヴはその願いを叶えてやることができた。何よりもまずリーヴスラシルのことを愛し、そのためになら他のあらゆるものを蔑ろにしてさえしまえる。だからこそリーヴスラシルがこうして「退屈」していられるのだと、分かってもいた。
 リーヴはリーヴスラシルの由縁を理解している。

「なら、構わないだろう」

 リーヴスラシルが何故愛されることを望むのか、どうして愛され続けていたいのか。その理由を、リーヴは正しく知っていた。突き詰めて言えば結局のところ、リーヴスラシルが求めるものはたった一つでしかないことも、分かっている。

「でも、これじゃあ私が甘やかされてるのか、リーヴがただ甘やかしたいだけなのか分からないじゃない?
 ――たまにはつれなくしたっていいのよ」
「たとえば?」
「私をほっぽって出かけちゃうとか」

 そんなことをすれば、脱走癖のあるリーヴスラシルが行方を晦ませてしまうことは目に見えていた。そんなことになってしまえば、リーヴにはリーヴスラシルが大規模に魔力を行使するか、リーヴのことを呼ぶかする他にその居所を突き止める手立てがない。
 リーヴスラシルはリーヴが自分のことを必死になって探すだろうと分かっていて、そんなことを言うのだ。
 自分が愛されているのだという実感のためにそうしょっちゅう逃げられても敵わない。

「この首に鈴をつけてしまうとか?」

 リーヴはそう、口にしてみてから「案外名案かもしれない」などと考える。首輪をつけて繋ぐことはできないが、「鈴」ならば…と。

「リーヴ、あなた今すっごーく悪い人の顔してるわよ」
「お前が来てから表情豊かになったとよく言われる」
「鈴なんて、猫じゃあるまいし…」
「…近いものはあるだろう」

 言い得て妙というやつだった。

「酷い!」

 ぎゃっとして飛び起きたリーヴスラシルは、引っ掴んだクッションをリーヴへと叩きつけ部屋を飛び出していく。
 一瞬、リーヴスラシルがまた城から脱走するのではないかと危惧したリーヴは、慌ててその後を追いかけ――部屋の外から聞こえた、ビューレイストを呼びつける声にほっと腰を落ち着けた。
 そして、城の中を闇雲に歩き回っていては、いつ出会えるとも知れない女をわざわざ呼び出してもやる。

「(リーヴスラシルが探しているぞ)」

 ビューレイストは、リーヴの《王》としての《マナ》を分けて生み出された分身のような存在だった。
 元はただ与えられた役目へ忠実に動くだけの人形でしかなかったものを、リーヴスラシルがさも「個人」のよう扱ったがために、いつしか自我さえ持つようになっていたもの。

「(今度は何やらかしたんですか)」
「(私が悪いのか)」
「(悪いのはいつだって主(あるじ)ですよ、寵姫が正しいんですから)」

 そういう経緯もあって、ビューレイストのリーヴスラシル贔屓はリーヴの比ではなかった。
 歴然と白いものでもリーヴスラシルが言えば平然と黒だと断じてしまえるほどの盲目さが、ビューレイストにはある。リーヴのことを自分の上位にあたる存在であると認めながらも、リーヴスラシルのこととなれば口煩く意見することも厭わず、リーヴの不興を買うことさえ恐れはしなかった。

「(さっさと行ってやれ)」
「(言われなくとも)」

 リーヴスラシルもリーヴスラシルで、そんなビューレイストの性質を分かっていて何かあればまず「告げ口」するというようなことを、最近は繰り返している。ヨトゥンヘイム広しといえど、《王》たるリーヴに正面切って嫌味を言ったり、批判することのできるような巨人はビューレイストの他にいない。リーヴスラシルは明らかにそれを面白がっていた。
 何にせよ、城の中で事が済むなら問題はないだろうと、リーヴは落ちていたクッションを拾い――それをソファーの上へと戻して――それまでと同じよう頬杖ついて肘掛けにもたれた。ビューレイストが相手をすればリーヴスラシルもそのうち機嫌を直して――おそらく、リーヴにぐちぐちと文句を言いたくて堪らないビューレイストを連れ――戻ってくるだろうと、それをのんびりと待っているつもりでいる。
 リーヴスラシルのいない一人の時間は、それまでと打って変わって「退屈」極まりなかったが、ビューレイストがリーヴスラシルの傍にいるだけ、リーヴにとってはまだ「マシ」だった。少なくともリーヴスラシルが自分から戻ってくるのを待っていることはできる。できるだろうと、リーヴは眠るでもなく目を閉じた。
 よもやそのまま二人が連れ立って城下に繰り出し、半日近く待ちぼうけを喰わされるとは思ってもみない。

 すっかり機嫌を直し戻ってきたリーヴスラシルへリーヴは《鈴》をつけ、それだけはリーヴスラシルが何と言おうと、けして外してなどやりはしなかった。





(愛玩少女と甘やかし/姫と王。すず)
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 例えるなら、それは微睡みの最中に夢を見ているようなもの。起きなければいけないと頭では分かっているのに、目覚めへと踏み切ることができないでいる。そんな私を誰も咎めようとさえしないものだから、なおのこと。体を包む心地良さに身を任せ、いつまでも微睡んでいたいと思ってしまう。――だって、そうしている私はとても幸福だから。
 けれどけして、目覚めたくないというわけではなかった。目覚められなかったわけでもない。必要であれば、私はいつだって目覚めることができた。そうしたいと、ただ思いさえすれば。
 私はもう、ただ与えられるばかりを待つ愚かな女ではないのだから。





 自分がどういうものなのかということさえ分かっていないような、哀れな女。「微睡む自分」を磨り擦り潰すよう、「リーヴスラシル」――そう、巨人の《王》によって名付けられた人の姫――は目覚めた。
 随分と長い「微睡み」になってしまったものだと、自嘲するかのよう笑みを浮かべさえしながら。限りなく自分の意思によって目覚めたリーヴスラシルは、一人きりのベッドを抜け出す。
 天蓋から垂れるカーテンを避けたその向こうには――開け放たれた大きな窓越し――、どこまでも晴れ渡る青空が広がっていた。
 それを一目見て、リーヴスラシルはただ「綺麗だ」と思う。

「嗚呼――」

 微睡んでいた頃を除き、それはリーヴスラシルが生まれて初めて目の当たりにする「空」だった。
 高い高い塔の上へと閉じ込められていた頃には、夢見たことさえなかった「外」の世界。それが今、リーヴスラシルの前にはどこまでも果てしなく広がり、手を伸ばせば容易に届いてしまうほどの距離にある。
 なんて幸福な「現実」だろうと笑う。リーヴスラシルには最早、ままならない世界を恨めしく思いながら眠り続ける理由などありはしなかった。たとえ自分がどうなってしまおうと、「全て」を誓った約束が果たされ続けることは既に証明されているのだから。
 ならばあとは、生きるばかり。

「綺麗ね」

 躊躇いなく一歩を踏み出し、次の瞬間、リーヴスラシルはウトガルズを遠く離れた場所に立っていた。
 寝間着代わりに着ていたスリップから黒色のキャミソールドレスへと着替え、足にはきちんと靴まで履いて。ミズガルズ――ミッドガルドとヨトゥンヘイムとを隔てる柵――に沿うよう流れるイヴィングの河畔へと下り立ったリーヴスラシルは、ひらひらとスカートの裾を揺らしながら歩き出す。
 一見、楽しげな少女の振る舞いは、水辺へと涼みにやってきた良家の令嬢を思わせる。けれどそこはヨトゥンヘイムで、その姿をまともに見る者がいれば戦慄を覚えずにはいられなかっただろう。何故ならヨトゥンヘイムとは、黒い髪を持つ「人」にとって死者の国ヘルヘイムにも等しい「世界の果て」とされていたから。誰も、そこでリーヴスラシルのような「少女」が生きていけるとは思わない。もしもそれが可能であるとすれば、問題はリーヴスラシルにあるのだと当然のよう考えるに違いなかった。あれは「人」とは違う、何か恐ろしいものなのだ――と。
 そしてその通り、リーヴスラシルはただの人ではなかった。そんな存在であったことはついぞ、生まれた瞬間から――そしてきっと、いつか死んでしまうその時まで――一度としてない。
 リーヴスラシルは「特別」だった。リーヴスラシルが「リーヴスラシル」であるというただそれだけで、そこには大きな意味がある。

「――墜ちろ」

 そんなリーヴスラシルの一言は、遥かな頭上へと向けられていた。
 魔力の篭った、魔法の言葉。それはいつかリーヴスラシルが世界を服従させた悲鳴と等しい性質を持つもので、けれど実際の作用は、段違いにささやかなものだった。
 行使されたのは頭上を横切ろうとしていた竜を一匹、地面へと引きずり下ろす――その程度の力。リーヴスラシルにとってそれは、自分の両足で地面を歩くより余程容易なことだった。

「ねぇ、誰か手を貸してくれない?」

 笑うリーヴスラシルの目と鼻の先。放たれた言葉の通りに「墜ちた」竜は、その背に二人の「人」を乗せている。
 無論それを分かっていて無茶な招き方をしたリーヴスラシルは、地面と強烈な激突を果たした騎竜の背から放り出される二人の内、明確に「こちらだ」と思う方だけを助けた。周囲を漂う《風》へと声をかけ、着地の瞬間衝撃を和らげてやることによって。致命的な負傷だけは、なんとか避けられるかどうかというような力加減で。
 どさりと地面へ転がされたのは、リーヴスラシルと同じ年頃の青年だった。

「ありがとう」

 そろそろリーヴに城を抜け出していることがばれる頃だろう、と――諸々の事情を鑑みながら――リーヴスラシルは手早く用件を済ませにかかる。
 間違いなく幸福だった微睡みから目覚め、わざわざこんな辺鄙な場所まで自ら出向いて来なければならなくなった「理由」を排除するために。リーヴスラシルは痛みに呻く青年の傍らへと立ち、その――流れる血のように赤い――両の目を覗き込んで囁いた。

「もう二度と、私の前に現れるんじゃない」

 そうして告げる。今度は再び、世界へと。

「ミッドガルドへ帰りなさい」

 充分な力と意思に満ちた言葉を以って、世界の在り様を思うがままに捻じ曲げる。
 最早その程度のことで、リーヴスラシルが休息を必要とするほどに消耗してしまうことはありえなかった。
 リーヴにできて、リーヴスラシルにできないことなどありはしない。二人が交わしたのはそういう「契約」で、リーヴスラシルの「対価」は既に支払わているのだから。
 リーヴの「全て」はリーヴスラシルのもの。それはつまり、リーヴが巨人の《王》として持つ魔力さえも、リーヴスラシルが好きなように引き出し使ってしまえるということだった。

 一匹の竜と二人の人はヨトゥンヘイムから消え去り、引き出された魔力の痕跡を追ってすぐにでもやってくるだろう、リーヴへまず何と声をかけてやろうか――と、リーヴスラシルはほくそ笑む。
 微睡んでいた頃のリーヴスラシルと、目覚めた今のリーヴスラシルが全く同一の存在であるとは言い難い。それでも自分のことをリーヴは「大切」にしてくれるだろうと、リーヴスラシルは疑ってもいなかった。そもそも「微睡む自分」こそが偽物で、そんなものさえリーヴは大切に「リーヴスラシル」として扱い続けたくらいなのだから。
 微睡むリーヴスラシルは、リーヴへ――「私が今の私じゃなくなっても、ちゃんと大切にしてくれる…?」――問うた。その問いかけに対するリーヴの答えは――「お前がそれを望むなら」――とんだ嘘っぱちもいいところで、それもそのはず。リーヴがリーヴスラシルのことを大切にする、その、「契約」の履行でしかない行為において、リーヴスラシルの意思が考慮される必然性などありはしない。
 リーヴとリーヴスラシル。二人が交わした契約は、お互いにただ与えられるものを与え合う、それだけのものでしかなかったのだから。

「早かったのね」

 例え自分がどんなものへ成り果ててしまおうと。リーヴが変わらず「大切」にし続けるだろうことを、リーヴスラシルは確信していた。最早疑う余地もない。
 だから現れたリーヴに対して臆面もなく笑いかけ、差し伸べられる《王》の手を恐れることさえしなかった。勝手な振る舞いを咎められることなどありはしないのだと、分かりきっていたから。

「おはよう、リーヴ」

 だからこそ、リーヴスラシルは目覚めることを恐れなかった。ずっと微睡んだままでいてもきっと幸福だっただろうに、あえて目覚め自分の足で歩き始めることを選びここにいる。

「私があなたのリーヴスラシルよ」

 きっとあの「微睡み」こそが、幸福なままに存在を終える最初で最後のチャンスであっただろうことを、分かってもいたのに。
 滅びだけが結末の運命へと、自ら飛び込むことさえ厭わなかった。





(わざわざ目覚めて出かける必要/姫と王。めざめ)

 最初は何もかもが空っぽで、そこにはただ私が「私」であるという事実だけがあった。

「リーヴスラシル」

 誰かが私を、そう呼んで抱きしめてくれるまでは。





 静かな部屋に一人。重い体を冷たい床へと横たえ、埃っぽい空気を吐いては吸っての繰り返し。
 ただそれだけの夢を繰り返し見る。何度も何度も、くどいくらいに。
 たった一つの窓も、家具らしい家具も、明かり一つさえない殺風景な部屋なんて、私は知らない。私が暮らしているウトガルズの城には沢山の部屋があって、窓のない部屋だって地下に行けばいくらでも見つけられるけど、物置としてさえ使われていないような部屋は一つとしてなかった。この城には、必要だからと望まれた部屋しか作られていないから。
 それに私が床になんて転がっていたら絶対、誰かがやってきて引っ張り起こすに決まっていた。
 なにせ、私はとても大切な「お姫さま」だから。

 いつもいつも、「ただそれだけ」の夢を見た後は気持ちが落ち込んで仕方なかった。どうしようもなく憂鬱な気分にさせられて、伸ばした腕の届く距離に手を握ってくれる人のいないことが、とても不幸なことのように思えてしまう。呼べばすぐに来てくれるはずの人を呼ぶことさえなんだか怖くて――だってもしも、あの人が来てくれなかったら? なんて――ひたひた忍び寄ってくるような気のする「何か」から、隠れるように上掛けを被った。
 けれどすぐに耐えられなくなって、部屋に横たわる静寂から逃げるようベッドを抜け出す。身を守る鎧かお守りのよう、頭の上から被った上掛けはそのまま。裸足の足で部屋から駆け出しバルコニーの手摺に飛び乗った。

「どこへ行く気だ?」

 そのまま隣のバルコニーへ飛び移ってしまうつもりだったのに、後ろから突然ぐいと引かれて――それが体でも服でもなく、よりにもよって被った上掛けを掴まれてのことだったものだから――体は妙な具合にバランスを崩し、手摺に乗った爪先からすっ転ぶよう後ろへ倒れた。

「ぎゃっ」

 勿論、そのままバルコニーの床へと引き倒されてしまうようなことはなく。可愛気なんて微塵もない悲鳴を上げることになった元凶が、私のことを受け止めた。
 視界のほとんどを遮っていた上掛けは剥かれ、けれど顔なんて合わせるまでもなく、そんなことをしたのが誰なのかはわかりきったこと。少なくともこのウトガルズに、私の行動をあんなにも乱暴な遣り様で妨げられるような存在は、たったの一人しかありえなかった。

「ひどい」

 抱きしめているようでいて、ただ単に私のことを捕まえているだけな腕の中から見上げて言うと、リーヴは何食わぬ顔で首を傾げて見せる。

「どこへ行く気だ?」

 そうして、最初の問いかけをもう一度繰り返した。

「別に」

 私はただ、逃げ出してしまいたかっただけ。どこへともなく何かから――逃げて。逃げるためにただ逃げ出した。
 けれどそんな、自分でもよく分かっていないような胸の内を上手く説明してしまえるはずもなくて。つっけんどんに答えると、リーヴはただ「そうか」とそれだけ言って部屋の中へと引き返す。

「どこ行ってたの」
「隣の部屋」
「…なんでいなかったの」

 流れる血のように赤い両の目の奥へ理解が過ぎったことに気付いて、思わず顔を顰めてしまう。
 私のことをベッドへ戻そうとしていたリーヴは離しかけていた手を直前で止め、まるで小さい子供でもあやすよう目元へ口付けてきて頭を撫でた。

「今度は目が覚めるまで傍にいる」

 私とは違うリーヴは、眠ったりしない。睡眠なんてものを必要としてはいなくて、私がくぅくぅ寝ている間に暇を持て余させてしまうことは素直に申し訳がなかった。だから私は、リーヴに「目が覚めるまで傍にいて」なんて言わない。――言えない。
 ただ時々、リーヴが私と同じ「人」であれば――手を取り合って眠ることができるのに――と、考えてしまうことはどうしようもなかった。

「それとももう起きる?」

 ベッドの端へ腰掛ける私の前へ跪くよう、俯けた顔を覗き込んでくる。リーヴはいつだってそうだ。なんでも私のいいようにって――甘やかして――私をどんどん駄目にしていく。優しくされることはただ嬉しいのに、同じくらいどこか哀しくてたまらなかった。
 そんな風に思ってしまうことさえきっと、「ただそれだけ」の夢のせいで。それはちゃんと分かっているのに、私は私がどうしたいのかさえ分からなくなってしまう。いつもの私ならどうするか、いくら考えたって答えは出なかった。
 そもそも「私」ってなんだ。

「リーヴィ」

 抱きしめられると温かいのに、リーヴの指先はただ触れてくると少し冷たい。だから包み込むよう頬へ触れられると、だんだん馴染んでいく体温が心地良かった。

「リーヴスラシル」

 視線を促しているのだろう。呼びかけは、まるで言い聞かせているようでもある。私が誰かということを――何度も何度も繰り返し――、刻み付けるよう。
 そんな風に言ってもらわなければ、私はどうしようもなく自分が分からなくなってしまう。心細くて仕方がなくなって、できるならどこまでも逃げ出してしまいたいくらい。どこかに今の私でない「私」がいるのではないかと、どういうわけか思えてしまって。ここで遊ばせているたった一つの体を狙われているような気さえしていた。

「リーヴ…」

 目を閉じ眠って、目覚めた時に私が「私」でなくなってしまっていたら――。
 それでもリーヴは、「私」のことを私と同じよう大切にしてしまうのだろうか。

「私が今の私じゃなくなっても、ちゃんと大切にしてくれる…?」
「お前がそれを望むなら」

 そんなのは嫌だ。だけどそんな、仮定の話に意味は無い。私はどんなに逃げたって私のまま、他の何者にだってなれるはずもなかった。
 リーヴが私と同じになれないことと、それは同じ。私だってリーヴと同じものにはなれないのだから。

「大切になんてしなくていいよ」

 手を伸ばして引き寄せて、触れ合わせた額から想いが伝わりますよう――。
 そんな風に、願うよう目を閉じた。
 だけどどうか、気付かないでいて欲しいとも思う。

「ここにいる私だけが、あなたのリーヴスラシルだから」

 それ以外は違うのだと、あなたは分からなくてもいい。
 私さえ、忘れなければそれでよかった。





(真夜中に目覚める理由/姫と王。ひとり)

「手を出して」

 魔力は《マナ》によって生み出される。
 《マナ》は魔法士の心臓だ。生きている限り活動を続け、止まれば死ぬ。大抵の魔法士は魔力の作用によって長い寿命を手に入れるから、魔力の枯渇が肉体的な死にも繋がってしまうのだ。

「目を閉じて。心を落ち着けて」

 その代わり、傷の治りは早い。病気にもかかり難いし。成人してからは《マナ》が活動を止めるまで老いることもなかった。

「あなたにも私たちと同じマナがある。だからまずはそれを見つけて。あなたの体の中から溢れる力。その源を」

 魔力は命の力と言い換えてもいい。まずはその存在を自覚させるところから始めなければならない。アロウはずぶの素人なのだから。生まれる前から世界と繋がっていた私のようにはできないだろう。

「今、渡しの魔力はあなたの魔力と絡み合っている。その繋がりを使って少しだけあなたの魔力を引き出すから、体の中から何かが抜けていくような感覚があるはずよ」
「……あ…」
「わかった?」
「なんとなく…」
「それが魔力を『使う』という感覚よ」

 呼吸するよう魔力を操り、歩くよう魔術を使う。私にはそれが当たり前のことだった。改めて意識するまでもなく。確かな術を知らずとも、行うことはできたのだ。本能として。

「体の外に出した魔力は戻せない。マナは常に一定の魔力しか生み出さないから注意して」
「使いすぎるとどうなるんですか…?」

 魔力を「消費」する感覚さえ掴んでしまえば、あとは応用。復讐と試行錯誤の段階だった。
 繋いでいた手を放すと、アロウは不思議そうにその手を開いたり閉じたり。

「凄く疲れる」
「…割と軽いんですね」
「体力気力の類だからね」

 そろそろ私も、出かけなければという時分。マントを脱いでも乗ったままになっているニドヘグごと頭を撫でると、アロウは察し良く問を発した。

「出かけるんですか?」
「ニドヘグをおいていくから。知らない人がきても扉は開けないように」
「はい」

 その物分りの良さと同じくらい、飲み込みも早いと嬉しいんだけど。


----


 マントを取り返したリーヴスラシルが――何故か窓からーー出かけて行くのを見送って。アロウは頭上のニドヘグを腕の中へと引きずり下ろし、出かけに渡された腕輪をくるくると回して見聞する。
 いきなり明かりを「消す」のは難しいからと、リーヴスラシルがアロウへ新たに与えた課題。はずは「灯す」ことから始めてみたらいい、と。

「紫、金、橙、青、茶、緑…」

 腕輪に等間隔で嵌め込まれた精霊石のうち、金色のそれが《光》の属性を持つものだった。そこへ意識して魔力を注ぐことができれば光を灯せるからと、リーヴスラシルはアロウに言った。魔力を出せれば留めることも簡単だと。
 魔力の扱いなんて、要は慣れでしかない。それが日常世界に溶け込んでいるというならつまりそういうことなのだろうと、アロウはリーヴスラシルの言葉をそう解釈した。

「他の石の属性も聞いておけばよかったな…」

 うっかり《光》以外の精霊石に魔力を注いでしまった場合、いったいどういう反応が引き起こされるのか。やや怖怖と、それでもアロウはリーヴスラシルに教えられた感覚を思い出し再現するため目を閉じた。

「僕が教えてあげようか?」

 けれどまたすぐ、開く破目になる。

「誰…?」
「あれ。思ったより驚かないな。せっかく黙って入ってきたのに」
「…勝手に入ってくるなんて、マナー違反ですよ」

 一つしか無いベッドに腰掛けるアロウが顔を上げると、そこには目を閉じるまでいなかったはずの男が立っていた。
 金混じりの銀髪を長く伸ばした、藍目の美丈夫。

「うちのお姫さまは気にしないから大丈夫。その証拠に、君の護衛だって大人しいだろう?」

 《悪心》ロキは、いつも大切な「お姫さま」にしているよう嘘偽りなく真実を告げた。アロウを混乱させる意図さえなく。時分の主張に対してまっとうな根拠までつけて。
 そしてロキの言うとおり、アロウの腕の中でニドヘグは大人しくしていた。
 よもやロキともあろう者が、リーヴスラシルの目と鼻の先で悪さもしないだろうと考えている。そしてそれは正しかった
 ロキとて命は惜しい。

「お姫さま。って…リーヴスラシルのことですか…?」
「うんそう」

 けれど好奇心に勝てもしない。姿を見せてちょっかい出すくらいは許されるだろうという希望的観測で、内心リーヴスラシルの寛大な処置を期待していた。

「僕はロキ。君は誰?」
「アロウ…」
「それじゃあアロウ。僕が君に、精霊の属性について教えてあげよう」

 アロウに対する親切は、リーヴスラシルに対するご機嫌取りも兼ねている。それでいていつも通りの暇潰しでもあった。
 ロキは常に退屈しているべき神なのだから。


----


 別に夜中でなくとも構わない。けれどアロウの面倒を見る責任というものを考えると、夜のうちに済ませておいた方が無難な仕事。
 肥えた魔物の討伐なんて、大して手間のかかる作業でもない。精霊石がなかろうと、ニドヘグがいなかろうと。それは変わらなかった。レーヴァテインを使うまでもない。腰に下げたショートソード二つ。それだけあれば事足りた。
 ミリシアから東に抜ける街道をやや北に逸れて、少し行った辺り。――そういうぼんやりとした指示で獲物を探さなければならないのはいつものことだった。なにせ魔物は移動する。結界のある都市や集落には近付けないとしても、食事となる《マナ》の気配を嗅ぎつけてはうろうろと。
 見つけるために必要なのは直感の類だった。私の場合は、もう少しだけ楽をするけど。

「ノアル」

 クロスロードは地域的に《闇》の力が強い。今が夜であることも相まって、力をかりるならノアル以上の適任者はいなかった。

「この辺に大きめの魔物がいる筈なんだけど。どこか知ってる?」
「――あぁ、知っているとも」

 姿を見せるだけでなく、存在に人を模した肉体まで伴わせ。現れたノアルはまっすぐに北を指差した。

「…ミリシアからは離れてるわね」
「より近くにいる命の気配を追っている。そろそろ狩時だろう」
「あんまり育ちすぎても換金に困るしね…」

 頷き合って、私が走り出す前にノアルは姿を消していた。《闇》に紛れる気配だけを漂わせて。

「道、逸れたら教えてね」

 別に足がいなくても、これくらいの距離なんてことない。
 充分に駆けていけた。



 扉を開けると同時に点く明かり。
 それが住み慣れた人工島でのことであったなら、アロウもわざわざ口を開きはしなかっただろう。

「どういう仕組みなんですか? これ」

 そもそもどういう原理で部屋が明るいのかさえ、いまいち分かっていない。
 アロウは頭上のニドヘグを落とさないよう気をつけながらも、器用に首を傾けた。

「明かりのこと?」
「それもですけど。勝手に明るくなりませんでした? 今」

 落とされたところで、小さくなろうと竜は竜。ニドヘグは羽ばたきさえすれば飛べるのだが、それはそれとして。

「壁に埋め込まれた精霊石が私たちの魔力に反応したのよ」

 あの辺とあの辺とあの辺あの辺。――そう、部屋の四隅を指差して。リーヴスラシルは「見ててね」と、アロウの前でゆっくりと手を握る。
 その動きに合わせて明かりが絞られ、部屋は徐々に暗くなっていった。

「中に人がいれば勝手に明るくなるんですか?」
「そう。普段垂れ流しにされる魔力を拾ってるの。だから――」

 一度完全に精霊石への供給を絶ってから、もう一度手の動きに合わせゆっくりと魔力を流していく。
 その程度の操作であれば、大抵の人族はできて当たり前のことだった。最も初歩的な魔術の段階とも言える。日常生活の中で自然と身につけていくレベルのもの。

「アロウ。あなたに課題を与えます」

 むしろ出来ない方が問題だと、さっさと習得させなければおちおち留守番もさせられないことに気付いてしまって。
 リーヴスラシルはいかにも教師然と、威張り腐ってアロウの胸元を指差した。

「なんか唐突ですね…」
「私が帰ってくるまでに部屋の明かりを消せるようになっておくこと」

 心臓の真上。
 余程のことがない限り、魔力を持つ生き物の《マナ》はそこにあるはずだった。

「だいだい魔力の操作が出来ないとあなた、一人でシャワーも浴びられないのよ」
「…それは困ります」
「でしょう?」

 簡単なコツくらいは教えてあげられるから――と。
 そう、軽く請け負った。リーヴスラシルの思う「コツ」が果たして自分にとって参考となるものか。甚だ疑問に思いながらも、アロウはこっくり首肯した。
 そもそもそれが全ての原因でいて、当初の目的なのだから。抗う余地はない。





(魔法世界の生活水準/姫と迷子。れっすん)



「――私を怒らせたわね」

 手を当てた胸が熱を持つ。行動の浅墓さとは裏腹に言葉は冷静だった。何をどうすればいいのか、考える前に体が動く。心臓と同じ位置に埋め込まれた《災いの枝》に対して、言葉は必要なかった。
 もはや、私と彼女の意思に境は無い。私は彼女で彼女は私だ。私の意思は彼女の意思。またその逆も時としてあるのだから、私は衝動のままに力を揮う事を躊躇いはしない。

「魂に直接苦痛を刻んであげる」

 私自身を鞘とする《災いの枝》は、抜き放たれた瞬間その禍々しい力を顕にした。血色の刀身を艶やかに煌めかせる剣の纏う魔力が、何よりも強く場を支配する。呼吸さえ許さない圧迫感は、相手の力量次第でそのものが直死の凶器だ。

「天を統べる神ではなく私の名の下に、裁きなさいレーヴァテイン」

 たとえそれに耐えたとしても、振りかざされる刃から逃れる術は無い。

「よかったね」

 そう言って姿を消した《それ》は既に私の心臓ではなくなっていた。けれどそれ以上の事は分からない。もう私の一部ではないから、分かるはずもなかった。

「何が良いもんですか…」

 とくりとくりと、押し付けられた心臓は健気にその役目を果たそうとしている。今更こんなもの取り戻したって何の意味もないのに。

「レーヴァテイン…?」

 絶える事無い鼓動の音が疎ましいのか、レーヴァテインの存在は私の中で限りなく小さくなってしまっていた。体の内側から溢れ出す魔力を失くして、これじゃあ本当に普通の人間と変わらない。杖だって取られてしまった。リーヴから貰った、本当に大切なものだったのに。

「リ…」

 罪悪感が唇を凍らせる。杖も魔力も無い今の私では呼ばなければ見つけてもらえない事は分かりきっているのに、どこかで期待しながらも見つけて欲しくないと思ってしまっていた。リーヴにとって私が、私だけが特別なのだと証明して欲しい。でも、今の私を見られたくない。

「――こわい」

 リーヴはきっと、怒るだろう。でもそれは杖を取られたからではなく私が呼ばなかったからだ。私がもう一人の私と邂逅したその瞬間彼の名を叫ばなかったから、その一点に対してのみリーヴは激昂する。でももし私が呼んでいたら彼は深く傷付いたはずだ。たとえ側にいたって、私を傷付けられないリーヴが私から私を守れるわけない。そして守れなかったと自分を責めるのだ。それはどうしようもない事なのに。だから呼べなかった。呼びたく、なかった。
 彼の優しさは、時々真綿で首を絞めるような息苦しさを私に与える。優しすぎるのだ彼は。元々感情なんてもの持ち得ない生き物だったのに、今は私より遥かに人間じみている。

「こわい、よ」

 妬ましかった。羨ましかった。でも一度諦めて、捨ててしまった私はどうしても取り戻せない。温かい感情を、与えられただけ返してあげたいと思っているのに。

「怖いの…」

 本当はもうとっくに分かっていた。私に《心》が無いのは生まれと育ちのせいではなく私自身の《欠陥》だ。今の今まで沢山の言い訳を重ねてきたけど、私はちゃんと愛し慈しまれる事を知っている。与えられた《心》を自分の中で育てられないのはやり方を知らないからではなく、知っていても出来ないからだ。私は《心》を持てない。持てるようには造られなかった。
 何よりも恐ろしいのは、リーヴが私の《欠陥》に気付いてしまう事。彼は私の全てを肯定してくれると言うけど、それだけは否定して欲しい。《心》を切望した私の前で、「それでも構わない」なんて心からでも口にして欲しくない。
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