耳元の髪をそっと掻き上げて、優しく目覚めを促される。まどろみの心地良さに沈みかけていた意識は緩やかに浮上した。
目を開けても、そこには誰もいない。わかっていたのに落胆する心を持て余しながら辺りを見回した。
白を基調とした、広い見覚えのある部屋。そこが王城の一室であると気付くのにそう時間はかからなかった。
「帰ら、ないと…」
心細さが増す。どこを探しても大切な黒猫の姿はない。
立ち上がった瞬間の違和感を無視して部屋を出た。早く帰りたい。こんな所にいつまでもいたくなかった。
長い廊下を抜ければこじんまりとした中庭に出る。そこだけは王城に溢れる様々な魔法が無効化されていて、そこからなら、私はどこへだって行けた。
「――――」
掲げた手の上に《次元の狭間》から一冊の魔術書が落とされる。遅れて落ちてきた杖で表紙を叩くと、ページは独りでにめくれた。
練り上げた魔力を杖の先に集中させ、ゆっくりと魔術書へ流し込む。記された呪文に光が灯り、魔術が展開を始めた。
黒猫の姿はまだない。
「どうして…」
魔術が発動し、空間を飛び越える刹那、魔力の供給を絶たれ魔術書は地に落ちた。周囲に溢れていた膨大な魔力が行き場を失って、起こされた突風が髪をなぶる。ばさりと、しなるような音が背中を叩いた。
「ッ…!?」
そして漸く、違和感の正体に気付く。
「リーヴ!!」
弾かれるように叫ぶと、すぐさま世界が歪に歪んだ。夜の闇から凝るように現れたリーヴは私を見て、さも機嫌悪そうに眉間へ皺を寄せる。
それでも、吐き出される溜息には幾らかの安堵が含まれていた。
「遅い」
「ごめんなさい」
「出るぞ。――長居は無用だ」
「わかった」
私が気付いたせいで崩壊を始めた世界は、ひっくり返したパズルのようにバラバラとそのピースを落としてくる。空の欠片を手にとって、私は悪夢の終わりを宣言した。
目を開けても、そこには誰もいない。わかっていたのに落胆する心を持て余しながら辺りを見回した。
白を基調とした、広い見覚えのある部屋。そこが王城の一室であると気付くのにそう時間はかからなかった。
「帰ら、ないと…」
心細さが増す。どこを探しても大切な黒猫の姿はない。
立ち上がった瞬間の違和感を無視して部屋を出た。早く帰りたい。こんな所にいつまでもいたくなかった。
長い廊下を抜ければこじんまりとした中庭に出る。そこだけは王城に溢れる様々な魔法が無効化されていて、そこからなら、私はどこへだって行けた。
「――――」
掲げた手の上に《次元の狭間》から一冊の魔術書が落とされる。遅れて落ちてきた杖で表紙を叩くと、ページは独りでにめくれた。
練り上げた魔力を杖の先に集中させ、ゆっくりと魔術書へ流し込む。記された呪文に光が灯り、魔術が展開を始めた。
黒猫の姿はまだない。
「どうして…」
魔術が発動し、空間を飛び越える刹那、魔力の供給を絶たれ魔術書は地に落ちた。周囲に溢れていた膨大な魔力が行き場を失って、起こされた突風が髪をなぶる。ばさりと、しなるような音が背中を叩いた。
「ッ…!?」
そして漸く、違和感の正体に気付く。
「リーヴ!!」
弾かれるように叫ぶと、すぐさま世界が歪に歪んだ。夜の闇から凝るように現れたリーヴは私を見て、さも機嫌悪そうに眉間へ皺を寄せる。
それでも、吐き出される溜息には幾らかの安堵が含まれていた。
「遅い」
「ごめんなさい」
「出るぞ。――長居は無用だ」
「わかった」
私が気付いたせいで崩壊を始めた世界は、ひっくり返したパズルのようにバラバラとそのピースを落としてくる。空の欠片を手にとって、私は悪夢の終わりを宣言した。
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「御用はなんですか、教授」
「まぁ座って。お茶を淹れよう」
年期の入った杖の一振りで用意された紅茶は何の味もしなかった。
「暁羽・クロスロード」
少しして、表面上柔らかい沈黙が破られる。
足下に落としていた視線を持ち上げると、斜め前に教授が座っていた。
「蒼燈・ティーディリアス」
部屋の雰囲気が、変わる。
「冬星・コールドチェーン」
蒼燈と冬星は居住まいを正しグラブス教授に向き合った。
「君達《スキルニル》に仕事だ」
朝起きると、アルスィオーヴはソファーで寝ていた。あたしもよく転寝してそのままだったりするから大丈夫だとは思うけど、ベッドのこととか考えないと。あぁでもその前に師匠にあいさつ。
「おはようございます師匠」
師匠はすぐに見つかった。朝はいつも書斎にいて、朝食へ連れて行くのはあたしの仕事。アルスィオーヴを放って行くのは気が引けたけど、時間的に仕方なかった。
「おはようアロウ。…いつもより遅いのね」
「すみません。寝過ごしました」
「アルスィオーヴは?」
「まだ寝てます」
「寝てる?」
「はい。それがどうかしました?」
「睡眠をとる魔族、ねぇ…」
「巨人族だって寝るじゃないですか」
「観察日記とかつけたら面白そうね」
「新しい課題に?」
「自由研究にしといてあげる」
「了解です」
「よかったのか」
「何が?」
「アロウとアルスィオーヴ」
「大丈夫でしょ、別に」
少し冷めてしまったミルクティーに誘われた眠気に、瞼が下がる。寄りかかっていた体へ完全に体を預けると、ゆるゆる髪を梳かれた。
「グロッティはつけたし…」
心地良さは増して、睡眠への欲求は俄然抗い難いものになる。
「私と、リーヴみたいに…なれるよ」
「だといいな。――おやすみ」
「おやすみ、なさい…」
この平穏が途切れないことを、心から、
ちょっとした手違いで召喚した悪魔を仕方なく連れて歩いてたら師匠にどやされた。
「大体なんで人の部屋勝手に入るかなぁ…」
「そこに部屋があるからです師匠」
「だまらっしゃい!」
「ところで何を思って部屋の入り口に魔法地雷なんて仕掛けたんですか師匠」
「あれは地雷じゃなくて端をちょーっと踏んだだけで壊れるほど繊細な封印だったの」
「手抜きですか師匠」
「面倒臭かったから」
とりあえず悪魔は魔族で師匠は今日も面倒臭くて出来るならさっさと部屋に戻って寝たいらしい。
「髪乾かさないと風邪ひきますよ師匠」
「リーヴ、リーヴどこー? どこでもいいから私の髪乾かしてー!」
「叫ばないでください今夜ですよ師匠」
「ありがとー! 大好きだからミルクティー淹れてー!」
出会い頭に捕縛された魔族(確かアルスィオーヴとか言ったっけ…)が師匠の足下で悔しそうに歯噛みしていた。乾いた髪を一払いした師匠は眠たそうに欠伸を一つ。
「あんたも災難ね。久遠の眠りを破ったのがよりにもよって私の教え子だなんて」
「全くだ」
「…まぁ、いいわ。勝手にしなさい」
「師匠?」
師匠が気のない様子で手を振った。カチリと音がしたのはその足下で、真黒い服を着たアルスィオーヴの首には銀色の輪。
「グロッティ…!」
「魔力制御しとかないとバレるでしょあんた。面倒事はやめてよ間に合ってるから」
「あ、師匠向こうで猫様がこっち見てますよ行った方がいいんじゃないですか」
「ごめんリーヴすぐ行くからー! じゃあちゃんと面倒見るのよアロウ、私寝るから静かにね」
「ラジャ!」
「あとリーヴのこと猫様って呼ぶのやめなさいせめて人の姿してる時くらい」
「ラジャ!」
「よろしい」
そんなこんなで自室に引っ込んだ師匠は朝まで出てこない。だだっ広い廊下に残されたのはあたしとアルスィオーヴだけで、師匠のかけた足止めの魔法は五分もしないうちに解けた。
「…とりあえずあたしの部屋行く?」
「……あぁ…」
たっぷり間をおいて答えたアルスィオーヴは一度うかがうように師匠の部屋の方を見て、大人しくあたしについてくる。そういえばなんでこいつ地下室に封じられてたんだろ。召喚に失敗する師匠なんて想像出来ないなー…
「言っておくが、」
あたしは部屋の扉に手をかける。アルスィオーヴは鬱陶しそうに《グロッティの輪》を引っ掻いた。
「俺様はあいつに喚ばれて来たわけじゃないからな」
「…とりあえずその一人称ヤメロ」
ドアノブの周りにある溝に何度か決まったとおり指を這わせると鍵が開く。押し開けた扉はそうするまでもなく軽かったけれど、小さい頃からの癖は今更どうしようもない。師匠はおかしそうに笑うだけで直せとも言わないから別にこのままでいい。
「師匠に喚ばれたんじゃないならなんでウチにいんの?」
「ここで生まれたからだ」
「…いつ?」
「わからない。生まれた次の瞬間には封じられてた。目が覚めたらあんたがいて、魔力が底をつきそうだったから無理矢理《契約》した」
「師匠もついに魔族とか造っちゃったかー、人造人間には興味ないとか言ってたクセにそっちに走ったかー……ありえねー…」
背中からベッドにダイブしたあたしの傍で立ち尽くすアルスィオーヴは、言われてみれば確かに生まれたての世間知らずで自分が何をすればいいかもわからず、途方に暮れている子供に見えなくもなかった。嵌められたグロッティを弄る手も心許無さ気で、下がり気味の目なんて今にも泣き出しそうだ。
「俺はどうすればいい」
「あんたはどうしたいの」
「わからない」
「じゃあここにいれば? 師匠も勝手にしろって言ってたし」
「ここにいていいのか」
「いいんでない?」
「ならいたい。…あんたの傍に」
「よしきた」
動物を拾ったことはなかった。師匠がそういうことを極端に嫌がるし世話が面倒だから。でもあの時、突然息を吹き返した魔法陣からこいつが出てきた時だけは、絶対に手放しちゃ駄目だとそれしか考えられなかった。師匠はいつも「本能の囁きを聞け」と言って、あたしは「そんなもの聞こえて従ってるの師匠くらいですよ」と軽く返していたけど、もしかするとあれがそうだったのかもしれない。いや、きっとそうだ。
「あたしはアロウ。アロウ、クロスロード」
「…俺はアルスィオーヴ」
「我が名の下に宣言する。汝――」
昔一度見ただけの契約の詞は酷く曖昧で、あたしはだらしなく横になったままだったけど、二人ともそんな細かいこと別に気にはしなかった。
詞を思い出すのに必死で途中目を閉じてしまったあたしに確かめる術はないけれど、アルスィオーヴは泣いていたのかもしれない。
「――誓う」
だって最後の言葉を口にしたアルスィオーヴの声は、誤魔化しようのないほど震えていたから。
「大体なんで人の部屋勝手に入るかなぁ…」
「そこに部屋があるからです師匠」
「だまらっしゃい!」
「ところで何を思って部屋の入り口に魔法地雷なんて仕掛けたんですか師匠」
「あれは地雷じゃなくて端をちょーっと踏んだだけで壊れるほど繊細な封印だったの」
「手抜きですか師匠」
「面倒臭かったから」
とりあえず悪魔は魔族で師匠は今日も面倒臭くて出来るならさっさと部屋に戻って寝たいらしい。
「髪乾かさないと風邪ひきますよ師匠」
「リーヴ、リーヴどこー? どこでもいいから私の髪乾かしてー!」
「叫ばないでください今夜ですよ師匠」
「ありがとー! 大好きだからミルクティー淹れてー!」
出会い頭に捕縛された魔族(確かアルスィオーヴとか言ったっけ…)が師匠の足下で悔しそうに歯噛みしていた。乾いた髪を一払いした師匠は眠たそうに欠伸を一つ。
「あんたも災難ね。久遠の眠りを破ったのがよりにもよって私の教え子だなんて」
「全くだ」
「…まぁ、いいわ。勝手にしなさい」
「師匠?」
師匠が気のない様子で手を振った。カチリと音がしたのはその足下で、真黒い服を着たアルスィオーヴの首には銀色の輪。
「グロッティ…!」
「魔力制御しとかないとバレるでしょあんた。面倒事はやめてよ間に合ってるから」
「あ、師匠向こうで猫様がこっち見てますよ行った方がいいんじゃないですか」
「ごめんリーヴすぐ行くからー! じゃあちゃんと面倒見るのよアロウ、私寝るから静かにね」
「ラジャ!」
「あとリーヴのこと猫様って呼ぶのやめなさいせめて人の姿してる時くらい」
「ラジャ!」
「よろしい」
そんなこんなで自室に引っ込んだ師匠は朝まで出てこない。だだっ広い廊下に残されたのはあたしとアルスィオーヴだけで、師匠のかけた足止めの魔法は五分もしないうちに解けた。
「…とりあえずあたしの部屋行く?」
「……あぁ…」
たっぷり間をおいて答えたアルスィオーヴは一度うかがうように師匠の部屋の方を見て、大人しくあたしについてくる。そういえばなんでこいつ地下室に封じられてたんだろ。召喚に失敗する師匠なんて想像出来ないなー…
「言っておくが、」
あたしは部屋の扉に手をかける。アルスィオーヴは鬱陶しそうに《グロッティの輪》を引っ掻いた。
「俺様はあいつに喚ばれて来たわけじゃないからな」
「…とりあえずその一人称ヤメロ」
ドアノブの周りにある溝に何度か決まったとおり指を這わせると鍵が開く。押し開けた扉はそうするまでもなく軽かったけれど、小さい頃からの癖は今更どうしようもない。師匠はおかしそうに笑うだけで直せとも言わないから別にこのままでいい。
「師匠に喚ばれたんじゃないならなんでウチにいんの?」
「ここで生まれたからだ」
「…いつ?」
「わからない。生まれた次の瞬間には封じられてた。目が覚めたらあんたがいて、魔力が底をつきそうだったから無理矢理《契約》した」
「師匠もついに魔族とか造っちゃったかー、人造人間には興味ないとか言ってたクセにそっちに走ったかー……ありえねー…」
背中からベッドにダイブしたあたしの傍で立ち尽くすアルスィオーヴは、言われてみれば確かに生まれたての世間知らずで自分が何をすればいいかもわからず、途方に暮れている子供に見えなくもなかった。嵌められたグロッティを弄る手も心許無さ気で、下がり気味の目なんて今にも泣き出しそうだ。
「俺はどうすればいい」
「あんたはどうしたいの」
「わからない」
「じゃあここにいれば? 師匠も勝手にしろって言ってたし」
「ここにいていいのか」
「いいんでない?」
「ならいたい。…あんたの傍に」
「よしきた」
動物を拾ったことはなかった。師匠がそういうことを極端に嫌がるし世話が面倒だから。でもあの時、突然息を吹き返した魔法陣からこいつが出てきた時だけは、絶対に手放しちゃ駄目だとそれしか考えられなかった。師匠はいつも「本能の囁きを聞け」と言って、あたしは「そんなもの聞こえて従ってるの師匠くらいですよ」と軽く返していたけど、もしかするとあれがそうだったのかもしれない。いや、きっとそうだ。
「あたしはアロウ。アロウ、クロスロード」
「…俺はアルスィオーヴ」
「我が名の下に宣言する。汝――」
昔一度見ただけの契約の詞は酷く曖昧で、あたしはだらしなく横になったままだったけど、二人ともそんな細かいこと別に気にはしなかった。
詞を思い出すのに必死で途中目を閉じてしまったあたしに確かめる術はないけれど、アルスィオーヴは泣いていたのかもしれない。
「――誓う」
だって最後の言葉を口にしたアルスィオーヴの声は、誤魔化しようのないほど震えていたから。
限りある命を持つ者の住む世界――《ミズガルズ》――にある二つの秘境。その一つである《ヨトゥンヘイム》とフィーアラル王国とは、イヴィングと呼ばれる一本の川で隔てられている。
「そんな所で何をしているの?」
隔てるといっても、イヴィング川を渡るのはそう難しくない。それなりの広さはあるがけして深くない川だ。その気になれば、年端もいかない子供だろうと歩いて渡ることが出来る。
だから対岸に一目見て人間だと分かる少女の姿を見つけた時、早く連れ戻さなければと思った。
「どうして子供が…」
ばしゃり、と足下でイヴィングの水がはねる。それがどんなに軽率な行動だったかを思い知るのは、川を渡りきり少女の腕を取ろうとした、その時だ。
「ベクシル!」
一緒に来ていた親友が俺を呼んで、伸ばした右手に激痛が奔る。
「っ、ぁ――!」
ばしゃり。
「この方に触れるな。脆弱な人ごときが」
不快感も顕わにビューレイストは吐き捨てた。男の腕を一振りで切り飛ばした剣には血飛沫一つ付いていない。
昔々、世界の果てに生まれた魔女は、《世界最古の魔女》リーヴスラシルと呼ばれていました。
リーヴスラシルは、世界最古の魔女であると同時に《世界最後の魔女》でもある人です。
リーヴスラシルが息を引き取った時、世界から魔女の血は絶え、全ての魔法がその不思議な力を閉ざしてしまいました。
人々はそのことを深く哀しみ、酷く嘆きながら、リーヴスラシルを手厚く葬ってやりました。
そしてリーヴスラシルは、穏やかな永劫の眠りに身を委ねたのです。
リーヴスラシルの死から幾千の時が過ぎ、魔法が人々と共にあった時代が御伽噺となって久しい、その時まで。
(最後のさよならを越えた先に/また出逢えるわ。そう願い続けることが出来たなら)
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