攻撃を仕掛けていた相手が魔族だと分かるや否や、暁羽は魔法書を捨て自らの魔術書を顕現させた。血の気の多い彼女らしい判断だといえばそうかもしれないが、対峙する相手が強ければ強いほど、切り札は最後まで取っておきたがる彼女にしては、早急な決断だとも思った。
「どう見る、蒼燈」
深い紫色の毛並みを持つ地狼の言葉に、僕は努めて普段通りに返す。
「暁羽が負ける状況が思いつきませんね」
地狼――夜空――の張った結界の強度は白の書を使った結界の比ではなく、そうそう破られることもないだろうが、それはあくまで〝暁羽がアルスィオーヴと戦っている間は〟という条件付だ。彼女が負ければ――王命に従いエルフを守ろうとする限り――僕たちに生き残る術はない。魔物相手ならまだしも、魔族相手に戦いを挑めるほどの実力と無謀さを、僕は持ち合わせていなかった。
「心配しなくても、彼女ならうまくやりますよ」
そう、負けるはずがない。彼女は魔術師であり王の信頼厚い騎士なのだから、その誇りにかけて負けるはずはないのだ。
(でももし、貴女が負けるようなことがあれば――)
無言のまま揮われる杖。咄嗟に地を蹴る魔族。焦らず杖先でその動きを追って術を発動すると、アルスィオーヴは舌打ちとともに力に力をぶつけた。
「学生にしてよくやる」
魔法書を使っていては一生行使できないような大量の魔力を消費する術式を、魔術書は無言のままに発動させる。杖先の動きと意思だけで紡がれていく力を相手にするのはさぞ厄介だろうが、そういう意味で条件は五分だった。
魔族はもともと、呪文や杖の類を使ったりはしない。
「だが力押しだな」
アルスィオーヴが右手を掲げる。黒猫が肩に爪を立てた。わかってるわよと痛みに対する不満を訴える時間はない。
「魔力の絶対量で、魔族に勝てると思うな」
振り上げた杖先を追って築かれる障壁。更に攻撃呪文を四重で重ね打って舌打ち。
「さらばだ、死を免れぬ人の子よ」
そう言ってアルスィオーヴが落としたのは、両手で包み込めるほどの球体だった。見た目の割に恐ろしいほどの魔力が詰め込まれたそれはゆっくりともったいぶって落ち、途中ぶち当たった攻撃呪文を取り込んで、肥大する。
「うわやばっ」
思わず声が漏れた。攻撃に攻撃をぶつけて相殺、あわよくば逆に攻撃へと転じてやろうという浅墓な思惑はあからさまに裏目に出て、その上障壁を築き直す時間はない。
「リーヴ!」
そうこう考えているうちに球体は障壁に辿りつき、――爆発した。
アルスィオーヴは笑う。対峙したミズガルズの子は確かに力ある存在ではあったが、自らの崇高な目的を妨げられるほどの存在でもなかった。所詮、人は人でしかないのだ。
「健闘は称えよう。…だが、」
立ち込める土煙の下には、少女の肉片すら残されてはいないだろう。至近距離で魔族の持つ邪悪な力をもろ受け、髪一筋残されていればそれは奇跡に他ならない。この力の残滓すら、脆弱な人の身には致死の毒。初めから、結末は分かりきっていたのだ。
この戦いはそう、言うなれば――。
「喜劇だな」
「――調子に乗るなよ、三下が」
展開の速さに眩暈がしそうだった。確かに暁羽はやられたと、そう思い、また彼女の魔力も一際[ヒトキワ]大きな爆発とともに掻き消えていたのに、再び姿を現した暁羽は全くの無傷で、尚且つ魔力は先ほどの比ではないほどに膨れ上がっている。
「一体なんだって言うんです…」
夢でも見ているようだ。いい加減非常識な人物だとは思っていたが、これはあんまりだろう。
「私たちに刃を向けたこと、後悔させてやる」
どこかの悪役じみた言葉とともに地を蹴った暁羽の背で、肩につくかどうかほどの長さだったはずの髪が躍った。背を覆い隠すほどにまで伸びたそれを見て溜息一つ。非常識にもほどがある。
「お前の知り合いにはロクな奴がいない」
「…彼女がその代表格ですよ」
暁羽の手の中で、杖は長剣へと形を変えた。彼女が真正の刃物を持っているところなんて式典くらいでしか見たことはないが、腕前はそこそこだと風の噂に聞いたことがある。
「どういう、ことだ…っ」
アルスィオーヴが牙を剥き出して叫んだ。暁羽は無表情のまま、その瞳に僅かばかりの敵意を宿して飛躍する。
「喧嘩を売る相手を間違えたな」
常人離れした跳躍力は魔力によるものだと思いたい。
「剣よ、我が名の下に示せ」
でなければ彼女の方がよっぽど化物じみている。
振り下ろした剣の一閃で両断した魔族の残滓は、反撃に打って出ることなく次元の狭間へと逃げ込んだ。
「……」
私はそれを深追いする必要はないと判断して、空中での足場にしていた魔力を解く。落下のスピードを同じく魔力で抑え緩やかに着地すると、急激な魔力の開放につられ長さを増した髪が目に留まった。
どうせ暁羽は、暇を見つけてまた切ってしまうのだろう。出逢ったばかりの頃を彷彿とさせて、私は長髪の方が気に入っているのに。
「…〝天は地に、地は天に〟」
地狼が結界を解く素振を見せたので、まだ終わっていないことを示すために呪文を紡ぐ。暁羽の声で放たれる私の言葉は朗々と場に響き渡り、溢れる魔力がそれに応えて鳴動した。
差し出した手の上に落ちる魔鏡の片割れが、魔力を伴った光を放つ。
「〝絶たれる事のない絆を手繰る。世界樹の枝を辿り開け、かの地への扉〟」
剣を杖へと戻し、杖先に力を集め陣を描いた。必要なのはこの地に残る魔族の痕跡を消し去るための、一時的ではない強力な術式。大地に染み込んだ穢れを浄化しつくすまでは決して消えない、魔導の域に達しようかというほどの魔術。それを、口頭での術式と同時に構築する。
「〝応え、光差す庭〟」
そして発動させた。
PR
黒一色で塗り潰された世界には、沢山の危険なモノがいた。
(逃げなきゃ…)
漠然とした恐怖に追われ、私は走り出す。黒以外の何もない世界は冷たくも温かくもなくて、地面に足をつけている感覚すらあやふやなのに、私はどこまでもどこまでも走り続けた。
恐怖が来るよ!
「――――」
それは魔鏡の力を借りて王都イザヴェルへと飛ばしていた精神が肉体に戻る刹那の出来事で、私自身それが〝何〟であるかは分からなかった。ただ意識を取り戻すと同時に跳ね上がった心臓の鼓動が、どこか警鐘の様に聞こえてならない。
(なに、今の…)
肉体から精神を引き離した際起きうる作用については、完全に把握しきれているはずだ。でなければ、些細なミスで命を落としかねない術式を行使したりはしない。完璧に、何の問題もなく精神を回帰させられる自信があったからこそ魔鏡を使った。なのに何故。
「ニャア」
堂々巡りを始めた思考を断ち切るように黒猫が鳴いた。私は弾かれたように顔を上げて、少し先に落ちた魔鏡と黒猫を視界に入れる。魔鏡の発動はとうの昔に治まっていて、流し込んだ魔力の残滓が僅かに感じられる程度だった。
それはつまり、私の精神が肉体に戻ってから短くはない時間が流れているということで…――。
「戻らないと…」
自分自身に言い聞かせるよう呟くと、こちらをじっと見つめる黒猫の瞳が輝きを増したような気がした。あぁまた、貴方までがそんな目で私を見るなんて、悪い冗談はよして。
杖を硬く握り締めていた右手をゆっくりと開いて、今度は緩く握りなおす。小さく杖先を振り動かすと、魔鏡は次元の狭間へと呑まれて消えた。空間に広がった波紋はすぐ傍の黒猫にあたって跳ね返り、やがておさまる。
「戻るわよ」
手にした杖はそのままに、私は黒猫を引き連れ蒼燈とエルフの元へ急いだ。――胸騒ぎが止まない。
本来なら人の出入りさえ拒むような結界でさえ、暁羽の行く手を阻むことは出来ない。人には得手不得手があるものだが、彼女ほど得手に特化した人間はそういないだろう。これはもう進化と言っても過言ではないはずだ。
エルフを守るために張った三重の結界を生身で通過するなんて、どう考えても不可能なことなのだから。
「ということで、次の町には向かわずこのまま王都へ戻ることになったから」
「異存はありませんよ」
「問題、は…」
二人の視線が示し合わせたように向けられると、エルフは事の重大さなど一欠片も理解していないような顔で首を傾げた。暁羽が戻る少し前には目覚めていた彼女は、未だに一言も言葉を発していない。いや、話せないのだ。
しかも、問題はそれだけに止まらない。
「貴女には悪いけど、私たちと一緒に来て欲しいの」
「?」
僕たちが見つけたエルフは、言葉と記憶を失っている。――それが、暁羽の下した一応の結論だ。純粋な魔法生物であるエルフが記憶喪失なんて聞いたこともないが、彼女がそういうのならおそらく間違いはないだろう。これは、暁羽の〝得手〟だ。
「了承してくれる?」
選択の余地のない問いかけに、エルフは何の疑いもなくコクリと頷く。暁羽も頷き返した。
「決ま――」
ガシャンッ
頭上から降り注いだ光に目を奪われていたのは、瞬き一つする間もない短い時間。
「夜空[ヤソラ]!!」
まず我に返ったのは蒼燈で、エルフの元へ駆ける彼の召喚獣が視界の端を掠めた。肩に飛び乗ってきた黒猫と砕け散った結界に、私は戦慄する。
蒼燈の張った三重の結界は、白の書で扱える最高位の守護結界であるはずだ。
「――そのエルフを、渡してもらおう」
翳した手に次元の狭間から黒の書が落とされる。右手で取り出した杖を勢いよく振り上げ、私は矢継ぎ早に三つの攻撃呪文を放った。
「チッ」
その全てが――威力は通常魔法に劣るものの――奇襲に適した無言呪文によって発動したにも関わらずいとも容易く弾かれ、思わず零した舌打ちに黒猫が気配を研ぎ澄ます。
――右。
咄嗟に左へ飛ぶと、右手から飛来した魔力の塊が大きく地面を抉った。背筋に冷たいものが伝い、杖を握る手に力がこもる。
「我が名はアルスィオーヴ。スヴァルトアルフヘイムに住まう魔性の者」
一人の男が自ら名乗りを上げ、次元の狭間からこちら側へと姿を現した。
「ミズガルズの子等よ、我に逆らうな。そなた等を傷付けるのは我の本意ではない」
先に攻撃を仕掛けておいてよく言うと、喉元まででかかった言葉をなんとか呑み込んで、私は背筋を伸ばした。手を放した黒の書はその場に止まり、杖を向けると、独りでにぱらぱらと捲れだす。
「魔族がエルフに何の用?」
「知る必要はあるまい」
「なら彼女を渡す必要もないわ」
アルスィオーヴが器用に片方の目をすがめると、それだけで大気が震撼した。
「暁羽!」
「結界張って縮こまってなさいな。――そっち気にかけてる余裕はないわよ」
杖を突きつけた黒の書からは一種爆発のように無数の魔法陣が飛び出し、周囲が陣の放つ光に呑まれる。
「愚かな」
それが目晦ましになるなんて、はなから思っちゃいない。
「黒の書よ、力を示せ。秘めし力を開放せよ」
ただ時間稼ぎになってさえくれればいい。
「我が名はクロスロード!」
黒の書に封じ込められていた無数の魔法が連鎖するように次々と発動した。発現である魔法陣はアルスィオーヴを取り巻き、アルスィオーヴは、息つく間もない攻撃を雑作もなく払っていく。
「主に応えて今こそ示せ、我らが前に立ち塞がりし、全ての愚かなる者に恐怖と絶望を注ぐべく。――顕現せよ!」
詠唱が進むにつれて、体の内側で力強く脈打つものがあった。魔法書を使うことによって制限されていた魔力――その源であるマナ――が、解放されつつあることに気付き歓喜しているのが手に取るようにわかる。
「させるか」
魔力が掲げた手の上で収束を始めた。既に黒の書によって発動した魔法の全ては蹴散らされ、アルスィオーヴが敵意に満ちた力を放つ。
(遅い)
十分な時間は、稼げた。
黒一色で塗り潰された世界には、沢山の危険なモノがいた。
(逃げなきゃ…)
漠然とした恐怖に追われ、私は走り出す。右も左も分からない黒の中では、そうするほかに自分を保てる方法が思いつかなかった。
恐怖が来るよ!
「――――」
置き去りにされていた肉体に精神が戻り、魔法陣が収束を始める。
「リー、ヴ…?」
肉体と精神が完全に同調するのを待たず声を上げた暁羽は重そうに首をもたげ、訝しげにこちらを見やった。
「出てきたの?」
答える代わりに頷いてみせると、片目を覆うよう頭に手を当て、大きく首を振られる。
「私は大丈夫だから」
到底そうは見えなかったが、思ったままを口にしたところで聞き入れられることがないのは火を見るよりも明らかだった。確かに、常人と比べれば目を瞠る回復の早さではあるのだから。
「あのエルフを、連れて行くのか」
「えぇ」
「それがどういうことか、分かっていて言っているのか」
「私だっていつまでも無知で非力な子供じゃない。エルフを連れて旅をすることの難しさくらい、ちゃんと分かってるわよ」
「……」
酷く的外れな答だった。結局の所、暁羽は私の言いたいことなど何一つ理解してはいないどころか、己の実力さえも把握しきれてはいないのだ。
「あのエルフは危険だ」
「…リーヴ」
「あのエルフは「リーヴ、いい加減にして」
黒の書第七三項、炎[フレイム]。
「――焼き尽くせ」
揮われた杖の先から放たれる灼熱の炎は容赦なく敵を焼き尽くし、乾いた大地を蛇のようにのたうった。
詠唱破棄。それは非常に高度な技で、僕は暁羽以上にこの技を鮮やかに使いこなす魔法師を知らない。
「…これで終わり?」
手首の動きだけで杖先が振り上げられると、周囲の景色を赤く染めていた炎が一瞬にして消え去る。本当に、異常なまでの鮮やかさだ。
「の、ようですね」
周囲の気配を探ってから〝盾〟を解くと、同じタイミングで暁羽も魔法書を手放す。落下した黒の書は、彼女の手と地面のほぼ中間あたりで空間に波紋を広げつつ消えた。
「ったく、なんだっていうのよ」
乱れた髪をくしゃりと握って、暁羽が毒づく。
「怨まれてるんじゃないですか? 貴女」
「心当たりがありすぎて見当もつかないわ」
「でしょうね」
軽口を叩きながらも、その手には依然杖が握られていた。彼女が何かを待っているのだと思い至って、黒猫の不在に気付く。すると、間をおかずに木々の奥から彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「遅い」
そして、僕たちは運命の邂逅を果たす。
「嘘でしょ…?」
こればかりは何かの間違いであって欲しいと、心の底から思った。どれくらいぶりだろう、緊張で指先が冷たくなるのは。
「魔物が集まってた原因は、これか」
豊かな緑に守られ眠っているといえば聞こえはいいが、実際、私の目の前で目を閉じている女が望んで眠りについているとは到底思えなかった。
「エルフ…ですか? こんなところに?」
蒼燈の言葉が追い討ちをかけるように重く圧し掛かる。そう、エルフだ。透けるように白い肌、尖った耳、整いすぎた容貌。――彼女を見れば、字の書けない子供だって分かる。それほどに、私たち人間とエルフの差は歴然としている。
「僕の記憶が正しければ、エルフがアルフヘイムを出てミズガルズに来る条件は、」
「王への使者か、召喚師による召喚か」
人間にとって、エルフは絶対的上位種族だ。魔力の絶対量[キャパシティー]にしろ、容姿にしろ、知識にしろ、運動能力にしろ、なにをとっても人間がエルフを上回ることはない。
「そして彼女は、前者」
けれどエルフは驕ることなく、時には人のためにミズガルズへと赴き力を揮う、いわば善。だからこそ悪である魔物にとっては、無条件で絶対の敵となりうる。
「面倒なことになったわね」
エルフは光だ。強すぎる光。故に深い闇を呼ぶ。すなわち、魔を。
「蒼燈、取り合えず三重の結界を張って」
「それは構いませんが…助けるんですか?」
「仕方ないでしょ、見つけちゃったんだから」
「…そうですね」
本当に、面倒なことになった。
「私は陛下と連絡を取ってくる」
既に結界の構築にかかっている蒼燈と意識のないエルフをただ残していくのは躊躇われて、気持ちばかりの結界を一つ敷いてその場を離れる。
適当に距離をとって立ち止まると、ついてきていた黒猫は近くの木に駆け上り手頃な枝に落ち着けた。
「そこにいる気?」
「ニャア」
「……」
当然とでも言いたげな鳴き声に頷き返して、次元の狭間から円形の鏡を取り出す。黒く塗りつぶされた鏡面を見つめながら零した溜息は、思いのほか重々しく聞こえた。
「暁羽・F・クロスロードの名の下に、――開け」
言葉とともに手放した鏡は地面に落ち、鈍く紫黒に輝く魔法陣を展開させる。
「――何か問題でもあったのかな?」
その陣に足を踏み入れた次の瞬間、私はフィーアラル王国の現国王、カール・フィーアラルの前に立っていた。王城でも奥まった場所にある中庭の一角で本を広げたカールの傍には、私が使った物と同じ鏡が放り出されている。
「えぇ、残念ながら」
これが、魔具であるこの鏡の持つ力。
「…どうやら、我が親愛なる騎士殿のご機嫌は最悪のようだ」
カールは笑った。全てを分かった上で子供の嘘を受け入れる、寛大で嘘吐きな大人のように。私が嫌いな歪んだ笑みで。
「ドラウプニルの腕輪を身につけたエルフを、見つけました」
「…座ったら? あと敬語」
「……」
手元の本をぱらりと捲って、人の話を聞いているのかいないのか、緊張感のない欠伸を一つ。私が大人しく示された場所に座ると、カールは満足そうに笑みを深めた。
「近衛兵は?」
「鬱陶しいから撒いたよ。幸いにも、この中庭には君の施した人払いの魔法が残されていたからね」
カールにも聞こえるよう態とらしく溜息をついて脱力する。今頃城中を駆けずり回っているであろう近衛たちのことを思うと胸が痛んだが、それも上辺だけだった。そういう意味では私もカールと同じ嘘吐きな大人で、どこかしら歪んでいる。
「仕事したら?」
「午前中は頑張ったから午後は休憩」
「…これのどこが〝稀代の賢帝〟なのかしらね」
「僕の周りには優秀な人が多いから」
周囲を高い壁に囲まれた中庭でカールと二人、そんな場合ではないと分かっているのに、連日続いた魔物退治の疲れに負けて、私はうとうとと瞼を落とした。眠ってしまいさえしなければ、きっと、カールは気付かないだろう。
「そうか、ドラウプニルか…。妖精王からの正式な使者の証だね」
おかしいなぁと呟いて、カールが首を傾げる気配がした。
「なにが?」
「アルフヘイムから使者が来るなんて聞いてないんだ。…連絡ミスかな」
「エルフに限ってそんなこと…」
「まぁ、連絡ミスでも偽物でもなんでも、エルフは保護しなきゃいけないんだけどね」
初めから分かりきっていたはずの答を聞かされて、私は内心落胆する。本当に面倒なことになった。
「でも、エルフを見つけたのが君でよかったよ」
それでも、同じ木に寄りかかった男が無邪気な子供のように笑ったので、私は仕方なしに立ち上がる。放り出されていた鏡の前で立ち止まり振り返ると、カールは、何でもないことのように命を下した。
「僕の所に帰っておいで」
「…イエス、マイロード」
それがどんなに困難な任務か、理解していないはずもないのに。
鈍く暗い光を放つ魔法陣に足を踏み入れるなり体勢を崩した少女の体を抱きとめて、その場に座り込む。
『そこにいる気?』(お前の傍に、いる)
〝そこ〟に対する認識の違いが二人にはあった。だから私は嘘をついていない。私はちゃんと〝そこ〟にいる。お前の、傍に。
掻き抱いた肢体の頼りなさに思わず顔を顰めた。精神だけを対となる魔鏡の元へと飛ばした少女の体は身に余る魔力に溢れ、周囲にその存在を悟らせぬよう意識して張り巡らせた結界は、あまりの強力さに精霊たちの行き来さえ拒む。
(早く戻って来い…)
私の目は、少女の中に眠る魔力の源――マナ――の姿を、はっきりと映し出すことができた。だからその価値を見誤ったりはしない。なのに何故、ミズガルズの子は気付かない。
お前達が所有していいものではない。お前達が縛り付けていいものではない。この輝きは比類なく、故に孤独で、誇り高くあるべきなのだ。かつての名高き魔導師たちが、また古[イニシエ]の神々が、等しくそうであったように。
(早く、)
気高くあれ。
『何か問題でもあったのかな?』
「えぇ、残念ながら」
『…どうやら、我が親愛なる騎士殿のご機嫌は最悪のようだ』
とばっちりを受ける魔物は災難だね。
「仕事もせず中庭でメイドとアフタヌーン・ティーを楽しむ主君を探して、城中を駆けずり回る近衛よりは幾分かましでしょうよ」
『そうかな』
「私が見張ってないとろくに仕事も出来ないんですか、貴方は」
『うんまぁ、君ほど容赦ない人もそういないからね』
「全く…」
『それで? 態々連絡してくるなんてどうしたんだい? 我が親愛なる騎士殿』
「ドラウプニルの腕輪を身につけたエルフを拾いました」
ガシャンッ。
『――もっ、申し訳ありません!!』
『あー、いいよいいよ。火傷とかしてない? ごめんね驚かせて。――僕も結構吃驚したよ。ドラウプニルだって?』
「確かですよ。この目で見ましたから」
『妖精王からの正式な使者の証じゃないか』
「では、この状況を…――コールドチェーン、君ならどう乗り切る?」
戦術師・グラブス教授の御指名に、あたしは隣の席で机に突っ伏す冬星・コールドチェーンの脛を、力の限り蹴り飛ばした。
「いっ!」
「どうかしたのかな?」
「い、いえ…なんでも、ありません…」
文字通り飛び起きた冬星はグラブス教授の問いかけに拳を握り締めながら答えた後、親の敵でも見るような目であたしを睨んだ。あたしはそ知らぬ顔で教壇に目を戻す。
当てられてるわよ。――頬杖をつき、顎に添えた手の平で唇を隠しながら呟けば、何をと、押し殺した声が降って来る。
「(状況をクリアしろって)」
「(条件は?)」
「(言ってない)」
「…教授、盤上の駒を僕のチームのメンバーと仮定しても?」
冬星の言葉によって生徒の間でどよめきが起こり、一転、耳が痛くなるような静寂が落ちた。誰もがグラブス教授の返答を聞き逃すまいと必死で、なのに教授は、なんでもないことのように頷く。
「いいだろう」
ああ、なんてこと。
「ならまず、赤い駒を暁羽・クロスロード、青い駒を蒼燈・ティーディリアス、白い駒を僕と仮定します。魔物が集中しているのは蒼燈の左手ですから――」
まず、冬星が口にした二人の名前に教授の表情が引きつった。当然の反応。冬星は後方支援向きの呪術師で前線に出ないから知らないのも無理はないけど、残りの二人――暁羽・クロスロードと、あたしの兄、蒼燈・ティーディリアス――といえば、この学校屈指の魔法師で、普段王城勤めでこっちには滅多に顔を出さないグラブス教授とはいえ、さすがに知っていなければおかしい。
「――これで、終了です」
見事危機的状況をクリアして見せた冬星に、生徒からは惜しみない拍手が送られた。グラブス教授はまだ表情を引きつらせたままだけど、誰も気にしない。実の所あたしも教授は嫌いだ。目つきが悪いから。
「黒の書第四二項、雷[サンダー]」
月のない夜の深い闇に紛れ、息を殺していた一匹の魔物は、突如として発現した魔力に戦慄した。
「雷[イカズチ]よ、闇を切り裂き下れ」
バチリと、大気が不穏な音を立てて震える。
己への脅威を排除するべく物陰を飛び出した魔物の、鋭く伸びきった爪を前に、少女は魔法書の項を辿っていた杖をさっと振り上げ、不敵に笑った。
「白の書第二五項、盾[シールド]」
突き出された魔物の爪は間一髪で少女に届くことなく、現れた不可視の壁によって阻まれる。
「終わりよ」
遥か頭上の暗雲から下った紫電は、轟音とともに魔物を貫いた。断末魔の叫びを上げる間もない一瞬の死に、魔物は己の死を自覚するまもなく崩れ落ちる。
「貴女にかかれば、初級魔法も立派な凶器ですね」
足元から流れるように消えていく〝盾〟と入れ代わるように現れた気配に、少女は魔物の屍から己の魔法書へと目を移し、それを消した。
「二桁の魔法は力配分が面倒すぎる」
「そう言うのは貴女くらいのものですよ、暁羽」
もう一度振り下ろされた杖にあわせ落ちた雷は、そこに魔物がいたという痕跡さえも焼き尽くす。
「あんただってザコの召喚はしないでしょ? ――蒼燈」
少女――暁羽――は役目を終えた杖を魔法書同様、抉じ開けた次元の狭間へと放り込み、空いた手を上着のポケットへと押し込んだ。吐き出された息は僅かに白く、――もうすぐ夜が明ける。
「僕には夜空がいますから」
「…よく言うわ」
そろそろ引き上げ時だろうと、暁羽は周囲に魔物の気配がないことを丁寧に探ってから、傍らに立つ少年――蒼燈――と目配せし歩き出した。
「明け方は寒くなってきましたね」
「えぇ…」
蒼燈の言葉に短い返事を返して、立てた襟に顔を埋める。
(もう半月、か)
フィーアラル王国の王都イザヴェルから遠く離れた辺境の地で、王立魔法学校の生徒である暁羽と蒼燈は魔物退治の任についていた。完全な実力主義の魔法学校ではよくあることで、いくつかの条件をクリアすれば、生徒も魔物退治へと借り出される。
良くも悪くも、二人は王都を空けていることが多かった。
「頃合いじゃありませんか?」
暁羽は無言のまま首肯する。返事をするために息を吸うと、そこから凍り付いてしまいそうだったからだ。
「次の町で一通り魔物を倒したら、戻りましょう」
「…わかった」
白んできた空を眩しそうに見上げていた蒼燈が、一つ頷いて歩調を速める。
「いい加減疲れましたからね」
「同感」
元々、そう密集していたわけではない木々が完全に途切れ、二人は森を抜けた。
「――フィーネ」
前に出た蒼燈が振り向きざま杖を振って、二人が魔物を狩っている間、関係のない人間が入れないよう張り巡らされていた人払いの魔法陣が効力を失う。
「ニャーア」
分かたれていた陣の内側と外側とが混ざり合い、吹き込んだ風とともに、一匹の黒猫が暁羽の肩に飛び乗った。
「おまたせ」
器用に肩の上でバランスを取る黒猫に頬を寄せ暁羽が息を吐くと、擦り寄られた黒猫は気遣わしげな鳴き声を上げる。
微笑ましい光景ではあったが、蒼燈はそんな一人と一匹には目もくれず、あらかじめ宿を取っておいた町への道を黙々と進んだ。
「ねぇ、蒼燈」
あと少しで町に入るというところで、暁羽が蒼燈を呼び止める。何気なく振り返った蒼燈は、思いがけず真剣な表情で今しがた後にしたばかりの森を見据える暁羽に内心首を傾げた。
「今日は何匹倒した?」
「いちいち数えてませんよ。少し多かったような気もしますが…」
「そう、多かった。魔物の好むような環境も、獲物も、宝もないのに、私の勘違いでなければ、あの森にはそこの町なんて半日もあれば無人に出来るくらいの魔物がいた。――これは、異常よ」
確かに異常だと思った。大抵のことなら面倒だと捨て置いてしまう暁羽がこうして話を振ってきたこともそうだし、自分と暁羽の二人が組んで、たかが魔物退治に夜明けを見たことも、そう。けれど、
「考えすぎじゃありませんか? 単なる偶然かも」
けれど蒼燈はあえて気付かない振りをして、自分でも白々しいと思えるような言葉を吐いた。
「…だといいけど」
そんな蒼燈に暁羽も深く追求しようとはせず、溜息ともつかないか細い吐息を吐き出して、森に背を向ける。
「面倒ごとには、遠慮願いたいものですね」
すれ違いざま零された本音には、ニャアと、黒猫の愉しげな鳴き声だけが返った。
青く澄んだ泉が一つ。その水底に、一人の賢者。
賢者は謳った。誰もが聞き知る、大樹ユグドラシルによって支えられた九つの世界の有様を。死を免れぬ人の住む「ミズガルズ」へと続く根の下で、ミミルの泉の水底で。賢者は謳った。語り継がれる真実を。
そこに一人の来訪者。
月光色の髪を持つ見目麗しい青年が、泉の上へと降り立った。泉の表面に広がる波紋が、賢者ミミルに青年の来訪を告げる。
「気紛れな巨人の王は捧げられた生贄の王女を生かし、欲深き人の王は死んだ。――残された王子の賢さは、貴方の好ましいものであったようですな」
表情を綻ばせる賢者ミミルに、青年は冷やかな一瞥をくれた。磨き上げられたルビーを思わせる真紅の瞳は泉の波紋を映し、光の乱反射に煌く。
「あれは、私の言葉など聞き入れはしない」
青年が静かに口を開くと、泉につかの間の静寂が落ちた。あたかも彼を取り巻く環境が、息を潜めその言葉に耳を傾けているかのように。
「ならば何故、私はあれを救うのだ」
暫し横たわった静寂を破ったのは、賢者ミミルの楽しげな笑い声だった。深く皺の刻まれた容貌を柔らかく歪め、賢者ミミルは笑う。
「わたくしが教えて差し上げてもよろいいが、きっと貴方様は与えられた答に納得されはしないのでしょう。ならばわたくしの言葉に意味はない」
「…賢者ミミルよ。お前が守る泉の水は、偽りか?」
「この泉の水を一度[ヒトタビ]口にすれば、貴方様はこの世界の全てを知ることとなるでしょう。けして偽りではございません。ですが貴方様の信じるものがただ一つ、その瞳に映された世界である限り、この泉の持つ真実は、貴方様にとっての偽りでありましょう」
青年は賢者ミミルの傍らに眠る、本来対であるはずの宝石の片割れを暫し見つめ、そして姿を消した。
賢者ミミルは笑う。
「貴方様の真実は、貴方様にしか見つけられぬから、唯一の輝き放ち慈しむ価値を持つのでしょう」
青く澄んだ泉が一つ。その水底に、一人の賢者。
賢者は謳った。誰もが聞き知る、大樹ユグドラシルによって支えられた九つの世界の有様を。死を免れぬ人の住む「ミズガルズ」へと続く根の下で、ミミルの泉の水底で。賢者は謳った。語り継がれる真実を。孤独な王の僥倖を。
「本当にありがとうございました」
「いえ、僕たちはやるべきことをやったまでですから」
ニャアと、つまらなそうに黒猫が鳴いた。次の町へと続く街道を前に、何を足止めされているのだと、言外に含ませた不満はそんなところだろうか。
「暁羽、行きましょう」
漸く町長たちとの話を切り上げた蒼燈が足早に歩き出す。項垂れていた黒猫は弾かれたように顔を上げ、意気揚々と私の肩を飛び降りた。
「これだから田舎者は」
見送りの声が聞こえなくなるのを待って口を開くと、歩調を緩めた蒼燈が隣に並ぶ。
「高慢な貴族を相手にするよりは幾分かマシですよ」
「そうかしら」
私にとってはどちらも大差ないという意味合いを込めて、殊更興味なさそうに返すと、同意するように少し先を歩く黒猫が鳴いた。
蒼燈は苦く笑って肩を竦める。イザヴェルの貴族にしろ辺境の田舎者にしろ、相手にしなくてすむのが一番には違いなかった。
「それはそうと、」
「それはそうと?」
黒猫が立ち止まり、蒼燈が首を傾げる。次元の狭間から引きずり出した杖と魔法書を構え、私は口角を吊り上げた。
「こんな昼間から魔物に出くわすなんて、初めてじゃありませんか?」
街道沿いに並ぶ木々の陰から姿を現す異形の魔物。ざっと見た限り手強そうな輩はいないが、数だけは無駄に多かった。
「私はあるけど? こういう経験」
「そうなんですか?」
「えぇ。最も――」
耳を塞ぎたくなるような咆哮が轟く。いつの間にか戻ってきていた黒猫が不快そうに顔を歪めて唸り、杖を向けられた魔法書は独りでにぱらぱらと捲れた。
「あの時は狙われる理由があったんだけどね」
バチリと、大気がスパークする。
カテゴリー
最新記事
(08/25)
(08/04)
(07/28)
(07/28)
(07/14)
(07/13)
(06/02)
カウンタ
検索