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 今にも落ちそうだった瞼をしっかりと持ち上げ、暁羽は笑った。

「リーヴがそれでいいなら、いいけどね」

 憶えていないとでも思っていたのだろうか。忘れるはずもないのに。

「ならこの話は終わりだ」

 あの日の言葉が始まりだった。私にとっては単なる気紛れ、暁羽にとってもそれは単なる戯言だったろうに、成り行きで始まった二人の関係はいまだに終わりを見ていない。終わりが訪れることさえ、それが当たり前となった今では疑わしく感じる。

「うん」

 緩慢に絡んだ指先に引かれ、頭が下がる。枕元についていた腕は折れ体は落ち、寝台の軋む音がして、世界は横転した。

「…いつからだっけ?」
「なにが」
「一緒に寝なくなったの」

 自分だけぬくぬくと毛布に包まって暁羽は目を閉じる。私はわざとらしく溜息を吐いて体を起こした。

「一緒に寝たことなんてないだろう」

 立ち上がろうとすれば文字通り後ろ髪を引かれ、振り向けばもの言いたげな視線とかち合う。

「眠っていたのはお前だけだ」
「そうなの?」

 髪をつかんだ手に触れれば拘束は思いのほか簡単に緩まり、今度こそ寝台を離れ窓際のソファーへと移動した。

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 時間がなかった。

「…すぐ終わらせる」

 特製の魔法陣が私に寄越す力は確かに膨大だけど無限ではないし、夢魔によって精神を蝕まれ魔力の源であるマナが正常に機能していない現状では、恐ろしいほどの速さで魔力を消費する。

「そうして」

 本当は蒼燈と夜空をどこかへやってしまいたいのに、魔力が安定しないせいでそんなことすらままならない。

「――蒼燈」
「…なんですか」
「邪魔しないでね」

 どす黒い何かが胸の中でわだかまっている。元々白くなんてない私の内側がどんどん汚されていくのが嘘みたいに鮮明で、――全部夢ならよかったのに。

「――――」
「っ……」

 リーヴが人の耳では聞き取れない言葉を紡ぎ始めると、私にかかる負荷が増した。何事かと身構えた夜空を蒼燈が制して、私は彼らの死角で拳を握る。

「――――」

 力の矛先は呪われたエルフ。傷付けはしない。ただ媒体として使い、私との繋がりを断ち切るだけ。
 私の中に夢魔は入れない。けれど夢魔は私の夢を喰らった。原因は意図せずして結ばれた《繋がり》。あってはならない綻び。意識を失っていたエルフと精神を切り離していた私の間に生まれた《目覚め》ようとする《無意識》。

「――いた」

 不運にも閉じ込められた夢魔。

「潰すぞ、感覚を切り離せ」
「簡単に言わないでよ」
「出来なければ言わない」
「はいはい」

 言われた通り精神的な感覚を肉体から切り離した刹那、消失する《わだかまり》。崩れ落ちかけた体を当然のように支えられた私は、リーヴの手の中に赤黒い石を見つけた。

「終わり?」
「…いいや」

 夢魔の命[マナ]。

「まだだ」





 人ではない。魔物でもない。魔族でもなく、ましてやエルフなんてものであるはずもない。ならば残された可能性は二つ。

「そろそろ説明してもらえませんか? 暁羽」

 神か、巨人か。

「その必要はないな」

 当然のように暁羽の傍らに立ち、彼女を支える男は不愉快そうに表情を歪め、こちらを見やる。

「お前たちと馴れ合うつもりはない」
「……」

 人らしさの欠片も持たず、魔物のように醜いわけでも、魔族のように禍々しいわけでも、エルフのように透き通っているわけでもないその男は、指先の動き一つで部屋中の魔法陣を止め、同時に溢れさせていた己の力を消した。

「それに…、」


 鈍く痛みを訴える頭を抱えてソファーに沈む。今日は目が覚めた瞬間からこの調子で、もしかすると痛みで目が覚めたのではないかと疑いたくなるほどだ。

「屋敷に帰ればいいだろう」
「まったくですよ」

 屋敷で帰りを待つ呪医見習いの妹のことを言っているのであろう、夜空の言葉に頷き返して体を起こす。

「暁羽がいれば今すぐにでもそうしたいところですがね」

 肩越しに後ろを顧みると、簡素な寝台にはあのエルフの姿があった。

「…逃げられたのか」
「貴方があっさり気を失っている間に」
「お前だって、転移中の記憶はないだろう」
「当然ですよ。僕は真っ当な人間なんですから」

 陛下曰く、彼女は強力な呪いをかけられているらしい。言葉と記憶を失ったのもその一端で、これから状況は更に悪化する可能性がある、と。

「真っ当、か」

 僕には想像も出来ないことだ。使者の証を持ち、記憶と言葉を失くし、呪いを受けたエルフが王城にいて、当のエルフは空間転移の後一向に意識を取り戻さない。
 これ以上、どこをどう弄れば状況が悪化するというのだろう。

「何か言いたそうですね、夜空」
「そうつっかかるな」

 例えば彼女を魔族に殺害される、とか?

「…八つ当たりでもしていないと、やってられませんよ」

 笑えない冗談だと思った。けれど天井に描かれた大掛かりな魔法陣が、冴えなかった陛下の顔色が、暁羽を一瞬とはいえ追い詰めかけた魔族の存在が、思考を怖ろしいほどの速さで悪い方へと引っ張っていく。

(次の任務は、絶対に断ろう…)

 ずきりとまた酷く、頭が、痛んだ。










「――暁羽」

 気を抜けば泥沼の眠りへ落ちそうになる意識をリーヴが引き止める。

「…ごめん」

 もう何度目かすら分からなくなったやり取りを繰り返して、私は小さく頭を振った。

「もうすぐ王城だ。気を抜くな」

 傾いた体が倒れてしまわないよう支えてくれていた腕が離れて、先に行けと背中を押す。足元を見ていた視線を上げると、城門を警備する兵の姿が遠くに見えた。

「今眠ったら、私どうなるの?」

 ただ歩いているだけでは眠ってしまいそうで、苦し紛れに会話を振ると、分かっているだろうにと、真紅の瞳に呆れが滲む。

「さすがに、目覚めるのは難しいかもしれないな」
「リーヴが呼んでも?」

 状況は怖ろしく深刻なのに、当事者である私には今一実感が湧かない。手の届く場所に本物のリーヴがいるという現実だけが鮮やかで、それ以外の全部が滲んでしまっていた。

「だから、夢魔を殺すんだ」

 夢魔による精神への影響が強まっているのだと、分かっている。でも理解は出来ていない。全てが表面的。全てが、他人事のように移ろう。

「そのためにあのエルフを――」



 鮮やかなのは、いつもたったひとつだけだった。



 魔法師の力を増幅させ魔族による干渉を防ぐ王城の防壁は強固だが、どちらにも当て嵌まらない存在に対しては完全に機能しない。一度その構成を知れば、逆に利用することも容易かった。

(西塔か…)

 暁羽の持つ魔法師としての力に作用する術式だけを選び取って、手を加えた物を隠れ蓑に目当ての者を探す。魔力で溢れた王城で個を特定するのは骨の折れる作業だが、そうすることで幾つかの手間が省けた。

「あの部屋には何重に魔法をかけた?」

 焦点を失いかけた瞳は弾かれたようにこちらを向き、無言のまま城の西側に位置する塔を示せば、緩く首を振られる。

「実験も兼ねて重ねがけしたから、覚えてない」
「攻撃系の陣は敷いていないな?」
「たぶん…」

 限界はもうそう遠くない。私がすぐ傍にいて支えていても、夢魔の力は確実に暁羽の精神を蝕んでいた。

「…行くぞ」

 今日中に全てを片付けてしまわなければならない。意図せずとはいえミズガルズの王が有利になるようことを進めることは癪だが、迷っている暇はなかった。

(今更潰されたりは、しない)

 これは私のものなのだから。










「――――」

 こえが、きこえた。ちいさく、ちいさく、わたしをよぶ、こえが。
 あのひとでは、ない。あのひとでも、ない。あのけものでも、ない。わたしのしらない、こえ。
 わたしは、しらない。なにも、しらない。だから、あのひとのことばにうなづいた。だから、こたえない。
 よばれているのが、ほんとうにわたしなのかさえ、しらないわたしは、わからないから。
 だからこたえない。だからきこえない。わたしはしらない。なにも。なにもかも。
 わたしはわたしがなんなのかさえ、しらない。しらなくていい。

「――ぅ、る」

 こえが、きこえた。ちいさく、ちいさく、だれかをよぶ、こえが。

「ゆ…ぅ、」

 わたしは、こたえなかった。だれかが、いったから。

「 ユ ー ル 」

 こたえては、いけない。










 本来そこにあった魔法錠は王の名の下に歪められ、部屋の中には覚えのある気配が三つ。既に足元の覚束無い暁羽を引きずるように連れ込んですぐに、鍵の歪みを修正した。

「――何者だ」

 そうして部屋の《内》と《外》は分かたれる。王城の持つ独特の気配は遠退き、逆に満ちた私の力を受け、暁羽が再び視線を上げた。

「自分の部屋に入るのに、名乗らなくちゃいけないの?」

 常と変らぬように、自身の変化を悟られぬように、暁羽は私の手を離れ歩き出す。

「不法侵入はそっちでしょうに」

 そう、それでいい。

「夜空。――陛下が仰ったんですよ。あのエルフをおくならここがいいだろうって…」
「私の守りがあったから?」
「おそらく」
「この部屋に何故こんなにも多くの守りが張り巡らされているか、蒼燈、貴方にわかる?」
「僕に貴女の考えることはわかりませんよ」
「それはね、」

 力を揮う。二つのマナの混じり合った力を。

「なにを…」

 部屋中に点在していた魔法陣は混ざり、反発し、増減を繰り返して、力を増す。

「「《閉じ込めるために》」」

 重ねた言葉は力を宿した。一度溢れた力は集束し、点在する光は小規模な爆発を繰り返す。

「閉じ込めるって……いったい…」
「馬鹿ね」

 暁羽は嗤って、天井に描かれた魔法陣の一点を指差した。

「一晩中この部屋にいて、あの魔法陣を読み解こうと思わなかったの?」

 刻まれた文字が命を得る。光を放ちながら流れ出した構築式は徐々に形を変え、巧妙に隠された本来の姿を顕わにしようとしていた。

「魔法書によって封じられて尚流れ出す力、魔術書を使って尚有り余る力、必要なのは力の逃げ道。逃げた力の溜まり場所」
「まさか…」
「ルーン文字で描かれた陣の特性くらい、知ってるでしょ?」

 力は反転し逆流を始める。大きすぎるが故に封じられ、逃がされていた力を急速に取り戻し、暁羽は目を輝かせ私を仰いだ。

「おまたせ」


「あの部屋には何重に魔法をかけた?」

 床に刻み込まれた魔法陣を弄っていたリーヴは不意に作業の手を止めて、遅めの朝食にありついていた私に目を向ける。

「あの部屋って…どの部屋?」

 私はリーヴと僅かに発光する魔法陣、手元のパンを順番に見て、零れそうになった蜂蜜を慌てて舐め上げた。独特の甘さが口の中でパンの甘さと混ざりあう。

「王城でお前に与えられていた部屋だ。西の塔にある」

 やっぱり苺ジャムにすればよかった。

「…実験も兼ねてだいぶ重ねがけしたから憶えてない。――あの部屋がどうかした?」
「少なくとも対人の魔法は施していないな」
「それは、まぁ…」
「わかった」

 王城の中で対人の魔法を仕掛けるわけにもいかないでしょうと、最もな言葉は最後のパンと一緒に呑み込んだ。そんなことは、リーヴにだって分かっているはずだから。

「――――」

 幾つかの魔法を矢継ぎ早に紡ぎ上げ、リーヴは床の魔法陣に翳していた手を握る。魔法陣から蜃気楼のように立ち昇っていた淡い光はぱっと霧散して、その残滓は部屋中に広がった。体感温度が少し下がって、私は椅子の上で膝を抱える。


 鈍く痛みを訴えるこめかみを半ば押し潰す勢いで押さえていると、いつの間にか思考の大半を暁羽への恨み言が占めていた。むしろ痛みが強すぎてそれ以外のことが考えられない。

「帰らなくていいのか」

 夜空の問いかけを理解するのにも長い時間がかかって、暁羽への殺意が鎌首をもたげた。

「……」

 出来もしないことをと心中で毒づき、勢いよくソファーに倒れ込んで天井を見上げる。

(ばけもの…)

 天井一面に描かれる巨大な魔法陣。その、あまりの複雑さに眩暈がした。

「暁羽がいないのに、僕まで彼女の傍を離れるわけにはいかないでしょう」

 一見簡単そうな造りをしているのに読み解く糸口さえ見あたらず、規則的なようで不規則に並ぶ文字は複数の言語が混ざり合っていて怖ろしく難解。一体どれだけの時間と魔力を注げば、ここまで精密で捻くれた魔法陣が描けるというのだろう。

「律儀だな」
「暁羽ほど奔放には生きられませんよ」

 ずきりと、また酷く頭が痛んだ。










「ひとまず王城へ」

 含みのある言葉に頷いて、部屋を出る。当然のようについてくるリーヴは数歩置いて私の斜め後ろを歩いた。肩に乗るか前を歩くかしていた黒猫との距離に慣れている私は少しだけ戸惑い、その戸惑いを隠したまま王城へと足を進める。
 リーヴは何も言わなかった。

「…面倒?」
「何がだ」
「私に憑いた夢魔を殺すの」
「面倒だからといって捨て置くわけにもいかないだろう」
「……そうだね」

 時々、何故、リーヴが私の傍にいてくれるのかを考えることがある。たとえば今みたいに、私の都合でリーヴの手を煩わせた時、何故と、考えてしまう。リーヴに私を助けなければならない必然なんてないのに、と。

 日中は開放される城門を形ばかり警備する兵が、私の姿を目に留め姿勢を正した。それまでの思考を頭の隅に追いやって、私も彼ら同様気持ちを切り替える。

「ご苦労様」

 今日だけは、半ば押し付けられるように拝命した騎士号にも感謝した。

「で、どこ行くの?」
「…西の塔、」

 さっと城内の気配を探ってリーヴが告げる。西塔といえば「開かれた王城」の中でも数少ない「閉ざされた場所」で、中は城に出入りする魔法師たちの研究施設になっている。

「六階」
「は、」

 私が立ち止まっても、リーヴは止まらなかった。

「――私の部屋?」

 逆転する立ち居地。離れていく背中。

「お前が厳重に守りの魔法をかけていたから、丁度よかったんだろう」
「……ちょっと待って。リーヴが探してるのって、まさか――」

 まさかと、うわごとのように繰り返して私はリーヴの腕を掴む。

「リーヴ、貴方は何を探しているの」

 ぐるぐると頭の中で奇妙な感覚が渦を巻いていた。心臓が怖ろしいほど速いスピードで鼓動を刻んでいる。――指先が、冷たい。

「……」
「リーヴ、答えて。どうして何も教えてくれないの」
「…知る必要がないからだ」
「私はっ」



「傀儡は傀儡らしく、していろ」



 震える指先を払って、背を向ける。

「……て、ないで」

 それがどんなに残酷なことであるか、私は知っていた。










「――さぁおいで、僕の所へ」

 指先に絡みつくルーンを引き寄せ、口付けて、囁く。周囲を取り巻いていた帯状の魔法陣が漸く発動にたる力を与えられ、歓喜に躍った。

「光はここにあるよ」

 放たれる光は眩いばかりの金色[コンジキ]。同色の髪を揺らし、同色の瞳を輝かせ、アースガルズの片隅で、ロキは笑った。

「僕が与えてあげるから、」

 無邪気そうに差し出される手は、招く。

「僕の所へおいで」

 打ち捨てられた枝を。










 西塔六階。暁羽と共に幾度となくくぐってきた扉は姿こそ違えど、私を私と認めて大人しく道を開けた。音もなく開いた扉はやはり音もなく閉じ、施錠されると部屋の中に漂う魔力ともつかない気配が揺れる。

「――何者だ」

 その微かな変化を、人は見過ごした。

「答える義理はないな」
「…他人の部屋に勝手に入っておいて、その言い草はないでしょう」

 けれど人につき従う精霊の眷属は、ともすれば私よりも感覚に優れている。故にいち早く私の存在に気付き声を上げた地狼に、遅れて、人の子も警戒の色を露にした。

「勝手に?」

 煩わしいことこの上ない。人など皆、寄りかかるものがなくては一人で立つこともままならない脆弱な存在であるのに。

「それは、違うな」

 嗚呼、いっそのこと全て壊してしまおうか。そうすればもう煩わされることもない。暁羽に対してもそうしたように、ただ少し、この腕を揮うだけでそれは叶う。

「暁羽の許しを得ずこの部屋に足を踏み入れたのは、お前達の方だ」

 なのに何故それが出来ない。簡単なことだ。暁羽にさえできたことを何の関わりもない人間と地狼相手に出来ないはずがない。

「失せろ」

 出来る、はずだ。

「誇りに思え」

 もしもそう、私がどこにでもいる平凡な人間だったとしたら、どうだろう。

「お前はこの国の礎となるのだ」

 私は幼くして世界に絶望することも、実の兄が父をその手にかける瞬間を目にすることもなく、ただ平凡に生涯を終えることができただろうか。

「はい、父さま」

 それとも、結末は変えられなかったのだろうか。





 描かれた魔法陣の中央に立つ。父さまの詠唱が狭い地下室の空気を絶え間なく揺らした。歓喜に満ち溢れた声。

「――ポルタメント」

 父から娘へ、別れの言葉はなかった。上辺だけでもなにか一言あれば、私は最期に全てを許せたかもしれなかったのに。

(さようなら、)

 貴方から貰えない言葉を私から与えるのはどこかおかしいような気がして、心の中でだけ別れを告げて、私は私を誘う力の流れに身を任せた。術者と同じ、綻びだらけの魔導は酷く不安定で、ああこれは失敗するなと、私はどこか他人事のように考える。


「――愚かな、ことだ」


 もしもそう、私がどこにでもいる平凡な人間だったとしたら、どうだろう。

「喰われているぞ、お前」

 私は幼くして世界に絶望することも、実の兄が父をその手にかける瞬間を目にすることもなく、ただ平凡に生涯を終えることができただろうか。

「お前が私の所有物だとも知らずに」

 彼と出逢うことも、彼と共に生きることもなく、ただただ、生きて、

「愚かなことだ」
「っ…」





 一生を、終える?





「『私と共に来るか? 人の子よ』」

 幼心に響いた言葉も、視線が手元の本へと注がれていては台無しだ。

「…それ、実体?」

 窓際においた読書用のソファーに陣取るリーヴの長い銀色の髪が、太陽の光を受けてきらきらと煌く。

「本体だ」
「それってまずいんじゃ…」

 どれくらいぶりだろう、彼が彼として私の前に姿を現したのは。

「問題ない」

 リーヴがミズガルズにいるためには沢山の制約がある。それはもう、沢山。だから黒猫がいて、本当に必要なときは私の体を貸す。それが一番簡単でリーヴにも負担が少ない方法。

「なくはないでしょ」

 なのになんで今更、リーヴはこちら側に来たのだろうか。

「…『そうすることが許されるのなら』、」
「……」
「どれほど制約があろうと関係ない」

 彼の考えることはいつまでたってもわからない。





「リーヴがそれでいいなら、いいけどね」
「ならこの話は終わりだ」
「えぇ」

 窓の外には明るい世界が広がっていた。

「それはそうと…いつまで寝ている気だ?」

 スコルに追い立てられ空を駆ける太陽は遠く、だがヨトォンヘイムにいては決して目のあたりにすることは出来なかっただろう。太陽の運行を司る女神ソールの歌声が、今にも聞こえてきそうだ。

「あと少し」
「喰われていると言っただろう」

 私には眩しすぎる。

「夢魔でしょ? 殺してくれたんじゃないの?」

 当然のように言う暁羽に他意はなかった。だからこそ微かな苛立ちが募り、私は眉間に皺を寄せる。

「出来るものならお前を二度も喰われたりはしない」
「…二度?」

 飛び起きる、とまではいかないものの、上体を起こし漸く起きる素振を見せた暁羽の表情はさえなかった。当然だ。一度ならず二度までも夢魔による侵入を許しているという事実は、私にとっても認めがたい。

「状況の深刻さを察したのなら仕度を」

 けれど認めなければならなかった。










「――嗚呼、なんてザマなの」

 一人の少女がさも悲劇じみた声を上げると、彼女を取り巻いていた複数の気配がそれに応じる。

「繋がれたネズミ一匹捕まえられないなんて」

 ガシャリと、鎖同士の擦れ合う音に少女は大きく頭を振った。嗚呼なんてこと。――繰り返す言葉には呪詛さえ宿る。

「嗚呼、情けない」

 ガシャリ、ガシャリ。耳障りな音の響く部屋で少女は大きく頭を振った。
 跪く黒衣の男が屈辱に整った容貌を歪め、二人を取り巻く気配が男を嘲笑する。

「私が出向かなければならないというの」
「我が君、」
「私が出向かなければ、お前は剣一つまともに手に入れられないというの!?」

 ガシャンッ。

「……」
「嗚呼、なんて情けない」

 ガシャリ。

「私が言ってることはそんなに難しいことかしら」

 ガシャリ、ガシャリ。

「私はただ、あの剣が欲しいだけなのに」

 黒衣の男をそっと、覆いかぶさるように抱きしめ、少女を嘆くように囁いた。

「私は欲しいのよ。あの――」

 男は、首肯する。

「〝災いの枝[レーヴァテイン]〟」

 そしてその存在を、部屋を包む闇に溶かした。

「必ずや、かの剣を貴女様の手に」

 ガシャリ。

「約束よ」

 少女は喜劇じみて笑った。


「陛下?」

 はたと視線を窓の外へ投げたカールに、エイリークは何事かと無言の内に問う。カールはエイリークの視線に気付きながらも、窓の外へと向けた注意を逸らすことはしなかった。

「…っ」

 そして気付く。

「なに…?」

 次いで彼の視線を追っていたエイリークも、大気を伝う微かな魔力の波動に気付いた。けれどその魔力が明確に〝何〟であるかまでは掴めずに、そっと息を潜める。
 カールが弾かれるように席を立ったのは、その直後だった。

「エリー、ここ頼むよ!」
「えっ!?」

 閉めきられた資料室を吹き抜ける風とともにカールは姿を消し、不意打ちを食らったエイリークは完全に出遅れる。

「――なんだって言うのよ、もうっ」

 魔力は既に、王都のすぐそこにまで迫っていた。










「本当に、君って人は…」

 呆れとも、感嘆ともつかない息を吐きながらカールは微笑した。次元の狭間から取り出した魔鏡は、魔力を注いでもいないのに力を帯びカタカタと小刻みに震えている。

「僕は確かに帰っておいでと言ったけどね、」

 共鳴、しているのだ。

「これはちょっとやりすぎじゃないかな」

 パリンと、魔鏡の割れる澄んだ音が光差す庭に落ちる。流れ込む力の大きさに耐えられず砕けた鏡は光の粒子となって、周囲を高い壁に囲まれる中庭に満ちた。己に与えられた最後の役割が何であるかを魔鏡が理解しているのだと気付き、カールは笑みを深める。
 カールの知る世界と異世界との狭間を駆け抜けた魔力の塊は、その強大さに似合わず夜の静寂を乱さぬよう、静かに顕現した。

「おかえり、僕の――」

 カールははっと口を噤む。それは本当に咄嗟の判断で、彼自身己がそうした理由に気付いたのは、見知った少女の瞳に静寂を見てからだった。

「……君か、」

 カールもよく知る、彼の最も信頼する騎士の姿をした〝黒猫〟は、己の他に三つの存在を無事――全員が気を失ってはいたが――運び終えたことを確認すると、口元を笑みの形に歪めただけの、歪で、冷やかな笑みを浮かべる。

「これで満足か?」

 カールを正面から見据えながらも、〝黒猫〟の瞳はカールを映してはいなかった。
 カールは、その瞳に唯一映し出されることを許された存在を知っている。

「…なら私は戻ろう」

 一度眠た気に瞬いて、〝黒猫〟は肉体を手放した。足元をふらつかせた少女を支えるために伸ばしたカールの手は――ぱしり――、少女の意思によって払われる。

「エルフは無事連れ帰りました。大仕事だったんですから、暫くは休みを下さいね」

 有無を言わせぬ口調で告げると、暁羽はカールなど眼中にないとでも言うようにその場を後にした。残されたカールは払われた手をもう片方の手で覆い、深く息を吐く。

「君は――」

 光差す庭の魔法は、いつの間にか解けていた。










「まぁたあっちに行ってたんだー?」

 意識を取り戻すなり飛び込んできた甲高い声に、それでもなく悪かった機嫌が更に悪化する。

「それがどうした」

 殺気すら混じる言葉とともに周囲を囲っていた障壁を解くと、その外側で足踏みしていた同族――グレイプ――が、嬉々として境界の内側へ足を踏み入れた。

「こっまるんだよねぇ、あんたにちょくちょくこっち空けられちゃ」

 ちょこまかと周囲を跳ね回るグレイプの存在を疎ましく思いながらも、私は意識の大半をミズガルズの〝黒猫〟へと向けている。
 だからだろうか、

「王様は王様らしく、どーんと、王座で威張りくさってなきゃ」

 背中から胸にかけてを、文字通り灼熱の炎が貫いた。鮮やかに赤いその炎を、私は知っている。

「俺が代わってやろうか」

 ぐらりと体が傾いて、私と私のマナを貫いた炎の刃が消失した。

「ばいばーい」

 ひらひらとぞんざいに手を振るグレイプは、知らない。



「ウトガルド・ロキは死んだ!」



 高らかに宣言したグレイプは、かつて王であった者の屍を前に笑った。比類ない力持ち永らくこの世界を支配していたウトガルド・ロキは死んだ。己が殺したのだと、その力を誇示するように二度と動くことない屍を踏みつける。

「これで俺が王だ! 誰にも文句なんて言わせない。王は俺だ! こいつじゃない!」

 そんな彼を、ヨトォンヘイムに住まう誰もが冷やかに嘲笑していた。










「――黒猫?」

 ついさっきまでそこにいたはずの存在が消える。一人と一匹分の足音は一人分の足音になって、私が立ち止まると、暗い小路に名ばかりの静寂が落ちた。

「っ」

 次いで、焼け付くような心臓の痛みに苛まれる。咄嗟に握り締めた胸元で外套が不自然に歪んだ。これ以上の痛みを避けるため強張る体。不快さに顔を顰めることすらできず苛立つ私。その苛立ちを表現することも叶わず、この上ない悪循環。
 詰めていた息を探り探り吐き出す。哀しいかな、人間である限り呼吸は必要だ。――それがどんなに痛みを伴う行為だとしても。

「……?」

 けれど恐れていた苦痛が訪れることはなく、胸の痛みもいつの間にか引いていた。なんだったんだと独りごちて、黒猫の不在をここが王都であることを理由に切り捨てる。
 誰かさんが――こちらから助けを求めたとはいえ――好き放題やってくれたおかげで、失った魔力を取り戻そうと体が睡眠を欲していた。部屋は目前。辿りつきさえすればこの際床でも構わないから早く眠ってしまいたい。
 落ちたきり上がらなくなりそうになる瞼をなんとか持ち上げて、扉にかけた魔法錠を解くと、力尽きた体は本当にそのまま部屋へと雪崩れ込んで動かなくなった。扉が閉じると同時にかかる鍵の音を聞きながら、私は意識を手放す。

「――――」

 冷たい手の平が頬を撫でたような気がした。
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