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 冬の終わりを告げる《浄化の雨》が止み、ブレイザブリクの象徴とも言える虹の橋《ビフレスト》が色を増し始めると、街は一気に活気付く。

「調子はどうだ?」
「もう平気」

 国王の移動と共に《王都》もイザヴェルからブレイザブリクへと移り、約束の地《ギムレー》の館に火が灯れば、《妖精王》の来訪も目前だ。

「なら仕度を」

 妖精たちが暮らす世界――《アルフヘイム》――の中で最も美しく誇り高い種族――《ハイエルフ》――の王である妖精王が《人》の王を祝福して漸く、限りある命を持つ者の住む世界――《ミズガルズ》――にも春が来る。
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 心地いい揺れに目を開ける。紅い海の中、たゆたう私もまた《紅》にまみれていた。

『――――』

 私は《これ》が夢だと知っていて手を伸ばす。聞こえてきた声は既に過去のものなのに、心のどこかで期待していた。

「リー、ヴ…」





「――呼んだか?」





「……」

 心地いい揺れに目を覚ます。長く伸びた銀の髪がすぐ傍で揺れていた。

「暁羽」
「なんでいるの…?」
「寝ぼけてるのか?」
「わかんない…」
「仕方ない奴だな」

 苦笑したリーヴは落ちかけた私を抱えなおして、視線一つで扉を開ける。降ろされたのは入り口に近いソファーの上で、下敷きにしたクッションの柔らかさにまた瞼が落ちた。

「暁羽」

 窘めるように呼びながら耳元の髪を掻き上げるリーヴの手は、この上なく優しい。なのに睡魔は遠退いていった。根気強く体に教え込まれてきた《合図》のせいで、他でもない《私自身》がこれ以上の惰眠をよしとしない。

「時間だ」

 一言告げられて、ローチェストの上に目をやると時計の短針は十一時を指していた。

 耳元の髪をそっと掻き上げて、優しく目覚めを促される。まどろみの心地良さに沈みかけていた意識は緩やかに浮上した。
 目を開けても、そこには誰もいない。わかっていたのに落胆する心を持て余し、傍らの黒猫を抱き寄せた。

「――どうぞ」

 二度のノック、返事を待って開いた扉に黒猫は腕をすり抜ける。

「またサボりですか?」
「小言なら出てってよ」
「教授に呼んでくるよう言われたんです。貴女と――」
「僕をね」

 テーブルの上で揺れているはずの湯気は見当たらず、冷め切った紅茶を飲む気にはなれなかった。かといって、淹れ直す気もおきはしない。

「…顔洗ってくるから待って」
「急いでくださいね」

 黒猫が急かすように鳴いた。微温湯に手を浸して息を吐く。わかったからと肩を落として、鏡に映る自分は酷く憂鬱気だ。

「暁羽」
「今行く」

 脱いだ部屋着をバスタブに放り込んで、杖の一振りで仕度を整える。黒猫は擦り寄るように歩きながら器用に足下を縫った。

「誰が呼んでるの?」
「グラブス教授ですよ」
「あの人は嫌い」
「君にも平気で雑用言いつけるから?」
「戦略戦略煩いから」
「戦略部門の主任ですからね」
「ただの理屈っぽい賢者[ワイズマン]よ」
「それでもA級魔法師には変わりないんですから、あまり悪く言うとどやされますよ」
「私は特A級の魔術師[ウィザード]」
「校内ではただの生徒」
「言ったわね」
「――そろそろ着きますよ」

 一声鳴いた黒猫が姿を消す。他愛のない話をするうちに気分は幾らか浮上していた。
 先に立って扉を叩いた蒼燈が紳士らしく道を譲り、十分に開かれた《会議室》の扉をくぐると、そこにグラブス教授の姿はなかった。

「スヴィーウル卿…?」

 代わりにいたのは《王騎士》グロイ・スヴィーウル。輝かしき旅人。

「早かったな」
「どうして貴方がここに…」
「あんたに用があるんだ」

 少なからず面識はある。けれど進んで関わりたくはない相手だ。

「正確にはあんたのチームに、だが」
「僕たちにですか?」
「まぁ立ち話もなんだ、座れよ」

 促され、渋々適当な席に座ると苦く笑われる。嫌われてるなと、当たり前のことを言うので鼻で笑ってやった。

「根に持つ方だから」
「あの時の事は謝っただろ?」
「魔族と剣一本で戦ってから言ってくれる? 生きて帰れたらの話だけど」
「…悪かった」

 斜め前に座る蒼燈が目を瞠ったことに気付いて、グロイは居心地悪そうに謝罪する。冬星は口元を手で隠しながら楽しそうに笑っていた。

「それで? 用って何なの?」

 ほっと安堵の息を吐いて、グロイが居住まいを正す。懐から取り出されたのは手の平に収まる程の記録用魔法陣で、記されていたのは何の変哲もないこの国の地図だ。

「まず断っておくが、これは陛下からの勅命で、あんたたちに拒否権はないし失敗も許されない。口外することもだ」
「東方の地図ね」
「あぁ、こっちが今いる王都で、目的地はここだ」
「…冗談でしょ?」
「いいや」

 四人のほぼ中央で、魔法陣から展開した地図が回っている。グロイが指差したのは王都の真反対、東の国境近くにある大きな森。

「《魔女の棲む森》にまた行けって言うの? 今度は蒼燈と冬星まで連れて」

 嘲りと怒気の篭る言葉にグロイは表情を歪めた。

「それがあんたの仕事だ」

 怒りに任せ彼を殴ってしまえたらどんなによかっただろう。

「暁羽[アキハ]・クロスロード。蒼燈[ソウヒ]・ティーディリアス。冬星[トウセイ]・コールドチェーン」

 以下の通り東方任務を命じると、グロイは改まって告げた。暗号化され、宛先となった魔法師にしか読むことの出来ない《手紙》の魔法陣がぞんざいに投げて寄越される。
 ざっと目を通してそれを破棄すると、苦々しい表情のままグロイが言った。

「前みたいなことは避けてくれよな」
「どうだか」

 火をつけた魔法陣はさすが、陛下からの勅命とあってそう簡単に燃え尽きたりはしない。音もなく燃える魔力の炎を見ながら気のない返事を返すと、グロイは沈黙した。
 そもそも前回の任務は、全てが彼がミスといっても問題ない。国中を旅する傍ら情報を集めて回ることが仕事の癖に、この男はまんまと偽物を掴まされたのだ。――そして何人もの魔法師が死んだ。

「貴方が前みたいなことを避けたのなら、大丈夫でしょう」
「あんなミスはもう二度としない」
「人間に絶対はないのよ、…《スヴィーウル卿》」

 態とらし線引きをして席を立つ。既に魔法陣は燃え尽きていた。

「失礼」

 もうここに用はない。





「おかえりなさい、マスター」

 会議室を出て、元いた《隠し部屋》に戻ると、午後の講義も終わったのか沙鬼[サキ]が戻ってきていた。飲みかけの紅茶は片付けられ、代わりにレポート用紙がテーブルの上を占領している。

「ただいま。…机でやらないと腰、痛くなるわよ」
「大丈夫です」
「あと敬語。いらないって言ってるのに」
「すみません」

 覗きこんでみても複数あるレポートの仮題は欠伸を誘うようなものばかりで、これだから学生はやってられないのだと思わず溜息が零れた。

「マスター?」
「なんでもない…」

 沙鬼の膝を枕にして横になると、気を使ったのかレポートを書く手が止まる。どうせ、提出しようがしまいが彼女の進級は確定しているのだから罪悪感はない。

「日が落ちたら起こして」
「イエス、マイロード」

 今はただ眠りたかった。





『――誇りに思え』





 《あの日》、告げられた言葉が蘇る。目覚めは最悪。しかも、まだ起きようと思っていた時間には早い。

「……」
「マスター?」

 眉間に皺を寄せ黙っていると、不自然に横を向いて本を読んでいた沙鬼が首を傾げた。なんでもない。そう言おうと思って開いた口からは重苦しい溜息しか零れず、気分は重くなるばかり。

「帰るわ…」
「はい」

 緩慢に体を起こして、手ぶらのまま部屋を出た。沙鬼が出てくるのを待って扉に施錠する。かけられた《魔法錠》は強力で、そこらの教授ではその構成すら読み取れないような代物だ。今日はその上から更に強力な魔法を上書きして帰路につく。沙鬼は何も聞かなかった。

「明日からまた任務なの」
「最近多いですね」
「人手不足じゃない? 魔法師の質が落ちてるって、東の賢者も嘆いてたし」
「一人ですか?」
「チームよ、それも学校の。冬星と蒼燈が一緒に来るわ」
「私は?」
「貴女は留守番。やって欲しいこともあるし」
「……わかりました」
「大丈夫、すぐに帰ってくるから」
「何かあったら呼んでくださいね」
「えぇ」

 結局、また《あの森》に行くことになったとは言い出せないまま、他愛のない話をしているうち家に着く。家といってもそこは王都のなかに幾つも借りている《隠れ家》の一つで、昨日帰った家とはまた違った。任務がなければ、きっと明日も別の家に《帰って》いただろう。

「私もう寝るから、夕飯適当に食べてね」

 気がつけば、こんなにも頼りない生活をしていた。理由はわかりきっている。

「おやすみなさい」
「おやすみ」

 恐れているのだ。





『誇りに思え』

 明り取りの窓もない、ランプに灯る小さな火だけが足下を照らす薄暗い地下室で、忌々しくもあの男は宣言する。

『お前はこの国の礎となるのだ』

 初めから失敗するとわかっていた。術者と同じく綻びだらけの魔導は発動の鍵となる魔法陣すら見るからに不完全で、成功する道理もない。

『はい、父さま』

 嗚呼、早く終わってしまえ、こんなくだらない人生なんて。
 嗚呼、早く滅んでしまえ、こんなつまらない国なんて。
 嗚呼、早く死んでしまえ、こんなろくでなしの親なんて。
 嗚呼――





「『共に来るか? 人の子よ』」





 隙間なく抱きしめられて息が詰まる。苦しさに目が覚めて、何の嫌がらせだと溜息が零れた。流し込まれた人外の魔力は体の中で人の魔力と混ざり合い、力を増す。

「どうかしたの…」

 夢見も目覚めも最悪で、気分もけしていいとは言い難かった。起き抜けに告げられた《あの日》の言葉も、この状況では意味を成さない。
 誤魔化されてやるものかと肩を押しやれば、真夜中の侵入者はあっさり退いた。

「うなされていたぞ」
「嘘吐き」

 部屋の闇は深い。朝は遠く、ぼんやりと周囲が見えているのは注ぎ込まれた魔力のせいだ。

「うなされるような夢じゃなかった」
「そうは思えないな」
「リーヴ、何しに来たの」

 思ったよりも取り込んだ魔力が多い。――起き上がると同時に酷い眩暈に襲われて、思わず舌打したい衝動に駆られる。リーヴの前でなければ確実にしていた。

「行くな」
「…任務のこと?」
「二度目はないぞ」
「……わかってるわよそんなこと…。あの時は運がよかった」
「お前のことじゃない」
「…はっきり言ってくれないとわからないんだけど?」

 普段ならこの少ないやり取りで彼の言わんとすることを理解していたかもしれない。でも今は頭が思考することを放棄していた。早く寝なおしたいと、気を抜けば体を重力に持っていかれそうになる。

「お前は私のものだ」

 えぇ、そうねと、気のない返事をして今度こそベッドに沈んだ。耳元の髪を掻き上げるのは目覚めを促すサインなのに、今日ばかりは意味を成さない。
 今は全てが無意味だ。

「――――」

 話したいのなら、力を使って起こせばいい。





 すっ、と意識の落ちる瞬間が目に見えてわかった。耳元の髪を梳く手を止めると、深く穏やかな寝息も聞こえてくる。急激に混ざり合った魔力を鎮めるための眠りは、最近の寝不足と合わさって暫くは暁羽を閉じ込めていられるだろう。

「お前は私のものだ」

 与えるために失くした魔力がじわりじわりと回復していくのを感じながら、久しく使っていなかった体をベッドに横たえる。伸ばした手は確かに暁羽の手に触れたが、それはどこか現実味を伴っていなくて、一度は握った手を放すと、胸が締め付けられるようだった。

「誰にもくれてやる気はない」

 だから私は行動する。
 決意と祈りを込めた言葉を残し、リーヴもまた目を閉じた。

『そうすることが許されるのなら』

 光が怖いのだと、朝を恐れ泣く幼子の声が消えるまで。










「あんまり出てこないで、って、言ってるのに…」

 朝、目が覚めると、昨日までの憂鬱な気分は消えていた。

「リーヴ。……リーヴィー…?」
「その呼び方はやめろ…」
「起きてるなら返事してよ」
「今起きたんだ」
「寝てたの?」
「らしいな」

 代わりに奇妙な充足感に満たされている。

「ねぇリーヴ、貴方昨夜、『二度目はない』って言ったわよね」
「あぁ」
「私が――――するつもりだ、って言ったら、どうする?」
「…私としては、むしろその方が好ましいな」
「ここにいられなくなるかもよ?」
「それはお前の問題だ」
「……なら、決まりね」

 今なら何だって出来るような気がした。この場にグロイがいれば、きっと彼を許す事だって出来ただろう。それくらいには気分がいい。

「いいのか?」
「私が言い出したんだから、いいの。それに…」

 おかげで決心がついた。

「カールはそう簡単に私を手放したり出来ないわよ」





 旅支度はせず、普段となんら変わらない服装で家を出る。いつもなら《次元の狭間》か影の中にいるリーヴも、今日は人目を憚らず姿を晒していた。
 街はまだ目覚めていない。静かな通りを歩きながらほんの少し視線を上げると、家々の向こうに《東の門》が垣間見えた。

「大体、学生をあの森に送ろうっていうのがそもそも無茶な話なのよ」

 昼間でも薄暗く、いたるところから魔物の臭いがする《魔女の棲む森》の禍々しい空気を思い出すと、今でも身震いする。アルスィオーヴという名の《魔族》が実質支配しているあの森は、城付きの魔法師だって滅多なことでは近寄らない。中に入るなんて以ての外だ。

「あの時だって、私以外の魔法師は皆死んだ。私が帰れたのだって…」

 三つ目の角を曲がったところで、東の門から王城へと延びる大通りに出る。開かれた門扉の前には冬星と蒼燈がいて、愚痴っぽい独り言を切ると、後ろを歩いていたリーヴが隣に並んだ。

「転移装置ってどの位無力化できるの?」
「破壊しないなら半日だな」
「ならお願い」
「わかった」

 歩きながら示した手の中に、次元の狭間から杖が落ちてくる。訝しげに門から背を離した蒼燈の隣で、冬星が杖に手をかけるのが見えた。

「暁羽…?」
「悪いけど、貴方たちは連れて行けない」
「君にしては面白くない冗談だね」
「だって面倒くさいのよ。他人を守りながら戦うのって」

 空気は一気に緊張を孕んで、冬星の魔力があからさまに殺気立つ。

「足手まといかどうか試してみればいいさ…!」
「冬星!!」
「試すまでもないわ」

 放たれた力を杖の一振りで無効化して、逆に強力な眠りの魔法を放つと、二人はいとも簡単に意識を失った。

「貴方たちは弱い」

 人は人である限り、《人》としての限界を超えられない。超えられない限り、純粋な《魔法生物》である《魔族》の脅威にはなりえないのだ。

「――転移装置の方は終わった」
「なら行きましょう?」

 魔族と同等、あるいはそれ以上に渡り合えるのは、アースガルズの神々と、アルフヘイムのハイエルフと、そして――

「あぁ」

 ヨトォンヘイムの巨人族。

「森の中に直接出るからな」
「わかった」

 リーヴの魔力が緩やかに渦を巻いて、転移魔法は静かに発動した。次元の狭間を介した《空間転移》は一瞬で終わり、眩暈を感じる間もなく目的地へと到着する。

「私は王騎士、暁羽・クロスロード。この名に懸けて任務は遂行しますとも」

 遠慮も何もなく一気に練り上げられる魔力に杖が悲鳴を上げた。掲げた手が震えるほどの力に木々はざわつき、リーヴも呆れたように息をつく。

「――《消し飛べ》」

 力が爆発した。


「――――」

 見覚えのない背中を追いかけて走る。暗い森の中。月明かりだけが薄っすらと足下を照らしていた。殆どを鬱蒼と葉を茂らせる木々に遮られてはいる。けれど、辛うじて前を走る人影を追いかけることくらいはできた。

「――――」

 誰かが何か言っている。

「――――」

 途切れることのない言葉が小さな背中を追いかけていた。人影は走る。どこまでもどこまでもどこまでも。多分、この声が聞こえている限り。

「――――」

 この声は消さなければならないと、そう直感した。思考するよりも早く体は《次元の狭間》にしまってある杖を取り出し、振り向きざま魔法を紡ぐ。

「 ユ ー ル 」

 声は消えなかった。
 どこからともなく現われた黒猫を抱いて、開かれた門扉に寄り掛かる。いつもなら見送りに来るグロイは姿を見せず、代わりに《東の賢者》エイリークが《転移装置》の用意をして待ち構えていた。彼女によると、グロイは昨日の内に北へ旅立ったらしい。

「他の学生はまだ来ませんの?」
「二人とも遅刻はしない」
「わたくしも暇ではありませんのに…」
「転移装置くらい補助なしで動かせるけど?」
「陛下の命令でなければわたくしだって城を開けたりしませんわ」
「…大変ね」
「月に一度は王都を空けるあなたに言われたくありません」

 そう言ってエイリークは顔を背け、転移装置を囲む柵の途中に腰かけた。

「私は戦ってる方がいいのよ」
「ノールにまた言われますわよ」
「死にたがりウィザードって? …陛下の耳に入ってまた仕事増やされればいいのよ」
「違いありませんわ」

 腕の中で大人しくしていた黒猫が伸びあがり肩を叩く。振り返ると、幾つか向こうの路地を冬星と蒼燈が並んで曲がってくるのが見えた。二人とも薄手の外套を羽織っている。

「おはよう」
「おはようございます」
「君にしては早いね」

 いかにも任務に出る魔法師の風体だ。

「あんたたちに転移装置の用意させるわけにもいかないでしょ?」
「資格もありませんしね」
「暁羽」

 無駄話をしてる暇はないと、急かすようにエイリークが立ち上がる。彼女の存在に気付いた二人は貴族っぽい形式ばった礼をして口を噤んだ。

「はいはい」

 気のない返事をして腕を下ろす。落とされた黒猫は軽やかに着地して転移装置へと向かった。全員が魔法陣の内側に収まると、間髪入れず魔力が注ぎ込まれる。

「幸運を」

 爆発的な光を放ち、転移装置は発動した。





「やられた…」

 僅かな空白があって、転移の終了とともにぼやけていた周囲の景色が輪郭を取り戻す。同時にそこがもう一つの転移装置がある東の街《グリトニル》ではないことに気づいて、にわかに戦慄した。

「ここは…」
「見てわからないのかい?」

 黒猫が鋭く鳴く。あの時と同じだ。

「――伏せて!!」

 黒く濁った力が顕現する。遊び半分で放たれたのだろう力は咄嗟に放った魔力とぶつかって容易く四散した。

「防いだか」
「私に同じ手が二度通じるとでも?」

 見覚えのある魔族が、《次元の狭間》からこちら側へと姿を現す。忘れもしない、この男の名は――

「アルスィオーヴ、残念だけど貴方と遊ぶ気はないわ」
「そうはいかない」
「…貴方関係者なのね?」

 確信を持った問いかけに、アルスィオーヴはいけ好かない笑みを深めた。どうあっても、因縁の決着は今つけなければならないらしい。――とすると、背後に庇った二人が邪魔だ。

「冬星、蒼燈、二人でも大丈夫ね?」
「貴女一人で相手をする気ですか!?」
「なら君残る? 僕は行くけど」
「嫌ですよそんなの、まだ死にたくありません」
「なら決まりよ」

 縄張意識の強さが災いして、この森にアルスィオーヴ以外の魔族はいない。離れられるのなら、むしろその方が安全だ。

「逃がすならさっさとしろ。手は出さないでいてやる」
「それはどうも。――行って」

 こっちの手加減だって必要ない。

「前回と同じ手は効かないのだろうな」
「魔力封じのことを言ってるなら対策済み」
「…残念だ!」

 再び放たれた力は先ほどの比ではなく、込められた殺意に胸が高鳴った。ノールに《死にたがりウィザード》と呼ばれても仕方ない。より強い敵と戦う楽しさは、賢者でいる限り理解しがたい快楽だ。

「そうでしょうね!」

 一度知れば病み付きになる。





「学生にしてはよくやる」

 高位魔法の連発で杖が悲鳴を上げていた。逆に練り上げる魔力は、使えば使うほど研ぎ澄まされていく。

「だが力押しだな」

 五感もそうだ。

「魔力の絶対量で、魔族に勝てると思うな」

 アルスィオーヴが右手を掲げる。咄嗟に杖を振り上げ築いた障壁も、四重に重ね撃った攻撃魔法も、気休めにすらならない程の力が集束する。

「さらばだ、死を免れぬ人の子よ」

 絶対的な力が落とされた。両手で覆い隠せる程の大きさしかない魔力の塊は、途中ぶち当たった攻撃魔法をことごとく取り込んで、その馬鹿馬鹿しい質量を肥大させる。

「うわやばっ」

 急場凌ぎの似非障壁で防げるわけがなかった。かといって結界を紡ぎなおす時間はない。どの道魔族相手に通用するような結界は、どれも大掛かりで実用性に欠けていた。

「健闘は称えよう。…だが、」

 勝ち誇ったアルスィオーヴの声が遠退く。頭の中で鳴り響いていた警鐘はぴたりと止んで、見てもいないのに足下の影が波立つのがわかった。

 ――呼べ

 見えない手が耳元の髪を掻き上げる。

「リーヴ…」

 アルスィオーヴの力は障壁に触れると同時に爆発した。――避けられる距離じゃない。

「調子に乗るなよ、三下が」

 刹那顕現したリーヴはいとも容易くアルスィオーヴの力を打ち払い、酷く不機嫌そうに笑った。かつてこの世界で最も誇り高く美しい巨人族の王であった存在は、普段なら巧妙に隠している攻撃性も露に魔力を解放する。

「なに…?!」

 彼が直接手を下す必要は、なかった。

「《消えろ》」
「ッ!!」

 その言葉こそ存在にして絶対の武器。


 耳元の髪をそっと掻き上げて、優しく目覚めを促される。まどろみの心地良さに沈みかけていた意識は緩やかに浮上した。
 目を開けても、そこには誰もいない。わかっていたのに落胆する心を持て余し、傍らの黒猫を抱き寄せた。

「――どうぞ」

 二度のノック、返事を待って開いた扉に黒猫は腕をすり抜ける。

「またサボりですか?」
「小言なら出てってよ」
「教授に呼んでくるよう言われたんです。貴女と――」
「僕をね」

 テーブルの上で揺れているはずの湯気は見当たらず、冷め切った紅茶を飲む気にはなれなかった。かといって、淹れ直す気もおきはしない。

「…顔洗ってくるから待って」
「急いでくださいね」

 黒猫が急かすように鳴いた。微温湯に手を浸して息を吐く。わかったからと肩を落として、鏡に映る自分は酷く憂鬱気だ。

「暁羽」
「今行く」

 脱いだ部屋着をバスタブに放り込んで、杖の一振りで仕度を整える。黒猫は擦り寄るように歩きながら器用に足下を縫った。

「誰が呼んでるの?」
「グラブス教授ですよ」
「あの人は嫌い」
「君にも平気で雑用言いつけるから?」
「戦略戦略煩いから」
「戦略部門の主任ですからね」
「ただの理屈っぽい賢者[ワイズマン]よ」
「それでもA級魔法師には変わりないんですから、あまり悪く言うとどやされますよ」
「私は特A級の魔術師[ウィザード]」
「校内ではただの生徒」
「言ったわね」
「――そろそろ着きますよ」

 一声鳴いた黒猫が姿を消す。他愛のない話をするうちに気分は幾らか浮上していた。
 先に立って扉を叩いた蒼燈が紳士らしく道を譲り、十分に開かれた《会議室》の扉をくぐると、そこにグラブス教授の姿はなかった。

「スヴィーウル卿…?」

 代わりにいたのは《王騎士》グロイ・スヴィーウル。輝かしき旅人。

「早かったな」
「どうして貴方がここに…」
「あんたに用があるんだ」

 少なからず面識はある。けれど進んで関わりたくはない相手だ。

「正確にはあんたのチームに、だが」
「僕たちにですか?」
「まぁ立ち話もなんだ、座れよ」

 促され、渋々適当な席に座ると苦く笑われる。嫌われてるなと、当たり前のことを言うので鼻で笑ってやった。

「根に持つ方だから」
「あの時の事は謝っただろ?」
「魔族と剣一本で戦ってから言ってくれる? 生きて帰れたらの話だけど」
「…悪かった」

 斜め前に座る蒼燈が目を瞠ったことに気付いて、グロイは居心地悪そうに謝罪する。冬星は口元を手で隠しながら楽しそうに笑っていた。

「それで? 用って何なの?」

 ほっと安堵の息を吐いて、グロイが居住まいを正す。懐から取り出されたのは手の平に収まる程の記録用魔法陣で、記されていたのは何の変哲もないこの国の地図だ。

「まず断っておくが、これは陛下からの勅命で、あんたたちに拒否権はないし失敗も許されない。口外することもだ」
「東方の地図ね」
「あぁ、こっちが今いる王都で、目的地はここだ」
「…冗談でしょ?」
「いいや」

 四人のほぼ中央で、魔法陣から展開した地図が回っている。グロイが指差したのは王都の真反対、東の国境近くにある大きな森。

「《魔女の棲む森》にまた行けって言うの? 今度は蒼燈と冬星まで連れて」

 嘲りと怒気の篭る言葉にグロイは表情を歪めた。

「それがあんたの仕事だ」

 怒りに任せ彼を殴ってしまえたらどんなによかっただろう。

「暁羽[アキハ]・クロスロード。蒼燈[ソウヒ]・ティーディリアス。冬星[トウセイ]・コールドチェーン」

 以下の通り東方任務を命じると、グロイは改まって告げた。暗号化され、宛先となった魔法師にしか読むことの出来ない《手紙》の魔法陣がぞんざいに投げて寄越される。
 ざっと目を通してそれを破棄すると、苦々しい表情のままグロイが言った。

「前みたいなことは避けてくれよな」
「どうだか」

 火をつけた魔法陣はさすが、陛下からの勅命とあってそう簡単に燃え尽きたりはしない。音もなく燃える魔力の炎を見ながら気のない返事を返すと、グロイは沈黙した。
 そもそも前回の任務は、全てが彼がミスといっても問題ない。国中を旅する傍ら情報を集めて回ることが仕事の癖に、この男はまんまと偽物を掴まされたのだ。――そして何人もの魔法師が死んだ。

「貴方が前みたいなことを避けたのなら、大丈夫でしょう」
「あんなミスはもう二度としない」
「人間に絶対はないのよ、…《スヴィーウル卿》」

 態とらしく、線引きをするように呼んで、席を立つ。既に魔法陣は燃え尽きていた。

「失礼」

 もうここに用はない。





「おかえりなさい、マスター」

 会議室を出て、元いた《隠し部屋》に戻ると、午後の講義も終わったのか沙鬼[サキ]が戻ってきていた。飲みかけの紅茶は片付けられ、代わりにレポート用紙がテーブルの上を占領している。

「ただいま。…机でやらないと腰、痛くなるわよ」
「大丈夫です」
「あと敬語。いらないって言ってるのに」
「すみません」

 覗きこんでみても複数あるレポートの仮題は欠伸を誘うようなものばかりで、これだから学生はやってられないのだと思わず溜息が零れた。

「マスター?」
「なんでもない…」

 沙鬼の膝を枕にして横になると、気を使ったのかレポートを書く手が止まる。どうせ、提出しようがしまいが彼女の進級は確定しているのだから罪悪感はない。

「日が落ちたら起こして」
「イエス、マイロード」

 今はただ眠りたかった。





『――誇りに思え』





 《あの日》、告げられた言葉が蘇る。目覚めは最悪。しかも、まだ起きようと思っていた時間には早い。

「……」
「マスター?」

 眉間に皺を寄せ黙っていると、不自然に横を向いて本を読んでいた沙鬼が首を傾げた。なんでもない、そう言おうと思って開いた口からは重苦しい溜息しか零れず、気分は重くなるばかり。

「帰るわ…」
「はい」

 緩慢に体を起こして、手ぶらのまま部屋を出た。沙鬼が出てくるのを待って扉に施錠する。かけられた《魔法錠》は強力で、そこらの教授ではその構成すら読み取れないような代物だ。今日はその上から更に強力な魔法を上書きして帰路につく。沙鬼は何も聞かなかった。

「明日からまた任務なの」
「最近多いですね」
「人手不足じゃない? 魔法師の質が落ちてるって、東の賢者も嘆いてたし」
「単独任務ですか?」
「チームよ、それも学校の。冬星と蒼燈が一緒に来るわ」
「私は?」
「貴女は留守番。やって欲しいこともあるし」
「……わかりました」
「大丈夫、すぐに帰ってくるから」
「何かあったら呼んでくださいね」
「えぇ」

 結局、また《あの森》に行くことになったとは言い出せないまま、他愛のない話をしているうちに家に着く。家といってもそこは王都のなかに幾つも借りている《隠れ家》の一つで、昨日帰った家とはまた違った。任務がなければ、きっと明日も別の家に《帰って》いただろう。

「私もう寝るから、夕飯適当に食べてね」

 気がつけば、こんなにも頼りない生活をしていた。理由はわかりきっている。

「おやすみなさい」
「おやすみ」

 恐れているのだ。





『誇りに思え』

 明り取りの窓もない、ランプに灯る小さな火だけが足下を照らす薄暗い地下室で、忌々しくもあの男は宣言する。

『お前はこの国の礎となるのだ』

 初めから失敗するとわかっていた。術者と同じく綻びだらけの魔導は発動の鍵となる魔法陣すら見るからに不完全で、成功する道理もない。

『はい、父さま』

 嗚呼、早く終わってしまえ、こんなくだらない人生なんて。
 嗚呼、早く滅んでしまえ、こんなつまらない国なんて。
 嗚呼、早く死んでしまえ、こんなろくでなしの親なんて。
 嗚呼――





「『共に来るか? 人の子よ』」





 隙間なく抱きしめられて息が詰まる。苦しさに目が覚めて、何の嫌がらせだと溜息が零れた。流し込まれた人外の魔力は体の中で人の魔力と混ざり合い、力を増す。

「どうかしたの…」

 夢見も目覚めも最悪で、気分もけしていいとは言い難かった。起き抜けに告げられた《あの日》の言葉も、この状況では意味を成さない。
 誤魔化されてやるものかと肩を押しやれば、真夜中の侵入者はあっさり退いた。

「うなされていたぞ」
「嘘吐き」

 部屋の闇は深い。朝は遠く、ぼんやりと周囲が見えているのは注ぎ込まれた魔力のせいだ。

「うなされるような夢じゃなかった」
「そうは思えないな」
「リーヴ、何しに来たの」

 思ったよりも取り込んだ魔力が多い。――起き上がると同時に酷い眩暈に襲われて、思わず舌打したい衝動に駆られる。リーヴの前でなければ確実にしていた。

「行くな」
「…任務のこと?」
「二度目はないぞ」
「……わかってるわよそんなこと…。あの時は運がよかった」
「お前のことじゃない」
「…はっきり言ってくれないとわからないんだけど?」

 普段ならこの少ないやり取りで彼の言わんとすることを理解していたかもしれない。けれど今は頭が思考することを放棄していた。早く寝なおしたいと、気を抜けば体を重力に持っていかれそうになる。

「お前は私のものだ」

 えぇ、そうねと、気のない返事をして今度こそベッドに沈んだ。耳元の髪を掻き上げるのは目覚めを促すサインなのに、今日ばかりは意味を成さない。
 今は全てが無意味だ。

「――――」

 話したいのなら、力を使って起こせばいい。





「……」

 完全に意識を手放した《眠り姫》の額に額を重ねて目を閉じる。過剰なほどに注ぎ込んだ魔力は彼女を夢すら見ないほどの深い眠りへ誘うだろう。そうして、戻れなくなってしまえばいい。

「暁羽、」

 幾ら眠っても、眠っても、その飢えが満たされることはない。与えられなければ、満たされるはずもない。

「お前は私のものだ」

 傷付けさせはしないと、祈るように口にして、リーヴは肉体を闇に解かした。残された精神は重ねた額からじわりと暁羽の体に潜り、やがて一つになる。
 そして彼もまた、深く暗い眠りへと誘われていった。


――囚われの魔女――

 光はなかった。ただ闇が広がっていた。それが世界のあるべき姿だと考えることにしていた。光はない。必要ない。だから私は闇に抱かれて今日も眠る。長い眠りと短い覚醒を繰り返していた。他にすることもない。いつか変化があるのではないかという期待は初めからなかった。こうなる前に絶望と共に閉ざされていたのだ、私の世界は。
 嗚呼何故、私たちでなければならなかったのか。何故、引き離されなければならなかったのか。何故、あの時手を離してしまったのか。
 愛する人の名さえ奪われ、私は何故生きてる。私が私を《私》と認識できない《真名の檻》の中で、私が個であり続ける意味がどこにある。
 傲慢な神々が欲したのは《器》であったはずだ。入れ物に心は必要ない。ならば何故、私はまだ思考している。
 嗚呼、誰か私を消してくれ。そうして永劫続くこの苦しみか解き放ってはくれないか。愛する人の名さえ思い出すことも叶わない無力な私に、僅かでも心動かされたのなら、どうか。

 私を殺してはくれないか。





――異端者の憂鬱――

 僕が取り返しのつかない過ちを犯してしまったあの日、オーディンは僕に言った。《災い》を誰の手も届かない、誰も見つけることの出来ない場所へ隠さなければならないと。だから僕は隠した。それが全ての始まりで元凶。あんな所へ隠すべきではなかったのに、僕はただ嫉妬していた。氷のように冷たかった弟の心を溶かし、あまつさえその愛を得た《彼女》に。そして同時に、存在を歪めてしまえばその価値は失われると信じてもいた。
 もたらされた結末はこれ以上ないほどの悲劇で、僕は最愛の弟とその恋人を、他でもない自分自身の過ちによって一度に失った。
 かつて、彼女が綺麗だと褒めてくれた金の双眸は彼女が吐いた呪詛によって黒く濁り、徐々に失われていく視力はじくじくと僕を苛み続ける。
 僕は恐れていたんだ。ヴァナヘイムでの生活に浸りきって、本当に大切なものが何なのかもわからなくなっていたから。守らなければいけなかったのは神族としての立場ではなく唯一の家族で、それだけが僕に残された最後の《真実》だったのに。





――パンドラ――

 それは箱だった。両手で包めば覆い隠せてしまえる程の、極々小さな、黒い箱。

「開けてください」

 時塔は別段特別なことを言いはしなかった。なのに僕は戸惑う。
 その箱はただただ黒いばかりで、到底開きそうな代物ではなかったからだ。

「開くんですかこれが」
「開くんですよそれが」
「開いたらどうなるんです?」
「封じられた《災い》が目を覚まします」
「それはまた…傍迷惑なものを拾ってきましたね」

 見た目通りと言えばそうだった。だが大きさからして、想像出来る災いの程度は知れている。

「開けてください」

 時塔は繰り返した。僕は頷くほかない。

「仰せのままに」

 残されるのが希望なのか、予兆なのか、予言者でもない僕には知る由もなかった。

「――ハガル」

 望んだのは唯一の命。失われた日常の回帰。





――不磨の呪い――

 二度と見ることもないと思っていた《彼》の剣が目の前に現れて、私は、二度と外れることもないと思っていた鎖を引きちぎる。四肢を留めた十字架は砕け散り、忌々しい闇の世界は崩壊した。
 私を器とする至高の災いは囁く。私が《私》であった頃のように、私が《私》であるために必要とする言葉を与えた。私は力を揮う。

「《砕けろ》」

 闇は晴れた。

「《消え去れ》」

 彼の名はまだ思い出せない。





――微睡の守護者――

 蒼燈の紡ぐ《破壊》のルーンは狂いなく《箱》を捉えた。粉々に砕かれた箱の残骸は意志を持った霧のようにわだかまり、少しもしない内に一振りの剣を吐き出して霧散する。

「値の張りそうな剣だな」

 それは到底時塔の言うような《災い》には見えなかったが、遠目に見ても《よくできた》剣だった。剣士ではない二人にはわからないだろうが、魔力なんてものに縁のない私には手にするまでもなくわかる。あれは、たった一人定めた主に尽くす剣だ。

「どういうことです? 時塔…」
「見ての通りですよ」
「その剣が災いを目覚めさせる《鍵》か」
「そういうことです」

 時塔は満足そうにいけ好かない笑みを深めて、蒼燈は疑わしげに剣を見やる。対照的な双子に挟まれた剣は、纏う魔力を忙しなく揺らめかせていた。

「…呼んでる」

 直感して、私は己の剣へと手を伸ばす。立ち上がり拾い上げたそれを腰に差すと、双子はやはり対照的な顔で私を見た。

「この剣が?」
「何を呼ぶっていうんです」

 嗚呼、やはり剣士にしかわからないのだろう、この剣の真価は。

「決まっている――」

 薄い硝子を引っ掻くような音が、私の言葉を遮った。前触れもなく歪み始めた空間に蒼燈が飛び退き、時塔の影が波打つ。

「己の主を、だ」

 空間を切り裂き現れたのは長い黒髪の女で、女は、体が地面に放り出されるのも構わず縋るように剣へと手を伸ばした。私は女の纏う魔力と剣との差異に緊張を高め、女が剣を掴むと同時に己の剣を抜く。

「来ましたね」
「どうだかな」
「沙鬼?」

 女は剣の主ではなかった。

「何者だ」
「……」

 返事はないが聞こえていないわけではないのだろう。掴んだ剣を宝物のように抱きしめて、女は手負いの獣を思わせる獰猛な目付きで私たちを睥睨した。体のいたる所から血を垂れ流し、睨み付けることでなんとか意識を繋ぎ止めているようにも見える。

「答えろ」
「人間ごときが…」
「下がりなさい蒼燈! 沙鬼!」

 時塔に言われるまでもなく、私は女が口を開いた次の瞬間壁際まで飛び退いていた。
 女はゆらりと立ち上がる。片手に持ち替えた剣の先を血溜りに浸し、天を仰ぎながら独り言のように呟いた。

「…魔族がいるわね」

 剣の鞘を重力に逆らい這い上がった鮮血は瞬く間に女の体を覆い、真っ赤なローブへと形を変える。それまで剥き出しだった警戒心など嘘のように口角を吊り上げ、女は再び剣を抱く。

「このまま戦うのは不利そうだわ」

 そして姿を消した。
 何の予備動作もない《空間転移》に目を瞠ったのは私だけではない。

「…逃げられたわね」

 言葉とは裏腹に安堵したような時塔の声が印象的だった。





――独りの夜――

 起き抜けに力を使いすぎたせいでふらつく頭を抱え、《次元の狭間》から抜け出す。これ以上の《転移》はどの道無理そうだった。
 空間の不自然な歪みと魔力の不安定さが重なって、せっかく止血した傷さえ開きそうになる。

「――――」

 中途半端に開かれた口から、彼の名が零れ落ちることはなかった。そのことがどうしようもなく哀しくで、もどかしくて、情けなくて、蹲る。《災い》は行動を促していた。そうする他ないことを理解しているのに、動くことが出来ない。
 ただ思い出したかった。

「――誰かいるのか?」

 他に何もいらないから。


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