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 耳元の髪をそっと掻き上げて、優しく目覚めを促される。まどろみの心地良さに沈みかけていた意識は緩やかに浮上した。
 目を開けても、そこには誰もいない。わかっていたのに落胆する心を持て余し、傍らの黒猫を抱き寄せた。

「――どうぞ」

 二度のノック、返事を待って開いた扉に黒猫は腕をすり抜ける。

「またサボりですか?」
「小言なら出てってよ」
「教授に呼んでくるよう言われたんです。貴女と――」
「僕をね」

 テーブルの上で揺れているはずの湯気は見当たらず、冷め切った紅茶を飲む気にはなれなかった。かといって、淹れ直す気もおきはしない。

「…顔洗ってくるから待って」
「急いでくださいね」

 黒猫が急かすように鳴いた。微温湯に手を浸して息を吐く。わかったからと肩を落として、鏡に映る自分は酷く憂鬱気だ。

「暁羽」
「今行く」

 脱いだ部屋着をバスタブに放り込んで、杖の一振りで仕度を整える。黒猫は擦り寄るように歩きながら器用に足下を縫った。

「誰が呼んでるの?」
「グラブス教授ですよ」
「あの人は嫌い」
「君にも平気で雑用言いつけるから?」
「戦略戦略煩いから」
「戦略部門の主任ですからね」
「ただの理屈っぽい賢者[ワイズマン]よ」
「それでもA級魔法師には変わりないんですから、あまり悪く言うとどやされますよ」
「私は特A級の魔術師[ウィザード]」
「校内ではただの生徒」
「言ったわね」
「――そろそろ着きますよ」

 一声鳴いた黒猫が姿を消す。他愛のない話をするうちに気分は幾らか浮上していた。
 先に立って扉を叩いた蒼燈が紳士らしく道を譲り、十分に開かれた《会議室》の扉をくぐると、そこにグラブス教授の姿はなかった。

「スヴィーウル卿…?」

 代わりにいたのは《王騎士》グロイ・スヴィーウル。輝かしき旅人。

「早かったな」
「どうして貴方がここに…」
「あんたに用があるんだ」

 少なからず面識はある。けれど進んで関わりたくはない相手だ。

「正確にはあんたのチームに、だが」
「僕たちにですか?」
「まぁ立ち話もなんだ、座れよ」

 促され、渋々適当な席に座ると苦く笑われる。嫌われてるなと、当たり前のことを言うので鼻で笑ってやった。

「根に持つ方だから」
「あの時の事は謝っただろ?」
「魔族と剣一本で戦ってから言ってくれる? 生きて帰れたらの話だけど」
「…悪かった」

 斜め前に座る蒼燈が目を瞠ったことに気付いて、グロイは居心地悪そうに謝罪する。冬星は口元を手で隠しながら楽しそうに笑っていた。

「それで? 用って何なの?」

 ほっと安堵の息を吐いて、グロイが居住まいを正す。懐から取り出されたのは手の平に収まる程の記録用魔法陣で、記されていたのは何の変哲もないこの国の地図だ。

「まず断っておくが、これは陛下からの勅命で、あんたたちに拒否権はないし失敗も許されない。口外することもだ」
「東方の地図ね」
「あぁ、こっちが今いる王都で、目的地はここだ」
「…冗談でしょ?」
「いいや」

 四人のほぼ中央で、魔法陣から展開した地図が回っている。グロイが指差したのは王都の真反対、東の国境近くにある大きな森。

「《魔女の棲む森》にまた行けって言うの? 今度は蒼燈と冬星まで連れて」

 嘲りと怒気の篭る言葉にグロイは表情を歪めた。

「それがあんたの仕事だ」

 怒りに任せ彼を殴ってしまえたらどんなによかっただろう。

「暁羽[アキハ]・クロスロード。蒼燈[ソウヒ]・ティーディリアス。冬星[トウセイ]・コールドチェーン」

 以下の通り東方任務を命じると、グロイは改まって告げた。暗号化され、宛先となった魔法師にしか読むことの出来ない《手紙》の魔法陣がぞんざいに投げて寄越される。
 ざっと目を通してそれを破棄すると、苦々しい表情のままグロイが言った。

「前みたいなことは避けてくれよな」
「どうだか」

 火をつけた魔法陣はさすが、陛下からの勅命とあってそう簡単に燃え尽きたりはしない。音もなく燃える魔力の炎を見ながら気のない返事を返すと、グロイは沈黙した。
 そもそも前回の任務は、全てが彼がミスといっても問題ない。国中を旅する傍ら情報を集めて回ることが仕事の癖に、この男はまんまと偽物を掴まされたのだ。――そして何人もの魔法師が死んだ。

「貴方が前みたいなことを避けたのなら、大丈夫でしょう」
「あんなミスはもう二度としない」
「人間に絶対はないのよ、…《スヴィーウル卿》」

 態とらしく、線引きをするように呼んで、席を立つ。既に魔法陣は燃え尽きていた。

「失礼」

 もうここに用はない。





「おかえりなさい、マスター」

 会議室を出て、元いた《隠し部屋》に戻ると、午後の講義も終わったのか沙鬼[サキ]が戻ってきていた。飲みかけの紅茶は片付けられ、代わりにレポート用紙がテーブルの上を占領している。

「ただいま。…机でやらないと腰、痛くなるわよ」
「大丈夫です」
「あと敬語。いらないって言ってるのに」
「すみません」

 覗きこんでみても複数あるレポートの仮題は欠伸を誘うようなものばかりで、これだから学生はやってられないのだと思わず溜息が零れた。

「マスター?」
「なんでもない…」

 沙鬼の膝を枕にして横になると、気を使ったのかレポートを書く手が止まる。どうせ、提出しようがしまいが彼女の進級は確定しているのだから罪悪感はない。

「日が落ちたら起こして」
「イエス、マイロード」

 今はただ眠りたかった。





『――誇りに思え』





 《あの日》、告げられた言葉が蘇る。目覚めは最悪。しかも、まだ起きようと思っていた時間には早い。

「……」
「マスター?」

 眉間に皺を寄せ黙っていると、不自然に横を向いて本を読んでいた沙鬼が首を傾げた。なんでもない、そう言おうと思って開いた口からは重苦しい溜息しか零れず、気分は重くなるばかり。

「帰るわ…」
「はい」

 緩慢に体を起こして、手ぶらのまま部屋を出た。沙鬼が出てくるのを待って扉に施錠する。かけられた《魔法錠》は強力で、そこらの教授ではその構成すら読み取れないような代物だ。今日はその上から更に強力な魔法を上書きして帰路につく。沙鬼は何も聞かなかった。

「明日からまた任務なの」
「最近多いですね」
「人手不足じゃない? 魔法師の質が落ちてるって、東の賢者も嘆いてたし」
「単独任務ですか?」
「チームよ、それも学校の。冬星と蒼燈が一緒に来るわ」
「私は?」
「貴女は留守番。やって欲しいこともあるし」
「……わかりました」
「大丈夫、すぐに帰ってくるから」
「何かあったら呼んでくださいね」
「えぇ」

 結局、また《あの森》に行くことになったとは言い出せないまま、他愛のない話をしているうちに家に着く。家といってもそこは王都のなかに幾つも借りている《隠れ家》の一つで、昨日帰った家とはまた違った。任務がなければ、きっと明日も別の家に《帰って》いただろう。

「私もう寝るから、夕飯適当に食べてね」

 気がつけば、こんなにも頼りない生活をしていた。理由はわかりきっている。

「おやすみなさい」
「おやすみ」

 恐れているのだ。





『誇りに思え』

 明り取りの窓もない、ランプに灯る小さな火だけが足下を照らす薄暗い地下室で、忌々しくもあの男は宣言する。

『お前はこの国の礎となるのだ』

 初めから失敗するとわかっていた。術者と同じく綻びだらけの魔導は発動の鍵となる魔法陣すら見るからに不完全で、成功する道理もない。

『はい、父さま』

 嗚呼、早く終わってしまえ、こんなくだらない人生なんて。
 嗚呼、早く滅んでしまえ、こんなつまらない国なんて。
 嗚呼、早く死んでしまえ、こんなろくでなしの親なんて。
 嗚呼――





「『共に来るか? 人の子よ』」





 隙間なく抱きしめられて息が詰まる。苦しさに目が覚めて、何の嫌がらせだと溜息が零れた。流し込まれた人外の魔力は体の中で人の魔力と混ざり合い、力を増す。

「どうかしたの…」

 夢見も目覚めも最悪で、気分もけしていいとは言い難かった。起き抜けに告げられた《あの日》の言葉も、この状況では意味を成さない。
 誤魔化されてやるものかと肩を押しやれば、真夜中の侵入者はあっさり退いた。

「うなされていたぞ」
「嘘吐き」

 部屋の闇は深い。朝は遠く、ぼんやりと周囲が見えているのは注ぎ込まれた魔力のせいだ。

「うなされるような夢じゃなかった」
「そうは思えないな」
「リーヴ、何しに来たの」

 思ったよりも取り込んだ魔力が多い。――起き上がると同時に酷い眩暈に襲われて、思わず舌打したい衝動に駆られる。リーヴの前でなければ確実にしていた。

「行くな」
「…任務のこと?」
「二度目はないぞ」
「……わかってるわよそんなこと…。あの時は運がよかった」
「お前のことじゃない」
「…はっきり言ってくれないとわからないんだけど?」

 普段ならこの少ないやり取りで彼の言わんとすることを理解していたかもしれない。けれど今は頭が思考することを放棄していた。早く寝なおしたいと、気を抜けば体を重力に持っていかれそうになる。

「お前は私のものだ」

 えぇ、そうねと、気のない返事をして今度こそベッドに沈んだ。耳元の髪を掻き上げるのは目覚めを促すサインなのに、今日ばかりは意味を成さない。
 今は全てが無意味だ。

「――――」

 話したいのなら、力を使って起こせばいい。





「……」

 完全に意識を手放した《眠り姫》の額に額を重ねて目を閉じる。過剰なほどに注ぎ込んだ魔力は彼女を夢すら見ないほどの深い眠りへ誘うだろう。そうして、戻れなくなってしまえばいい。

「暁羽、」

 幾ら眠っても、眠っても、その飢えが満たされることはない。与えられなければ、満たされるはずもない。

「お前は私のものだ」

 傷付けさせはしないと、祈るように口にして、リーヴは肉体を闇に解かした。残された精神は重ねた額からじわりと暁羽の体に潜り、やがて一つになる。
 そして彼もまた、深く暗い眠りへと誘われていった。

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