――囚われの魔女――
光はなかった。ただ闇が広がっていた。それが世界のあるべき姿だと考えることにしていた。光はない。必要ない。だから私は闇に抱かれて今日も眠る。長い眠りと短い覚醒を繰り返していた。他にすることもない。いつか変化があるのではないかという期待は初めからなかった。こうなる前に絶望と共に閉ざされていたのだ、私の世界は。
嗚呼何故、私たちでなければならなかったのか。何故、引き離されなければならなかったのか。何故、あの時手を離してしまったのか。
愛する人の名さえ奪われ、私は何故生きてる。私が私を《私》と認識できない《真名の檻》の中で、私が個であり続ける意味がどこにある。
傲慢な神々が欲したのは《器》であったはずだ。入れ物に心は必要ない。ならば何故、私はまだ思考している。
嗚呼、誰か私を消してくれ。そうして永劫続くこの苦しみか解き放ってはくれないか。愛する人の名さえ思い出すことも叶わない無力な私に、僅かでも心動かされたのなら、どうか。
私を殺してはくれないか。
――異端者の憂鬱――
僕が取り返しのつかない過ちを犯してしまったあの日、オーディンは僕に言った。《災い》を誰の手も届かない、誰も見つけることの出来ない場所へ隠さなければならないと。だから僕は隠した。それが全ての始まりで元凶。あんな所へ隠すべきではなかったのに、僕はただ嫉妬していた。氷のように冷たかった弟の心を溶かし、あまつさえその愛を得た《彼女》に。そして同時に、存在を歪めてしまえばその価値は失われると信じてもいた。
もたらされた結末はこれ以上ないほどの悲劇で、僕は最愛の弟とその恋人を、他でもない自分自身の過ちによって一度に失った。
かつて、彼女が綺麗だと褒めてくれた金の双眸は彼女が吐いた呪詛によって黒く濁り、徐々に失われていく視力はじくじくと僕を苛み続ける。
僕は恐れていたんだ。ヴァナヘイムでの生活に浸りきって、本当に大切なものが何なのかもわからなくなっていたから。守らなければいけなかったのは神族としての立場ではなく唯一の家族で、それだけが僕に残された最後の《真実》だったのに。
――パンドラ――
それは箱だった。両手で包めば覆い隠せてしまえる程の、極々小さな、黒い箱。
「開けてください」
時塔は別段特別なことを言いはしなかった。なのに僕は戸惑う。
その箱はただただ黒いばかりで、到底開きそうな代物ではなかったからだ。
「開くんですかこれが」
「開くんですよそれが」
「開いたらどうなるんです?」
「封じられた《災い》が目を覚まします」
「それはまた…傍迷惑なものを拾ってきましたね」
見た目通りと言えばそうだった。だが大きさからして、想像出来る災いの程度は知れている。
「開けてください」
時塔は繰り返した。僕は頷くほかない。
「仰せのままに」
残されるのが希望なのか、予兆なのか、予言者でもない僕には知る由もなかった。
「――ハガル」
望んだのは唯一の命。失われた日常の回帰。
――不磨の呪い――
二度と見ることもないと思っていた《彼》の剣が目の前に現れて、私は、二度と外れることもないと思っていた鎖を引きちぎる。四肢を留めた十字架は砕け散り、忌々しい闇の世界は崩壊した。
私を器とする至高の災いは囁く。私が《私》であった頃のように、私が《私》であるために必要とする言葉を与えた。私は力を揮う。
「《砕けろ》」
闇は晴れた。
「《消え去れ》」
彼の名はまだ思い出せない。
――微睡の守護者――
蒼燈の紡ぐ《破壊》のルーンは狂いなく《箱》を捉えた。粉々に砕かれた箱の残骸は意志を持った霧のようにわだかまり、少しもしない内に一振りの剣を吐き出して霧散する。
「値の張りそうな剣だな」
それは到底時塔の言うような《災い》には見えなかったが、遠目に見ても《よくできた》剣だった。剣士ではない二人にはわからないだろうが、魔力なんてものに縁のない私には手にするまでもなくわかる。あれは、たった一人定めた主に尽くす剣だ。
「どういうことです? 時塔…」
「見ての通りですよ」
「その剣が災いを目覚めさせる《鍵》か」
「そういうことです」
時塔は満足そうにいけ好かない笑みを深めて、蒼燈は疑わしげに剣を見やる。対照的な双子に挟まれた剣は、纏う魔力を忙しなく揺らめかせていた。
「…呼んでる」
直感して、私は己の剣へと手を伸ばす。立ち上がり拾い上げたそれを腰に差すと、双子はやはり対照的な顔で私を見た。
「この剣が?」
「何を呼ぶっていうんです」
嗚呼、やはり剣士にしかわからないのだろう、この剣の真価は。
「決まっている――」
薄い硝子を引っ掻くような音が、私の言葉を遮った。前触れもなく歪み始めた空間に蒼燈が飛び退き、時塔の影が波打つ。
「己の主を、だ」
空間を切り裂き現れたのは長い黒髪の女で、女は、体が地面に放り出されるのも構わず縋るように剣へと手を伸ばした。私は女の纏う魔力と剣との差異に緊張を高め、女が剣を掴むと同時に己の剣を抜く。
「来ましたね」
「どうだかな」
「沙鬼?」
女は剣の主ではなかった。
「何者だ」
「……」
返事はないが聞こえていないわけではないのだろう。掴んだ剣を宝物のように抱きしめて、女は手負いの獣を思わせる獰猛な目付きで私たちを睥睨した。体のいたる所から血を垂れ流し、睨み付けることでなんとか意識を繋ぎ止めているようにも見える。
「答えろ」
「人間ごときが…」
「下がりなさい蒼燈! 沙鬼!」
時塔に言われるまでもなく、私は女が口を開いた次の瞬間壁際まで飛び退いていた。
女はゆらりと立ち上がる。片手に持ち替えた剣の先を血溜りに浸し、天を仰ぎながら独り言のように呟いた。
「…魔族がいるわね」
剣の鞘を重力に逆らい這い上がった鮮血は瞬く間に女の体を覆い、真っ赤なローブへと形を変える。それまで剥き出しだった警戒心など嘘のように口角を吊り上げ、女は再び剣を抱く。
「このまま戦うのは不利そうだわ」
そして姿を消した。
何の予備動作もない《空間転移》に目を瞠ったのは私だけではない。
「…逃げられたわね」
言葉とは裏腹に安堵したような時塔の声が印象的だった。
――独りの夜――
起き抜けに力を使いすぎたせいでふらつく頭を抱え、《次元の狭間》から抜け出す。これ以上の《転移》はどの道無理そうだった。
空間の不自然な歪みと魔力の不安定さが重なって、せっかく止血した傷さえ開きそうになる。
「――――」
中途半端に開かれた口から、彼の名が零れ落ちることはなかった。そのことがどうしようもなく哀しくで、もどかしくて、情けなくて、蹲る。《災い》は行動を促していた。そうする他ないことを理解しているのに、動くことが出来ない。
ただ思い出したかった。
「――誰かいるのか?」
他に何もいらないから。
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