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「黒の書第四二項、雷[サンダー]」

 月のない夜の深い闇に紛れ、息を殺していた一匹の魔物は、突如として発現した魔力に戦慄した。

「雷[イカズチ]よ、闇を切り裂き下れ」

 バチリと、大気が不穏な音を立てて震える。
 己への脅威を排除するべく物陰を飛び出した魔物の、鋭く伸びきった爪を前に、少女は魔法書の項を辿っていた杖をさっと振り上げ、不敵に笑った。

「白の書第二五項、盾[シールド]」

 突き出された魔物の爪は間一髪で少女に届くことなく、現れた不可視の壁によって阻まれる。

「終わりよ」

 遥か頭上の暗雲から下った紫電は、轟音とともに魔物を貫いた。断末魔の叫びを上げる間もない一瞬の死に、魔物は己の死を自覚するまもなく崩れ落ちる。

「貴女にかかれば、初級魔法も立派な凶器ですね」

 足元から流れるように消えていく〝盾〟と入れ代わるように現れた気配に、少女は魔物の屍から己の魔法書へと目を移し、それを消した。

「二桁の魔法は力配分が面倒すぎる」
「そう言うのは貴女くらいのものですよ、暁羽」

 もう一度振り下ろされた杖にあわせ落ちた雷は、そこに魔物がいたという痕跡さえも焼き尽くす。

「あんただってザコの召喚はしないでしょ? ――蒼燈」

 少女――暁羽――は役目を終えた杖を魔法書同様、抉じ開けた次元の狭間へと放り込み、空いた手を上着のポケットへと押し込んだ。吐き出された息は僅かに白く、――もうすぐ夜が明ける。

「僕には夜空がいますから」
「…よく言うわ」

 そろそろ引き上げ時だろうと、暁羽は周囲に魔物の気配がないことを丁寧に探ってから、傍らに立つ少年――蒼燈――と目配せし歩き出した。

「明け方は寒くなってきましたね」
「えぇ…」

 蒼燈の言葉に短い返事を返して、立てた襟に顔を埋める。

(もう半月、か)

 フィーアラル王国の王都イザヴェルから遠く離れた辺境の地で、王立魔法学校の生徒である暁羽と蒼燈は魔物退治の任についていた。完全な実力主義の魔法学校ではよくあることで、いくつかの条件をクリアすれば、生徒も魔物退治へと借り出される。
 良くも悪くも、二人は王都を空けていることが多かった。

「頃合いじゃありませんか?」

 暁羽は無言のまま首肯する。返事をするために息を吸うと、そこから凍り付いてしまいそうだったからだ。

「次の町で一通り魔物を倒したら、戻りましょう」
「…わかった」

 白んできた空を眩しそうに見上げていた蒼燈が、一つ頷いて歩調を速める。

「いい加減疲れましたからね」
「同感」

 元々、そう密集していたわけではない木々が完全に途切れ、二人は森を抜けた。

「――フィーネ」

 前に出た蒼燈が振り向きざま杖を振って、二人が魔物を狩っている間、関係のない人間が入れないよう張り巡らされていた人払いの魔法陣が効力を失う。

「ニャーア」

 分かたれていた陣の内側と外側とが混ざり合い、吹き込んだ風とともに、一匹の黒猫が暁羽の肩に飛び乗った。

「おまたせ」

 器用に肩の上でバランスを取る黒猫に頬を寄せ暁羽が息を吐くと、擦り寄られた黒猫は気遣わしげな鳴き声を上げる。
 微笑ましい光景ではあったが、蒼燈はそんな一人と一匹には目もくれず、あらかじめ宿を取っておいた町への道を黙々と進んだ。

「ねぇ、蒼燈」

 あと少しで町に入るというところで、暁羽が蒼燈を呼び止める。何気なく振り返った蒼燈は、思いがけず真剣な表情で今しがた後にしたばかりの森を見据える暁羽に内心首を傾げた。

「今日は何匹倒した?」
「いちいち数えてませんよ。少し多かったような気もしますが…」
「そう、多かった。魔物の好むような環境も、獲物も、宝もないのに、私の勘違いでなければ、あの森にはそこの町なんて半日もあれば無人に出来るくらいの魔物がいた。――これは、異常よ」

 確かに異常だと思った。大抵のことなら面倒だと捨て置いてしまう暁羽がこうして話を振ってきたこともそうだし、自分と暁羽の二人が組んで、たかが魔物退治に夜明けを見たことも、そう。けれど、

「考えすぎじゃありませんか? 単なる偶然かも」

 けれど蒼燈はあえて気付かない振りをして、自分でも白々しいと思えるような言葉を吐いた。

「…だといいけど」

 そんな蒼燈に暁羽も深く追求しようとはせず、溜息ともつかないか細い吐息を吐き出して、森に背を向ける。

「面倒ごとには、遠慮願いたいものですね」

 すれ違いざま零された本音には、ニャアと、黒猫の愉しげな鳴き声だけが返った。










 青く澄んだ泉が一つ。その水底に、一人の賢者。
 賢者は謳った。誰もが聞き知る、大樹ユグドラシルによって支えられた九つの世界の有様を。死を免れぬ人の住む「ミズガルズ」へと続く根の下で、ミミルの泉の水底で。賢者は謳った。語り継がれる真実を。

 そこに一人の来訪者。

 月光色の髪を持つ見目麗しい青年が、泉の上へと降り立った。泉の表面に広がる波紋が、賢者ミミルに青年の来訪を告げる。

「気紛れな巨人の王は捧げられた生贄の王女を生かし、欲深き人の王は死んだ。――残された王子の賢さは、貴方の好ましいものであったようですな」

 表情を綻ばせる賢者ミミルに、青年は冷やかな一瞥をくれた。磨き上げられたルビーを思わせる真紅の瞳は泉の波紋を映し、光の乱反射に煌く。

「あれは、私の言葉など聞き入れはしない」

 青年が静かに口を開くと、泉につかの間の静寂が落ちた。あたかも彼を取り巻く環境が、息を潜めその言葉に耳を傾けているかのように。

「ならば何故、私はあれを救うのだ」

 暫し横たわった静寂を破ったのは、賢者ミミルの楽しげな笑い声だった。深く皺の刻まれた容貌を柔らかく歪め、賢者ミミルは笑う。

「わたくしが教えて差し上げてもよろいいが、きっと貴方様は与えられた答に納得されはしないのでしょう。ならばわたくしの言葉に意味はない」
「…賢者ミミルよ。お前が守る泉の水は、偽りか?」
「この泉の水を一度[ヒトタビ]口にすれば、貴方様はこの世界の全てを知ることとなるでしょう。けして偽りではございません。ですが貴方様の信じるものがただ一つ、その瞳に映された世界である限り、この泉の持つ真実は、貴方様にとっての偽りでありましょう」

 青年は賢者ミミルの傍らに眠る、本来対であるはずの宝石の片割れを暫し見つめ、そして姿を消した。
 賢者ミミルは笑う。

「貴方様の真実は、貴方様にしか見つけられぬから、唯一の輝き放ち慈しむ価値を持つのでしょう」

 青く澄んだ泉が一つ。その水底に、一人の賢者。
 賢者は謳った。誰もが聞き知る、大樹ユグドラシルによって支えられた九つの世界の有様を。死を免れぬ人の住む「ミズガルズ」へと続く根の下で、ミミルの泉の水底で。賢者は謳った。語り継がれる真実を。孤独な王の僥倖を。










「本当にありがとうございました」
「いえ、僕たちはやるべきことをやったまでですから」

 ニャアと、つまらなそうに黒猫が鳴いた。次の町へと続く街道を前に、何を足止めされているのだと、言外に含ませた不満はそんなところだろうか。

「暁羽、行きましょう」

 漸く町長たちとの話を切り上げた蒼燈が足早に歩き出す。項垂れていた黒猫は弾かれたように顔を上げ、意気揚々と私の肩を飛び降りた。

「これだから田舎者は」

 見送りの声が聞こえなくなるのを待って口を開くと、歩調を緩めた蒼燈が隣に並ぶ。

「高慢な貴族を相手にするよりは幾分かマシですよ」
「そうかしら」

 私にとってはどちらも大差ないという意味合いを込めて、殊更興味なさそうに返すと、同意するように少し先を歩く黒猫が鳴いた。
 蒼燈は苦く笑って肩を竦める。イザヴェルの貴族にしろ辺境の田舎者にしろ、相手にしなくてすむのが一番には違いなかった。

「それはそうと、」
「それはそうと?」

 黒猫が立ち止まり、蒼燈が首を傾げる。次元の狭間から引きずり出した杖と魔法書を構え、私は口角を吊り上げた。

「こんな昼間から魔物に出くわすなんて、初めてじゃありませんか?」

 街道沿いに並ぶ木々の陰から姿を現す異形の魔物。ざっと見た限り手強そうな輩はいないが、数だけは無駄に多かった。

「私はあるけど? こういう経験」
「そうなんですか?」
「えぇ。最も――」

 耳を塞ぎたくなるような咆哮が轟く。いつの間にか戻ってきていた黒猫が不快そうに顔を歪めて唸り、杖を向けられた魔法書は独りでにぱらぱらと捲れた。

「あの時は狙われる理由があったんだけどね」

 バチリと、大気がスパークする。
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