黒一色で塗り潰された世界には、沢山の危険なモノがいた。
(逃げなきゃ…)
漠然とした恐怖に追われ、私は走り出す。黒以外の何もない世界は冷たくも温かくもなくて、地面に足をつけている感覚すらあやふやなのに、私はどこまでもどこまでも走り続けた。
恐怖が来るよ!
「――――」
それは魔鏡の力を借りて王都イザヴェルへと飛ばしていた精神が肉体に戻る刹那の出来事で、私自身それが〝何〟であるかは分からなかった。ただ意識を取り戻すと同時に跳ね上がった心臓の鼓動が、どこか警鐘の様に聞こえてならない。
(なに、今の…)
肉体から精神を引き離した際起きうる作用については、完全に把握しきれているはずだ。でなければ、些細なミスで命を落としかねない術式を行使したりはしない。完璧に、何の問題もなく精神を回帰させられる自信があったからこそ魔鏡を使った。なのに何故。
「ニャア」
堂々巡りを始めた思考を断ち切るように黒猫が鳴いた。私は弾かれたように顔を上げて、少し先に落ちた魔鏡と黒猫を視界に入れる。魔鏡の発動はとうの昔に治まっていて、流し込んだ魔力の残滓が僅かに感じられる程度だった。
それはつまり、私の精神が肉体に戻ってから短くはない時間が流れているということで…――。
「戻らないと…」
自分自身に言い聞かせるよう呟くと、こちらをじっと見つめる黒猫の瞳が輝きを増したような気がした。あぁまた、貴方までがそんな目で私を見るなんて、悪い冗談はよして。
杖を硬く握り締めていた右手をゆっくりと開いて、今度は緩く握りなおす。小さく杖先を振り動かすと、魔鏡は次元の狭間へと呑まれて消えた。空間に広がった波紋はすぐ傍の黒猫にあたって跳ね返り、やがておさまる。
「戻るわよ」
手にした杖はそのままに、私は黒猫を引き連れ蒼燈とエルフの元へ急いだ。――胸騒ぎが止まない。
本来なら人の出入りさえ拒むような結界でさえ、暁羽の行く手を阻むことは出来ない。人には得手不得手があるものだが、彼女ほど得手に特化した人間はそういないだろう。これはもう進化と言っても過言ではないはずだ。
エルフを守るために張った三重の結界を生身で通過するなんて、どう考えても不可能なことなのだから。
「ということで、次の町には向かわずこのまま王都へ戻ることになったから」
「異存はありませんよ」
「問題、は…」
二人の視線が示し合わせたように向けられると、エルフは事の重大さなど一欠片も理解していないような顔で首を傾げた。暁羽が戻る少し前には目覚めていた彼女は、未だに一言も言葉を発していない。いや、話せないのだ。
しかも、問題はそれだけに止まらない。
「貴女には悪いけど、私たちと一緒に来て欲しいの」
「?」
僕たちが見つけたエルフは、言葉と記憶を失っている。――それが、暁羽の下した一応の結論だ。純粋な魔法生物であるエルフが記憶喪失なんて聞いたこともないが、彼女がそういうのならおそらく間違いはないだろう。これは、暁羽の〝得手〟だ。
「了承してくれる?」
選択の余地のない問いかけに、エルフは何の疑いもなくコクリと頷く。暁羽も頷き返した。
「決ま――」
ガシャンッ
頭上から降り注いだ光に目を奪われていたのは、瞬き一つする間もない短い時間。
「夜空[ヤソラ]!!」
まず我に返ったのは蒼燈で、エルフの元へ駆ける彼の召喚獣が視界の端を掠めた。肩に飛び乗ってきた黒猫と砕け散った結界に、私は戦慄する。
蒼燈の張った三重の結界は、白の書で扱える最高位の守護結界であるはずだ。
「――そのエルフを、渡してもらおう」
翳した手に次元の狭間から黒の書が落とされる。右手で取り出した杖を勢いよく振り上げ、私は矢継ぎ早に三つの攻撃呪文を放った。
「チッ」
その全てが――威力は通常魔法に劣るものの――奇襲に適した無言呪文によって発動したにも関わらずいとも容易く弾かれ、思わず零した舌打ちに黒猫が気配を研ぎ澄ます。
――右。
咄嗟に左へ飛ぶと、右手から飛来した魔力の塊が大きく地面を抉った。背筋に冷たいものが伝い、杖を握る手に力がこもる。
「我が名はアルスィオーヴ。スヴァルトアルフヘイムに住まう魔性の者」
一人の男が自ら名乗りを上げ、次元の狭間からこちら側へと姿を現した。
「ミズガルズの子等よ、我に逆らうな。そなた等を傷付けるのは我の本意ではない」
先に攻撃を仕掛けておいてよく言うと、喉元まででかかった言葉をなんとか呑み込んで、私は背筋を伸ばした。手を放した黒の書はその場に止まり、杖を向けると、独りでにぱらぱらと捲れだす。
「魔族がエルフに何の用?」
「知る必要はあるまい」
「なら彼女を渡す必要もないわ」
アルスィオーヴが器用に片方の目をすがめると、それだけで大気が震撼した。
「暁羽!」
「結界張って縮こまってなさいな。――そっち気にかけてる余裕はないわよ」
杖を突きつけた黒の書からは一種爆発のように無数の魔法陣が飛び出し、周囲が陣の放つ光に呑まれる。
「愚かな」
それが目晦ましになるなんて、はなから思っちゃいない。
「黒の書よ、力を示せ。秘めし力を開放せよ」
ただ時間稼ぎになってさえくれればいい。
「我が名はクロスロード!」
黒の書に封じ込められていた無数の魔法が連鎖するように次々と発動した。発現である魔法陣はアルスィオーヴを取り巻き、アルスィオーヴは、息つく間もない攻撃を雑作もなく払っていく。
「主に応えて今こそ示せ、我らが前に立ち塞がりし、全ての愚かなる者に恐怖と絶望を注ぐべく。――顕現せよ!」
詠唱が進むにつれて、体の内側で力強く脈打つものがあった。魔法書を使うことによって制限されていた魔力――その源であるマナ――が、解放されつつあることに気付き歓喜しているのが手に取るようにわかる。
「させるか」
魔力が掲げた手の上で収束を始めた。既に黒の書によって発動した魔法の全ては蹴散らされ、アルスィオーヴが敵意に満ちた力を放つ。
(遅い)
十分な時間は、稼げた。
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