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「ッ、――触るな!!」

 差し出した手を、手加減無しに叩き落とされるのは初めてだった。

「ドリット!」
「呪われてる癖にっ」

 それは明確な拒絶で、否定。
 少し考えれば分かった事だと、私は自分自身の迂闊さに嗤った。けれど同時に、ほんの少しだけ愉快でもある。

「家族面すんな!」

 ずっと、言いたかった。言って、楽になりたかった。言えたら、どんなに良かっただろう。そうすれば少なくとも今ここで手を上げられる事は無かったはずだ。「家族面をしないで」と、その一言で私はこの場にいるほぼ全員の心に致命傷を与える事が出来るのだから。言って、さっさと突き放してしまえば良かった。

「――わかった」

 どうせ、とうの昔に死んだ身だ。今更何を恐れる事がある。

「消えるわ」
「待て、シーリ――」
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「…起こしちゃった?」

 目が覚めたのは偶然だった。いつもなら絶対に起きないような時間。
 私の顔を覗き込みながら頬を撫でていたラスティールの目が、申し訳なさそうに細められる。

「ごめんね」

 謝る必要は、無い。ラスティールのせいで起きたわけではないから。けれど寝起きで渇ききった私の喉は容易に震えてくれない。無理に話そうとすれば、きっと痛みが伴うだろう。
 だから僅かに首を横に振って私はまた目を閉じた。そうすれば、ラスティールが部屋を出ていけると分かっていたから。

「おやすみ、シーリン」

 あるかないかの気配が扉に遮られてしまうまで、じっとしていた。ぱたりと閉じた扉の音に錠を落とす音が重なる。一瞬閉じ込められたような気分になって内心少し笑ってしまった。
 もしそうなら、どれほど良かっただろう。

「――ジズ」

 掠れた声で呼ぶと、ローチェストの上に置かれた籠の中から愛玩用の肩乗り竜が顔を出す。「キュイ」と一声鳴いてジズはすぐさま寝床を飛び出した。そのまま滑るように私の枕元へやってきて、首を傾げる。

「起きるから、リーにご飯頼んで来て」
「キュイ!」

 身動ぎ一つせずに告げると、嫌な顔一つせずまた一声鳴いて飛び立つ。向かうのはラスティールが出ていった扉ではなくバルコニーに続く窓だ。ラスティールは部屋を出る前、いつもそこを開けていく。
「アリル、起きて」

 起きるには、適さない時間だとアリルは思った。夜はまだ深く、疲れ切った体が休息を求めているのが分かる。

「移動するわよ」

 こういう時、アリル自分の体質が酷く恨めしかった。

「ほら、立って」
「まだねむい…」
「これ以上寝てたら間に合わないわよ」
「…そんなに出たいの? 入学式」
「主席が何言ってるのよ。挨拶、しなきゃいけないんだから」
「いいよそんなの」
「駄目よ」
「一年で模擬戦なんてやるのか」
「多分貴女が想像しているものとは違うわ」
「まぁ、そうだろうな」

「他の人と組んだりしちゃ駄目よ」
「わかってるよ」
「本気になるのも」
「ラスティール相手に? 無理だろ」
「あらそう?」
「絶対負ける」
「そんな事は無いと思うけど」
「いいや、負けるね。お前楽しくなってきたら手加減忘れるから」
「…あら、そう?」

「どれくらいやってもいいんだ?」
「…さぁ?」
「魔術使って良いかな」
「それはだめでしょ」
「魔法だけ?」
「円は二重までね」
「…二重ならいいのか」
「やっぱりだめ」
「どっちだ」

「…なぁ、」
「なに?」
「結界張ってやれば良くないか」
「…それもそうね」
 巨大な緑色の芋虫が高層ビルの壁面に張り付き強化硝子を咀嚼している場面を目の当たりにして、さてどうしたものかとシーリンは小首を傾げた。ワームと呼ばれるその芋虫は人間にとって恐ろしく有害だが、その存在を認知出来る者は少ない。駆除できる人間はそれ以上に希少だ。

「シーリン?」

 迷ったのは、一瞬にも満たない刹那。

「用事思い出した。抜ける」

 大して楽しくも無い付き合いの買い物とワーム。シーリンの中で天秤はあっけなく後者へ傾いた。くるりと体を反転させ肩越しに手を振るシーリンに、連れ立って歩いていた級友は肩を落とす。

「また例のバイト?」
「ん」

 二人で歩いてきた道を一人で引き返すシーリン。置き去りにされた級友はゆるゆると首を左右に振りながら溜息をついた。

「ばいばい」

 声を張り上げるでもなく独り言のように呟かれた形だけの挨拶は、足早に人混みを縫うシーリンには届かない。別れた級友が振り切るように自分へ背を向けた事も知らないまま、シーリンは何度か道を曲がり小奇麗な雑居ビルに入った。適当な階の適当な部屋に潜り込んで鍵をかけたら、付けっぱなしにしていたゴーグル型の視覚デバイスを外して携帯端末を取り出す。座り込んだ床は冷たく寄りかかった壁は硬かったが、そんな事シーリンには関係がなかった。邪魔さえ入らなければそれでいい。
 携帯を握りしめたまま目を閉じたシーリンが次に目を開けた時、そこは小奇麗な雑居ビルの一室ではなく高層ビルが立ち並ぶ大通りだった。
 視線の先には二匹のワーム。強化硝子にぽっかりと開いた大穴が彼らの食欲が旺盛である事を物語っていた。放っておけば厄介な事になるのは目に見えている。だからと言うわけではないが、シーリンは素早く右手を上げ左から右へ凪ぐように払った。同時に組み上げられた呪文[スペル]は完成と同時に発動してワームに火を付ける。図体ばかりの芋虫二匹はあっけなく火達磨になってぼとりとビルから落ちた。

「――よし」
「なぁ、あん――」

 ぱしっ、と小気味良い音と共に叩き落とされたのは見知らぬ男の手だった。

「さわるな」

 不機嫌さも顕わにシーリンが唸る。男の手を叩いた左手は今にも軌跡を描きだしそうな勢いだ。何がそこまで彼女の機嫌を損ねたのか分からず、ラスティールは内心首を傾げながらもやんわりとその手を押さえた。初めから手を繋いでいたために、その時点で両手が塞がる。

「ひっでーな」

 大げさに片手をひらつかせる男の目は髪と同じ夕焼色をしていた。

「どちら様?」

 夕焼色。つまり、赤だ。

「あんたの同類」

 一目見て分かる《同族》の証にラスティールは目を細める。「だからなのね」と、音も無く呟いて繋いだ手に力を込めた。すぐさまそれ以上の力で握り返されればもう、決定的。

「ヴェルメリオって言えば、さすがに分かるだろ」
「いいえ」

 男――ヴェルメリオ――の存在そのものがシーリンを苛立たせるのなら、ラスティールの取るべき行動は一つだ。

「…まじで?」

 くるりとヴェルメリオに背を向けラスティールはシーリンの手を引く。「行きましょう」と促す声は、不自然なほど普段通りだった。

「さっさと成仏なさい」
「――分かってんじゃねーか!」

 去り際の言葉にだけからかうような色を乗せたラスティールの手が、肩越しにひらりと揺れる。手を振ったのだと、気付いてシーリンは顔を顰めた。

「馴れ馴れしい」
「妬かない妬かない」
「…誰がだ」

 今度は別の意味で不機嫌なシーリンの耳元へ唇を寄せ、ラスティールは「絶対に大丈夫だから」と念を押す。「だから壊しちゃ駄目よ」と、釘を刺されてシーリンは鋭く舌打ちした。乱暴に振って解こうとした手は、しっかりと握られていて離れない。

「……」
「どうかした?」

 逆に腕を絡めるように手繰り寄せられ、距離を詰められたシーリンは恨みがましくラスティールを見上げた。

「私はお前のそういう所が嫌いだ」
「私は貴女のそういう所も好きよ、シーリン」
 ごろごろと喉でも鳴らしそうな勢いで擦り寄ってくるルシフェルを押しどけるべきか放置するべきか、咄嗟に考えてしまって俺は唇を噛む。考えなければ、俺はもう《ルゥ》として生きられず、俺が《ルゥ》でなければ、ルシフェルは傍に置かない。ルシフェルが執着する唯一の輝きを失ってしまった俺にとって、今の関係は蜘蛛の糸だ。
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