一四三一年、この世に生を受けた後のワラキア公ヴラド・ツェペシュは、生まれながらに優秀な魔術師であった。
一四五六年、邪悪なる儀式によって自らを人ならざる「吸血鬼」へと変貌させたヴラドは夜の支配者となり、魔性の者として世界にその名を広める。
彼には血を分けた子が二人いたが、「純血」の娘・リトラは彼自身が「血分け」を行い、魔性の者へと変えた愛人・ニキータの子で、正妻であるキルシーとの子・セシルは呪われた混血児「ダンピール」だった。
一四七六年、セシルは持って生まれた「吸血鬼を殺す力」によって実の父であるヴラドを手にかけた。こうして「真祖」と呼ばれる始まりの吸血鬼は昼と夜の分かたれた世界に別れを告げる。
けれど彼を祖とする新しい種は、彼の死後も夜の支配者として君臨し続けた。
ヴァンパイアフィリア。――それがあたしにつけられた病名。自分でも酷い言われようだと思う。好血症なんて、まるであたしが吸血鬼だと言わんばかりじゃないか。
「――立花 夕里が、ここに宣言する」
立花夕里[タチバナユウリ]。今年で十八の高校三年生。性別・女。身長・一六七センチ。髪・最近切ってないからちょっと伸びたけど黒髪のショート。目・同じく黒。持病・ヴァンパイアフィリア、あるいは吸血病、あるいは好血症と呼ばれる血を好む症状を示す病気。趣味・
「あんたの負け」
吸血鬼狩り。
宣言された勝利によって、あたしの目の前で無様に這いつくばっていた吸血鬼が青い炎と共に燃え上がり、やがて灰と化す。その灰を持っていた携帯灰皿に入るだけ詰め込んで、あたしはさっさと埃臭い廃ビルを後にした。
日はとっくに暮れていて、見慣れない街並みに青白い夜が覆いかぶさっている。
(最近多いな…)
あたしは生まれながらに吸血鬼を殺す術を知っていて、殺すことの出来る力を持っていた。何故知っているのか、何故持っているのかは自分でもわからない。でも、一つだけ理解していることがある。
吸血鬼はあたしの命を狙っている。殺らなければ殺やられるという現実を前に持てる力の行使を躊躇うほど、あたしは博愛主義者じゃないし、偽善者でもなかった。
目には目を、歯には歯を。遠い異国の法典に則って、ではないけど、あたしはそうすることを選んだ。だからまだ生きている。
なんて行き難い世の中なんだろう。「人間ではないから」なんて薄っぺらい言葉が、命を奪う免罪符になるはずもないのに。
「――混血の臭いがするな」
ぴちゃりと粘着質な水音がして、あたしは立ち止まる。歩きながら考え込んでいたらしい。おかげで気付くのが遅れた。致命的でらしくないミス。
鼻につくのは夜の冴え冴えとした空気に薄められて尚存在感を主張する、血の臭い。
異質な気配がねっとりと肌を撫でた。
「名を聞こう、我が同胞を手にかけし者よ」
限りなく満月に近い月の下、片手に大きな塊をぶら下げた男が少し先の曲がり角から姿を現す。塊は死んだか気を失ったかした人間で、男は口元を真っ赤に濡らした吸血鬼。
「立花、夕里」
あたしは心中で鋭く舌打ってポケットの携帯灰皿を握り締めた。
「憶えておこう。お前は優秀なハンターであるようだからな」
「それはどうも…」
闘って勝てる状況ではないと分かっているのに、目の前の男相手に逃げおおせられるとは到底思えないせいで、両足が地面に縫い付けられたように動かない。
もしかすると、あたしはここで殺されてしまうのかもしれない。
「だが残念だ。お前がハンターである以上、私はお前を倒さねばならん」
吸血鬼の男は引きずっていた獲物を何の未練もなく手放して、その言葉とは裏腹に嗤った。
「何か言い残すことがあるなら聞いてやろう。敬意を表して」
あたしという絶好の獲物を前に、勝利を確信して止まぬ笑み。
(言い残すこと、か…)
この手を、吸血鬼とはいえ生き物の血に染める度、あたしはその血の持ち主を忘れないよう努めた。努めていた、はずだ。なのに今、あたしは自分が初めて手にかけた吸血鬼の顔を思い出せない。男だったか、女だったかさえあやふや。
「必要ない」
ならば尚更、対峙する吸血鬼の言葉は意味を成さない戯れだ。
「人にしては気高くもある」
気休めは必要ない。誰かの記憶に残る必要だってない。あたしが生きることを選択して、この手を真っ赤に染めたあの日から、本当のあたしを知っているのはあたしだけ。
「ならばせめて、苦しめずに逝かせてやろう」
男は親指の腹で唇を拭って、吸血鬼らしい残忍な笑みを浮かべた。
青白い、夜。
「それはどうも」
あたしは目を閉じた。
「さらばだ、若きハンターよ」
「――ざぁんねんでしたぁ」
「なっ…」
覚悟していた衝撃、あるいは痛みがいつまで経っても訪れないことを訝しんで、あたしは目を開ける。
相変わらず道の少し先には吸血鬼の男が立っていて、その足元には倒れた人間、頭上には満月になりそこなった月が君臨していた。目を閉じる前と何一つ変わらない光景。
ならば何故、あたしは生きている?
「邪魔をする気なのか!?」
吸血鬼の男が、さっきまでの余裕ぶった表情を嘘のように強張らせて叫んだ。
「なに…?」
その目はもう、あたしを見てはいない。あたしを通り越して、他の何かを凝視していた。
驚愕と恐慌が、瞳の中で渦を巻く。――恐怖、している?
「このコはあげなーい」
冷やかな風が頬を撫でた。軽薄そうな男の声が、あたしを通り越して一人の吸血鬼へと絶望を運ぶ。
「灰被り…」
「半世紀振りかなぁ? ヒ・サ・シ・ブ・リ、コール・ノイラ」
振り返ろうとしたあたしの動きを制限するように、灰被りと呼ばれた男があたしの首に腕を回した。袖口からほんの少ししか露出していない指先が胸の前で組まれて、頭の上に微かな重み。
「どういう、つもりだ」
おかしいくらいに震えている男――コール・ノイラ――の言葉に、灰被りが小さく喉を鳴らしたのが分かった。クツクツと、頭の上から楽しげな声が降って来る。
「どうって?」
おそらく吸血鬼であろう灰被りの考えていることが、あたしには分からなかった。
それは同族であるコールも同じなのだろう。そ知らぬ様子で問い返した灰被りに酷く狼狽して、平静を保とうとするかのようにきつく拳を握るのが見えた。
「貴方が今、その腕に抱いているのはハンターだ。私たちは絶たれる前に絶たねばならない…」
「そんなのシラナイ」
無知な大人と、冷酷な子供。
「真祖の最期を忘れたのか!?」
コールが怒気を露に叫んでも、灰被りは相手にしようとしなかった。
「アレはただの死にたがりサ」
たった一言で切り捨てられ、コールは口を噤む。灰被りは嗤った。
「サァ、分かっただろう? コール・ノイラ。小生はこのコを――少なくともキミの目の届く範囲で――手放す気はないんダ。大切なコだからネ」
見せ付けるようあたしの頬に手を添えて、いつの間にか腰へと回っていた腕でもって引き寄せる。倒れると思うまもなく抱きとめられたあたしは、なす術を知らない。
「何が貴方をそうさせる……貴方ともあろう人が、何故…」
「小生はただ灰被りサ。キミが小生のことをどう思ってるかなんて知らないヨ」
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一四三一年、この世に生を受けた後のワラキア公ヴラド・ツェペシュは、生まれながらに優秀な魔術師であった。
一四五六年、邪悪なる儀式によって自らを人ならざる「吸血鬼」へと変貌させたヴラドは夜の支配者となり、魔性の者として世界にその名を広める。
彼には血を分けた子が二人いたが、「純血」の娘・リトラは彼自身が「血分け」を行い、魔性の者へと変えた愛人・ニキータの子で、正妻であるキルシーとの子・セシルは呪われた混血児「ダンピール」だった。
一四七六年、セシルは持って生まれた「吸血鬼を殺す力」によって実の父であるヴラドを手にかけた。こうして「真祖」と呼ばれる始まりの吸血鬼は昼と夜の分かたれた世界に別れを告げる。
けれど彼を祖とする新しい種は、彼の死後も夜の支配者として君臨し続けた。
深い夜が広がっていた。獣たちでさえ息を潜め気配を殺し、朝を待つ漆黒の夜が。
「――貴方も物好きね、コール」
艶やかな女の声が冴え冴えとした空気を震わせる。冷たい石床をヒールが叩くカツリカツリという音を辿って、コールは女――カサノバ――へと目を向けた。
夜の支配者たる彼らの目は容易く闇を見通す。
「お前か」
愛想の欠片もないコールの言葉に肩を竦めて、カサノバは緩くくねる自慢の髪を指先に絡めながら、ごあいさつねぇと笑った。
「せっかく、貴方が知りたくて知りたくて仕方のない始祖鬼の情報を、持ってきてあげたのに」
コールは目を瞠る。それはと、半ば無意識の内に零された言葉は掠れていた。
「聞きたい?」
髪を絡めた指先を口元に寄せながら、カサノバは勿体つけて問う。
コールは表情を歪めた。
「何が望みだ」
優しい声がした。ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声。
『ユーリ、ユーリ、薔薇を持って来たよ』
差し出された一輪の薔薇は、海の色を映したように鮮やかな青をしていて、ユーリの色だよと、声は笑った。
『ユーリに一番似合う色にしたんだ』
あたしではない誰かの色。
『今度は花束にして持ってくるよ。土に根付いたら広い所に移して、花畑を作ろう』
描かれる夢のような未来図に眩暈がした。真っ青な薔薇で埋め尽くされる世界。もしこの目で見ることが出来たなら、永遠だって信じられるだろう。
『二人で歩こうよ、ユーリ』
泡沫の夢。
幸福な夢から醒める。青の似合うユーリは平凡な女子高生の夕里に戻って、変化に乏しい日常のループに絡め取られた。
虚しさが込み上げる。
(二人で歩こう、か…)
伸ばした手はありもしない薔薇を掴もうとして空を掻いた。幾ら手繰っても手繰っても手繰っても、夢の欠片は得られない。泡沫。
「あたしは夕里。立花、夕里」
ユーリじゃないと言い聞かせるような言葉は一体誰に対してのものなのか、あたし自身わからなかった。取り違えるなという自分への警告なのか、それとも――。
「学校、行かなきゃ」
カーテンの隙間からのぞく空はどこまでも晴れていた。まるであの夢のように。
「おはよーレンフィーちゃん」
「…おはよう」
なかなか働き始めない頭を振って二人がけのソファーに沈むと、斜め前に置かれた一人がけのソファーに座るジキルが首を傾げた。
「今日は早いんダネ」
肘掛に置いたカップに何杯目か分からない砂糖が落とし込まれる。
「目が覚めた」
「ソウ」
「…まだ入れるのか」
カップの内容物を甘くすることではなく、砂糖を入れるという行為そのものが目的であるかのように、砂糖は足され続けた。
「レンフィーちゃんも飲む? 珈琲」
少しして、ジキルが問う。
柔らかく体を包むソファーの心地よさにまどろんでいた私は、ぼんやりとカップの中身が珈琲であることを理解した。力の抜けた腕が腹から落ちて、指先を絨毯が掠める。
「飲めもしないものを淹れるな、勿体無い」
「レンフィーちゃんが飲むかと思って」
ジキルが〝態々〟飲めもしない珈琲を淹れたのだと理解して、ほんの少しだけ目が覚めた。
「…飲む」
本当に少しだけ。横になっていたらまた眠ってしまいそうだったから、後ろ髪引かれながらも体を起こす。
差し出されたカップ。
「小生今日は出かけるんだけど、レンフィーちゃんも来る?」
「いいや」
ジキルが主に活動する時間帯を知っている私はすぐに同行を拒否して、カップだけは丁寧に受け取る。残念ながらお前ほどの酔狂さは持ち合わせていない。
「なら、レンフィーちゃんはお留守番」
分かっていたように頷いて、そのまま開けっ放しの扉へ。歩く度に揺れる長い灰色の髪は、すぐに視界から消えた。
「そうだな」
私を目を閉じる。冷めた珈琲の何とも言えない味がじわりと胸にしみた。
部屋の入り口に放り出していたカバンと携帯だけを持って家を出る。あたし以外誰も居ない、寂れた二階建てアパートの一室。錆付いた外階段を降りて見上げれば、壁にはりついた蔦が時代を感じさせた。いかにも古そうで、実際古い。壁も薄いからたまに隣の部屋の話し声が聞こえてきたりもする。でも家賃は安くて、住人も大家さんも親切だから結構気に入っている。あたしは、ここが好き。
「いってらっしゃい夕里ちゃん」
二階の窓から顔を覗かせた角部屋のお姉さんが、キャミソールのまま手を振った。風邪引きますよと苦く笑って、あたしは大きく手を振り返す。
「いってきます!」
朝の静けさに包まれた街を急ぐことなく歩いた。通い慣れた通学路。毎日のように目にする街並みが、ゆっくりと流れていく。
(――ぁ、)
何気なく見上げた空と夢の中の空とが重なった。青い薔薇の花弁が無数にひらひらと、あたしの幻想に落ちてくる。伸ばした手はやはり空を掻いた。泡沫と、呟いて固く拳を握る。現実逃避の仕方は忘れてしまったはずだ。
あたしはもう現実から目を背けたりはしない。楽な方へ楽な方へと思考を持っていくことがさらなる苦行を引き寄せるなら、あたしはいつだって最悪の未来を選択する。不幸の底には裏切りも、絶望もないことを知っているから。
緩く頭を振ることで振り払った花弁は、打ち捨てられ朽ち果てることなく消えてなくなる。脆い幻想から目を背けあたしはアスファルトの地面を見据えた。泣いても笑っても、あたしはここで生きていくしかない。だって、ここで生まれたんだから。
ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声がリフレインした。
「――混血の匂いがするな」
暗転。
はらりと花弁が舞った。
「……」
ジキルの淹れた珈琲はまだ半分ほどカップに残されたまま、テーブルの上に随分前から放置されている。その少し向こうに置かれた硝子のコップ。入れられた薔薇の花弁が一枚、はらりと舞った。
普通の花ならそういうこともあるだろう。けれどこの屋敷で、その花が散るはずのないことを私は知っている。
あれは二度と散らされることのない、約束された花だ。
「ジキル…?」
まどろんでいた意識が急速に正常な働きを取り戻す。心臓が鼓動を増して、らしくないと分かっていても、部屋を飛び出さずにはいられなかった。無駄に広い廊下を駆けながら、伸ばした手は何もない空間から黒衣を引きずり出す。フードのついた、足元までを隙間なく覆うローブ。夜に溶け込むその色は、月のない世界では酷く浮いて見えた。
(クソッ)
廊下の途中をエントランスではなくバルコニーへと曲がって、そのまま外へ。室内では抑えていた力を解放すれば周囲の景色が輪郭を濁した。人間の目では決して捉えられない速さで昼の世界を駆け抜ける。付きまとう違和感と倦怠感には目を瞑った。元々、日の光に弱い血筋ではない。
(どこに行った…)
出かけると告げて出かけるようになっただけ進歩。けれど行き先くらい告げて行けばいいものをと思わずにはいれなかった。昔から、ジキルの気配だけは探すのに苦労する。無駄に薄くて頼りなく、今にも消えてしまいそうな存在感。
それでも、見失うことはない。
(――いた!)
私たちもまた〝約束〟されているのだから。
薄い被膜の破れるような音がして、はっと立ち止まる。
「今…」
朝の少し冷たい空気に手を伸ばしても明確な答は得られなかったが、頭の中ではガンガンと警鐘が鳴り響いていた。
「……」
なんとも言い難い感情が胸を満たす。歓喜しているとも、恐怖しているともつかないそれは酷く壊れやすいように思えて、一瞬扱いに困った。
それでもと、頭の中で冷静な自分が行動を促す。
「ごめんね」
胸に挿した薔薇から花弁を一枚貰い、そっと唇につけ必要な言葉を紡ぐ。この世界で最も魔術に適した言葉は、はっきりと発音されることなく花弁に溶けた。
熱を持った花弁が独りでに動き出す。風に流され頼りなく揺れながら、進むべき方向を示し、後を追うように更なる呪文を唱えると、風を切るように飛んだ。
追って駆け出すと、すぐに人気のない方へ向かっているのだと気付く。鳴り止まない警鐘が音を増し、花弁が速度を上げた。
風を切って走る感覚が、今は遠い過去の記憶と交差する。高層ビルに囲まれた今が昔よりも少しだけ息苦しく感じるのは、きっと――
「――こんな昼間から、お食事ィ?」
意図して上げた〝普段通り〟の言葉は不自然ではなかったろうか。
「…来たな」
見知らぬ吸血鬼が一人。腕の中にはこれまた見知らぬ少女。
(誘われた…?)
息苦しさが遠のいたのは刹那。
「現存する最古の始祖鬼、灰被りジキル。領域を荒らせばあるいはと思ったが、こうも簡単にかかるとは」
男の言葉にまんまと嵌められたのだと理解する。同時に、胸元の薔薇が散った。
「ッ!」
無数の花弁が一つ一つ凶器となって男へと襲い掛かる。
「なら分かってると思うケド、」
瞬くよりも短い間に意識のない少女を男の腕から攫い上げ、足場のない空に降り立った。
よく知る人影が、入れ代わるように下へ。
「小生の街には凶暴なハンターがいるんダ」
振り下ろされた大鎌は鈍い音と元にアスファルトの地面へと突き刺さる。男はチッと鋭く舌打ちして自分の影に沈んだ。ヒンタテューラへの逃走。
「追わなくていいよ、レンフィーちゃん」
「誰が追うか」
引き抜いた大鎌を器用にクルクルと回していたレンフィールドが、どこか不機嫌そうにこちらを仰いだ。
「私はあそこが嫌いだ」
『二人で歩こう』
長く伸びた灰色の髪から覗かせた同じ色の瞳に、溢れんばかりの幸福を湛えて、無邪気な男が笑った。欠片ほどの彩りも無いその男が、あたしの目には何よりも眩しく映る。
『―――』
あたしではない誰かが彼を呼ぶ声は、音もなく弾けた。
『きっと見つけるから』
どんなに願ったって、あたしは夢の中の愛されたユーリにはなれない。
「帰ろうレンフィーちゃん」
少し乱暴に扱えば壊れてしまう。酷く脆弱な人間の子供を宝物のように腕に抱いて、ジキルは私を促した。
連れて帰る気かと、当然の問いかけを呑み込む。
「…あぁ」
ジキルによって散らされた薔薇はジキルによって再び花の形を成し、少女の胸に納まっていた。それが答。
(約束された魂、か…)
アスファルトの地面を蹴って跳躍。何もない空間を足場にジキルと同じ目線に立って、塞がった彼の手に触れた。
「いいぞ」
この世界で最も魔術に適した言葉がジキルによって紡がれて、私とジキル、ジキルに抱かれた少女の周囲で世界が歪む。
気付いた時には見慣れた屋敷のバルコニーに立っていた。嗚呼流石だと、声には出さないが心の中で感嘆の息を吐く。目を閉じていたら、きっと世界の歪みを渡ったことなんて気付かなかっただろう。
「…怒ってる?」
「何について」
「全部だよ」
「さぁな」
部屋を飛び出す時、つい持ってきてしまった薔薇を眠り姫の胸に挿して、二人に背を向けた。それが明確な答であることに、ジキルは気付いただろうか。
「手が必要なら、呼べ」
気付かなければそれでいい。でもきっと気付いているだろうから、私はそれ以上何も言わず、振り返りもせず、与えられた自室へと帰った。
「あら、お早いお帰りね」
態とらしく驚いたような素振を見せれば、それを見て不機嫌そうに眉根を寄せる。
「種は蒔いた」
「それで?」
全く、分かり易いったらない。
「芽が出れば私の勝ちだ」
長い石畳の廊下を立ち止まることなく歩いていくコールの姿を見送って、ふと、戯れに自分自身の左手首に口付けてみた。
「貴方はあの人に勝てないわ」
左腕にはワインレッドの薔薇を模ったタトゥーが刻まれている。手首の蕾から伸びた蔓を辿って、甲の咲き誇る大輪の薔薇へと唇を移すと、胸の奥が鈍く疼いた。
「だって、」
そのタトゥーは忌まわしい呪いであり大切な約束だった。最後に交わした言葉は再会を誓うものではなかったのだから、与えられることのない愛を求め足掻いている方が私には似合いだろう。
「芽は出ないもの」
彼[カ]の始祖鬼にとってコールなど、自ら手を下す価値もない存在であることは、火を見るよりも明らかだ。
「バカねぇ」
そのことに気付かないのは当の本人一人きり。
「灰被りなんて、一番手強い相手じゃない」
――ユーリ、ユーリ、ボクをおいていかないで
「無邪気に見えたって力だけは本物なんだから」
――泣かないで、ジキル。大丈夫、貴方は独りじゃない
「舐めてかかると瞬殺よ?」
――また会えるから
誰かに呼ばれているような気がして目が醒めた。柔らかくて、温かくて、優しいのに今にも泣き出してしまいそうな声が、ユーリ、ユーリと、縋るように繰り返す。
その声があまりにも悲痛で、懐かしかったから、あたしは答えてしまった。
「『ジキル』」
夢の中の、あたしではない誰かの唇をなぞった言葉が焦点を結ぶ。ジキルと、あたしはあたしの知らない誰かの名を紡いだ。
「ユー、リ…?」
そして呼ばれる。
「――ぇ?」
夢が音を立てて現実へと近づいたような気がした。ぼんやりとしていた視界が一気に鮮明さを取り戻し、見慣れない天井が飛び込んでくる。広い部屋だ。天井が、遠い。知らない場所。
一四三一年、この世に生を受けた後のワラキア公ヴラド・ツェペシュは、生まれながらに優秀な魔術師であった。
一四五六年、邪悪なる儀式によって自らを人ならざる「吸血鬼」へと変貌させたヴラドは夜の支配者となり、魔性の者として世界にその名を広める。
彼には血を分けた子が二人いたが、「純血」の娘・リトラは彼自身が「血分け」を行い、魔性の者へと変えた愛人・ニキータの子で、正妻であるキルシーとの子・セシルは呪われた混血児「ダンピール」だった。
一四七六年、セシルは持って生まれた「吸血鬼を殺す力」によって実の父であるヴラドを手にかけた。こうして「真祖」と呼ばれる始まりの吸血鬼は昼と夜の分かたれた世界に別れを告げる。
けれど彼を祖とする新しい種は、彼の死後も夜の支配者として君臨し続けた。
深い夜が広がっていた。獣たちでさえ息を潜め気配を殺し、朝を待つ漆黒の夜が。
「――貴方も物好きね、コール」
艶やかな女の声が冴え冴えとした空気を震わせる。冷たい石床をヒールが叩くカツリカツリという音を辿って、コールは女――カサノバ――へと目を向けた。
夜の支配者たる彼らの目は容易く闇を見通す。
「お前か」
愛想の欠片もないコールの言葉に肩を竦めて、カサノバは緩くくねる自慢の髪を指先に絡めながら、ごあいさつねぇと笑った。
「せっかく、貴方が知りたくて知りたくて仕方のない始祖鬼の情報を、持ってきてあげたのに」
コールは目を瞠る。それはと、半ば無意識の内に零された言葉は掠れていた。
「聞きたい?」
髪を絡めた指先を口元に寄せながら、カサノバは勿体つけて問う。
コールは表情を歪めた。
「何が望みだ」
優しい声がした。ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声。
「ユーリ、ユーリ、薔薇を持って来たよ」
差し出された一輪の薔薇は、海の色を映したように鮮やかな青をしていて、ユーリの色だよと、声は笑った。
「ユーリに一番似合う色にしたんだ」
あたしではない誰かの色。
「今度は花束にして持ってくるよ。土に根付いたら広い所に移して、花畑を作ろう」
描かれる夢のような未来図に眩暈がした。真っ青な薔薇で埋め尽くされる世界。もしこの目で見ることが出来たなら、永遠だって信じられるだろう。
「二人で歩こうよ、ユーリ」
泡沫の夢。
幸せな夢から醒める。青の似合うユーリは平凡な女子高生の夕里に戻って、変化に乏しい日常のループに絡め取られた。
虚しさばかりが込み上げる。
(二人で歩こう、か…)
伸ばした手はありもしない薔薇を掴もうとして空を掻いた。幾ら手繰っても手繰っても手繰っても、夢の欠片は得られない。泡沫。
「あたしは夕里。立花、夕里」
ユーリじゃないと言い聞かせるような言葉は一体誰に対してのものなのか、あたし自身わからなかった。取り違えるなという自分への警告なのか、それとも――。
「学校、行かなきゃ」
カーテンの隙間からのぞく空はどこまでも晴れていた。まるであの夢のように。
「おはよーレンフィーちゃん」
「…おはよう」
なかなか働き始めない頭を振って二人がけのソファーに沈むと、斜め前に置かれた一人がけのソファーに座るジキルが首を傾げた。
「今日は早いんダネ」
肘掛に置いたカップに何杯目か分からない砂糖が落とし込まれる。
「目が覚めた」
「ソウ」
「…まだ入れるのか」
カップの内容物を甘くすることではなく、砂糖を入れるという行為そのものが目的であるかのように、砂糖は足され続けた。
「レンフィーちゃんも飲む? 珈琲」
少しして、ジキルが問う。
柔らかく体を包むソファーの心地よさにまどろんでいた私は、ぼんやりとカップの中身が珈琲であることを理解した。力の抜けた腕が腹から落ちて、指先を絨毯が掠める。
「飲めもしないものを淹れるな、勿体無い」
「レンフィーちゃんが飲むかと思って」
ジキルが〝態々〟飲めもしない珈琲を淹れたのだと理解して、ほんの少しだけ目が覚めた。
「…飲む」
本当に少しだけ。横になっていたらまた眠ってしまいそうだったから、後ろ髪引かれながらも体を起こす。
差し出されたカップ。
「小生今日は出かけるんだけど、レンフィーちゃんも来る?」
「いいや」
ジキルが主に活動する時間帯を知っている私はすぐに同行を拒否して、カップだけは丁寧に受け取る。残念ながらお前ほどの酔狂さは持ち合わせていない。
「なら、レンフィーちゃんはお留守番」
分かっていたように頷いて、そのまま開けっ放しの扉へ。歩く度に揺れる長い灰色の髪は、すぐに視界から消えた。
「そうだな」
私を目を閉じる。冷めた珈琲の何とも言えない味がじわりと胸にしみた。
部屋の入り口に放り出していたカバンと携帯だけを持って家を出る。あたし以外誰も居ない、寂れた二階建てアパートの一室。錆付いた外階段を降りて見上げれば、壁にはりついた蔦が時代を感じさせた。いかにも古そうで、実際古い。壁も薄いからたまに隣の部屋の話し声が聞こえてきたりもする。でも家賃は安くて、住人も大家さんも親切だから結構気に入っている。あたしは、ここが好き。
「いってらっしゃい夕里ちゃん」
二階の窓から顔を覗かせた角部屋のお姉さんが、キャミソールのまま手を振った。風邪引きますよと苦く笑って、あたしは大きく手を振り返す。
「いってきます!」
朝の静けさに包まれた街を急ぐことなく歩いた。通い慣れた通学路。毎日のように目にする街並みが、ゆっくりと流れていく。
(――ぁ、)
何気なく見上げた空と夢の中の空とが重なった。青い薔薇の花弁が無数にひらひらと、あたしの幻想に落ちてくる。伸ばした手はやはり空を掻いた。泡沫と、呟いて固く拳を握る。現実逃避の仕方は忘れてしまったはずだ。
あたしはもう現実から目を背けたりはしない。楽な方へ楽な方へと思考を持っていくことがさらなる苦行を引き寄せるなら、あたしはいつだって最悪の未来を選択する。不幸の底には裏切りも、絶望もないことを知っているから。
緩く頭を振ることで振り払った花弁は、打ち捨てられ朽ち果てることなく消えてなくなる。幻想から目を背けあたしはアスファルトの地面を見据えた。泣いても笑っても、あたしはここで生きていくしかない。だって、ここで生まれたんだから。
ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声がリフレインした。
「――混血の匂いがするな」
暗転。
はらりと花弁が舞った。
「……」
ジキルの淹れた珈琲はまだ半分ほどカップに残されたまま、テーブルの上に随分前から放置されている。その少し向こうに置かれた硝子のコップ。入れられた薔薇の花弁が一枚、はらりと落ちた。
普通の花ならそういうこともあるだろう。けれどこの屋敷で、その花が散るはずのないことを私は知っている。
あれは二度と散らされることのない、約束された華だ。
「ジキル…?」
まどろんでいた意識が急速に正常な働きを取り戻す。心臓が鼓動を増して、らしくないと分かっていても、部屋を飛び出さずにはいられなかった。無駄に広い廊下を駆けながら、伸ばした手は何もない空間から黒衣を引きずり出す。フードのついた、足元までを隙間なく覆うローブ。夜に溶け込むその色は、月のない世界では酷く浮いて見えた。
(クソッ)
廊下の途中をエントランスではなくバルコニーへと曲がって、そのまま外へ。室内では抑えていた力を解放すれば周囲の景色が輪郭を濁した。人間の目では決して捉えられない速さで昼の世界を駆け抜ける。付きまとう違和感と倦怠感には目を瞑った。元々、日の光に弱い血筋ではない。
(どこに行った…)
出かけると告げて出かけるようになっただけ進歩。けれど行き先くらい告げて行けばいいものをと思わずにはいれなかった。昔から、ジキルの気配だけは探すのに苦労する。無駄に薄くて頼りなく、今にも消えてしまいそうな存在感。
それでも、見失うことはない。
(――いた!)
何故なら私たちもまた〝約束〟されているのだから。
ヴァンパイアフィリア。――それがあたしにつけられた病名。酷い言われようだと思う。好血症なんて、まるでおまえは吸血鬼だと言わんばかりじゃないか。
「――立花 夕里が、ここに宣言する」
立花夕里[タチバナユウリ]。今年で十八の高校三年生。性別・女。身長・一六七センチ。髪・最近切ってないからちょっと伸びたけど黒髪のショート。目・同じく黒。持病・ヴァンパイアフィリア、あるいは吸血病、あるいは好血症と呼ばれる血を好む症状を示す病気。趣味・
「あんたの負け」
吸血鬼狩り。
宣言された勝利によって、あたしの目の前で無様に這いつくばっていた吸血鬼が青い炎と共に燃え上がり、やがて灰と化す。その灰を持っていた携帯灰皿に詰め込んで、あたしはさっさと埃臭い廃ビルを後にした。
日はとっくに暮れていて、見慣れない街並みに青白い夜が覆いかぶさっている。
(最近多いな…)
あたしは生まれながらに吸血鬼を殺す術を知っていて、殺すことの出来る力を持っていた。何故知っているのか、何故持っているのかは自分でもわからない。でも、一つだけ理解していることがある。
吸血鬼はあたしの命を狙っている。殺らなければ殺やられるという現実を前に持てる力の行使を躊躇うほどあたしは博愛主義者じゃないし、偽善者でもなかった。
目には目を、歯には歯を。遠い異国の法典に則って、ではないけど、あたしはそうすることを選んだ。だからまだ生きている。
なんて行き難い世の中なんだろう。「人間ではないから」なんて薄っぺらい言葉が、命を奪う免罪符になるはずもないのに。
「――混血の臭いがするな」
ぴちゃりと粘着質な水音がして、あたしは立ち止まる。歩きながら考え込んでいたらしい。おかげで気付くのが遅れた。致命的でらしくないミス。
鼻につくのは夜の冴え冴えとした空気に薄められて尚存在感を主張する、血の臭い。
異質な気配がねっとりと肌を撫でた。
「名を聞こう、我が同胞を手にかけし者よ」
限りなく満月に近い月の下、片手に大きな塊をぶら下げた男が少し先の曲がり角から姿を現す。塊は死んだか気を失ったかした人間で、男は口元を真っ赤に濡らした吸血鬼。
「立花、夕里」
あたしは夕飯もまだでヘトヘトだ。
「憶えておこう。お前は優秀なハンターであるようだからな」
「それはどうも…」
闘って勝てる状況ではないと分かっているのに、目の前の男相手に逃げおおせられるとは到底思えないせいで、足の裏は地面に縫い付けられたように動かない。
もしかすると、あたしはここで殺されてしまうのかもしれない。
「だが残念だ。お前がハンターである以上、私はお前を倒さねばならん」
嗚呼やっぱり。
「何か言い残すことがあるなら聞いてやろう。敬意を表して」
あたしはここで終わるのか。こんなところで、まだ十八にもなってないのに。
(白馬の王子様の出前とか、ないかなぁ…)
因果応報の名の下に。
「――――」
夕里と名乗った若きハンターへ死の祝福を与えようと持ち上げた手は、風に紛れ届いた空耳ともつかぬ言葉の前に凍りついた。
まさかと、掠れきった声が零れる。
遅れて現れた気配と影は、夜よりも深く濃い闇を纏い舞い降りた。
月光の下にありながら光を宿さない瞳が刹那のぞき、すぐに長く伸びた灰色の髪に覆われる。
「聞こえなかったのカナ?」
コールは戦慄した。灰被りの吸血鬼は嗤う。自分の物だと言わんばかりに夕里の体を抱き竦めながら。
「小生は失せろと言ったんダヨ」
言葉がそのまま力となってコールの存在を圧迫した。喘ぐようにしか呼吸できないという屈辱に歴然とした実力を見て、コールはさっとその姿を闇に溶かす。
灰被りは前髪に覆われた容貌を純粋な歓喜に歪めた。
「――もうダイジョウブ」
囁けば、夕里はぴくりと肩を揺らす。
硝子越しに見える空は少し曇っていたが、サンルームの中は程よい暖かさに保たれていた。
肌寒い廊下を歩いてきたイヴリースは温度差に小さく身震いし、暖まった空気が逃げてしまわないようすぐに扉を閉める。
歪みのない扉は物音一つ立てることなく元あった場所に収まり、サンルームに置かれたベンチに横たわる少女はイヴリースが現れたことに気付きもせず、夢と現実の間に意識を彷徨わせていた。部屋の一角から湧き上がる清水さえ彼女に遠慮して息を潜めている。
イヴリースは音を立てないよういつになく慎重に歩きながら、鮮やかな紅色の髪をした少女――ジブリール――を起こしていいものかどうか、考えていた。
「…ジル?」
ベンチの背もたれに寄りかかり、控えめに口にした愛称にジブリールは気付かない。
結局イヴリースは彼女を起こさないことに決めて、そっと何事か囁くと穏やかな時間の流れるサンルームを後にした。
ちょっと出かけてくるよ。
「……――イヴ…?」
住み慣れた屋敷の中でも、そこはイヴリースにとっても、他の住人たちにとっても特別な場所だった。
〝扉の廊下〟
その名の通り扉ばかり並んだ廊下は「地のエデン」と呼ばれるこの世界から抜け出す数少ない手段の一つであり、またイヴリースの持つ人ならざる力の象徴のようなものでもあった。
扉の廊下に連なる扉の向こうには、一つ一つ、全く別の世界が広がっている。神の能力[チカラ]と呼ばれるイヴリースだけが許された世界創造の力によって生み出された世界は、扉の廊下に並ぶ扉の数だけ存在し、彼女の気まぐれで増減を繰り返す。
けれどほんの一握りの例外もあった。
廊下の扉には一様に、イヴリースともう一人――神の知識と呼ばれるジブリール――だけが読み解くことの出来る、到底文字とは呼び難い幾何学模様が刻まれている。幾何学模様以外のものが刻まれていれば、それはイヴリースの力が及ぶことのない〝例外〟の世界。
「この辺りだったような気がするんだがな…」
緩やかに右へカーブしているせいで果ての見えない扉の廊下で、目星をつけていた辺りに並ぶ扉の模様を一つ一つ確認しながら、イヴリースは一つの例外を探していた。
そして見つける。
「嗚呼、あった」
イヴリースが立ち止まり手を触れた扉には翅[ハネ]を休める蜂の姿が鮮明に刻まれ、流れるような筆記体て『Alveare』と銘打たれていた。他の扉と見比べるまでもない、明らかな〝例外〟。
イヴリースは笑った。普段の彼女を知る者ならば目を疑うほどの穏やかさ、彼女の家族ならば目を覆うほどの無邪気さで。
「さぁ、出かけようか」
手をかけたドアノブの下に鍵穴はない。それもまた、その向こうに広がる世界に彼女の力が及ばないことの証。左手に嵌めた銀の指輪に軽く口付け、いってきますと囁きイヴリースは扉の向こうへ身を投げた。
扉は音もなく閉じる。
「なちー!」
「……」
見覚えのある背中を追ってコンビニを出た途端、照りつける日差しにどっと汗が噴き出した。呼び止めようとした背中は俺が暑さにたじろいでいる間にも、立ち止まることなく離れていく。追いかけるよりコンビニに戻るほうが涼しいし疲れなくてすむ。でも部活の時間はギリギリだ。
「待てよ那智! おいてくなって」
街路樹の陰に沿って駆け寄り隣に並ぶと、那智はこの上なく面倒そうな視線を俺に向け、仕方なさそうに耳にかけたイヤホンを引き剥がす。音量が低いのか、何を聞いていたのかは分からなかった。
「おいてく?」
いつもの二割り増しで機嫌の悪そうな那智が低く声を上げる。何を言ってるんだと、見下したような声色。
「言葉のアヤだって、聞こえてんなら無視すんなよ」
「…会話すんのもメンドイ、暑いし」
そう言いつつ会話に応じてくれる那智は見かけの割りに優しい。というか、こうも暑い日じゃなきゃ見た目もイイ感じで、そりゃあもう女子にもてる。
「コンビニ寄る?」
「……馬鹿」
本人にその気がないところがまた恨めしい。
「馬鹿ゆーな。…なー、もう今日部活よくね? どっか遊び行こうぜ」
「…どこに?」
「涼しいトコ、海とか」
「電車賃お前が出すなら」
「げー」
あからさまに俺が表情を歪めると目の端で那智が小さく笑った。最近暑い日続きで険しい表情ばかり見ていた俺は嗚呼でも、それでもいいかなんて思って、那智のスポーツバッグの肩紐を掴む。
「おい!?」
「海行こーぜ!」
「……ったく…」
進行方向を九十度変えて、走り辛そうな那智を引っ張って、俺は駅を目指した。
「カキ氷もおごれ」
「任しとけ!」
もううだるような暑さも気にならない。
安定しない扉の出口が目的の場所からさほど遠くなかったのをいいことに、楽をしようと滅多に使わない交通手段を選んだ。車にしろバイクにしろ迎えにしろ、容赦ない夏の暑さに手配する気力さえ失せる。
(来る時間を選ぶべきだった…)
無人の券売機で取り合えず聞き覚えのある駅名を選んで、出てきた切符と釣銭――仕方ないから金だけは取り寄せた。知り合いの財布から――を持って改札を通り、人気のないプラットホームへ上がる。駅舎からせりだした屋根の下は涼しい風が絶えず行き交っていた。
「――ほら、急げって!」
「まだ時間あるだろ…」
「早く涼みたい!」
改札の方から聞こえてくる会話を何ともなしに聞き流しながら、そっと指先を風にさらす。この世界の精霊はどちらかというと希薄だが、それでもじゃれるように指先で騒ぐ気配があった。くすぐるように指を動かすと、首元を風が掠め涼しさが増す。
「あ、電車来たぜ那智ー、鈍行だけどいいだろ?」
「次を待つよりは」
「よし」
同時に何かピリピリとしたものが背筋を伝ったが、その真意を探る前に風の精霊はホームに滑り込んできた電車の纏う無遠慮な熱に追い立てられ、イヴリースの元を去った。
「……」
風が何を伝えようとしていたのか、ジブリールのように全知ではないイヴリースには分からない。知る術がないこともないが、果たしてそこまでする必要があるだろうか。――この例外の世界は良くも悪くもイヴリースの思惑の外で回っている。
「おねーさん」
「っ…――なぁに?」
「あ、驚かせちゃった? ゴメンね。乗らないのかなーって思ってさ、次の電車までまだ三十分くらいあるから」
ホームにも二両編成の電車の中にも、ざっと見人影はなかった。今この場にいるのはイヴリースと二人の少年。
「ごめんなさい、ぼーっとしてたみたい。…乗るわ、教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
気の良さそうな少年に道を譲られ、イヴリースは機械的な冷たさで満ちた車両へと乗り込む。続いて少年が乗り込むと、タイミングを見計らったように扉は閉じた。
「おねーさん外人?」
少年にそう問いかけられ、常用している目晦ましを自身にかけ忘れていたことに気付く。黒髪が一般的なこの国で――しかも都心を少し外したこの辺りなら――、イヴリースの銀髪は珍しいのだろう。どう取っても見慣れてますというような反応ではない。
今から記憶を操作するのも面倒だから適当に誤魔化しておこうと、イヴリースは肩口の髪を一房拾い上げた。
「ハーフよ。髪と目は母譲りで、父が日本人」
「日本語うまいよね、ずっと日本にいんの?」
「えぇ、だから母の国の言葉はさっぱり。――貴方たちはこの辺りの学生なの?」
ぽつりぽつりと、まぁ初対面の人間どうしが交わしそうな会話を続ける内に幾つかの駅を通り過ぎたが、三人のいる車両はもちろんもう一つの車両にも、人が乗り込んできた気配はない。いい加減目の前の少年も気付かないものかと――気付いたらそれはそれで面倒だが――イヴリースは目を細めるが、先に異変を感じ取ったのは沈黙を通していたもう一人の少年だった。
那智と呼ばれていた少年が弾かれたように進行方向に目を向け、何かを見定めるように眉根を寄せると、ほんの少し先の空間が揺れる。那智が声を上げるよりも早くその〝揺れ〟は〝歪み〟となり、――爆発した。
(チッ…)
咄嗟に揮われたイヴリースの力を歪みが呑み込む。風の精霊もこうなることを分かっていたから警告したのだろうかと、今更なことを考えながらイヴリースは迫る歪みに更なる力をぶつけた。視界の端で那智が歪みに呑まれ姿を消す。既に一両目を呑まれている電車は走り続けているあたり、取り込むのは生き物だけだろうと予測して、新たに力を紡ぐ。
「――――」
刹那囁いたのは忘却の言霊[コトダマ]。今日ここで不自然なことは何一つ起きなかったのだと、巻き込まれた少年の記憶を書き換える。そうしている間に、イヴリース自身が歪みを逃れる余裕はなくなった。だがただいいようにされてはやらない。歪みの修復はイヴリースが呑まれると同時に完了する。
(情でも移ったかな…)
流れるように色を失い存在をぼやかされた体はやがて、消え失せた。
「ッ……」
背中の痛みで目が覚める。最悪の目覚め方だ。おまけに頭が痛い。
「……どこだここ…?」
目を開けてまず見えたのは灰色の空。曇っているわけでもなく空そのものが灰色をしているような感じで、――俺はこの時点で諦めと共に息を吐く。嗚呼やっちまったと、前髪を乱しながら体を起こせば周囲の状況がさっきよりは把握出来るようになった。戦争物の映画でよくあるような、荒廃した街並みが広がっている。空気も気持ち埃っぽい。
「最悪」
意識を失う前、俺が見たのは世界の歪み。すぐ傍にいた慎[マコト]がその辺に転がってないところをみると違う場所に落ちたか、俺だけが巻き込まれたか……嗚呼、そういえばあそこにはもう一人いた。到底人間とは言い難い気配の女が、一人。
(あの女がやったのか?)
慎は気付いてなかった。あの女は気配どころか見るからに俺たちとは異質な存在だったのに、――現に俺は、慎が声をかけるまで彼女の存在に気付かなかった。
「――思ったより落ち着いてるんだな」
「ッ!」
まず聞こえたのは声。次に座り込んでいた俺の目の前で世界が歪んで――同じ〝歪み〟であるはずなのに、受ける印象はついさっき俺を呑み込んだ歪みとは明らかに違う――、時間をかけず一人の女を吐き出した。
「もっと取り乱すかと思ったのに」
透けるような銀色の髪を持った女を。
「…あんたがやったのか」
俺は低く問う。この状況では当然の問いかけだが、俺の中では確認だった。女を吐き出した歪みを禍々しくないと感じた瞬間から、俺はどこかでこの女は信用できるんじゃないかと思ってしまっている。根拠のない信頼。諦めたままなら何かを頼りにしてる方がいい。
女は心外そうに表情を歪め、大仰に肩を竦めた。まさかだろうと、口角が吊り上げられる。
「私も被害者さ。全く、厄介なことになった」
言葉とは裏腹に楽しそうな顔で周囲を見渡して、女は座り込んだままの俺に手を差し出した。反射的にその手を取った俺を片手で軽々と引き起こし、そのまま歩き出す。
「ほら、行くぞ」
「え、ちょっ…」
少し力を入れれば折れてしまいそうな腕なのに握った手はびくともせず、俺は引かれるがまま瓦礫の中を歩いた。どこか行くあてでもあるのか、女の足取りに迷いはない。
「どこ行くんだよ」
「なるべく早くここを離れないと、食意地の張った狼が――「それってマガミのこと?」…来たか」
一瞬何が起きたのか――今日は何もかもが突然だ――分からなかった。苦々しく女が舌打ちして後ろ向きに地面を蹴ると、その体が俺ごと宙に浮き上がる。不安定な体勢に不満を訴える間もなく、何かの遠吠えがビリビリと空気を揺らした。
「大口真神だ。運がいいなお前、滅多に見れるものじゃないぞ」
「おおぐち、まがみ…?」
俺は女が口にした名を、噛み砕くよう口にする。神と名がついている割に聞こえてくる声は凶暴で、女の笑みは凶悪だ。
「平たく言うと狼の神だな、元が獣だけに本能に忠実で凶悪だ。気を抜くとぱっくりやられる」
「げっ…」
「死にたくないか?」
「あ、当たり前だろ!?」
「よし」
何がよしなのか、聞き返す前に女は俺を手近な瓦礫の上に下ろし、小さな子供に言い聞かせるよう目を合わせてきた。
左手に嵌められた指輪が、手の平の冷たさとは裏腹な温かさを伝える。
「私はイヴリース。いいか? お前は私の名を呼んで『契約する』とだけ言えばいい。それで万事解決だ」
「契約?」
「今必要なのは私がお前を助ける理[コトワリ]、私とお前が契約を交わしたという事実」
「んなこと急に言われても…」
頭の中で女――イヴリース――の言葉が渦を巻いた。俺は俺の知らないところでとんでもないことに巻き込まれて、この状況は更にややこしくなるらしい。今のところ、這い上がる方法は示されていない。
「その子困ってるよ、イヴリース」
ついさっきイヴリースの言葉を遮ったのと同じ声が、今度は随分近くから聞こえた。
また舌打ったイヴリースは俺を置いて飛躍し、低い瓦礫に腰掛ける人影の前に降りる。
「思ったより早かったな」
「自分の気配は隠せても、何の繋がりもない子供までは手が回りきらないみたいだね」
「場所が場所だけに」
ここから這い上がる方法を俺は知らない。ここがどこなのかすら知りはしないし、この先に何があるのかも知らない。
「気紛れならもうよした方がいいよ。これ以上は、貴女だって…」
けれど、ここで踏み止まる術は示されたような気がする。
「私は一度手をつけたものは、最後まで面倒見る主義なんだ」
――なぁ? 那智
「…イヴリース、」
教えてもいない俺の名をイヴリースが呼んで――嗚呼でも、電車の中で何度も慎に呼ばれたから、知っていてもおかしくはない――、対峙する少女がはっと表情を強張らせた。
「あんたと契約する」
もう引き返せないのだと、その言葉を口にした瞬間俺は悟る。根拠のない直感。途端後姿だけでもそうと分かるほどイヴリースが肩を揺らして笑い、――世界が震撼した。
「マガミ、ジン!」
イヴリースと対峙する少女が悲鳴じみた声で叫ぶと、その影から化け物じみた大きさの狼が飛び出し、どこからともなく白い髪の男が現れる。
「那智」
瞬き一つの間に俺の傍へと舞い戻ったイヴリースは、俺の手を取り立ち上がらせると、眼下に並ぶ三つの存在に向け、悠然と告げた。
「また会おう」
それは再会することが分かりきっていて、尚且つそうなることを楽しみにしているような言い方で、俺は周囲の急激な変化に意識を持っていかれる寸前、心の中で首を傾げる。
「紅銀狐の呪われ子」
彼女らは、どうやらイヴリースにとって脅威となりうる存在ではないらしい。
世界の創造主である彼女にとって、全てが紙一重の遊戯であることを俺が知るのは、もう少し後の話。
「そういえばさぁ、ニュース見た?」
「何の」
道が坂道に差し掛かって、会話は自然と途切れた。不意に思い出した昨夜のニュースを再開のきっかけにして、俺たちはまた無駄な体力を垂れ流す。わかっていてもやめられない。
「人が鏡の中に引きずり込まれるってやつ」
「……ニュース?」
「ちゃんとしたニュース番組だよ。二時間ある番組の前半一時間は政治問題とかやってて、後半一時間はたまにツチノコとか探してる。で、昨日はアリス事件の特集組んでた」
「アリスって、鏡の国のアリスの?」
「ナニソレ」
「…続けてくれ」
初めて会話の内容に興味を示した那智に、俺は昨日テレビで仕入れた情報をなるべく要領よく説明した。今世間を騒がせている奇妙で物語じみた出来事、通称アリス事件。多くの人は家出だの誘拐だの言ってるけど、人が鏡に引きずりこまれたのを見たって人もいる。
「それで――「ストップ」
突然、制止の声と共に口元に手をかざされ、俺は立ち止まる。
「…ナニアレ」
この国で一番大きな自然公園「アベリア」には、とても不思議なアパートメントがありました。
「アルヴェアーレ」――蜂の巣――と呼ばれるそのアパートメントは、名前の通り蜂の巣のような造りをしています。六角形の小さな家が、身を寄せ合い円を描いたような造りです。中央には、家四つ分開[ヒラ]けた中庭もあります。
アルヴェアーレは、誰が見ても素晴らしいアパートメントでした。
アベリアを利用する人々は一様に、アルヴェアーレの住人に憧れを抱き、羨望の眼差しを向けます。自分にとっては雲の上の世界だと諦めながらも、心のどこかで夢見ることをやめられないのです。アベリアの豊かな自然と、それらに囲まれた日常を。
そんな、誰もが羨むアルヴェアーレに住むことが出来るのは、本当に一握りの人々でした。アルヴェアーレを構成する家々は十一棟しかなく、その内の二棟は、住人なら誰でも利用することの出来る共有スペースですから、人が住むことの出来る棟はたったの九つしかないのです。
そして、その九つのうち一つ、「フィーシェ」と呼ばれる棟には、一組の「博士」と「助手」が住んでいました。
「だぁーかぁーらぁー、そういうのをタイムパラドックスって言ってね、もし君が過去に遡って母親殺したらおかしいことになるでしょーが。おばさんがいなきゃ君生まれないんだよ? 過去でおばさん殺して君の存在が消えちゃったらどうすんの。……え? 構わないって? そうは言うけど君、この前僕が貸した千円まだ返してないでしょー。うん? …うん……そうだね、君が消えたら僕が君に千円貸した事実も消えちゃうね、よく気付いたね。…いや、馬鹿にしてるわけじゃないよ。ただそろそろ千円返して欲しいなーなんて……あ、そう? うんわかった。じゃあいいけど…うんそうだね。それでさっきの話の続きなんだけどね……」
〝時間関係〟――そう、安易に銘打たれたファイルを捲っていた博士の手が止まり、指先がぎっしりと敷き詰められた文字の上を滑りました。
記されたタイムパラドックスとそれに関係する事象のことをなるべく噛み砕いて説明しながら、博士は早く眠ってしまいたいと壁にかけられた時計に目を向けます。
「だからねぇ…」
そもそも君には時を遡る術がないだろうと、言ってしまえたらどれほど楽なことでしょう。電話の相手がどこにでもいるような人間であるのは確かでしたが、恐ろしいことに、アルヴェアーレにはそういう人間に平気で時間旅行をさせてしまう非常識な輩が、時折出入りしているのです。そういうことを商売にしている人だって住人の中にはいます。安易に「出来ないだろう」などと言って、出来る術を手に入れようと躍起になられてはたまりません。
ですが博士自身、このやりとりに厭き厭きしていました。
「……え? 何? 何だって? おーい? おかしいなー混戦してるのかなー聞こえないなー、おかしいなー聞こえないなー…あ、」
すると、そんな博士の考えを分かっているかのように、電話にノイズが混ざりました。ノイズは徐々に酷くなり、やがて通話は途切れます。
「切れちゃった」
漸く実のない会話から開放され、博士はにこやかに受話器を置きました。
「終わったんですか?」
話し声が止んだことに気付いた助手が資料室に顔を出します。
「うん。なんか急に電話の調子が悪くなっちゃってねー。せっかくだから電話線抜いといて」
「…またやったんですか」
「うん?」
「なんでもありません」
温めたばかりのホットミルクを置いて、助手は律儀に電話のコードを抜きました。
用済みの電話が片付けられている間にホットミルクを半分ほど飲み干し、机に伏せた博士は欠伸を一つ。
「寝るならベッドで」
「寝ようとしたところに電話があったんだよぉ」
「だからってそこで寝ないで下さい。誰が運ぶと思ってるんですか」
「君」
「博士は最近太ったから重いんですよ」
「……それホント?」
「嘘をつく必要がどこにあるんです」
「それにしたって言いようがあるでしょー」
時間関係のファイルを手に取った助手に元あった場所を指差してやり、博士は席を立ちました。
「それで、今回はどんな話だったんですか?」
「いつもと同じさ」
油断すれば落ちてくる瞼と必死に格闘していると、戻ってきた助手が促すように手をとり背中を押します。
「今度は母親を殺したいって言ってたよ」
「この前は確か…」
「妹。冷蔵庫に入れてたプリン食べたから」
「博士と大して変わりませんね」
「僕は、プリン食べられたくらいで君を殺そうとしたり、しないよ」
「そうですか? 拗ねて部屋に引きこもるのもどうかと…――ほら、つきましたよ」
二階から階段を下りてすぐの所に博士の寝室はありました。
「五歩も歩けばベッドなんですから、途中で行き倒れないで下さいね」
「うん…」
部屋の隅にベッドが一つ置かれただけの、眠るためにしか使われていない部屋です。
「おやすみぃ」
時計の針は午後十一時を回りました。博士が普段就寝する時間を、既に一時間ほど過ぎてしまっています。
「おやすみなさい」
博士がベッドに入るまでをしっかりと見届けて、助手は博士の寝室を後にしました。
「まるで駄々っ子と母親だな」
博士は結局気付きませんでしたが、リビングからずっと二人のやりとりを窺っていた人物がいます。イヴリースという名の、銀髪の女性です。
「あれで頭だけはいいんですから、世の中どうかしてますよ」
外を歩けば誰もが振り返るような美貌を持つ彼女は、いつもふらりと現れては姿を消します。
「そう言いつつ、甲斐甲斐しい」
「放っておくと一日中寝てますからね」
お茶を出し形だけ歓迎しておけば勝手に満足していなくなるので、対応が楽な分助手は彼女の事が不思議でたまりませんでした。
淹れたての紅茶に形だけ口をつけ――隣人曰く、猫舌なので決して淹れたての紅茶を飲みはしないそうです――、イヴリースは殺風景なリビングを見渡します。相変わらずだなという言葉に、助手は当然でしょうとそっけなく答えました。
「博士は寝ることと研究以外に興味を示さない人ですから」
「知ってる」
いつも浮かべている微笑を嘘のように消し去ったイヴリースは、もう一度紅茶に口を付け――助手の見間違いでなければ、今度こそ彼女は琥珀色の液体を口に含みました――、ここを訪れた時からずっと傍らにおいていた本をテーブルに放り上げます。
助手がその本を見つめ首を傾げている間に、気紛れな来訪者はソファーを離れました。
「預かっててくれ。取りには来ないかもしれないがな」
「…何なんです? どうせろくなものじゃ…っ」
ないんでしょう。――そう続くはずだった言葉は、窓から吹き込んだ突然の強風に押し込められました。
「母親を上手に殺す方法が書かれた本さ」
とてつもなく笑えない冗談です。
「邪魔だったらどうしてくれても構わないからな」
きっと彼女は全部分かった上でこんなことを言っているのでしょう。助手はイヴリースがその美しさと同じくらい性格が悪いという事実を思い出し、自分以外誰もいないリビングで残された本を前に一人溜息を吐きました。
「博士の電話相手に送りつけてやれと…?」
応える声はありません。
「……」
博士が起きるまで時間は十分にあります。たかが本一冊、処分してしまうのは簡単ですが、それが「イヴリースからの預かり物」というのが面倒なところです。いつかの万年筆のように、手放したものがいつのまにか戻ってきているなんていうのは願い下げです。この件に関しては特に。
「なんて面倒な」
残された本が本当にイヴリースの言った通りの内容であるのか、助手には分かりませんが、たった一つだけ言えることがあります。
「何で私ばっかりこんな目に…」
基本的に面倒見のいい助手は、こういうことを放って置けるほど薄っぺらい責任感を持ち合わせてはいないのです。だからこそ博士が飢え死にすることもなく研究を続けることが出来ているのですが、そのせいで降りかかる面倒ごとが増えているということに、助手本人はまだ気付いていません。
「二、三日したら様子を見に行ってみるかな」
一人楽しげなイヴリースの笑い声が、夜も更けたアベリアに落ちました。
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