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 魔王が死んだ。誰が殺した?
 魔王は愛した女に殺された。



 ならば誰が《魔王》を引き継いだ?



「ラスティール」

 ゆったりと呼ばれて目が覚める。

「なぁに? シーリン」
「下りてきて」

 お気に入りの枝から落ちるように木の下へ。ふわりと魔力で着地を軽くして、顔を上げるとシーリンは少し離れた所に立っていた。

「おはようシーリン」

 甘い匂いがする。

「また木の上で寝てたの?」
「うん」
「もう…」

 おいで、と差し出される手は迷わずとった。シーリンと二人。手を繋いで、ぐるりと薔薇の垣根を回り込む。

「今日はケーキを焼いたのよ」
「道理で。甘い匂いがすると思った」

 オレンジ色の薔薇に囲まれた東屋。二人きりのお茶会はしめやかに。邪魔する誰もを私が排除して、そのことはシーリンだって咎めない。

「どうぞ召し上がれ」

 切り分けらたケーキは白く赤く甘く、幸福の味がした。

「食べ終わったらちゃんと仕事をしてね」
「はぁーい」

 二つ返事で頷いて、また一口。白くて赤くて甘い幸せ。目眩がする程の充実は、いつだってシーリンが連れてくる。私は幸せ。シーリンが私を造ってくれたから。

「大好きよ、ラスティール」
「うん」

 だから世界は滅びない。



 《魔王》は魔女の「娘」が引き継いだ。





(間違いだらけのお伽話/魔女と残り滓。めでたしめでたし)
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――敏腕社長と有能な秘書――

机の上にうず高く積まれた書類が無言で私を責めている。早く目を通せと、真綿で首を絞められるようなもどかしい威圧感に、息が詰まりそうだった。
それに加えて、

「手が止まっていますよ、ラス様」

無表情を決め込んだ《右腕》は容赦なく私に牙を向ける。もう少し労わってくれてもいいだろうに、こんな責め苦が既に三時間は続いていた。
目を通して判を押した書類の数だけ新しい書類が持ち込まれる。――そんな、思わず泣きたくなるようないたちごっこには、いい加減厭き厭きだ。

「――なぁ、レイ」

ギシリと、体重を預けたイスの背もたれが鳴く。
レイはすぐに顔を上げこちらを仰いだ。

「はい」

ついさっき、私に小言を言った時とは違うトーンで、どうかしましたかと聞いてくるレイの視線が、真っ向から私のそれと交わる。

「少し休憩しないか」

私は瞳に魔力を込めた。





――魔物と女魔法師――

「我が剣にその息吹を灯せ、火蜥蜴[サラマンダー]!」

左手に嵌めた指輪の一つが、練り上げた魔力を代償に苛烈な炎を噴出させる。

「覚悟なさい…」

鉄をも溶かす灼熱の炎は蛇のようにのたうって、私の剣に張り付いた。
契約によって守られている私が熱気を感じるほどに、その勢いは凄絶だ。

「骨も残さず焼き尽くしてあげる」

不敵に笑って見せながらも、私は決着を急くように自ら駆け出した。周囲を囲む魔物の一匹を正面からの一撃で切り伏せ、体を翻す勢いのままにもう一匹を仕留める。
切っても切っても、魔物の数は一向に減る気配を見せない。どこから湧いてくるのか、疲労で徐々に動きの鈍る私を嘲笑うように、こんないたちごっこがもう一時間近く続いていた。
いい加減、魔力の制御も覚束無い。時折頬を掠める炎が、意思に反して肌を焼く。

「くそったれ…」

前後左右に、上。地面以外のあらゆる方向から飛んでくる攻撃を避け続けるのも、そろそろ限界だ。腕、脚、腹、頬、――体中に走る小さな傷が、じくじくと痛みを訴えて動きの鈍さに拍車をかける。
そうこうしている内に負った二の腕の傷は、そのまま放っておくには深すぎた。
腕を伝った生温い血で、剣を握る手が滑る。柄から剣身の方へ流れた血は火蜥蜴の炎に焼かれ、私は鋭く舌を打つ。
これはもしかしなくとも、

「絶対絶命、ってやつ?」





――逃亡者と憂鬱――

魔物は人間を襲う。だがそれは生きるためだ。
人が家畜を殺し飢えを満たすように、魔物もまた、飢えを満たすため行動しているに過ぎない。
なのに何故、魔物は人に忌み嫌われるのか。――答えは簡単だ。


魔物は所詮、魔物でしかない。


レイを昏倒させ、机仕事から逃げ出した私は、清々しい解放感を胸に機嫌よく街道沿いの森を歩いていた。珍しいことではない。自由に出来る時間の内は、むしろあてもなくブラついていることの方が多かった。
レイに見つかるまでの間、私の自由は保障されている。

「――……、」

されている、はずだ。

「全く…」

鋭利なまでに研ぎ澄まされた感覚が、苛烈な魔力の発現を捉えて放さない。いくら《自由時間》だからといって、一度気付いたものを放っておくことは出来なかった。

「世話のかかる」

人と魔物が、そう遠くない場所で争っている。
人間の方は相当やり手の魔法師らしいことが魔力の練り方で分かるが、どうも様子がおかしかった。

(魔物に手こずるような腕とも、思えないが…)

風に乗って流れてくる血の匂いが濃さを増したのを合図に、私は駆け出す。まだ声すら届かないほどあった距離はものの数秒で縮まった。
戦場は、森の中に出来た自然の広場。低く茂る草木は無残に踏み荒らされ血の雨を浴びていたが、元はそれなりに見栄えのする場所だったのだろうと、想像するのは容易い。
そこに漂うはずの穏やかで安穏とした雰囲気は、今や欠片ほども残されてはいなかったが。

「多いな…」

広場は知性の欠片もない低級の魔物とその屍、そしてむせ返るような血の臭いに満ち満ちていた。地上に魔界が噴出したような光景に、私は思わず顔を顰める。
本来群で行動することのない魔物が、理由もなくこれほど集まっているのを見るのは初めてだ。まだ生きている者だけでも優に三十体はいるだろう。屍はそれ以上ある。腕利きの魔法師が苦戦するのも頷けた。
私だって、両手を超える数の魔物を相手にするのは面倒だ。



「――ちょっとそこの貴方!」



――生と死――

その気配はまるで蜃気楼のように掴み所がなく、存在すら不確かで、気付くことが出来たのは本当に奇跡に等しかった。

「…何か?」

血生臭い殺し合いの最中で普段の数十倍にも鋭くなった私の直感が、叫ぶ。

「私に雇われる気ない?」

選択肢は二つだ。





――運命と契約――

「…いくらで?」

そう、聞き返してしまったのはおそらく、魔物との命の取り合いの最中にあってなお、女魔法師の目が輝きを失っていなかったからだろう。何が何でも生き抜いてやるのだという強い意志が、傍目からでも見て取れる。

「私の全財産の半分」
「随分と気前がいいな」

おそらく私は、そうする理由が見い出せなくても、彼女を助けていた。

「正直もうヤバいのよ…――助けて!」
「…いいだろう」

失くすには惜しい輝きを、見つけてしまったから、きっと…

「契約成立、だ」

私は逃れられない。





――黒のナイトと白のクイーン――

「契、約…?」

半ば暴走しかけていた火蜥蜴の炎が、前触れもなく掻き消えるのが、合図だった。

「凍てつけ」

一方的な命令が下される。私を取り囲んでいた魔物たちが面白いほどピタリと動きを止め、同時に刺すような冷気が場を満たした。

「砕けろ」

絶対零度の命令が、再び下される。そうして全ては一分にも満たない時間で決着した。
早まったかもしれない。――私がそう思ったのは、今更ながらに自分が助けを求めた男の姿を視界に入れてから。

「ま、魔族…?」

上級魔族の証である血色の瞳を柔らかく細め、男は言った。

「これからよろしく、マイ・マスター」

本当に早まったかもしれない。





――成約と誓約――

瞳の奥にほんの一瞬焼け付くような痛みが走って、私は名前も知らない女魔法師との間に正式な《契約》が結ばれたことを知った。半ば無理矢理に近かったので期待はしていなかったが、なんとも、口約束とは恐ろしい。

「ッ……」

息を詰め首元を押さえた《マスター》は、すぐにそれが戦闘で負った傷の痛みでないことに気付いたらしく、恨みがましい目で私を睨んだ。
私は肩を竦めて見せる。

「言い出したのはそっち」
「魔族だと知ってたら言わなかったわよ!」
「断言してもいいけど、君はどっちにしろ私と契約していたよ。それしか生き残る方法がなかったんだから」

わざと私の心情を伏せて言うと、図星を突かれたマスターはぐっと言葉を呑んだ。それでもやはり、瞳の輝きは曇ることを知らない。あまりの愉快さに私は愛想良く微笑んだ。

「睨んでも契約は解けないよ」
「期限は…」
「契約時に指定がなかった場合はどちらか一方が死ぬまで。それが慣例」

この輝きは、もう私のもの。手に入れたのは、この私。誰にだって――たとえそれが彼女自身であろうと――奪わせはしない。

「君に絶対の献身と無二の忠誠を」

私の名と力にかけて。





――真実と道化――

魔族は契約と本能に生きる生き物だ。その口は偽りを紡がず、その目は真実を映し、その力は意思を違えない。彼らは時として神よりも信用に足る生き物だと、今は亡き天才魔導師の著書にはあった。――私だって、頭ではわかっている。

「まだ怒ってるの?」

森を抜けようと足早に歩く私の後ろを付いてくるこの男は、真正の魔族だ。だからこそその言葉は真実で、絶対に違えられることはない。
けれど何故? 何故彼は私と契約を結んだ?

「マスター?」
「…怒ってないわよ。考えてるだけ」
「何を?」
「貴方がどうして私と契約を結んだのか」

立ち止まった私に合わせて、赤目の魔族も立ち止まる。魔王とその側近にだけ許されているという深紅の瞳は文字通り深く、けれど陽光の下まるで硝子球のように光を弾いた。

「マスターを気に入ったから、じゃ不満?」
「大いに不満よ。それじゃ貴方になんの得もないじゃない」
「そうかな」

まるで研ぎ澄まされたルビーのようだと、その瞳に魅入られそうになったのは一瞬。私はすぐさま目を逸らした。――魔族の瞳は毒だ。それも極上の。人が魅入られれば逃れる術はない。

「《命令》なら話してもいいけど?」

すれ違い様垣間見た瞳は、どこか楽しげに揺れていた。

「それって、命令じゃなきゃ話さないってこと?」
「そう聞こえた?」
「そうとしか聞こえなかった」

再び歩き出した私に、魔族はやはり付いてくる。何が楽しいのかにこにこと笑みを絶やさず、さも人畜無害ですとでもいわんばかりの顔が、出会ったばかりにも関わらずありありと想像できて私は眉根を寄せた。大体、この容姿がいけないんだと心中で悪態をつく。

「この歳で魔族に憑かれるなんて…」

忌々しげに吐き出した言葉には、わざとらしく楽しげな笑い声が返った。





――逃亡者と追跡者――

近くの町を目指しているらしいマスターの後をついて歩いていると、不意に視線が頭上へ移る。
その意味を理解したのは一拍後。負担にならない程度広げた感覚が、レイの魔力を捉えてからだ。

「どうかしたの?」

さてどうしたものかと立ち止まった私に気付いて、マスターもまた立ち止まる。一緒にいるのが嫌なら置いて行けばいいものを、律儀なことだ。

「知り合いが私のことを探してる」
「何かやったの?」
「特別なことはなにも」
「じゃあなんで追われてるのよ」
「探されてるだけで、追われてるわけじゃないよ」

苦笑いしながら右手を揺らし、目くらましの魔法を放つ。その僅かな気配を敏感に捉えたマスターの視線はますます疑わしげなものになり、私は肩を竦めた。
レイに対して、特別なことをしていないのは本当だ。

「追われてるわけじゃないのに、見つかりたくはなさそうね」
「色々事情ってものがあるんだよ。私にもね」
「ふぅん」

仕事に厭きたからレイを気絶させて、逃げ出した。それは言わば《お決まり》のパターンで、今更取り立てて騒ぐようなことではない。むしろこんなにも早くレイが目覚めたことの方が驚きだ。
魔力の注ぎ加減を間違えたのだろうか。

「面倒事は御免だからね」
「マスターには迷惑かけないよう気をつけます」
「気をつけるだけ?」
「絶対とはいえないな」

おどけた調子で言うと、それきりマスターは黙り込んでしまった。そしてそのまま、何か考え込むように気も漫ろなまま歩き出す。

「マスター?」

私の声にも、気付く様子はない。





――ある自我の終焉――


微かに降って来る光によって煌く水底。目を眩ませるほどの強さも、眠りを誘うような温もりもない、深遠の淵。
私という存在が呑み込まれていくのを感じながら、少しばかり残された意識と自我で、私は考えていた。けして答が出ることのない、ささやかな疑問。今まで幾度となく出口のない迷路に迷い込んできた思考がまた、廻る。同じところをぐるぐると。
無意識のうちに腕が光の方へと伸びた。助けを求めるように水を掻く。自分の腕であるはずなのに、それはどこか遠い。
腕は光に届かず、私の思考も答に辿りつかない。助けを望む理由も相手もない私は現状にどうしようもない諦めを感じながら、悔いていた。結局見つけられなかった答。手にすることのできなかった光。私にとって必要なのかもわからないそれらを望みながら、僅かな素振で手は尽くしたと努力を投げてしまっていては、この理不尽で唐突な終わりに対する恨み辛みを口にするのも躊躇われる。

(もう少し、生きたかったな…)

そして私は緩やかに、落ちるように、闇へ呑まれた。





――命の紡ぎ手――


「人の一生は短い」

たった百年弱の生涯で悔いを残すなという方が無理な話だ。

「だから僕は造った。人と同じ姿、同じ力、同じ終焉を持ちながら、老いも病も持たない《人工》の《生体》を」

望むのなら与えよう。求めて希うがいい。

「お前がどんなキセキを残すのか楽しみだ」

緑色の溶液で満たされた円柱のガラスケースに触れると、ひんやりとした冷たさが心地よかった。ケースの中にいる少女にとっては冷たすぎるくらいだろうが、彼女は「まだ」そんなことを知らない。

「ハルカ、最終チェック終わりました」
「当該エリアをネットワークから切断。溶液排出。排出スピードを通常よりも遅らせて」
「生体を起動せずに?」
「あぁ」
「わかりました」

普段の倍、時間をかけて水位が下がり、あわせて中に浮いていた少女の体が下りてくる。僕は厚いガラス越しに彼女の頬を撫でた。炎のように赤い髪が、一度大きく広がって落ちる。少女はケースの中で膝をついた。

「もうすぐ会えるよ、つば――「ハルカ!」

彼女の鮮烈な赤とは違う、酷く毒々しい紅[アカ]が唐突に世界を侵した。

「生体、汚染…?」

既に大半の排出を終えていた緑の溶液が、ケースの底から溢れ出す紅い溶液に呑まれ、苦しげにのたうつ。けたたましい警告音[アラート]に急かされ、あっという間にケースの中は紅で満たされた。確かにそこにいるはずの少女の姿が、見えない。

「どうして……今ここは完全なスタンドアローンのはず…!」

視界を埋め尽くす濁った紅に、頭の奥が鈍く痛んだ。

「カノ、エ…カノエ! どういうことだっ!!」
「…外部からの汚染では、ありません……ここはまだネットワークから切り離されたままです」
「ならどうし――……ッ」

細い指先が、ガラスケースをなぞる。

「内側、から…?」

ありえないことだ。彼女は起動どころか、体を動かすためのプログラムさえ満足に与えられてはいないのに。

「ハルカ…」

けれど僕は、心のどこかで歓喜していた。

「……」

《お前がどんなキセキを残すのか楽しみだ》

「ケースの封鎖を、強制解除する」





――ある自我の目覚め――


いきなり何もない場所から放り出されたような感覚。何もない場所から、何もない場所へと放り込まれる。
あたしがあたしであるということは、あまりにも唐突に始まった。

(あか、い…)

目を開けてまず飛び込んできたのは、世界を埋め尽くす紅[クレナイ]。自分の体さえ見えないような「紅い闇」が広がっている。
なんなんだろうこれは。そう思って試しに伸ばしてみた手は、ほどなく何か硬いものにぶつかった。カツンと、闇の中に音が響く。

「――――」

すぐ傍で誰かのくぐもった声が聞こえた。聞こえただけで、あたしはそれがどこから聞こえてきたもので、誰が発した言葉なのかわからない。当然のことなのに、知りたいとあたしの中で誰かが訴えた。その《誰か》が誰なのかを、あたしは知りたい。

「――――」

声は何かをはっきりと告げた。途端世界が大きく揺れて、あたしは紅い闇の正体が不透明な液体であることを知る。あたしと同じくらいの体型の人がもう一人入っても充分な広さのあるガラスケースの中は、あっという間にあたしを残して空っぽになった。息をしようと喘ぐと、肺に溜まった紅い液体でむせた。吐血したみたいに、手と口がべっとりと紅く染まる。

「――しているのか?」
「……」

今度は少し聞き取れた。ガラス越しの言葉。声の主を確かめるために顔を上げると、――今まで液体の中にいたせいだろうか――体は自分のものじゃないみたいに重かった。ギシギシと軋む音が聞こえてきそうなほど動きは鈍いし、何かと何かがかみあっていないような気もする。

「僕の言っていることがわかるか?」

ガラスケースの外に立っている人と、ケースの底に座り込んでいるあたしでは、あたしの方が目線が低い。目を逸らさないようにすることだけを考えながら、あたしは小さく顎を引いた。頷いて見せたつもり。体が変な感じだから、ちゃんと出来たかはわからない。

「自分が《何》であるかは?」
「?」
「……」

その人はあたしが首を傾けると、少しだけ考えるような仕草をして、ガラスケースから離れた。

「動くな」

咄嗟に「おいて行かれたくない」と思って体を起こそうとすると、強い口調で止められあたしはケースから離しかけた背中を、またぺったりと冷たいガラスへ押し付ける。

「カノエ、開けろ」

私とその人との間に立ち塞がっていたガラスの壁は、まるで水銀のように融解して底にある溝の中に吸い込まれた。あたしが寄りかかっている側のガラスは融けずに残ったから、あたしは言われたとおり動かないでいる。

「話せるか?」
「な、にを…?」

体と同じで、口もあたしの口じゃないみたいだった。ほんの少し動かして声を出すだけで、頭が疲れる。集中しないとあたしの体は考え通りに動いてくれない。

「…立てるか?」

差し出された手に、あたしはすぐにでもつかまりたかった。なのに体はゆっくりとしか動かない。

「無理はしなくていい」

ゆっくりと持ち上げた手をつかみ引き上げられ、あたしは眩暈がした。今まで存在を意識していなかった足が上半身につられてペタペタとケースの底を歩く感触が、どこか遠い。

「まだ慣れてないだけだから、大丈夫」

あたしは半ば抱きかかえられながらも、自分の足で立っていた。つま先から踵までをしっかりと床につけ、ほんの少しだけ、自分の体を自分の力で支えている。

(へんな、かんじ…)

それがどこかくすぐったくて、あたしは意味もなくへらりと笑って、目を閉じた。

「大丈夫だよ」

優しい声に守られて。





――紡がれなかった命――


「どうやって動いたんだろう」

純粋な好奇心で満たされたハルカの言葉に対する答はない。常識的に考えて、体を制御するために必要なプログラムの一切を持たない《人工生体》が動くはずはないし、今見た限りでは、《彼女》はちゃんとした自我を持って行動していた。

「カノエ」
「はい」

何度データを確認しても、この部屋が完全にネットワークから遮断されていた事実は揺るがない。考えられるのは内側からの汚染。けれど《人工生体》の中に初めからバグが紛れていたというのも、俄[ニワカ]に信じがたい。

「当該エリアを緊急廃棄。椿鬼[ツバキ]プロジェクトに関わる全ての情報をAQUAネットワークより完全削除。ネットワーク第二層ヴィルへのアクセスを一時的に制限。なお、この制限は僕が自室へ帰るまでとする。――おやすみ」

矢継ぎ早に面倒な指示ばかり残してハルカはそそくさと部屋を後にした。ガラスケースの封鎖を強制解除したせいで使い物にならなくなった機材と一緒に取り残され、私は少しだけ顔を顰めながら部屋の中を見回す。

「部屋に連れ込んで何をする気ですか、あなたは」

元凶である《人工生体》の姿はどこにもなかった。





――ある少女の由来――


僕の体は生まれた時から壊れていた。だから僕は一度だって自分の足で大地を踏みしめたことはない。僕が始めて「立つ」という言葉の意味を実感したのは、祖父が死に祖母が死に母が死んだ後。祖父がたまに持ってきてくれていた本に由来する知識によって造り上げた《人工生体》に、僕という自我を構成するありとあらゆる情報を移してからだ。
初めて造った《人工生体》は姿こそ人間と同等ではあったけれど、力は機械そのもので、それは僕の求めた「欠陥のない体」から程遠かった。あらゆる面で人間と同等でなければならなかった。姿だけでは、足りない。
そうして改良を重ねるうちに、僕は《人工生体》の影とも呼びうるものを造り出した。《戦闘妖精》。《人工生体》を人間に近づけようとするうちに捨てた、「機械」であることの集合体。人と同じ姿を持ちながら、感情も、理性も、人間らしい一切のものを持たない、驚異的な戦闘力を有した、戦うことだけを目的とする存在。
僕はずっと、持てる力の全てを尽くして、二つの存在を遠ざけてきた。《人工生体》でありながら《戦闘妖精》の力を持つこと、《戦闘妖精》でありながら《人工生体》の心を持つことは容易い。でもそれを許してはいけない。僕が望んだのは、あくまで人が人としての最低限を保障されるための体なのだから。人を超越した体に、心はいらない。
そうすることの理由を、カノエには優しいからだと言われた。自分が造り出す存在が戦って傷つき、涙する姿を見たくないのでしょう、と。傷つく姿を見たくなければ造らなければいいだけなのに。生み出すことをやめられない僕の矛盾した心を知っていて、カノエは僕が優しいのだという。
だから僕は、たった一度だけ、自分自身で定めた禁忌を犯そうと決めた。他ならぬ君の、君だけのために。唯一の心持つ妖精を。





――世界で一番深い朝――


フワフワと雲の中を漂っているような夢を見て、あたしは凄く満ち足りた気持ちで目覚めた。
目を開けると灰色がかった天井があって、点在する照明が室内をそっと照らしている。知らない場所。

「ゆっくり起き上がって」

聞き覚えのある声があたしを促した。
あたしは言われた通りゆっくり体を起こす。違和感はない。

「調子は?」

姿の見えなかった声の主はベッドのすぐ横に置かれた椅子に座っていた。

「悪くはない、です…」

極々自然に頬へと添えられた手にあたしが戸惑いながら答えると、白っぽい銀色の目をしたその人は可笑しそうに目を細める。

「ならよかった」

優しそうな人だと、思った。目の奥のほうで柔らかい光が揺れている。あたしはなんだか夢の続きを見ているような気分になって、添えられた手の平に擦り寄るように目を閉じた。

(あったかい…)

少しの間あたしもその人もそのままでいて、――それでもずっとそのままでいることなんて出来るはずもなくて――頬を撫でながら離れていく手を追ってあたしは目を開ける。

「手を出して」

体はもう完全にあたしの物だった。そうしようと思うだけで簡単に動かすことが出来る。

「これを飲んで」

渡された小瓶には、淡い水色の液体が入れられていた。さらさらとした感じで、少し揺らすと瓶の中でタプンと波打つ。蓋の付け根にある突起を押すと、バネ仕掛けの蓋が勢いよく跳ね上がった。

「甘くしてあるから、飲み難くはないよ」

促され、とりあえず一口だけ口に含む。確かに飲み難くはなかった。砂糖水みたいな味で、少しだけ、冷たい。

「AQUAっていうんだ。水という意味で、ここでは必要不可欠なもの」

空になった瓶をナイトテーブルに置いて、その人は「とても便利なものなんだ」と、どこか誇らしげに笑った。

「何故、必要なんですか…?」

あたしが疑問に思ったことをそのまま口にすると、小さく首を横に振られる。
伸ばされた手はまた頬に触れ、感触を確かめるように上下した。

「敬語じゃなくていいよ、堅苦しいから」
「…なんで必要なの?」
「それはね、」

ここには人の生きていける環境がないのだと、その人は言う。だから僕のAQUAがここの環境になって、僕がその管理をしているんだよ、と。
それを聞いて、あたしはさっき見た誇らしげな表情の意味を知る。

「あなたはここの王様なのね」
「そうかもしれない。でも、きっと違うよ」
「どうして?」
「ここがアンダーグラウンドだから、かな」

頬を撫でていた手はゆっくりと首を伝って鎖骨にかかり、膝に置いていたあたしの手に触れた。
そのまま包み込むように握られ、そっと引かれる。

「見せてあげるよ、僕の世界を」

あの時のように、あたしは繋いだ手を引かれ立ち上がった。そして唐突に、目の前にいる人のことを何も知らないのだと気付く。

「ねぇっ」
「なんだい?」
「あたし、あなたの名前知らない」

凄く今更だと、自分でも思った。あたしの手を引いて歩き出そうとしていた人もそう思ったのか、一瞬目を丸くして、「ああそうだね」と笑った。

「僕はハルカ」
「ハルカ…ハルカね」
「僕に名前を聞く人なんて久しぶりだ」

名前を聞かれた時目を丸くしたのは、あたしが今更名前を聞いたからじゃないらしい。名前を聞かれること自体が久しぶりなんて、一体どういう生活をしてるんだろう。

「そういえば僕も、君の名前を知らないな」
「あたしはヒノエ」
「ヒノエか…いい名前だね」
「あなたもよハルカ。とってもいい名前」
「ありがとう」

あたしが笑うとハルカも笑って、二人して意味もなくニコニコしながら部屋を出た。部屋の中よりも少し明るい通路には幾つも扉が並んでいて、右も左も、同じ方向へカーブしているからあまり先の方までは見えない。

「僕の助手に紹介しておきたいから、道すがら大まかにアンダーグラウンドについて説明してあげるよ」

そう言って、ハルカは歩き出した。





――イーハトーブ――


「信用してもいいのかい?」

地表に最も近い第一層《フラウ》よりも地下深く、第三層《ケイオス》よりは浅い第二層《ヴィル》の一室で、一人の男が端末に語りかけていた。
室内には端末の他に光源はなく、モニターの放つ微かな光だけが部屋を照らしている。

〈その後すぐにヴィルへのアクセス制限がかけられたのは確かです〉
「ふむ…それは興味深いな」

男――カナタ――は端末に映し出される状況の変化を目で追いながら、顎に手を当て一つ頷いた。寄りかかった椅子の背もたれがギシリと音を立てる。
少しの沈黙を挟んで、シュアは続けた。

〈引き続き調査を?〉
「我々の目的はあくまで《蝶》だが…いいだろう。そちらに支障が出ない程度なら探ってみてくれ」
〈はい〉
「それと…」

右手で左腕の付け根を押さえながら、カナタは端末から視線を外しあらぬ方へと目を向ける。
《ヴィル》に夜はなかった。《ケイオス》にも、そんな概念はない。《フラウ》にはあるが、全てが虚構だ。

「少し上に行ってくるよ」

久しぶりに太陽が見たい。小さくそう零したカナタに、シュアは沈黙をもって返した。
カナタはこのアンダーグラウンドが作られる以前から大陸にいる。彼は当然のようにシュアの知らない本当の空を知っていて、地上へと出るための術を持っている。シュア自身は今更地上に出たいとは思わなかったが、カナタが少しだけ羨ましかった。

「大した情報は期待できないだろうけどね」

大半がバーチャルで構成されたアンダーグラウンドにおいて、彼とごく少数の人々だけが、自らが虚構ではないと胸を張れる希少な存在だからだ。

「留守を頼むよ」
〈はい…〉

彼はこのアンダーグラウンドを出た途端、自分という自我が消失してしまうのではないかという恐怖を味わったことがない。





――海――


「第一層フラウが一番治安がよくて、第二層ヴィルはその逆。第三層ケイオスはそれ以前の問題。一番地上に近いのがフラウで、アンダーグラウンド全体はまだまだ広がり続けている…――憶えたよハルカ。これでいい?」

それがアンダーグラウンドについて必要最低限の知識だと思う。ヒノエを一人で出歩かせるつもりはないからおそらくこれだけ知っていれば平気だろうが、最近は上層で妙な組織も動いているようだし、あまり楽観視は出来ない。

「多分ね」
「じゃあ約束! 憶えたら海、見せてくれるんでしょ?」

《ケイオス》の最も下層に位置するこの場所に閉じ込めて出さないという手もあるが、どうにも現実味に欠けた。

「わかってるから引っ張るな。海は逃げない」

ヒノエの持つ体の性能を考えれば、アンダーグラウンドで不可能なことは殆どない。僕とほぼ同等の権限を、彼女は知らず知らずの内に手にしてしまっている。
それがどういうことか知りもしないのに。

「バーチャルとAQUA、どっちがいい?」
「んー…ハルカはどっちが好き?」
「僕が普段使ってるのはAQUAだな、バーチャルの方はフラウだから遠い」
「じゃあバーチャルの方で!」
「わかった」

遠いと言っているだろう、という悪態を呑み込んで、意識下でカノエへとその旨を伝える。「暫く留守にするから」と何でもないことのように告げれば、悲鳴のような声と共に物理的な目の前へモニターが浮かび上がった。

〈海って、あなたまさかフラウまで行く気ですか!?〉
「うわすごっ、なにこれ」

珍しく感情を顕にしたカノエの向こうで、ヒノエが面白そうに半透明のモニターを覗き込んでいる。

「そう言ってるだろ。後のことは任せる」
〈もう何十年も引きこもってるくせになんで突然…っ、製作途中の戦闘妖精はどうするんです!〉

だから任せるって言ってるじゃないか。

「凍結」

素っ気無く言い放って、モニターを壁際へと押しやる。カノエの非難がましい声が通路に響いたが、そんなの知ったことじゃない。珍しく気が向いたんだ。今出ておかないともう二度とこんな機会ないかもしれない。

「ねぇハルカ、いいの? カノエさん怒ってなかった?」
「別に。連絡は取れるし問題ない。驚いてるだけさ」
「ならいいけど…」

世界にたった一つしかない大陸の地下にアンダーグラウンドという一つの世界を作り上げたのはこの僕だ。これは過言でもなんでもなく紛れもない事実で、だから僕がアンダーグラウンドのどこで何をしようと、誰にも止める権利なんてない。

「せっかくだから、ケイオスとヴィルがどんなところか、その目で確かめるといい」

僕はいつだって、僕の好きなようにする。一生分の不自由は、とっくの昔に払い終わった。

「気に入るかどうかは保障しないけど」

夢見るだけだった世界は今、確かに、この手の中にある。





――アンダーグラウンド――


「少しのぞくだけだから」

その言葉通り、ハルカはあたしに《ケイオス》と《ヴィル》の様子をざっとしか見せてくれなかったけど、その方がよかったと思う。
《ケイオス》は凄く息苦しい場所で、《ヴィル》は、息をするのも辛かった。地下にぽっかりと開いた空間の中に造られた街は暴力で溢れ、強い人だけが胸を張って歩けるような場所。アンダーグラウンドの中では《ヴィル》が一番自由な場所だとハルカは言うけど、あんな自由ならあたしはいらない。

「フラウは完全に管理された世界。ヴィルは力が全て。ケイオスでは戦闘妖精とその主だけが存在を許される。…失望した? 僕は人々のために心を砕く優しい王様なんかじゃない。独り善がりな天才さ」
「ハルカ…」


でも《フラウ》は違った。


「うっわぁ…凄い! 空がある!」

見上げれば頭上に広がるのは無機質な天井ではなく雲の浮く青空。何の違和感もない街並みはどこまでも続いて、遠くには緑生い茂る山々。柔らかい風が街路樹の葉を揺らしながら街を吹き抜けていく。
それまで胸の中でわだかまっていた気分の悪さなんて忘れてあたしが走り出すと、ハルカは少し焦ったように声を上げた。

「遠くまで行くなよ!?」
「大丈夫!」

風が吹いてくる方に向かって走ると、微かに潮の匂いが鼻先を掠める。大丈夫、海を見に行くだけよ。それにどこにいたってハルカは見つけてくれるでしょう?

「だってあたしは――」

あたし、は?





――ある男の夢――


「君がこんなところにいるなんて、珍しいじゃないか」

海へと一直線に駆けていたヒノエが失速し、やがて立ち止まる。息が切れたにしては不自然な止まり方に首を傾げていると、久しく聞いていない――けれど忘れはしない――男の声が鼓膜を揺らした。
無意識の内に息を呑む。

「――ハルカ君」

鮮やかな日常の中で、彼だけが色を失っていた。男にしては長い髪も、その瞳も、霧にぼやかされたような灰色をしている。

「カナタさん」

彼の名を紡ぐ僕の声は掠れていた。

「おかげでこちらから出向く手間が省けたよ」
「あなたは、まだ…」

嗚呼僕は、だから《ケイオス》を出たくなかったのに。

「まだあんなものを捜し求めているんですか」
「当然だろう?」

どうしてこんな気紛れを起こしてしまったんだろう。前回のことで分かっていたはずだ。どれだけ時が流れてもカナタの心は変わらない。彼の時間は、とうの昔に凍り付いてしまっている。

「《蝶》さえあれば、全てをこの手にすることが出来る」

この世界の全てが記されたオーパーツ《蝶》。そんなものが本当にあると、それを手に入れれば本当に世界を手に入れることができると、あなたは…

「彼女を取り戻すことだって出来るんだよ、ハルカ君」

本当に信じているんですか。

「失われたものを取り戻す術なんてありませんよカナタさん。それが命なら、尚更」
「だから《蝶》を探すんじゃないか。《蝶》の力を得れば、人は神に並ぶ。あるいはそれ以上の力を持つことだって出来るかもしれない」
「思い上がりです。人は人だ。それ以上にも、それ以下にもなれない」
「…知ったような口を利くね」
「ッ」

向けられた敵意に息が詰まった。同時に僕は、目の背けようのない現実を突きつけられる。
灰色の瞳に宿る憎悪が向けられているのは、この偽りだらけの世界か、人に救いの手を差し伸べることのない神か、それとも――

「私が知らないとでも思っているのかい?」
「なにを…」

二人の間で保たれていた距離が、カナタによって崩される。一歩、二歩と、詰められていく距離に僕は抗えなかった。

「君の犯した二つの罪に」





――椿鬼――


「あたしは…」

ヒノエ。と、誰かに呼ばれる。知ってる声。振り向いたら、さっきと同じ場所にハルカがいた。でも一人じゃない。

「ハルカ…?」

色のない男の人と一緒だ。

「ッ…」

頭を鈍器で殴られたような衝撃。いけないと、あたしの中で何かが告げる。


あの男にハルカを渡してはいけない。


「――ハルカ!」

そう思ったら、あたしは海に背を向け走り出していた。絶叫じみた呼び声に気付いて男が振り向く。伸ばされた手がハルカに触れる直前で止まって、あたしは足に力を込めた。

「ハルカに触るな!!」

あたしの言葉にハルカが目を瞠る。そして一歩後退って、唇の動きだけであたしを呼んだ。
あたし自身、どうして自分が怒っているのかわからない。初めて会うのに、あたしはハルカの目の前にいる男のことが大嫌いだった。

「これはこれは」

男の声を聞くだけで、例えようのない怒りが込み上げる。
本能の叫びに任せ、あたしは地面を蹴った。体は宙を舞い、視界が開け、落下。ハルカと男の向こう側に着地して、また地を蹴る。

「――アシル」

あたしと男との間に割って入ったのは、あたしより少しだけ背の高い少年。彼が物陰を飛び出したのは男の言葉より早かった。

「悪いね」
「別に」

止められた拳を握られ、下がれなくなったあたしは迷わず右足を蹴り上げる。アシルと呼ばれた少年は一瞬驚いたような顔をして、それでも、あたしに折られるより早く腕を引いた。

「凶暴な女」

続けざまに繰り出した回し蹴りも避けられる。
でもそれは全部あたしが意識してやったんじゃなくて、あたしじゃない誰かが、あたしの体を使ってやったこと。

「椿鬼…」

そう、きっとそんな名前だった。





――至高の妖精――


その体が宙を舞ったとき、僕は感嘆と共に空を仰いだ。
炎の様に鮮烈な赤が翼のように広がって舞い降りる。刹那垣間見えた紅色の瞳は深みを増して、真っ直ぐに正面を見据えていた。

「椿鬼…」

僕が造った至高の妖精[フェアリィ]。お前は今、何を思って目覚めたんだい?

「随分感情的な妖精だね、ハルカ」

寝坊するにもほどがある。

「…カナタさん」

椿鬼、僕の椿鬼。僕は君のせいでとんでもない面倒に巻き込まれたんだ。責任は取ってくれるよね? 僕の椿鬼。僕の最高傑作。
最強の妖精。

「あなたに《蝶》はあげません」
「! やはり君が…」
「だって、」

カナタとアシルに対峙するヒノエ――それとも、椿鬼と呼んだ方がいいのだろうか――の手を引いて、僕は一歩後退る。よろめいた体をそっと抱きとめて、自分でもそうとわかるほど満面の笑みを浮かべた。

「手放すには惜しいですから」





――罪の所以――


「それでカナタから逃げるために試作段階の転移装置使って、このザマですか」

救えませんね。

「あの場合そうするしかないだろう…」

広いメンテナンスプールに沈められたボロボロの生体が、淡い水色のAQUAに包まれ揺れている。プールサイドのカノエさんはハルカの言葉に「知るもんですか」と眉根を寄せて、コンソールから目を逸らそうとしなかった。

「椿鬼が使えたのなら使うべきでした」

急ごしらえの生体が馴染まないのか、居心地悪そうにハルカが身じろぐ。首の後ろから伸びたコードが一緒に動いて、そのコードはカノエさんのコンソールに繋がっているから、まるでハルカがカノエさんに捕まっているようだ。

「無理だ。…ちゃんとした戦闘プログラムは、入れてなかった」

歯切れの悪いハルカの言葉に、カノエさんが手を止める。

「戦闘妖精の力を持った人工生体なのに?」
「……」

そして深々と溜息一つ。プールのAQUAが色を変えた。

「ねーハルカー?」

生体を駄目にしかけたハルカとは対照的に、全くの無傷だったあたしは、爪先で淡い緑色のAQUAを波立たせながらさも退屈ですと声を上げる。

「…なに」

恨めしそうに応じたハルカは、転移の直後、真っ先にあたしの安否を確かめた。

「ちゃんと連れて行ってよね、」

あたしよりも自分の方がよっぽど大変だったくせに。


「海」


「……僕の生体が治ったらな」

渋々ながらも頷いたハルカに、カノエさんが「懲りない人ですね」と、笑った。





(椿鬼)

「おつかいはちゃんとできた?」
「うん」

 その向こうにまだ何かあるのだろうか。
 弱められた僕の感覚は今、三重に張り巡らされた結界全ての管理者である朱鳥ちゃんのそれに遠く及ばない。たとえ扉一枚隔てた向こう側に誰かいて、そこで何かとんでもないことが起こっていたとしても、朱鳥ちゃんが教えてくれない限りは分かれなかった。

「なら、勝手に怪我したことは大目に見てあげる」

 ほんの少し意識を余所へやった途端、朱鳥ちゃんの両手は僕の手からするりと逃げ出してしまう。
 門から一直線に伸びる石畳の上をこつこつ歩き出した朱鳥ちゃんは、僕になんてすっかり背中を向けてしまいながら二ノ宮の中へと帰っていく。
 慌ててあとを追いかけると、未だ血塗れの体が目についた。振り返ってみれば門の所にできた血溜まりから、点々と赤い足跡が続いている。服もぐっしょりと血に濡れて、とてもじゃないけどそのままお供ができるような有り様じゃない。

「おいで」

 なのに。躊躇う僕を、朱鳥ちゃんはあっさり宮の中へと連れ込んだ。小さな子供にするよう手を引いて、真新しい下駄を脱いだ裸足の足は音もなく複雑に入り組んだ廊下を奥へ奥へと進んでいく。
 朱鳥ちゃんと僕が一人と一匹でいるには広すぎる屋敷。だけどやっぱり――それさえ――幻で、本当は小さな社がぽつんと一つ建っているだけな結界の中は、そんな真実が到底信じられないくらい難解な迷路と化していた。
 ちょっとしたおつかいさえも無事には終えられない下僕の手を引いて歩く、優しい御主人様だけが正しい道を知っている。どこをどう歩いていけば、目指す場所へと至ることができるのかを。


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「知ってる? 人が妖を喰らうと寿命が千年伸びるんですって」

 たとえば朱鳥ちゃんなら、僕に「動くな」と《命令》して胸を裂き心臓の中から《核》を取り出すことくらい、簡単にやって退けてしまうんだと思う。普通ならそんな風にして手に入れた《核》は意味ないんだけど、僕は朱鳥ちゃんが欲しがるものならなんでもあげるのが当然な下僕だし。たとえそのまま《核》を丸呑みにされたって、きっと――千年増しの寿命どころか、ちょっとやそっとのことじゃ老いも死にもしない――僕たち生まれながらの妖と遜色ない立派な命をあげてしまうだろう。

「不老不死にでもなんでもしてあげるから、食べるのだけはやめてくれないかなぁ…」

 だけど。わざわざ自分の手を汚さなくても、朱鳥ちゃんはただそれを望むだけでいい。
 僕は朱鳥ちゃんになら永遠の命だって、若さだって、妖としての力だって――多分、朱鳥ちゃんが望むようなものはなにもかも――与えてあげられるんだから。

「――あたしがもうちょっと大きくなったらね」



 それは「人形」だった。よくできた人形(ひとがた)。鮮やかな血と美味なる肉こそ備えながら、魂を欠いた「人ならざるもの」。

「お前にやろう」

 尾のない妖狐は嘯いた。喰うも捨てるも好きにしろ――と。
 九つの尾を持つ狐へ、見目鮮やかに着飾られた人形を投げ渡す。

「どういう趣向だ? これは」
「私の好みでないことだけは確かだな」

 普段は気侭に揺れるばかりの尾が二本、危なげもなく受け止めた人形をまさぐり、人ほど表情豊かにはなれない獣の容貌が歪む。
 人形は、その目と喉を厳重に封じられていた。包帯のよう巻かれた呪符にはびっしりと呪いの言葉が敷き詰められ、人ならざる妖の目から見てもおぞましい、と思えてしまうほどの有り様。

「悍ましい妄執の果て、煮詰まった力をそうも雁字搦めにしたのでは、いったい何のための混血なのか。揮われることのない力に価値も何もないだろうに。――人より余程、妖(わたしたち)の方が情深い生き物さ。
 そうは思わないか? 柩(ひつぎ)」

 縁もゆかりもない人の子のため――ただその嘆きに「心が揺れた」などという、気の迷いとしか思えないような理由をもって――九つあった尾の全てを手放してしまうような妖であれば、確かに情が深いと言えなくもない。

「お前の言いたいことは分かった」
「おや、そうかい」

 笑う「尾無し」を前に、九尾はするりと姿を変えた。
 鼻先から靭やかに立ち上がるよう起こされた獣の肢体は、瞬く間に変貌を遂げ人のそれへと近付く。
 前肢は腕に。後肢は足に。尖った獣の耳と九つ揃った尾はそのまま、妖狐柩は投げ寄越された子供を抱えて揺らす。

「こんな子供、喰っても胃が爛れて終いだろうよ」
「おや、おや。それならどうするというんだ? 柩。人贔屓(こうぎんぎつね)の落胤よ」
「お前のいいように、玉藻(たまも)。たまにはこういう余興も悪くない」



「僕を朱鳥(あすか)ちゃんの犬にして」

 七年と少し。四苦八苦しながら手のかかる子供でしかなかったあたしのことを精一杯「まとも」に育ててくれた養親からの、それは酷く衝撃的な懇願だった。
 だって普通、義理とはいえ自分の娘に「犬にして」なんて言うか?
 いやまぁ確かに、世間一般――人が思うところ――の常識に当てはめて考える方がおかしい人だとは分かってるんだけど。それにしたって…。

「頭沸いてんのか」
「あうっ」

 齢十二。そこそこ伸び盛りであることも手伝って、新調したばかりの真新しい革靴。その一蹴をもろにくらい、「養親」はあっけなく後ろへ倒れた。それどころかそのままころころと転がっていき、最終的には――べしゃり、と――壁にぶつかりようやく止まる。
 その頃には金髪赤目の――いかにも人離れした――美丈夫が、大きな金の毛玉と化していた。

「痛いよ朱鳥ちゃん…」
「目は覚めた?」
「うぅー…」

 金毛九尾。――それが、あたしの養親の本性。美しさにかけてはそうそう他に類を見ない、上等な人外。
 生憎、性格についてはいたって残念だが。それにしたって「犬にして」は酷い。酷すぎる。

「また御前(ごぜん)に何か吹き込まれたの?」
「違うよぉ」



 チチチチと鳴きながら飛んでいた鳥が、空の途中で目には見えない「何か」へぶつかり悲痛な声を上げる。そしてそのまま落下していくさまを、廊下の途中から為す術もなく見送った。
 真円の結界と正面衝突した鳥の姿は、不可侵の領域沿いにずるずると塀の向こうへ見えなくなる。私には覗き見ることさえ許されない「宮」の外で、あの鳥はあとどれほど生き長らえることができるのだろうか。
 あるいは、もう死んでしまっているのかもしれない。

「ねぇ、誰か――」

 様子を見に行ってもらおうと声を上げて、建物の中から人の気配が失せていることに気付いた。ほんのついさっき食事を終えたばかりなのに、膳を下げるため外からやって来た下女は随分と仕事が早いらしい。
 まぁ、それも仕方のないことか…と、一息吐いて足下の影を見下ろした。

「柩(ひつぎ)、ちょっと見てきてよ」
「――あんなのが気になるの?」

 のっそり這い出してきた獣は狐。九尾の金狐は訳がわからないのだとでも言いたげに首を傾げながら、庭へと飛び下りとてとてと歩き出す。
 九本もある尾がそれぞれ気侭に揺れ、まるで「いってきます」と手を振られているようだった。
 ちょっとそこまで様子を見に行かせるだけなのに、なんだか不安になってくる。柩はちゃんと戻ってくるだろうか。
 私と違って、あの九尾はここの結界を易々とすり抜けられる。

「死んでたら食べてもいい?」
「生きてたらちゃんと逃がしてやるのよ」
「はぁーい」

 庭から一躍。大した助走もつけることなく竹で編まれた目隠しの塀を悠々飛び越え、柩は私の視界から姿を消した。
 塀を越えてしまえば、結界の端もすぐ目と鼻の先。そこから宮を囲う杜の外まで、柩の足ならいったいどれほどの時間で駆け抜けてしまえるだろう。――それこそ、瞬く間というやつだろうか。
 その姿が見えなくなってから、声もなく数えていた数字が二十に迫ろうかという頃。私の憂慮に反して、柩は行きと変わらず軽々と塀を飛び越え戻ってきた。

「逃げられちゃった…」

 気持ちしょんぼりと耳を伏せる柩に、どうかしたのかと訝ってみれば。齢(よわい)千を超える妖のものとは思えないような謝罪が飛び出すものだから、思わず呆れに肩を落としてしまう。

「誰も捕まえろだなんて言ってないわよ」

 むしろ柩を差し向けた当初の目的からしてみると、逃げられるほどに鳥が元気だったというのなら僥倖だ。
 庭先にぺたんと座り込む柩をすぐ傍にまで呼び寄せて、働いたご褒美に頭を撫でてやる。すると――ついさっきまでのしょぼくれ具合が嘘のよう――嬉しそうに尻尾を振りながら擦り寄ってくるものだから、現金なものだと笑ってしまう。

「朱鳥(あすか)ちゃん、朱鳥ちゃん」

 もっと撫でてと、廊下の上まで伸び上がってきた九尾の金狐はついぞ妖狐に姿を変えた。
 人と変わらない二本ずつの手と足を備えた体に獣耳と九つの尻尾を生やす柩は、私のことを逃がすまいとでもするかのように強く抱き込んで頬を擦り寄せてくる。
 お気に入りのペットとのじゃれあいに、笑っていられたのもそれまでだった。

「 やめろ 」

 確と意志を込めた《命令》に、柩はぴたりと動きを止める。突然自由の効かなくなった体に今更戸惑うことこそないが、その目ははっきりと「哀しそう」に私を見た。けれど次の瞬間には、姿を掻き消すように影へと戻る。
 人が来たのだ。

「宮(みや)さま、どちらにおいでですか――?」
「――ここよ」

 りん、と鈴を鳴らすような音を響かせながら舞う蝶が一匹。
 建物の角を曲がり姿を見せた簡易の式に応え、それが飛んできた方へと足を向ける。

「行かない方がいいよ、飛鳥ちゃん」

 影の中へと押し込められた柩は幾度となくそう囁いたが、そういうわけにもいかない。最終的には「黙れ」と素気無く《命令》して、蝶が囁くままに動きまわることを許されている範囲の端まで歩いていった。
 つまり、私が閉じ込められた二ノ宮の入り口まで。
 外敵はおろか蟻の子一匹通すことさえない結界の切れ目。唯一の出入口である鳥居の向こう――すなわち、宮を囲う結界のぎりぎり外――には、見慣れた下女と見慣れぬ男が一人ずつ。
 それまでひらひらと傍を舞っていた蝶は、下女に惹き寄せられるよう結界を越えていった。

「宮さま。この方は――」
「長ったらしい前置きはいい。さっさと許しをもらおうか」

 しょせん式でしかない蝶が下女の着物の柄の一部になるのを見送ってから。ようやく、私は男の方へと目を向ける。

「ですが…」
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