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小噺専用
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「博士、朝ですよ」
 助手の一日は、まず博士を起こすことから始まります。眠りの浅い博士は大抵部屋の外から声をかけるだけで起きてくれるので、起こすだけならそう面倒なことではありません。
 寝室の扉を二度ノックして声をかけ、助手はその場を後にしました。
 それから一階にあるキッチンで朝食の用意をして、後はもう食べるだけというところで、もう一度二階に足を運びます。
「博士、朝食出来ましたよ」
 寝室の扉を二度ノックして声をかけ、返事が返ってこないことを確認してから、助手は扉を開けました。
「いい加減起きて下さい」
「んー」
 左隅にベッドが一つ置かれただけの部屋を、カーテンの下からもれた僅かな光が照らしています。気のない返事をして寝返りを打った博士は、起きているくせにベッドを出ようとはしません。
 眠りの浅い博士は大抵部屋の外から声をかけるだけで起きてくれるので、起こすだけならそう面倒なことではありません。起こすだけなら。
「ったく…」

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 桜の盛りはとうに過ぎ、時季が時季なら桃色の絨毯に覆われる小道は、木々の作る影に覆われ涼やかな空気に包まれていた。


「もうそんな季節か」


 途切れることのない蝉の声に耳を傾け、女――イヴリース――は頬を撫でる風の心地よさに目を細めた。


「桜の咲く頃には戻ろうと思っていたのに」


 落胆した言葉とは裏腹に、自嘲と呼ぶには淡すぎる笑みを浮かべ歩き出す。あてもなく、というにはしっかりとした足取りで、目的があるにしては穏やか過ぎる彼女の歩みにあわせ、那智も歩き出した。
 態々イヴリースが口にするまでもなく、場の雰囲気を感じる心さえ持っていれば、ここに訪れる四季を容易に想像することが出来る。
 春には桜。夏には青々と茂る草木。秋は紅葉。冬は見渡す限りの銀世界。


「いい所だろう」
「あぁ」


 心を読んでいたようなタイミングで発せられたイヴリースの言葉に何の含みもなく返し、那智は感嘆と共に深く息を吐き出した。



 暑くもなく寒くもない、ちょうどいい昼下がり、まどろんでいたジブリールは、不意に落ちた影に誘われるように目を開けた。
 柔らかな日差し、ジブリールの午睡を遮って、イヴリースが口を開く。


「おはようジル」
「・・・おはよう」


 そんなことを言うために、態々出向くわけがない。


「なにか用?」


 流した髪を梳かれることに心地よさを感じ、もう一度瞼を下ろしながら、ジブリールは尋ねた。
 イヴリースの指先が髪に絡み、微かなくすぐったさを伴って眠りを誘う。


「ちょっと出掛けてくるよ」


 まるで、彼女の触れた所から眠りが流し込まれているみたいに。


「どこへ?」
「おかしなことを聞くな」


 お前は知っているだろう? ――眠りがその色を増す。現実が、音を立てて沈んだ。


「ジブリール」


 緩やかに眠りへと引き込まれたジブリール。彼女にそっとおやすみのキスをして、イヴリースは硝子張りの天上を仰いだ。


「ゆっくりおやすみ」


 
 長い銀髪を風にそよがせ、眠たげに瞬いていたラヴィーネをディオスが抱き上げる。
 漸く定位置に戻った少女はすぐに眠りへと引き込まれ、ややもしないうちに、小さな頭はディオスの肩に頼りきりとなった。
 そうしている様はまさに人形。だが残念なことに彼女には自我があり、これが本来の姿ではない。むしろ人形じみた彼女を抱いている自分こそが傀儡だ。


「ねぇ、ディオス」
「はい?」


 移動の揺れで一々起きるほど繊細とは言い難い彼女は、今にも落ちてしまいそうになる瞼をなんとか押し留め、煩わしげに身を捩る。
 自らの欲求には常に忠実である彼女らしからぬ行動だ。


「人間になりたかったら、そう言っても良いのよ?」


 腕の中の温もりが完全に意識を手放すと、確かな重みだけが残される。


「僕が、人間に?」


 嗚呼でもそれは、きっと許されないことなのでしょう。眠り姫の騎士は主の眠りを妨げぬよう、王子でさえも殺してしまいなさいと、命じたのは他ならぬ貴女。それを為し得るのはひとえに僕が人形であるからだ。主に貰った心と体と、主の剣で戦う僕は所詮「愚かな道化[オーギュスト]」。貴女の眠りは守れても、貴女を目覚めさせることなんてできない。


「そんなこと言わないで、ラヴィーネ・・・」


 僕は傀儡、貴女の人形。どうかいらないなんて言わないで、眠り姫。


「僕はここにいたいんだ」

 フルベは生きながら死んでいるのだと、名もない少女は言った。
 名も身寄りもない、どこにでも転がっている孤児。道端に座り込む少女にはこれといってフルベを惹きつける要素はなかったが、かけられた不躾な言葉よりその内容に、フルベはほんの少しだけ興味を示す。



「お前、名は?」



 少女は首を振った。名などありはしない、と。
 フルベは少女が首を振る――または名の存在を否定する――ことを知っていた。一目見たときから、少女が孤独なことには気付いていた。



「あなたは、生きながら死んでいる」



 他人の事などその辺の小石ほどにも思っていないフルベの歩みを止めた言葉をもう一度口にして、少女はフルベの足元に目を落とす。



「あなたは、殺されながら生きている」



 今度は言葉の意味が違った。



「それで? お前には何が見える?」



 つ、と伸ばした手で薄汚い少女の顎を持ち上げ、フルベは微笑んでみせる。
 計算されつくした容貌に浮かぶ艶やかな笑み。――少女は目を閉じた。



「真紅よ。哀しい人」










(ならばそう、せめて安らかに眠れることを祈っておくれ)
 ここでないどこかから聞こえてくる呼び声が、深遠へと沈みかけたフルベを呼び戻した。










 真紅に染まる視界。たゆたう異形の者。ここでないどこかではなく、今目の前にあるこの光景こそが、フルベを呼び戻し繋ぎとめる。――生へと。
 未練などありはしないというのに。



「――のう、エイシ」



 軽い羽ばたきが耳朶を打った。
 足元の定まらない世界。立ち上がり、フルベは手を伸ばす。
 ここでないどこか。それはここ以外の全て。己がどこから来てどこへ行こうとするのか、フルベは知らない。知ろうともしない。
 飛来した烏が鉤爪を立てることなく、器用に彼女の肩で羽を休めた。



「知っておるか?」



 バサッ



「妾[ワラワ]はとても強欲じゃ。強欲すぎて、泰山府君[タイザンフクン]にも嫌われてしもうた」



 けらけらと、壊れたようにフルベは笑う。ただしその行為が彼女の容貌を貶めることはない。
 漆黒の烏はただその様子を見つめていた。揃いの色をした瞳だけが、一人と一羽の繋がりを物語る。



「だから、のう?」



 伺うように息を潜めたフルベの肩から、エイシは飛び立つ。空はなく、目の前にはただ真紅の世界が広がっていた。




「教えておくれ」




 極上の絹を鮮血で染め上げた、フルベの最も好む真紅の着物がこの世界には溶け込んでしまう。
 エイシには、それがとてつもなく恐ろしいことのように思えた。



「妾は、誰じゃ?」



 貴女は――。






























 世界に愛されてしまった。









「――影屍」



 今のフルベが使役する唯一の式が顕現し、即座に彼女の望みを叶えた。
 命じるでもなく成されたそれに満足げな呼気を零し、フルベは一片[ヒトヒラ]の布を風に放す。



「神風」



 発現した力がそれを千々に切り裂き、――ひとしきり笑うとフルベはすぐ傍に跪く影屍の頭に手を乗せた。
 幼い子供を褒めるよう左右に動かし、ついてこいと声をかけ歩き出す。



「主様」
「ん?」
「私は人目につきますが」
「構うものか」



 けれど不思議と、人目を引くはずの影屍を目に留めるものはいなかった。
 そこで己の肩に乗る布切れの存在に気付き、影屍はほぅ、と息を吐く。



「気付きませんでした」
「気付かれてたまるものか。まだまだ妾は現役じゃ」
「それは失礼を」



 ほろほろと、夜が啼いていた。
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