「―――」
人魚の賛美歌に誘われるがまままどろんでいた冬星は、ふと、頬を撫でた風に意識を浮上させた。
――来るぞ
声なき声が耳元で囁き、もう一度風が頬を撫で方向を示す。
教会の立つ丘の上。柔らかな青草の上に横たわっていた冬星は、仕方なしに肘を突き上体を起こした。
「僕を起こすなんてほんっとうにいい度胸だよ」
「――散歩はしてみるものですね」
音も無く、気配も無く、見知らぬ声だけが落ちてくる。
「その台詞、姐さんの前で言ったら相当喜ばれるだろうね」
感情の見えない声で誰にとも無く呟くと、冬星は何も無い宙へと気だるげに手を伸ばした。
「何故ですか?」
そして何も無い場所で手のひらを握り、あたかもそこに支えでもあるかのような動きで立ち上がる。
ぱたぱたと服についた塵を払うと、また風が頬を撫でた。
「姐さんって、活字があれば漫画でも何でもお構いなしだから」
冬星が立っている場所から五歩も進めば、もうそこに大地はない。
広がるのは白々しいほどに青い海とそれよりは幾分か薄い色の空。
「?」
どこか遠い目で口元を歪めると、冬星は背を向けていた教会に向き直った。
「要[ヨウ]は雑食なんだよ」
そこにいたのは自分とそう変わらないであろう年頃の少女と、逞しい体躯の黒狼。
「僕は冬星」
人一人なら背に乗せ優に疾走できるであろうほどのそれは、大人しく青草の上に伏せている。
「僕の眠りを妨げた、君は誰?」
冬星は少女の目を見据えた。
「僕は時塔。時塔 蒼燈[トキトウ ソウヒ]と言う者です」
「それで?」
風が柔らかく髪を撫でつける。
「君は何をしに来たの?」
「散歩、ですよ」
悪びれもせずそう言ってのけた蒼燈に、冬星は軽く眉を寄せ首を傾けた。
僕は仲間内じゃ気の長い方なんだけどね。と前置いて、唐突にその眼光を強める。
「せっかくの昼寝を礼儀知らずの余所者に邪魔されても黙ってられるほど、お人好しじゃないんだ」
風が凪いだ。
「だから止せと言っただろう」
背に人一人を乗せ海面擦れ擦れを疾走する黒狼――夜空[ヤソラ]――は、自らの背にしがみ付いたまま後方を見つめる蒼燈に、自業自得だと吐き捨てた。
「まさかいきなり攻撃されるとは思いませんでした」
視線を後方から愛用のコート――その右肩から肘にかけて――へと移し蒼燈は苦笑する。
そこには、何か鋭利な刃物で切られたような切り込みがざっくりと入れられていた。
「だが肉は断たれていない」
「えぇ。――相当な使い手ですね、脱帽です」
けれどぶら下がる袖の下には真新しいシャツが当然のように覗いている。――肉どころの話ではない。彼女は、コートの生地と密着していたそれにすら傷一つ付けていないのだ。
「それに礼儀知らずだと言われました。心外です」
「だがこの国の礼儀を知らんのは確かだろう」
「うっ・・・・・・相変わらず痛いところ突きますね、夜空」
「事実だ」
少なくとも蒼燈の知り合いに――人間に限るならば――そんなことを何の下準備もなしにやってのける者はいない。
「嗚呼、全く」
西の果てから遙々[ハルバル]海を越えこの国に辿り着いた時から感じていた疑惑が、ついさっき確信に変わった。
「何て渡来人に手厳しい国でしょうね、ここは」
この国は異質だ。
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