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 血の雨が降る荒野に一人、立ち尽くす「悪夢」は言いました。

「こんな世界、滅んでしまえばいい」

 感情という名の色を失くし、酷く透明な言葉は流された血と共に乾いた大地に染み渡り、宿された力によって、ありとあらゆる命を拒絶します。
 夜を蝕む悪夢の化身は、たった一言でこの地を永遠の地獄と化すのです。

「こんな世界、いらない」

 その力の、なんと強大なことでしょう。

「なにもいらない」

 けれど同時に、悪夢の言葉はとても哀しげな響きを伴っていました。

「なにも、いらないんだ」


「ならば何故、貴様は涙する」


 愚かなことをと、悪夢に声をかけた男は自らを嘲笑いました。面識のない男でさえ、その魔術師の名は知っています。

「紅目の悪夢[ルビーアイ・ナイトメア]」

 その名は恐怖。その名は絶望。その名は終焉。その名は――

「まだ、生き残りがいたんだ…」

 死、そのもの。

「あらかた片付けたと思ったのに…おかしいな」

 男は理解していました。対峙する悪夢と自分の間にある、埋めようのない実力の溝を。刃を合わせて勝てる相手ではなく、逃げおおせることすら、存在を悟られた今となっては不可能であることを。

「あんまり考えないでやっちゃったからかな」

 それでも、男が「直死の宝石」と恐れられる真紅の双眸の前へその身を曝したのは、確かめたいことがあったからに他なりません。男は、最期に知りたかったのです。

「答えろ」
「…僕がなんで泣いてるか、だって?」

 虐殺の限りを尽くしながらも、歪むことのなかった容貌。にもかかわらず、悪夢の頬を絶え間なく伝う、――涙。

「そんなの決まってるじゃないか」

 男は魅せられてしまったのです。故に、その涙が何の、誰のための涙であるのかを知りたい。


「あの人が死んでしまったから」


 刹那宙を舞った紅目の悪夢は、魔術師でありながら剣士のように淀みなく剣を抜き、男へと斬りかかりました。

「だから僕は泣くし、世界なんていらないんだ」
「……貴様は、」

 男は紙一重で悪夢の剣をかわします。

「貴様は何故「――聞いてばかりだね、竜族の若造」

 即座に返された剣の切っ先は男の腕をかすめ、太刀筋を目にすることも叶わなかった男は、振るわれた剣の速さと悪夢が紡いだ言葉、その両方に戦慄しました。

「なっ…」
「気付かないとでも、思ったの」

 感情のこもらない声で、悪夢は嗤います。

「生まれて千年も経たないひよっこが、なんでこんなところにいるのかな」

 なんと愚かなことだろうと、言葉にされなくとも悪夢の瞳は告げていました。つい先ほど悪夢によって揮われた力は強大でしたが、人間より上位の種族である竜を殺すほどのものではありません。悪夢にとって男の力は些細なものなので、もし男が声を上げず息を潜めていたら、悪夢は男の存在に気付きもしなかったでしょう。
 なのに男は、自ら死を選択したのです。それは長命で思慮深い竜族にあるまじき愚行で、悪夢は同じく剣を抜いた男に再び斬りかかりながら、あまりの愚かしさに声を上げて笑いました。

「今の長老は、君みたいな子供も引き止められないの?」

 ありとあらゆる魔術を会得した悪夢にとって、剣での斬りあいは児戯に等しい行為ですが、小柄な体型ゆえの軽さをカバーするそのスピードには目を瞠るものがあります。現に幾多の戦場を渡り歩いてきた男は容易に翻弄され、少しも経たないうちに膝を突かされてしまいました。

「長、老…?」

 一片の曇りもない剣先を男の首につきつけながら、悪夢は首を傾げます。

「最近竜の姿を見ないのは、長老が引きとめてるからじゃないの?」

 そして男は、悪夢にとって驚愕の事実を口にしました。

「この大陸に…もう、竜はいない…」
「は…」
「俺で最後だ」

 カランと乾いた音がして、剣を取り落とした悪夢は、そのままふらふらと数歩後退しました。それに驚いたのは男の方で、凝視してくる視線にも構わず、悪夢は焦点の定まらない視線を落とします。

「竜が…滅んだ? この大陸で最も誇り高い種族が?」

 悪夢の声にははっきりとした動揺が現れていました。なりを潜めていた魔力の顕現が、男にその動揺が心からのものであることを伝えます。

「それに俺は〝長老〟なんて呼ばれる竜のことも知らない。竜は孤高だ。誰に従いもしない」
「…〝秩序がなければ、そこに輝く歴史は生まれない。故に竜を束ねる竜が必要だ〟――エンシェント・ドラゴンが滅んだのは知っていたけど、まさか…」
「エンシェント?」

 漏れ出した悪夢の魔力は瞬く間に広がり、男の目には世界が淡く紅に色付いて見えました。

「そんなことも知らないの」

 それは悪夢が日頃目にする世界の光景で、その中では、何一つ色鮮やかなものなどありません。唯一世界を染め上げる紅だけが確かな色です。

「……」
「本当、に?」

 壮絶な光景に絶句する男に、悪夢はどこか諦めを含んだ声で問いました。そして男が頷くと、力なく目を閉じます。

「そう」

 男の前に落ちていた悪夢の剣が独りでに鞘に収まり、紅の世界が消え、悪夢は落胆と共に肩を落としました。力ない右手が振られると、二人の周囲に溢れていた血と、おびただしい数の死体が消え失せます。
 そこには何一つ残されていませんでした。

「なら僕は君を殺さない。君が最後の竜だというのなら、僕は殺せない」

 いつの間にか止まっていた涙は再び流れ出し、悪夢の頬を濡らします。
 命拾いした男は、もう一度だけ、悪夢に問いました。

「何故、涙する」

 さらさらと流れていく涙を掬い上げ、悪夢は答えます。

「今日だけは、そう…失われた誇りのために」

 優しい風が、二人の間を吹き抜けました。


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