カーテンの隙間から差し込む光が床の上に温かそうな日溜りを作り出していた。
「――うるさい…」
頭の上ではジリジリと目覚ましが鳴っている。
「那智ー?」
タイミングを見計らったように俺を呼ぶ声。
「起きてるよー」
枕に顔を埋めたまま意味のない返事をして、片手で枕元を探った。指先を掠めたシーツ以外の感触を引き寄せて、態とらしく古いアラームを止める。
少しの間そのままぼーっとしていると、――カチカチカチカチ――必要のない秒針の音が二度寝を誘っているような、そうでもないような。
どっちつかずの間[マ]があって、仕方なく這うようにベッドを出た。部屋を出て階段を降りリビングに顔を出すと、エプロンなんて俗なものを着けたイヴリースが朝食の用意をしていて、そんな朝の光景にも慣れつつある自分自身に――くらり――眩暈。
「顔洗って来い?」
「…うい」
フライ返し片手にイヴリースは首を傾げた。高い位置で結われた銀色の髪がその拍子にキラキラと光りを弾いて、眩しい。
「なに」
「いや…別に? なんでもない」
彼女は含み笑いを隠そうともせず、フライパンを置いた手の動きで俺を洗面所へと追いやった。鏡を見てもなんてことはない、いつも通りの俺がそこにはいて、何がそんなにおかしかったのか見当もつかない。
「なぁ、さっきなんで笑ってたの?」
「だから何でもないって、疑い深い奴だな」
からかい交じりに笑われて、俺はそれ以上何も言えなくなった。
「いただきます」
「…いただきます」
朝食は片目の目玉焼きとウインナー、トースト。トーストにイヴリースは真っ赤なジャムを塗って、俺はマーガリンを塗った。何もかもが現実離れしているくせにイヴリースの作る料理はいつだって美味しい。――それ自体が《普通》ではない可能性はともかくとして。
「そういえば…」
「ん?」
「お前、学校とか行きたい?」
いつも唐突なイヴリースはまた唐突にそう言って、俺の反応を窺うように手を止めた。
「え…行けんの?」
そういえばと、俺も手を止める。イヴリースという《異常》の登場で全てが狂ってしまったけど、彼女と出会うまで俺は《普通》の高校生で、高校にも当然のように通っていた。
「近場でよければな」
イヴリース曰く、《俺》という一つの存在は「世界の裏側」である「ヒンタテューラ」に堕ちて一度《リセット》されてしまったらしい。だから何もかもを新しく始めなければならないらしいんだけど…どうだろう。
「戸籍とかどうなんの」
「葵に言えばなんとかなる」
「葵さんがかわいそうじゃん」
「仕方ないさ、それが仕事なんだから」
きっと俺が一言「行きたい」と言えば、イヴリースは簡単に必要な準備を整えてくれるはずだ。あの時「死にたくない」と言った俺を助けたように。
「で、どうする? 別に今すぐ決めなくてもいいが、こういうことは早いほうがいいだろう?」
イヴリースという女性はそういう存在で、彼女もまた自身がそうあることを誇りに思っていた。
「俺が学校に行ったとして…」
「行ったとして?」
「俺がいない間、あんたはどうするんだよ」
「…私?」
一瞬イヴリースの声が驚愕に揺れて、俺は自身の失言に気付く。
「なんだお前、私の心配をしてるのか?」
「や、別に…そういうわけじゃ…」
イヴリースはにたにたと笑いながら最後のパンを頬張った。そのまま機嫌よさそうに指先に残ったジャムを舐め上げて、意味もなく俺の方をじっと見つめる。
「違うって…」
「はいはい」
俺はさも不満ですと眉間に皺を寄せ、わざとらしく彼女から視線を外した。
「暫くは私と遊ぼうな」
拒否権はどこを探したって見当たらない。
「――って言ってたのは、自分のくせに」
アルヴェアーレの十一ある棟のうち、エントランスのあるシュティーアから順番に数えて六つ目、近い方から数えて五つ目のスコルピオーンに、俺とイヴリースは暮らしていた。
俺がヒンタテューラに堕ちてから既に一週間が過ぎて、同じだけここでの生活は続いている。その間、いつだって傍にいたイヴリースの姿が今はない。
「どこ行ったんだよ…」
どこにいたって目立つ銀色を探して二階のテラスから中庭をのぞき込むと、中央にある噴水の水が床に彫られた溝を伝っているのが見て取れた。空から降って来る太陽の光に照らされて、流れる水はキラキラと眩しい。
見渡した中庭にもイヴリースの姿はなくて、俺は手摺に寄りかかりながら体を反転させ、もう一度部屋の中に目を向ける。向かって左は俺の部屋、右はイヴリースの部屋で、俺たち二人はスコルピオーンの二階を丁度半分ずつ使っていた。
「……」
部屋の中にもイヴリースの姿はない。シュティーアの二階を丸々使ったサンルームにも人影は見当たらないし、イヴリースの行きそうな所に心当たりもない俺はきつく眉根を寄せた。
置いてきぼりを喰らった子供みたいだと、分かっていても溢れる不安を押さえ込むことはできない。大体、出かけるなら出かけるで声くらいかけて行かないイヴリースが悪い。
「――あ…」
不意に、誰もいなかった中庭から声がして、俺は何気なく肩越しに階下を見下ろした。
――そして、硬直。
「馬鹿」
私が声を上げてすぐ、ジンが至極面白そうにそう言った。顔がにやけている時点で彼があえて黙っていたことは明白で、私は零れそうになった溜息をなんとか呑み込む。
「君、なんでここにいるの?」
噴水の縁に立つ私と、私の前に立つジン、私たちを見下ろす《彼》。今ヴィッダァと呼ばれるアルヴェアーレの中庭にいるのは明らかに出会ってはいけなかった三人だ。よくある少女漫画的な意味じゃなくて、もっと切実に。
「なんで、って……俺に言われても…」
「質問を変えようか」
考えろ、私。今ここでどうすることが最良か。
「どうして君は、まだ、生きているの」
ひゅっ、と《彼》が鋭く息を吸う。《彼》に背を向け私と向き合うジンはまるきり他人事のように笑った。かわいそうにと、音もなく彼の唇が嘯く。
イヴリースの姿が見当たらないことだけが唯一の救いだった。
「…来て、マガミ」
低く呟くと――ザワリ――周囲の大気が音を立てて研ぎ澄まされる。足下を蹴れば体は軽く、一躍で《彼》のいるテラスへと移動した私は気持ちを完全に切り替える。
「悪いけど、君には死んでもらわなきゃ」
「なっ…」
「それがイヴのため」
振り上げた手の動きを追って私の影を飛び出したマガミは脇目も振らず《彼》へと襲い掛かり、私は《彼》の死を疑いもしなかった。――いや、そもそも彼は死んでいるのだ。彼にとってこれは《死》ではなく《消滅》。無への回帰。
「――させると思ったか?」
神狼・大口真神を力で押さえつけるなんて荒業をやってのけたイヴリースは平然とテラスの手摺に腰掛けていた。
「なんだ、いたの」
祈沙はさっさと大口真神を呼び戻し、俺は言われるまでもなく彼女の傍に移動する。
「残念だったな。今戻ったところだ」
「どこ行ってたの?」
「野暮用」
ハァ、と溜息一つ。祈沙が白旗を上げた。
「…どうしてもその子を守り通す気なら、」
俺はさっさとここから離れられるよう力を揮い、イヴリースはつまらなそうに肩を揺らす。祈沙は俺に寄りかかりながら目を閉じて、本当にどうでもいいことのように言った。
「無茶はしないでね」
もしもその手に力があったなら、彼女は躊躇わなかっただろう。
「引き際は弁えているか」
ぐらぐらと、俺の足下が揺れていた。
「なんで、」
「ん?」
最初から頼りなかったそこは既に崩壊寸前。危ういバランスの上に立っていた俺はもう、自分一人の力では体勢を立て直せそうにない。
「あんたのために、俺が死ななきゃならないんだよ」
「…世迷言さ。祈沙はヒンタテューラに関わる全てが憎い」
なのにあんたは手を差し伸べてはくれなくて、
「でもっ」
「お前が気にする必要はないよ、那智。私がついてるんだから」
俺は突き放される。
「…何かあったら私をお呼び。お前が私の名を呼べば、私はいつだってお前の傍に駆け付ける。それが私たちの契約で、私が唯一お前に強いることだ」
まるで呪いの言葉のように、イヴリースが放つ一つ一つの音は俺に絡み付いた。どうしてこんな風になってしまったのか、俺にはわからない。わかるはずがない。
「お前は《生きたい》言った。だから生きておいで」
だって彼女は何一つ教えてはくれないんだ。
「私がお前を生かすから、」
俺は望んだ。生きることを。そして今思い知った。
「お前はただただ生きておいでよ」
本当は《生きている》ことに意味なんてない。
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