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 閉ざされた世界でのまどろみは心地良く、穢れを知らない無垢な夢は、時に鋭く見る者の目を焼いた。

「かわいそうに」

 《災いの枝》は、己が身を委ねた夢の空虚さに嘆く。知ることを必要とされなかった夢の主の境遇は、《災いの枝》に一人の少女を思い起こさせた。

「かわいそうに」

 閉ざされた世界。限られた人。不完全な魔法陣。捧げるために生み出された存在。

「助けてあげましょうか?」

 偽りの器。

「助けてあげましょうよ」

 《災いの枝》は、己を抱く愛しい少女に囁いた。

「  」

 戯れで訪れていた夢が遠退く。
 居心地の良いマナの中へ戻った《災いの枝》は、押し寄せるまどろみに身を任せ形を崩した。

「助けてあげましょうよ――」

 たぷんと、魔力の泉がかさを増す。










「つまり巨人族とは、《ラグナロク》において天上の神々を滅ぼす存在であり、我々の住む《世界樹に支えられた九つの世界》最強の種族と言える。確かに神々は強大な力を有しているが、その力が戦いに特化している者はごく一部だ。だが巨人族は好戦的で、戦うために生まれてきたと言っても過言ではない」

 退屈な講義の内容は右から左へ。
 窓際の特等席に出来た日溜りの心地良さは、穏やかに私を手招いた。
 膝に乗せた黒猫の背中を撫でる手が止まり、落とした瞼の重さに理性は陥落を余儀なくされる。

「巨人族を統べる王はウトガルド・ロキ。アース神族にも同名の巨人族が名を連ねているが、混同はしないように」

 意識が闇に落ちる刹那、絶妙なタイミングで、ぴしゃりと黒猫の尻尾が腕を打った。

「アースガルズのロキは金の髪に金の目。ウトガルド・ロキは透けるような銀の髪に、血のように赤い眼をしている。前者は――」

 眠気は一気に醒めて、私は目を開ける。恨みがましい視線を向けると黒猫はそ知らぬ顔で机に伸び上がった。
 ぴしゃり。――今度は机を打って階下の出入り口を示す。

「暁羽[アキハ]・クロスロード卿、退室を許可します」

 その向こうに覚えのある魔力を感じて、私は席を立った。教授も誰が来たのか気付いたから、扉が叩かれる前に私を促したのだろう。

「…感謝します、教授」

 黒猫が揶揄するように一声鳴いた。細められた真紅の瞳に、どことなく楽しげな色が混じる。

「失礼します」

 私はその場で指を弾き鳴らした。
 ぽっかりと口を開けた《次元の狭間》は刹那で私と黒猫、机の上に広げていたノート類を呑み込んで、私だけを講義室の外へと吐き出す。

「――グロイ」

 そこにいたのは当然予想通りの人物で、壁に寄りかかり私を待っていた《王騎士》グロイ・スヴィーウルは、扉ではなく何もない場所から現れた私に冗談めかして言った。

「別に急がなくていいのに」
「二階席にいたのよ」
「あぁそう」

 だろうと思った。――軽く肩を竦めたグロイは促すでもなく歩き出し、私もそれに続く。
 どうせ《仕事》の話だ。歩きながらでも出来るし、聞かれて困る内容なら尚更、ここにいても仕方がない。

「そういえば、あの黒猫はどうした?」
「リーヴのこと?」
「あんたがいっつも連れてる奴」

 どうやら今日は後者らしく、グロイは時間潰しに適当な話を振ってきた。
 《次元の狭間》を介した《空間転移》は私の専売特許で、並の《魔法師》では扱えないから、この無駄な時間もまた《仕方がない》。

「一緒じゃないなんて珍しいな」
「四六時中一緒ってわけじゃないのよ」
「四六時中一緒だと思ってた」

 私はグロイの言葉に、《次元の狭間》へおいてきた黒猫のことを思い出して小さく笑った。それに気付いたグロイは首を傾げ、なんでもないのと聞き流すよう肩口で手を振ると、胡乱気に目を細めて正面に向き直る。

「あんたなんかやったろ」
「どうして?」
「今超サドっぽい笑い方した」
「それは失礼」

 今度は意識して彼曰く《超サドっぽい》笑顔を浮かべた私は、服の内側でペンダントが熱を持っていることに気付いて首元に手をやった。

「噂をすればなんとやらね」
「暁羽?」

 指先にかかった革紐を引いていくと、手の平で握りこめるくらいのルビーが服の中から顔を出す。よく見ると中に魔法で特別な紋章が刻まれているそれを目線で揺らして、私は言葉に魔力を乗せた。

「《リーヴ》」

 《言霊》で名前を呼ばれて漸く《次元の狭間》から出られた黒猫は、酷く不機嫌そうに鳴いて私の肩に飛び乗る。

「ごめんね、忘れてたの」
「いやわざとだろ」
「まさか」

 ルビーをまた服の内側に仕舞いこんだ私は、強請るように鳴いた黒猫を腕に抱いて、気持ち引き攣り顔のグロイを見遣った。

「私がリーヴにそんなことするわけないじゃない」
「普通死ぬぞ…」
「リーヴは普通じゃないから大丈夫」

 そうこうしているうちに、私たちは無駄に広い《王立魔法学校》の敷地を出る。《フィーアラル王国》の王都《イザヴェル》で唯一の魔法学校は《王城》から程近い場所にあって、グロイはいつも《散歩がてら》私を呼びに来ていた。

「いつか愛想付かされるぞ、あんた」
「…かもね」
「……冗談だって…」
「知ってる」

 年中開いている城門をくぐって城内に入る瞬間感じる、薄い水の膜を通り抜けたような感触。その水が少し《温い》様な気がして、私は片手で空気を梳いた。

「城の結界、また調整し損ねてる」
「そうなのか?」

 城の内側と外側を隔てる《結界》の存在すら感じ取れないグロイには、理解しがたい感覚なのだろう。私だって、説明しろといわれたら困る。
 黒猫だけが、私の言葉に同意するよう一声鳴いた。

「…それで、今度の仕事は何? もう城内なんだからいいでしょ?」
「聞き耳立てられる心配もないしな」

 わざとらしいセリフに肩を竦めて見せると、グロイは神妙な面持ちで私に向き直る。城門から真っ直ぐ人気のない場所を目指していたせいで、周囲に人影はなかった。

「予言者が、近く儀式が行われると予言した」

 黒猫がまた一声、今度はつまらなそうに鳴く。なんだそんなことかと言わんばかりの鳴き方だ。

「それはまた、穏やかじゃないわね」
「知っての通り、予言者が予言する儀式は一つしかない」 
「魔族の召喚、でしょ? 成功して魔族と契約を交わす確立よりも、失敗して死ぬ確立の方が高いから、通称は魔女裁判。――予言があったってことは成功するの?」
「いいや」

 ぱたりぱたりと、退屈そうに腕を叩いていた尻尾が動きを止める。

「へぇ…」

 グロイは苦々しい表情で私を一瞥した。

「全く楽しみがない、ってわけじゃなさそうね」





 ――さぁ、仕事の時間だ――





「――聞きましたよ」

 ぱらりぱらりと、独りでに捲れていた本の上に影が落ちる。

「期末試験の結果?」
「違います」
「…じゃあなんのこと?」

 ぱらり、ぱらり、ぱらり。
 捲れ続ける本は本はそのままに顔を上げれば、不機嫌顔の蒼燈と目が合った。

「昨日ですよ。貴女、北の森を吹き飛ばすなんて何考えてるんですか」
「ちゃんと元に戻したわよ」
「そういう問題じゃありません」

 私は小さく息をついてから、読みやすいよう浮かべていた本を下ろす。

「何、朝から学食のテラスで優雅に読書なんてしてるんですか」
「朝食は済ませたの」
「じゃなくてですね…」

 くあ、と隠す気もない欠伸をすると、蒼燈は力なく、崩れるように椅子に座った。

「怪我は?」
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