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 閉ざされた世界でのまどろみは心地良く、穢れを知らない無垢な夢は、時に鋭く見る者の目を焼いた。

「かわいそうに」

 《災いの枝》は、己が身を委ねた夢の空虚さに嘆く。知ることを必要とされなかった夢の主の境遇は、《災いの枝》に一人の少女を思い起こさせた。

「かわいそうに」

 閉ざされた世界。限られた人。不完全な魔法陣。捧げるために生み出された存在。

「助けてあげましょうか?」

 偽りの器。

「助けてあげましょうよ」

 《災いの枝》は、己を抱く愛しい少女に囁いた。

「  」

 戯れで訪れていた夢が遠退く。
 居心地の良いマナの中へ戻った《災いの枝》は、押し寄せるまどろみに身を任せ形を崩した。

「助けてあげましょうよ――」

 たぷんと、魔力の泉がかさを増す。










「つまり巨人族とは、《ラグナロク》において天上の神々を滅ぼす存在であり、我々の住む《世界樹に支えられた九つの世界》最強の種族と言える。確かに神々は強大な力を有しているが、その力が戦いに特化している者はごく一部だ。だが巨人族は好戦的で、戦うために生まれてきたと言っても過言ではない」

 誇りに思えと、過去の亡霊がまどろむ私に囁いた。お前はこの国の礎になるのだと、狂った《魔導師》は繰り返す。
 術者と同じ、綻びだらけの《魔法陣》が瞼の裏に浮かんで、私は仕方なしに目を開けた。午前最後の講義が終わるまで、時間はもう幾らもない。

「巨人族を統べる王はウトガルド・ロキ。アース神族にも同名の巨人族が名を連ねているが、混同はしないように」

 開けたまま机の上に放り出していた懐中時計を閉じる音に目を覚ました黒猫は、くあ、と暢気な欠伸を零して私の膝から長椅子へと移った。
 早く行こうと、深紅の瞳が私を急かす。

「(もう少しよ)」

 私は唇の動きだけで音もなく告げた。しょうがないとでも言うように、黒猫もまた音もなく鳴く。

「アースガルズのロキは金の髪に金の目。ウトガルド・ロキは透けるような銀の髪に、血のように赤い目をしている。…二人のロキについてはまた次回詳しく説明するとしよう。――解散」

 講義を切り上げた教授が生徒に背を向けるのと、時計塔の鐘が正午を告げるのとはほぼ同時だった。

「おまたせ」

 相変わらず時間厳守なラウム教授は、鐘が鳴り終える頃には隣の研究室へと消えている。机に広げたノート類を適当に《次元の狭間》へ放り込んで、私は黒猫を肩へ誘った。
 差し出した腕を伝って軽やかに飛び上がった黒猫が頬を摺り寄せてくる。講義室の二階から廊下へ出た私は少し目を細めてから、仕方ないわねと両手を上げる。

「おいで」

 黒猫は人の気も知らないで満足そうに鳴いた。


「――今から昼食ですか?」


 たたた、と軽い足音がして、私の視界に紫闇の狼が入り込む。見覚えのある《地狼》だと思って彼が来た方を見遣ると、案の定、そこには彼の《契約主》がいた。

「そうだけど?」

 蒼燈・ティーディリアス。ティーディリアス侯爵家の現当主殿。

「ご一緒しても?」
「どうぞお好きに」

 同時に学校内で決められている《チーム》の仲間である彼を避ける理由もなく、私は安易に頷いた。黒猫も大人しいので、きっと異論はないのだろう。

「ラウム教授の授業で転寝なんて、相変わらず貴女は勇者ですね」
「あの人は授業態度よりも試験の内容で判断するから、そうでもないわよ」
「そうなんですか?」
「前回の試験でS評価貰ったから間違いないわ」
「…Sなんて初めて聞きました」
「そう? 私はよく見るけど」

 さらりと自覚のある爆弾を落とすと、蒼燈はこちらの期待通り心底嫌そうに顔を歪めた。前を歩く地狼も呆れ顔で振り返り、私はわざとらしく満面の笑みを浮かべる。

「いつか夜道で刺されますよ」
「返り討ちにしてくれるわ」
「…でしょうね」

 その様が容易に想像できたのか、蒼燈はあらぬ方へと目をやった。地狼も同じ。黒猫だけが、当然のような顔で私を見上げている。

「貴女を傷付けるなんて、ヨトゥンヘイムのウトガルド・ロキにだって無理ですよ」
「あたりまえじゃない」

 黒猫の瞳が愉快そうに煌いたので、私は心から哂った。

「私は暁羽[アキハ]・クロスロードなんだから」

 そんなことは、もうずっと前から決まってる、この世の道理なのよ、と。










「嗚呼、嗚呼、憎い」

 ジャラジャラと、幾重にも重なり合う鎖を揺らすことで、閉じ込められた男は己の存在を確かなものとしていた。

「憎い、憎い、憎い」

 鎖は男の力を封じていたが、たとえ力があったとしても、男に逃げるあてはない。自分と鎖以外何もない空虚なマナの中で、男はジャラジャラと煩い鎖の音に理性を繋がれ、狂うこともままならず、繰り返す。
 憎い、憎いと、放たれる言葉、垂れ流されるどす黒い感情が己を閉じ込めるマナをより強固なものにしていることを、男は知らなかった。気付くための力を封じられ、だがそれだけを精神の頼りにしたばかりに、忌々しい鎖を壊せずにいる。
 憎い、憎いと、男は繰り返した。せめて閉じ込められた場所がマナであるとわかれば、マナを強固な檻とする力が己の呪詛であると気付けば、男は変えることができただろう。世界を、そして己を囲う境遇を。
 だが男は未だ何も知らず、鎖の音も途切れず、どす黒い感情だけが確かな目的を持ってのたうった。

「嗚呼、憎い、憎い、嗚呼――」

 どす黒い呪詛が積み上がる。










「――……」

 どこか遠くへやった意識を呼び戻すように、黒猫の尻尾が手の甲を撫でた。窓の外へ投げていた視線を戻せば真紅の瞳が目の前にあって、私は息を呑む。

「なんで…」
「妙なことを聞くな」

 いつの間にか、膝の上にいたはずの黒猫は姿を消していた。代わりに現れた紅目の男はクツリと笑い、窓の桟に座る私の髪を梳く。
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