いつまでも強く憶えているのは、狂気に満ちた男の声。途方もない痛みと喪失。絶望的なまでの哀しみと、それら全てを塗り潰して余りあるほどの怒り。そして――温もり。
失意の底から私を引き上げたのは、流れる血よりも深い紅色の目を持つ巨人の《王》だった。
そして私はその日から、彼の「リーヴスラシル」になった。
穏やかに繰り返されていた呼吸が止まり、少しして――それまでとは比べ物にならないほど密やかに――また再開される。
それが、リーヴスラシルの癖だった。目覚めている間はいつだって、そんな風に息を殺しながら過ごしている。無意識の内に――そうすることを当前として、努めもせずに。
だからリーヴは、いつだってリーヴスラシルの目覚めに気付くことができた。
「起きたのか?」
声をかければ、横向いていた体がごろりと転がる。
ヘッドボードへ寄りかかり、眠るまでリーヴスラシルが読んでいた本へ、暇潰しに目を通していたリーヴの方へと――転がったリーヴスラシルの腕はぱたりと、リーヴの膝に乗せられた。
「うん…」
柔らかな枕へ埋もれながらの応えは酷くくぐもっている。
寝起きで、気の抜けきった体を絡め取ってしまおうとでもするかのよう、乱れた髪を後ろへ梳いてやりながら――リーヴはリーヴスラシルの機嫌を窺って、膝へ乗せられていた手をやわく握った。
そして、少なくとも不機嫌ではなさそうだと判じる。
「おはよう、リーヴ」
「おはよう」
ふにゃりと幸せそうに笑ったリーヴスラシルの目元へ口付けて――機嫌の悪い時にこれをやると、ともすれば無造作に振り上げられた腕が強かに打ち付けられることさえあるのだから、恐ろしい――リーヴはリーヴで、さらりと肩を流れた己の髪を掻き上げた。
くすくすと聞こえた声に視線を落とせば、取り零した髪の一筋に擽られたリーヴスラシルが笑っている。
「くすぐったい」
「お前が長い方がいいと言うから」
背中を覆い尽くして余りあるほどに長い髪が、これ以上リーヴスラシルを笑わせてしまうことのないように――傾けていた上半身を起こすリーヴは、本当にただそれだけの理由で髪の長さを弄らずにいた。
「だって綺麗だし」
良質な魔力が通い、それ自体がまるで輝いているかのような美しさの髪――同じものを、リーヴスラシルもまた持ち合わせている。
けれど黒と銀では見栄えというものが違うのだという羨望を、リーヴは解さない。それでも悪い気はしなかった。
「三つ編みしていい?」
「お前の好きなように」
横になったまま手を伸ばしてくる横着なリーヴスラシルを抱き起こし、好きなようさせてやりながら――リーヴもまた、手元に流れてきた黒髪を手慰みと編みこんでいく。
何度も同じ事をされているうちに覚えた編み方はざっくりと、寝乱れたリーヴスラシルの髪を一つにまとめた。
簡単に解けてしまうことがないよう端を魔力で仮留めすると、いつの間にか手を止めていたリーヴスラシルもその出来栄えに満足したようにこりと笑う。
「ありがとう」
リーヴの髪は手を離されてさらりと解けた。
「もういいのか?」
「うーん」
返事ともつかない声を上げながらリーヴの膝へと倒れ込んだリーヴスラシルは、仰け反るよう体を伸ばして両手を投げ出す。ぐったりと脱力して、天蓋から垂れるカーテン越しに外が晴れていることを確かめ――ひっくり返ったままに今度こそ頷いた。
「もう起きる」
勢いつけて起き上がり、そのままベッドを抜け出ていく。
そうしてリーヴスラシルがまず向かうのは浴室と決まっていた。
「ビューレイストにお茶と何か摘めるもの頼んで」
「あぁ」
シャワーを浴び身綺麗にして、身仕度が整う頃には簡単な朝食の用意も済んでいる。
「今度はきっちり編んでね」
ソファーに足まで上げクラッカーを摘むリーヴスラシルに、そう言って目の細かなブラシを渡されて――リーヴは快く仕事を引き受けた。
背を向けてくるリーヴスラシルと同じソファーへ横向いて座り、流された髪を丁寧に梳き解かし編み込んでいく。端を留めるのに使ったのはやはり細長く紡ぎ出した魔力で、それなら髪を傷めることなく、解くのも容易かった。
「リーヴはなんでもできるのねぇ」
仕上がった三つ編みを肩に乗せ体の前へと垂らし、感心したよう一纏めにされた髪を撫でるリーヴスラシルは、「お返しに」と今度はリーヴの髪を一筋だけ編み魔力で留める。
そのまま、正面から抱きつくよう伸ばされたリーヴスラシルの腕はリーヴの肩を掠め、頭の後ろで髪を掴んだ。
「お前がやれと言うから」
「でも別に、私が言うからできるってわけじゃないでしょう? 近いものはあるんだろうけど」
「どうかな」
「そうなのよ。だって、そうでなきゃ私がリーヴに無理難題を突きつけてることになっちゃうじゃない」
伸し掛かるよう押し倒されたリーヴは大人しくリーヴスラシルの腰を抱く。されるがままに、さも機嫌の良さそうな容貌を見上げた。
「あなたにできないことなんてないの」
そうでなければならないのだと、リーヴスラシルが言うのなら。その通りになるのだろうと、リーヴは他人事のよう考える。けれど最早――自分に何が為せるのか、為せないのか――そんなことさえ、リーヴの思い通りにならないというのが真実だった。
流れる血よりも深い紅色の目を持つ人の姫。リーヴスラシルだけが、未来永劫リーヴの在り様を決める指針となり得る唯一。リーヴスラシルが「できる」と言えばできるのだろうし、「できない」と言えば、それがリーヴの限界だった。
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