この国で一番大きな自然公園「アベリア」には、とても不思議なアパートメントがありました。
「アルヴェアーレ」――蜂の巣――と呼ばれるそのアパートメントは、名前の通り蜂の巣のような造りをしています。六角形の小さな家が、身を寄せ合い円を描いたような造りです。中央には、家四つ分開[ヒラ]けた中庭もあります。
アルヴェアーレは、誰が見ても素晴らしいアパートメントでした。
アベリアを利用する人々は一様に、アルヴェアーレの住人に憧れを抱き、羨望の眼差しを向けます。自分にとっては雲の上の世界だと諦めながらも、心のどこかで夢見ることをやめられないのです。アベリアの豊かな自然と、それらに囲まれた日常を。
そんな、誰もが羨むアルヴェアーレに住むことが出来るのは、本当に一握りの人々でした。アルヴェアーレを構成する家々は十一棟しかなく、その内の二棟は、住人なら誰でも利用することの出来る共有スペースですから、人が住むことの出来る棟はたったの九つしかないのです。
そして、その九つのうち一つ、「フィーシェ」と呼ばれる棟には、一組の「博士」と「助手」が住んでいました。
「だぁーかぁーらぁー、そういうのをタイムパラドックスって言ってね、もし君が過去に遡って母親殺したらおかしいことになるでしょーが。おばさんがいなきゃ君生まれないんだよ? 過去でおばさん殺して君の存在が消えちゃったらどうすんの。……え? 構わないって? そうは言うけど君、この前僕が貸した千円まだ返してないでしょー。うん? …うん……そうだね、君が消えたら僕が君に千円貸した事実も消えちゃうね、よく気付いたね。…いや、馬鹿にしてるわけじゃないよ。ただそろそろ千円返して欲しいなーなんて……あ、そう? うんわかった。じゃあいいけど…うんそうだね。それでさっきの話の続きなんだけどね……」
〝時間関係〟――そう、安易に銘打たれたファイルを捲っていた博士の手が止まり、指先がぎっしりと敷き詰められた文字の上を滑りました。
記されたタイムパラドックスとそれに関係する事象のことをなるべく噛み砕いて説明しながら、博士は早く眠ってしまいたいと壁にかけられた時計に目を向けます。
「だからねぇ…」
そもそも君には時を遡る術がないだろうと、言ってしまえたらどれほど楽なことでしょう。電話の相手がどこにでもいるような人間であるのは確かでしたが、恐ろしいことに、アルヴェアーレにはそういう人間に平気で時間旅行をさせてしまう非常識な輩が、時折出入りしているのです。そういうことを商売にしている人だって住人の中にはいます。安易に「出来ないだろう」などと言って、出来る術を手に入れようと躍起になられてはたまりません。
ですが博士自身、このやりとりに厭き厭きしていました。
「……え? 何? 何だって? おーい? おかしいなー混戦してるのかなー聞こえないなー、おかしいなー聞こえないなー…あ、」
すると、そんな博士の考えを分かっているかのように、電話にノイズが混ざりました。ノイズは徐々に酷くなり、やがて通話は途切れます。
「切れちゃった」
漸く実のない会話から開放され、博士はにこやかに受話器を置きました。
「終わったんですか?」
話し声が止んだことに気付いた助手が資料室に顔を出します。
「うん。なんか急に電話の調子が悪くなっちゃってねー。せっかくだから電話線抜いといて」
「…またやったんですか」
「うん?」
「なんでもありません」
温めたばかりのホットミルクを置いて、助手は律儀に電話のコードを抜きました。
用済みの電話が片付けられている間にホットミルクを半分ほど飲み干し、机に伏せた博士は欠伸を一つ。
「寝るならベッドで」
「寝ようとしたところに電話があったんだよぉ」
「だからってそこで寝ないで下さい。誰が運ぶと思ってるんですか」
「君」
「博士は最近太ったから重いんですよ」
「……それホント?」
「嘘をつく必要がどこにあるんです」
「それにしたって言いようがあるでしょー」
時間関係のファイルを手に取った助手に元あった場所を指差してやり、博士は席を立ちました。
「それで、今回はどんな話だったんですか?」
「いつもと同じさ」
油断すれば落ちてくる瞼と必死に格闘していると、戻ってきた助手が促すように手をとり背中を押します。
「今度は母親を殺したいって言ってたよ」
「この前は確か…」
「妹。冷蔵庫に入れてたプリン食べたから」
「博士と大して変わりませんね」
「僕は、プリン食べられたくらいで君を殺そうとしたり、しないよ」
「そうですか? 拗ねて部屋に引きこもるのもどうかと…――ほら、つきましたよ」
二階から階段を下りてすぐの所に博士の寝室はありました。
「五歩も歩けばベッドなんですから、途中で行き倒れないで下さいね」
「うん…」
部屋の隅にベッドが一つ置かれただけの、眠るためにしか使われていない部屋です。
「おやすみぃ」
時計の針は午後十一時を回りました。博士が普段就寝する時間を、既に一時間ほど過ぎてしまっています。
「おやすみなさい」
博士がベッドに入るまでをしっかりと見届けて、助手は博士の寝室を後にしました。
「まるで駄々っ子と母親だな」
博士は結局気付きませんでしたが、リビングからずっと二人のやりとりを窺っていた人物がいます。イヴリースという名の、銀髪の女性です。
「あれで頭だけはいいんですから、世の中どうかしてますよ」
外を歩けば誰もが振り返るような美貌を持つ彼女は、いつもふらりと現れては姿を消します。
「そう言いつつ、甲斐甲斐しい」
「放っておくと一日中寝てますからね」
お茶を出し形だけ歓迎しておけば勝手に満足していなくなるので、対応が楽な分助手は彼女の事が不思議でたまりませんでした。
淹れたての紅茶に形だけ口をつけ――隣人曰く、猫舌なので決して淹れたての紅茶を飲みはしないそうです――、イヴリースは殺風景なリビングを見渡します。相変わらずだなという言葉に、助手は当然でしょうとそっけなく答えました。
「博士は寝ることと研究以外に興味を示さない人ですから」
「知ってる」
いつも浮かべている微笑を嘘のように消し去ったイヴリースは、もう一度紅茶に口を付け――助手の見間違いでなければ、今度こそ彼女は琥珀色の液体を口に含みました――、ここを訪れた時からずっと傍らにおいていた本をテーブルに放り上げます。
助手がその本を見つめ首を傾げている間に、気紛れな来訪者はソファーを離れました。
「預かっててくれ。取りには来ないかもしれないがな」
「…何なんです? どうせろくなものじゃ…っ」
ないんでしょう。――そう続くはずだった言葉は、窓から吹き込んだ突然の強風に押し込められました。
「母親を上手に殺す方法が書かれた本さ」
とてつもなく笑えない冗談です。
「邪魔だったらどうしてくれても構わないからな」
きっと彼女は全部分かった上でこんなことを言っているのでしょう。助手はイヴリースがその美しさと同じくらい性格が悪いという事実を思い出し、自分以外誰もいないリビングで残された本を前に一人溜息を吐きました。
「博士の電話相手に送りつけてやれと…?」
応える声はありません。
「……」
博士が起きるまで時間は十分にあります。たかが本一冊、処分してしまうのは簡単ですが、それが「イヴリースからの預かり物」というのが面倒なところです。いつかの万年筆のように、手放したものがいつのまにか戻ってきているなんていうのは願い下げです。この件に関しては特に。
「なんて面倒な」
残された本が本当にイヴリースの言った通りの内容であるのか、助手には分かりませんが、たった一つだけ言えることがあります。
「何で私ばっかりこんな目に…」
基本的に面倒見のいい助手は、こういうことを放って置けるほど薄っぺらい責任感を持ち合わせてはいないのです。だからこそ博士が飢え死にすることもなく研究を続けることが出来ているのですが、そのせいで降りかかる面倒ごとが増えているということに、助手本人はまだ気付いていません。
「二、三日したら様子を見に行ってみるかな」
一人楽しげなイヴリースの笑い声が、夜も更けたアベリアに落ちました。
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