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 硝子越しに見える空は少し曇っていたが、サンルームの中は程よい暖かさに保たれていた。
 肌寒い廊下を歩いてきたイヴリースは温度差に小さく身震いし、暖まった空気が逃げてしまわないようすぐに扉を閉める。
 歪みのない扉は物音一つ立てることなく元あった場所に収まり、サンルームに置かれたベンチに横たわる少女はイヴリースが現れたことに気付きもせず、夢と現実の間に意識を彷徨わせていた。部屋の一角から湧き上がる清水さえ彼女に遠慮して息を潜めている。
 イヴリースは音を立てないよういつになく慎重に歩きながら、鮮やかな紅色の髪をした少女――ジブリール――を起こしていいものかどうか、考えていた。

「…ジル?」

 ベンチの背もたれに寄りかかり、控えめに口にした愛称にジブリールは気付かない。
 結局イヴリースは彼女を起こさないことに決めて、そっと何事か囁くと穏やかな時間の流れるサンルームを後にした。

 ちょっと出かけてくるよ。

「……――イヴ…?」





 住み慣れた屋敷の中でも、そこはイヴリースにとっても、他の住人たちにとっても特別な場所だった。

 〝扉の廊下〟

 その名の通り扉ばかり並んだ廊下は「地のエデン」と呼ばれるこの世界から抜け出す数少ない手段の一つであり、またイヴリースの持つ人ならざる力の象徴のようなものでもあった。
 扉の廊下に連なる扉の向こうには、一つ一つ、全く別の世界が広がっている。神の能力[チカラ]と呼ばれるイヴリースだけが許された世界創造の力によって生み出された世界は、扉の廊下に並ぶ扉の数だけ存在し、彼女の気まぐれで増減を繰り返す。

 けれどほんの一握りの例外もあった。

 廊下の扉には一様に、イヴリースともう一人――神の知識と呼ばれるジブリール――だけが読み解くことの出来る、到底文字とは呼び難い幾何学模様が刻まれている。幾何学模様以外のものが刻まれていれば、それはイヴリースの力が及ぶことのない〝例外〟の世界。

「この辺りだったような気がするんだがな…」

 緩やかに右へカーブしているせいで果ての見えない扉の廊下で、目星をつけていた辺りに並ぶ扉の模様を一つ一つ確認しながら、イヴリースは一つの例外を探していた。
 そして見つける。

「嗚呼、あった」

 イヴリースが立ち止まり手を触れた扉には翅[ハネ]を休める蜂の姿が鮮明に刻まれ、流れるような筆記体て『Alveare』と銘打たれていた。他の扉と見比べるまでもない、明らかな〝例外〟。
 イヴリースは笑った。普段の彼女を知る者ならば目を疑うほどの穏やかさ、彼女の家族ならば目を覆うほどの無邪気さで。

「さぁ、出かけようか」

 手をかけたドアノブの下に鍵穴はない。それもまた、その向こうに広がる世界に彼女の力が及ばないことの証。左手に嵌めた銀の指輪に軽く口付け、いってきますと囁きイヴリースは扉の向こうへ身を投げた。
 扉は音もなく閉じる。










「なちー!」
「……」

 見覚えのある背中を追ってコンビニを出た途端、照りつける日差しにどっと汗が噴き出した。呼び止めようとした背中は俺が暑さにたじろいでいる間にも、立ち止まることなく離れていく。追いかけるよりコンビニに戻るほうが涼しいし疲れなくてすむ。でも部活の時間はギリギリだ。

「待てよ那智! おいてくなって」

 街路樹の陰に沿って駆け寄り隣に並ぶと、那智はこの上なく面倒そうな視線を俺に向け、仕方なさそうに耳にかけたイヤホンを引き剥がす。音量が低いのか、何を聞いていたのかは分からなかった。

「おいてく?」

 いつもの二割り増しで機嫌の悪そうな那智が低く声を上げる。何を言ってるんだと、見下したような声色。

「言葉のアヤだって、聞こえてんなら無視すんなよ」
「…会話すんのもメンドイ、暑いし」

 そう言いつつ会話に応じてくれる那智は見かけの割りに優しい。というか、こうも暑い日じゃなきゃ見た目もイイ感じで、そりゃあもう女子にもてる。

「コンビニ寄る?」
「……馬鹿」

 本人にその気がないところがまた恨めしい。

「馬鹿ゆーな。…なー、もう今日部活よくね? どっか遊び行こうぜ」
「…どこに?」
「涼しいトコ、海とか」
「電車賃お前が出すなら」
「げー」

 あからさまに俺が表情を歪めると目の端で那智が小さく笑った。最近暑い日続きで険しい表情ばかり見ていた俺は嗚呼でも、それでもいいかなんて思って、那智のスポーツバッグの肩紐を掴む。

「おい!?」
「海行こーぜ!」
「……ったく…」

 進行方向を九十度変えて、走り辛そうな那智を引っ張って、俺は駅を目指した。

「カキ氷もおごれ」
「任しとけ!」

 もううだるような暑さも気にならない。










 安定しない扉の出口が目的の場所からさほど遠くなかったのをいいことに、楽をしようと滅多に使わない交通手段を選んだ。車にしろバイクにしろ迎えにしろ、容赦ない夏の暑さに手配する気力さえ失せる。

(来る時間を選ぶべきだった…)

 無人の券売機で取り合えず聞き覚えのある駅名を選んで、出てきた切符と釣銭――仕方ないから金だけは取り寄せた。知り合いの財布から――を持って改札を通り、人気のないプラットホームへ上がる。駅舎からせりだした屋根の下は涼しい風が絶えず行き交っていた。

「――ほら、急げって!」
「まだ時間あるだろ…」
「早く涼みたい!」

 改札の方から聞こえてくる会話を何ともなしに聞き流しながら、そっと指先を風にさらす。この世界の精霊はどちらかというと希薄だが、それでもじゃれるように指先で騒ぐ気配があった。くすぐるように指を動かすと、首元を風が掠め涼しさが増す。

「あ、電車来たぜ那智ー、鈍行だけどいいだろ?」
「次を待つよりは」
「よし」

 同時に何かピリピリとしたものが背筋を伝ったが、その真意を探る前に風の精霊はホームに滑り込んできた電車の纏う無遠慮な熱に追い立てられ、イヴリースの元を去った。

「……」

 風が何を伝えようとしていたのか、ジブリールのように全知ではないイヴリースには分からない。知る術がないこともないが、果たしてそこまでする必要があるだろうか。――この例外の世界は良くも悪くもイヴリースの思惑の外で回っている。

「おねーさん」
「っ…――なぁに?」
「あ、驚かせちゃった? ゴメンね。乗らないのかなーって思ってさ、次の電車までまだ三十分くらいあるから」

 ホームにも二両編成の電車の中にも、ざっと見人影はなかった。今この場にいるのはイヴリースと二人の少年。

「ごめんなさい、ぼーっとしてたみたい。…乗るわ、教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」

 気の良さそうな少年に道を譲られ、イヴリースは機械的な冷たさで満ちた車両へと乗り込む。続いて少年が乗り込むと、タイミングを見計らったように扉は閉じた。

「おねーさん外人?」

 少年にそう問いかけられ、常用している目晦ましを自身にかけ忘れていたことに気付く。黒髪が一般的なこの国で――しかも都心を少し外したこの辺りなら――、イヴリースの銀髪は珍しいのだろう。どう取っても見慣れてますというような反応ではない。
 今から記憶を操作するのも面倒だから適当に誤魔化しておこうと、イヴリースは肩口の髪を一房拾い上げた。

「ハーフよ。髪と目は母譲りで、父が日本人」
「日本語うまいよね、ずっと日本にいんの?」
「えぇ、だから母の国の言葉はさっぱり。――貴方たちはこの辺りの学生なの?」

 ぽつりぽつりと、まぁ初対面の人間どうしが交わしそうな会話を続ける内に幾つかの駅を通り過ぎたが、三人のいる車両はもちろんもう一つの車両にも、人が乗り込んできた気配はない。いい加減目の前の少年も気付かないものかと――気付いたらそれはそれで面倒だが――イヴリースは目を細めるが、先に異変を感じ取ったのは沈黙を通していたもう一人の少年だった。
 那智と呼ばれていた少年が弾かれたように進行方向に目を向け、何かを見定めるように眉根を寄せると、ほんの少し先の空間が揺れる。那智が声を上げるよりも早くその〝揺れ〟は〝歪み〟となり、――爆発した。

(チッ…)

 咄嗟に揮われたイヴリースの力を歪みが呑み込む。風の精霊もこうなることを分かっていたから警告したのだろうかと、今更なことを考えながらイヴリースは迫る歪みに更なる力をぶつけた。視界の端で那智が歪みに呑まれ姿を消す。既に一両目を呑まれている電車は走り続けているあたり、取り込むのは生き物だけだろうと予測して、新たに力を紡ぐ。

「――――」

 刹那囁いたのは忘却の言霊[コトダマ]。今日ここで不自然なことは何一つ起きなかったのだと、巻き込まれた少年の記憶を書き換える。そうしている間に、イヴリース自身が歪みを逃れる余裕はなくなった。だがただいいようにされてはやらない。歪みの修復はイヴリースが呑まれると同時に完了する。

(情でも移ったかな…)

 流れるように色を失い存在をぼやかされた体はやがて、消え失せた。





「ッ……」

 背中の痛みで目が覚める。最悪の目覚め方だ。おまけに頭が痛い。

「……どこだここ…?」

 目を開けてまず見えたのは灰色の空。曇っているわけでもなく空そのものが灰色をしているような感じで、――俺はこの時点で諦めと共に息を吐く。嗚呼やっちまったと、前髪を乱しながら体を起こせば周囲の状況がさっきよりは把握出来るようになった。戦争物の映画でよくあるような、荒廃した街並みが広がっている。空気も気持ち埃っぽい。

「最悪」

 意識を失う前、俺が見たのは世界の歪み。すぐ傍にいた慎[マコト]がその辺に転がってないところをみると違う場所に落ちたか、俺だけが巻き込まれたか……嗚呼、そういえばあそこにはもう一人いた。到底人間とは言い難い気配の女が、一人。

(あの女がやったのか?)

 慎は気付いてなかった。あの女は気配どころか見るからに俺たちとは異質な存在だったのに、――現に俺は、慎が声をかけるまで彼女の存在に気付かなかった。

「――思ったより落ち着いてるんだな」
「ッ!」

 まず聞こえたのは声。次に座り込んでいた俺の目の前で世界が歪んで――同じ〝歪み〟であるはずなのに、受ける印象はついさっき俺を呑み込んだ歪みとは明らかに違う――、時間をかけず一人の女を吐き出した。

「もっと取り乱すかと思ったのに」

 透けるような銀色の髪を持った女を。

「…あんたがやったのか」

 俺は低く問う。この状況では当然の問いかけだが、俺の中では確認だった。女を吐き出した歪みを禍々しくないと感じた瞬間から、俺はどこかでこの女は信用できるんじゃないかと思ってしまっている。根拠のない信頼。諦めたままなら何かを頼りにしてる方がいい。
 女は心外そうに表情を歪め、大仰に肩を竦めた。まさかだろうと、口角が吊り上げられる。

「私も被害者さ。全く、厄介なことになった」

 言葉とは裏腹に楽しそうな顔で周囲を見渡して、女は座り込んだままの俺に手を差し出した。反射的にその手を取った俺を片手で軽々と引き起こし、そのまま歩き出す。

「ほら、行くぞ」
「え、ちょっ…」

 少し力を入れれば折れてしまいそうな腕なのに握った手はびくともせず、俺は引かれるがまま瓦礫の中を歩いた。どこか行くあてでもあるのか、女の足取りに迷いはない。

「どこ行くんだよ」
「なるべく早くここを離れないと、食意地の張った狼が――「それってマガミのこと?」…来たか」

 一瞬何が起きたのか――今日は何もかもが突然だ――分からなかった。苦々しく女が舌打ちして後ろ向きに地面を蹴ると、その体が俺ごと宙に浮き上がる。不安定な体勢に不満を訴える間もなく、何かの遠吠えがビリビリと空気を揺らした。

「大口真神だ。運がいいなお前、滅多に見れるものじゃないぞ」
「おおぐち、まがみ…?」

 俺は女が口にした名を、噛み砕くよう口にする。神と名がついている割に聞こえてくる声は凶暴で、女の笑みは凶悪だ。

「平たく言うと狼の神だな、元が獣だけに本能に忠実で凶悪だ。気を抜くとぱっくりやられる」
「げっ…」
「死にたくないか?」
「あ、当たり前だろ!?」
「よし」

 何がよしなのか、聞き返す前に女は俺を手近な瓦礫の上に下ろし、小さな子供に言い聞かせるよう目を合わせてきた。
 左手に嵌められた指輪が、手の平の冷たさとは裏腹な温かさを伝える。

「私はイヴリース。いいか? お前は私の名を呼んで『契約する』とだけ言えばいい。それで万事解決だ」
「契約?」
「今必要なのは私がお前を助ける理[コトワリ]、私とお前が契約を交わしたという事実」
「んなこと急に言われても…」

 頭の中で女――イヴリース――の言葉が渦を巻いた。俺は俺の知らないところでとんでもないことに巻き込まれて、この状況は更にややこしくなるらしい。今のところ、這い上がる方法は示されていない。

「その子困ってるよ、イヴリース」

 ついさっきイヴリースの言葉を遮ったのと同じ声が、今度は随分近くから聞こえた。
 また舌打ったイヴリースは俺を置いて飛躍し、低い瓦礫に腰掛ける人影の前に降りる。

「思ったより早かったな」
「自分の気配は隠せても、何の繋がりもない子供までは手が回りきらないみたいだね」
「場所が場所だけに」

 ここから這い上がる方法を俺は知らない。ここがどこなのかすら知りはしないし、この先に何があるのかも知らない。

「気紛れならもうよした方がいいよ。これ以上は、貴女だって…」

 けれど、ここで踏み止まる術は示されたような気がする。

「私は一度手をつけたものは、最後まで面倒見る主義なんだ」

 ――なぁ? 那智

「…イヴリース、」

 教えてもいない俺の名をイヴリースが呼んで――嗚呼でも、電車の中で何度も慎に呼ばれたから、知っていてもおかしくはない――、対峙する少女がはっと表情を強張らせた。

「あんたと契約する」

 もう引き返せないのだと、その言葉を口にした瞬間俺は悟る。根拠のない直感。途端後姿だけでもそうと分かるほどイヴリースが肩を揺らして笑い、――世界が震撼した。

「マガミ、ジン!」

 イヴリースと対峙する少女が悲鳴じみた声で叫ぶと、その影から化け物じみた大きさの狼が飛び出し、どこからともなく白い髪の男が現れる。

「那智」

 瞬き一つの間に俺の傍へと舞い戻ったイヴリースは、俺の手を取り立ち上がらせると、眼下に並ぶ三つの存在に向け、悠然と告げた。

「また会おう」

 それは再会することが分かりきっていて、尚且つそうなることを楽しみにしているような言い方で、俺は周囲の急激な変化に意識を持っていかれる寸前、心の中で首を傾げる。

「紅銀狐の呪われ子」

 彼女らは、どうやらイヴリースにとって脅威となりうる存在ではないらしい。





 世界の創造主である彼女にとって、全てが紙一重の遊戯であることを俺が知るのは、もう少し後の話。
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