「だぁーかぁーらぁー、そういうのをタイムパラドックスって言ってね、もし君が過去に遡って母親殺したらおかしいことになるでしょーが。おばさんがいなきゃ君生まれないんだよ? 過去でおばさん殺して君の存在が消えちゃったらどうすんの。……え? 構わないって? そうは言うけど君、この前僕が貸した千円まだ返してないでしょー。うん? …うん……そうだね、君が消えたら僕が君に千円貸した事実も消えちゃうね、よく気付いたね。…いや、馬鹿にしてるわけじゃないよ。ただそろそろ千円返して欲しいなーなんて……あ、そう? うんわかった。じゃあいいけど…うんそうだね。それでさっきの話の続きなんだけどね……」
〝時間関係〟――そう、安易に銘打たれたファイルを捲っていた博士の手が止まり、指先がぎっしりと敷き詰められた文字の上を滑りました。
記されたタイムパラドックスとそれに関係する事象のことをなるべく噛み砕いて説明しながら、博士は早く眠ってしまいたいと壁にかけられた時計に目を向けます。
「だからねぇ…」
そもそも君には時を遡る術がないだろうと、言ってしまえたらどれほど楽なことでしょう。電話の相手がどこにでもいるような人間であるのは確かでしたが、恐ろしいことに、アルヴェアーレにはそういう人間に平気で時間旅行をさせてしまう非常識な輩が、時折出入りしているのです。そういうことを商売にしている人だって住人の中にはいます。安易に「出来ないだろう」などと言って、出来る術を手に入れようと躍起になられてはたまりません。
ですが博士自身、このやりとりに厭き厭きしていました。
「……え? 何? 何だって? おーい? おかしいなー混戦してるのかなー聞こえないなー、おかしいなー聞こえないなー…あ、」
すると、そんな博士の考えを分かっているかのように、電話にノイズが混ざりました。ノイズは徐々に酷くなり、やがて通話は途切れます。
「切れちゃった」
漸く実のない会話から開放され、博士はにこやかに受話器を置きました。
「終わったんですか?」
話し声が止んだことに気付いた助手が資料室に顔を出します。
「うん。なんか急に電話の調子が悪くなっちゃってねー。せっかくだから電話線抜いといて」
「…またやったんですか」
「うん?」
「なんでもありません」
温めたばかりのホットミルクを置いて、助手は律儀に電話のコードを抜きました。
用済みの電話が片付けられている間にホットミルクを半分ほど飲み干し、机に伏せた博士は欠伸を一つ。
「寝るならベッドで」
「寝ようとしたところに電話があったんだよぉ」
「だからってそこで寝ないで下さい。誰が運ぶと思ってるんですか」
「君」
「博士は最近太ったから重いんですよ」
「……それホント?」
「嘘をつく必要がどこにあるんです」
「それにしたって言いようがあるでしょー」
時間関係のファイルを手に取った助手に元あった場所を指差してやり、博士は席を立ちました。
「それで、今回はどんな話だったんですか?」
「いつもと同じさ」
油断すれば落ちてくる瞼と必死に格闘していると、戻ってきた助手が促すように手をとり背中を押します。
「今度は母親を殺したいって言ってたよ」
「この前は確か…」
「妹。冷蔵庫に入れてたプリン食べたから」
「博士と大して変わりませんね」
「僕は、プリン食べられたくらいで君を殺そうとしたり、しないよ」
「そうですか? 拗ねて部屋に引きこもるのもどうかと…――ほら、つきましたよ」
二階から階段を下りてすぐの所に博士の寝室はありました。
「五歩も歩けばベッドなんですから、途中で行き倒れないで下さいね」
「うん…」
部屋の隅にベッドが一つ置かれただけの、眠るためにしか使われていない部屋です。
「おやすみぃ」
時計の針は午後十一時を回りました。博士が普段就寝する時間を、既に一時間ほど過ぎてしまっています。
「おやすみなさい」
博士がベッドに入るまでをしっかりと見届けて、助手は博士の寝室を後にしました。
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