朝からこの世の終わりのように曇っている空は今にも泣き出しそうで、冷たい風が頬を撫でるたび気分は降下していった。
「だから出かけたくなかったのに…」
「ぼさっとすんなよサクラ!!」
「……はいはい」
手袋に包まれて、温かいはずの指先から失われた感覚を取り戻そうと両手をこすり合わせながら、サクラは深々と息を吐く。
「でも、貴女がいつまでも手間取っているのが悪いんですよ?」
依然灰色の空へと目を向けたまま、渋々引き離した両手は宙に浮く水晶球へと伸び、そっと、空虚な輝きを包み込むように動いた。
「いい加減決めてください」
刹那、沈黙する世界。
「――〝カトレア〟」
注がれた力と意思に呼応して、カトレアは高く高く飛躍した。掲げた両手はサクラが許しただけの力を纏い振り下ろされ、叩きつけられた力は対峙する同朋の拠り所となる「匣」を、一欠片の情もなく破壊する。
響き渡った断末魔の叫びにも浮かべた笑みを揺るがすことなく、カトレアはたった今倒した「パンドラ」の核である「災厄」を呼び寄せた。淡く水色に色付いた光はすっ、と胸に飛び込み、サクラの手元にある彼女の核が輝きを増す。
「これで満足?」
カトレアの得意げな言葉に、サクラは一つ頷くことで返した。
「漸く帰れます」
翳されていた手が退くと、カトレアの核はカトレアの中へと戻る。カトレアの中で広がった温もりはやがてサクラにも伝わり、全身から不機嫌オーラを出していたカトレアの匣は、幾らか持ち直した気分に任せ、その肩に己がパンドラを招いた。
「あぁ疲れた」
「言い方が態とらしいですよ」
かつて世界中の災厄を集め作られた「パンドラの匣」。既に失われた匣の因子を魂に宿す「匣」。匣の意思によって具現化される災厄、「パンドラ」。
「お前が力をくれないからこんなに手間取ったんだぞ? 今日の奴は格下だったのに」
闘う宿命を持って生まれる命。
「この間もそう言って油断して、最後の最後で酷い目にあったじゃないですか」
「あれは相手が特殊だったんだ」
嗚呼どうしてと、サクラは誰にともなく胸の内で嘆いた。
「いい加減力任せに闘うのはやめてくださいよ。貴女燃費悪いんですから」
どうして私たちは闘わなければならないのだろう、と。たった今破壊した「匣」の顔を思い浮かべながら。
「はいはい」
パンドラは闘う。闘わなければならない。それが彼女たちの存在理由で、パンドラを宿す匣が唯一生き永らえる術。――そう、
「でもこれで、暫くは大丈夫だな」
私達[ハコ]は同朋[ハコ]を殺[コワ]し、その命[サイヤク]を喰らう[トリコム]ことでしか存在を保てない。だからパンドラは闘う。自らの拠り所を守るために。
「…そうですね」
なんておぞましい生き物。
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朝からこの世の終わりのように曇っていた空は、チャイムが四限目の終了を告げる少し前から冷たい雪を降らせ始めた。はしゃぐ女子にただ苦笑して見せた教師は早めに授業を切り上げて、暖房の効いた職員室へと引き上げる。我先にと教室を飛び出した何人かの生徒が、ベランダの手摺から身を乗り出し歓声を上げた。
「元気だねぇ」
呆れ交じりの声が、落ちる。
「混ざってくれば?」
私は皮肉混じりに笑って席を立った。
「冗談」
自分の席を離れ私の傍に来ていたヤマブキも大仰に肩を竦めながら同じように笑って、スクールバッグ片手に教室を出る私の後をついてくる。
廊下に出てみれば、どの教室も午前の授業を終えていた。
「私が寒いのダメなの、あんたも知ってるでしょ?」
「そうでした」
今度は私が大げさに肩を竦める。
「私購買だから」
「うん」
教室棟と特別教室棟の境でヤマブキと別れて、そのまま家庭科棟へ。滅多に使われることのない第二準備室に忍び込んで、内側からしかかからなくなった鍵をかけたところで、漸く、一息吐いた。
「元気だねぇ」
呆れ交じりの声が、落ちる。
「混ざってくれば?」
私は皮肉混じりに笑って席を立った。
「冗談」
自分の席を離れ私の傍に来ていたヤマブキも大仰に肩を竦めながら同じように笑って、スクールバッグ片手に教室を出る私の後をついてくる。
廊下に出てみれば、どの教室も午前の授業を終えていた。
「私が寒いのダメなの、あんたも知ってるでしょ?」
「そうでした」
今度は私が大げさに肩を竦める。
「私購買だから」
「うん」
教室棟と特別教室棟の境でヤマブキと別れて、そのまま家庭科棟へ。滅多に使われることのない第二準備室に忍び込んで、内側からしかかからなくなった鍵をかけたところで、漸く、一息吐いた。
「こんな話を知っているか?」
自慢の銀髪を夜風に揺らしながら、女は口を開いた。長い間続いていた静寂の時間が途切れると、ぴたり、どこからか聞こえていたピアノの旋律も途切れ、女を取り巻くありとあらゆるものが沈黙する。
「世界中の災厄を閉じ込めた「匣」の話だ」
話し始めると、女は髪よりも強い輝きを放つ瞳を楽しげに細め、唇を笑みの形に歪めた。
「その匣は気の遠くなるほど昔作られたものでな? 閉じ込められた災厄は「パンドラ」と呼ばれ、一度匣から解き放たれたパンドラは、美しい女の姿をとるそうだ」
掲げられた両の手は、慈しむように夜をなぞる。
「面白いと思わないか?」
女は、嗤った。
「面白いと思うだろう?」
世界中の誰よりも美しく、何よりも輝かしく、そして残忍に。
「だから欲しくなった」
女は嗤って、月のない漆黒の夜へと両手を広げた。
「どこにあるのかなぁ」
その指先がはらはらと、夜に解けていく。
「パンドラの、匣は」
朝からこの世の終わりのように曇っていた空は、チャイムが四限目の終了を告げる少し前から冷たい雪を降らせ始めた。はしゃぐ女子にただ苦笑して見せた教師は早めに授業を切り上げて、暖房の効いた職員室へと引き上げる。我先にと教室を飛び出した何人かの生徒が、ベランダの手摺から身を乗り出し歓声を上げた。
「元気だねぇ」
呆れ交じりの声が、落ちる。
「混ざってくれば?」
サクラは皮肉混じりに笑って、傍らに立つヤマブキを仰ぎ見た。
「冗談」
大仰に肩を竦めて見せたヤマブキも同じように笑って、二人は教室を後にする。廊下に出てみれば、既にどの教室も午前の授業を終えていた。
「私が寒いのダメなの、あんたも知ってるでしょ?」
「そうでした」
今度はサクラが肩を竦めて、ヤマブキは憮然とした表情を浮かべる。
HRのある教室棟を抜けると、喧騒は一気に遠のいた。
「ほら、すねないで」
「すねてない」
サクラとヤマブキ以外誰もいない職員棟の廊下は静かで、サクラは自分をおいていこうと早足になるヤマブキを追いかけながら、そっと肩にかけたスクールバッグの表面をなぞった。無意識の内の行動に、ヤマブキが保健室のドアをノックする音が重なる。
「失礼しまぁす」
「…失礼します」
保健室の中は程よく暖房が効いていて、サクラは廊下との温度差に身震いし、ヤマブキは歓喜の声を上げた。
「いらっしゃい二人とも」
「元気だねぇ」
呆れ交じりの声が、落ちる。
「混ざってくれば?」
サクラは皮肉混じりに笑って、傍らに立つヤマブキを仰ぎ見た。
「冗談」
大仰に肩を竦めて見せたヤマブキも同じように笑って、二人は教室を後にする。廊下に出てみれば、既にどの教室も午前の授業を終えていた。
「私が寒いのダメなの、あんたも知ってるでしょ?」
「そうでした」
今度はサクラが肩を竦めて、ヤマブキは憮然とした表情を浮かべる。
HRのある教室棟を抜けると、喧騒は一気に遠のいた。
「ほら、すねないで」
「すねてない」
サクラとヤマブキ以外誰もいない職員棟の廊下は静かで、サクラは自分をおいていこうと早足になるヤマブキを追いかけながら、そっと肩にかけたスクールバッグの表面をなぞった。無意識の内の行動に、ヤマブキが保健室のドアをノックする音が重なる。
「失礼しまぁす」
「…失礼します」
保健室の中は程よく暖房が効いていて、サクラは廊下との温度差に身震いし、ヤマブキは歓喜の声を上げた。
「いらっしゃい二人とも」
――紡がれなかった命――
「どうやって動いたんだろう」
純粋な好奇心で満たされたハルカの言葉に対する答はない。常識的に考えて、体を制御するために必要なプログラムの一切を持たない人工生体が動くはずはないし、今見た限りでは、〝彼女〟はちゃんとした自我を持って行動していた。
「カノエ」
「はい」
何度データを確認しても、この部屋が完全にネットワークから遮断されていた事実は揺るがない。考えられるのは内側からの汚染。けれど人工生体の中に初めからバグが紛れていたというのも、俄[ニワカ]に信じがたい。
「当該エリアを緊急廃棄。〝椿鬼[ツバキ]〟プロジェクトに関わる全ての情報をAQUAネットワークより完全削除。ネットワーク第二層・ヴィルへのアクセスを一時的に制限。なお、この制限は僕が自室へ帰るまでとする。おやすみ」
矢継ぎ早に面倒な指示ばかり残してハルカはそそくさと部屋を後にした。ガラスケースの封鎖を強制解除したせいで使い物にならなくなった機材と一緒に取り残され、私は少しだけ眉根を寄せながら部屋の中を見回す。
「部屋に連れ込んで何をする気ですか、貴方は」
元凶である人工生体の姿はどこにもなかった。
「調子はどうだい? シュア」
久しく立ち寄っていなかった〝アジト〟に足を踏み入れると、室内は相変わらず殺風景で、壁に設置された幾つかのモニターだけが室内を照らしていた。
<変わりありません>
入り口正面にあるコンソールに向けて一歩踏み出して漸く、天井の照明に光が入る。
「相変わらずケイオスの壁は厚いか」
<同じアンダーグラウンドと言っても、各階層は全くの別世界ですから>
「ここからフラウに行くのも、アクセスするのも容易いというのに、上が下になっただけでこれでは堪らないな」
床に描かれた蝶の真上を通り過ぎ、たった一つしかない椅子に落ち着いた。
<最近は特に、です。数ヶ月前までは、ケイオスの表層までなら侵入できていました>
「ハルカ君がまた何か面白いことをしているんだろう。彼は、過程を見られるのを酷く嫌う」
モニターを流れていく情報を見るともなしに見ながらそっと笑みを含む。
ハルカは完璧主義者だ。そして同時にアンダーグラウンドの支配者でもある。
<続けますか?>
「もちろんだよ」
けれど万能ではない。
「この世界の全てが記されたオーパーツ、『蝶』を手に入れるためならどんな苦労も惜しまない。――そうだろう?」
<はい>
「いつもケイオスの相手ばかりだと疲れるだろうから、たまにはヴィルやフラウの方ものぞいてみるといい」
いきなり何もない場所から放り出されたような感覚。何もない場所から、何もない場所へと放り込まれる。
あたしがあたしであるということは、あまりにも唐突に始まった。
(紅、い…)
目を開けてまず飛び込んできたのは、世界を埋め尽くす紅[クレナイ]。自分の体さえ見えないような〝紅い闇〟が広がっている。
なんなんだろうこれは。そう思って試しに伸ばしてみた手は、ほどなく何か硬いものにぶつかった。カツンと、闇の中に音が響く。
「――――」
すぐ傍で誰かのくぐもった声が聞こえた。聞こえただけで、あたしはそれがどこから聞こえてきたもので、誰が発した言葉なのかわからない。当然のことなのに、知りたいとあたしの中で誰かが訴えた。その〝誰か〟が誰なのかを、あたしは知りたい。
「――――」
声は何かをはっきりと告げた。途端世界が大きく揺れて、あたしは紅い闇の正体が不透明な液体であることを知る。あたしと同じくらいの体型の人がもう一人くらい入ってもじゅうぶんな広さのあるガラスケースの中は、あっという間にあたしを残して空っぽになった。息をしようと喘ぐと、肺にたまった紅い液体でむせた。吐血したみたいに、手と口がべっとりと紅く染まる。
「――しているのか?」
「……」
今度は少し聞き取れた。ガラス越しの言葉。声の主を確かめるために顔を上げると、――今まで液体の中にいたせいだろうか――体は自分のものじゃないみたいに重かった。ギシギシと軋む音が聞こえてきそうなほど動きは鈍いし、何かと何かがかみあっていないような気もする。
「僕の言っていることがわかるか?」
ガラスケースの外に立っている人と、ケースの底に座り込んでいるあたしでは、あたしの方が目線が低い。目を逸らさないようにすることだけを考えながら、あたしは小さく顎を引いた。頷いて見せたつもり。体が変な感じだから、ちゃんと出来たかはわからない。
「自分が〝何〟であるかは?」
「?」
「……」
その人はあたしが首を傾けると、少しだけ考えるような仕草をして、ガラスケースから離れた。
「動くな」
咄嗟において行かれたくないと思って体を起こそうとすると、強い口調で止められあたしはケースから離しかけた背を、またぺったりと冷たいガラスへ押し付ける。
「カノエ、開けろ」
私とその人との間に立ち塞がっていたガラスの境界は、まるで水銀のように融解して底にある溝の中に吸い込まれた。あたしが寄りかかっている側のガラスは融けずに残ったから、あたしは言われたとおり動かないでいる。
「話せるか?」
「は、なし…?」
体と同じで、口もあたしの口じゃないみたいだった。ほんの少し動かして声を出すだけで、頭が疲れる。集中しないとあたしの体は考え通りに動いてくれない。
「…立てるか?」
差し出された手に、あたしはすぐにでもつかまりたかった。なのに体はゆっくりとしか動かない。
「無理はしなくていい」
ゆっくりと持ち上げた手をつかみ引き上げられ、あたしは眩暈がした。今まで存在を意識していなかった足が上半身につられてペタペタとケースの底を歩く感触が、どこか遠い。
「まだ慣れてないだけだから、大丈夫」
あたしは半ば抱きかかえられながらも、自分の足で立っていた。つま先から踵までをしっかりと床につけ、ほんの少しだけ、自分の体を自分の力で支えている。
(へんな、かんじ…)
それはどこかくすぐったくて、優しくて、あたしは意味もなくへらりと笑って、目を閉じた。
「大丈夫だよ」
優しい声に守られて。
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