いきなり何もない場所から放り出されたような感覚。何もない場所から、何もない場所へと放り込まれる。
あたしがあたしであるということは、あまりにも唐突に始まった。
(紅、い…)
目を開けてまず飛び込んできたのは、世界を埋め尽くす紅[クレナイ]。自分の体さえ見えないような〝紅い闇〟が広がっている。
なんなんだろうこれは。そう思って試しに伸ばしてみた手は、ほどなく何か硬いものにぶつかった。カツンと、闇の中に音が響く。
「――――」
すぐ傍で誰かのくぐもった声が聞こえた。聞こえただけで、あたしはそれがどこから聞こえてきたもので、誰が発した言葉なのかわからない。当然のことなのに、知りたいとあたしの中で誰かが訴えた。その〝誰か〟が誰なのかを、あたしは知りたい。
「――――」
声は何かをはっきりと告げた。途端世界が大きく揺れて、あたしは紅い闇の正体が不透明な液体であることを知る。あたしと同じくらいの体型の人がもう一人くらい入ってもじゅうぶんな広さのあるガラスケースの中は、あっという間にあたしを残して空っぽになった。息をしようと喘ぐと、肺にたまった紅い液体でむせた。吐血したみたいに、手と口がべっとりと紅く染まる。
「――しているのか?」
「……」
今度は少し聞き取れた。ガラス越しの言葉。声の主を確かめるために顔を上げると、――今まで液体の中にいたせいだろうか――体は自分のものじゃないみたいに重かった。ギシギシと軋む音が聞こえてきそうなほど動きは鈍いし、何かと何かがかみあっていないような気もする。
「僕の言っていることがわかるか?」
ガラスケースの外に立っている人と、ケースの底に座り込んでいるあたしでは、あたしの方が目線が低い。目を逸らさないようにすることだけを考えながら、あたしは小さく顎を引いた。頷いて見せたつもり。体が変な感じだから、ちゃんと出来たかはわからない。
「自分が〝何〟であるかは?」
「?」
「……」
その人はあたしが首を傾けると、少しだけ考えるような仕草をして、ガラスケースから離れた。
「動くな」
咄嗟において行かれたくないと思って体を起こそうとすると、強い口調で止められあたしはケースから離しかけた背を、またぺったりと冷たいガラスへ押し付ける。
「カノエ、開けろ」
私とその人との間に立ち塞がっていたガラスの境界は、まるで水銀のように融解して底にある溝の中に吸い込まれた。あたしが寄りかかっている側のガラスは融けずに残ったから、あたしは言われたとおり動かないでいる。
「話せるか?」
「は、なし…?」
体と同じで、口もあたしの口じゃないみたいだった。ほんの少し動かして声を出すだけで、頭が疲れる。集中しないとあたしの体は考え通りに動いてくれない。
「…立てるか?」
差し出された手に、あたしはすぐにでもつかまりたかった。なのに体はゆっくりとしか動かない。
「無理はしなくていい」
ゆっくりと持ち上げた手をつかみ引き上げられ、あたしは眩暈がした。今まで存在を意識していなかった足が上半身につられてペタペタとケースの底を歩く感触が、どこか遠い。
「まだ慣れてないだけだから、大丈夫」
あたしは半ば抱きかかえられながらも、自分の足で立っていた。つま先から踵までをしっかりと床につけ、ほんの少しだけ、自分の体を自分の力で支えている。
(へんな、かんじ…)
それはどこかくすぐったくて、優しくて、あたしは意味もなくへらりと笑って、目を閉じた。
「大丈夫だよ」
優しい声に守られて。
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