今自分の前にいる青年がどこの誰でどういう存在か、分かっていても恐怖は生まれなかった。彼が私を傷付ける存在ではないと理解しているから。怖がる必要なんてなかった。
「気分はどう?」
「悪くないわ」
互いの記憶と、感情と、思考が、絶え間なく混ざり合って私達の境界をあやふやにする。それはとても不思議な感覚だけど、そうして混ざり合ったものを抱えたまま触れ合っているのは存外心地良かった。
「嬉しそうだね」
「嬉しいんでしょう?」
「それに楽しそうだ」
「貴方も楽しいんでしょう?」
空気を響かせる言葉があまりに無意味すぎて、笑いが止まらない。
「そうだね」
記憶も、感情も、思考さえ混ざり合っているから、私達は口を開く前に相手の言わんとする事を知る事が出来る。触れ合った互いの薄皮一枚。その向こうには同じものがあるだけで、私達には目に見える肉体以外の違いなんて何もない。
「思ったより楽しめそうだよ」
どこからが私でどこまでが彼なのか分からない。そんな、奇妙な関係が酷く互いを安心させた。裏切られる事も嘘を吐かれる事もすれ違う事もない、唯一絶対的な存在が今この瞬間も存在しているという奇跡じみた現実。ただそれだけで、何も不安に思う事なんてない。何を怖がる事があるだろう。
「そうね」
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ぐるり。回って、混ざる。ぐるり、ぐるり。混ざって、回って、一つになる。
「おはよう、ルーラ」
目が覚めた時、私は全てを理解していた。理解する事が出来ていた。だから何も不安に思う事なんてなかった。
「おはようリドル」
頬に添えられた手に手を重ねて、笑う。穏やかに艶やかに、何の憂いも一片の曇りもなくただ嬉しげに、楽しげに。笑って、私からも手を差し伸べた。
「気分はどう?」
「悪くないわ」
私とリドルは、一つの対[ツイ]。そういうものなのだと、私は理解していた。だからそうする事に躊躇いは感じない。交わす言葉にだって偽りはいらない。ただありのままを曝け出していればそれでいいのだと、知っていた。
「それはよかった」
ぞわぞわと何か得体の知れない物が背中を這い上がって来るような気がして、目が覚めた。最悪の目覚め方だ。
前髪が汗でべっとりと額に張り付いて離れない。簡素な作りのワンピースも似たようなものだった。全身がこれでもかというほど汗で濡れている。
「きもちわるい…」
ずるりと、ベタつく体を引きずるようにベッドを下りてひとまず部屋を出た。いっそ雨でも降っていればよかったのに。
水。水。水。――そればかり考えていたら、足は正直に浴室へ向いた。服を脱ぐのも億劫で後先考えず頭から冷水を浴びる。肌を刺すほどの勢いで降り注ぐ水は、少しでも涼をと座り込んだ私の体から不快感も、熱も、汗も、全部纏めて奪ってくれた。
「正気?」
「…この上なく正気よ」
後をついてきていたらしい黒猫は、脱衣所から信じられない物でも見るように私を見上げる。言葉よりも遥かに饒舌な目を見たくなくて瞼を下ろしたら、水音がまるでベールのように私を包んだ。
「とてもそうは見えないけどね」
「うるさい」
頭の天辺から爪先まで、ほど良く冷えた頃合いを見計らったようにリドルがシャワーを止める。薄らと目を開けて見上げたら、咎めるというより呆れの強い視線を返された。風邪でも引いたらどうする気なんだと、やはり彼の目は言葉より多くの事を私に語る。
薄暗い部屋には、蝋燭の明かりが一つだけ灯されていた。小さな炎はゆらゆらと忙しなく揺れて、天井に映る影を生き物のように蠢かせている。
その影を眺めているうちに、寝起きでぼんやりとしていた頭は徐々に働き始める。まずは起きなくてはと、起こした身体の上を薄手のブランケットが滑り落ちた。
「リドル――」
ベッドサイドに置かれたスツールは無人。その代わり、枕元で黒い猫が丸まって目を閉じている。
「リドル」
意識して呼ぶと、黒猫は静かに目を開けて私を見上げた。真紅の瞳には少しだけ不機嫌そうな色が滲んでいる。
「お腹すいた」
「丸一日寝てたからじゃない?」
「何か作ってよ」
「……仕方ないなぁ…」
起こされたのが不満なのか、黒猫は少し渋るように目を細めてから、本当に仕方なさそうに体を起こした。
ぐぅっ、と目一杯伸びをして、欠伸を一つ。
「朝まで寝てれば良かったのに」
ぼやいた黒猫は音もなくベッドを飛び下りて、独りでに開いた扉から部屋を出て行った。扉はまた独りでに閉じて、蝋燭の火が大きく揺れる。
「ひどい」
長いローブが翻り、広がる闇を蹴散らすような閃光が放たれる。光は矢のように素早く空を駆けた。
新月の夜。光源のなかった世界が白く燃え上がる。
「風よ、その吐息をもってたゆたう水を回せ。炎は熾り、大地を清めよ。源無き光の下、世界は閉じる。闇夜が戻り全ての歪みが正されるまで、けして開くことはない」
朗々と紡がれる言葉は強い魔力を帯びていた。放たれる音と音の連なりが大気を震わせ、世界に満ちた古[イニシエ]からの理[コトワリ]を少しずつ変質させていく。
変化の中心に立ち、歌うように世界を従えているのはたった一人の少女だ。
「回れ、回れ、水よ。閉ざされた世界の中を回れ。風に導かれ速度を上げ渦を巻け」
水と風の描く円は少女を中心に広がって、やがて《閉ざされた世界の果て》を示す。炎はその内側を万遍無く舐め上げた。清められた大地は、磨き上げられた床のように零された魔力を転がす。
「私達が生まれた瞬間生じた歪みは一日ごとに広がって、一年ごとに形を変えた」
世界に混ざることなくその場にとどまる魔力は、密度を増しやがて閉ざされた世界の中で凝り固まった。
ごろごろと地面に転がる魔力の《石》が増える度、少女が体中に巻きつけた長い鎖が一欠片ずつ砕けて落ちる。
「歪みはやがて世界を呑み込む」
そして最後の鎖が砕けた時、少女の体に巣食う最後の《歪み》が顕現する。
あの子はおかしな子。いつも一人でいる。
あの子はおかしな子。いつも屋根に上って空を見てる。
あの子はおかしな子。だから誰もあの子と遊ばない。
あの子はおかしな子。だから誰もあの子の名前を知らない。
あの子はおかしな子。だからいなくなっても心配する人なんていない。
あの子はおかしな子。
――あの子って、どの子?
(__という名の子供/歪な夢)
「――アシェラ?」
たとえるならそれは、取り合った手と手を心無い第三者によって断ち切られてしまうような感覚。
中庭に面した廊下を大広間へと歩いていたジェノスは立ち止まった。胸の中にぽっかりと風穴を開けられてしまったような喪失感が、じわじわと広がっていく。
「(アシェラ、どこだ)」
思いのほか強い口調になった呼びかけに、幾ら待っても答えはなかった。
それどころかアシェラの気配は神経を研ぎ澄ませなければ感じ取れないほどに希薄で、――居ても立ってもいられずジェノスは走り出す。
「(答えろ!)」
初めてのことだった。多くの魔使いがそうであるように、ジェノスも、孤独であることを知らない。
「(答えてくれ…っ)」
自分という自我が誰とも繋がっていないことが耐え難かった。
「カフカ」
いやあれは何かの間違いだろ。――そう思って今見た光景を忘れてしまおうと頭を振ると、ポラリスからしっかりとした声で呼ばれる。
目ざといなぁと、当然の事なのに心中でぼやかずにはいれなかった。
「…やっぱり見間違いじゃない?」
「えぇ、私にも見えましたから」
「マジか…」
がしがしと頭を掻きながら、たった今通り過ぎたばかりの中庭を省みる。危ないですよとポラリスが窘めるのも聞かずに暫く歩いて、見知った後姿がないことに溜息一つ。進行方向に向き直ると、ルーラが不思議そうな目でこちらを見ていた。
「何かあった?」
他意のない問いかけに一瞬真実を話すべきか躊躇う。偽ったところで意味はないのに。
「ジェノスが血相変えて走っていったからさ、珍しいなーって」
「ジェノスが?」
それは珍しい。――何か企むようにルーラが微笑んで、隣を歩くリドルが小さく眉根を寄せる。
「ルーラ」
「様子見だから、ね? ――クロウ」
どこに隠れていたのか、ルーラの言葉に応じて彼女のローブから飛び出したカナリアは、何を言われるでもなく中庭の方へと飛び去った。
クロウと呼ばれていたし、アルビノだからきっとあれば例の守護獣だろう。それならルーラが必要最低限のことすら告げなかったのにも納得がいく。
「出歯亀?」
「知的好奇心」
取り合えず、ジェノスが血相変えて走っていた理由くらいは分かりそうだ。
たとえるならそれは、取り合った手と手を心無い第三者によって断ち切られてしまうような感覚。
中庭に面した廊下を大広間へと歩いていたジェノスは立ち止まった。胸の中にぽっかりと風穴を開けられてしまったような喪失感が、じわじわと広がっていく。
「(アシェラ、どこだ)」
思いのほか強い口調になった呼びかけに、幾ら待っても答えはなかった。
それどころかアシェラの気配は神経を研ぎ澄ませなければ感じ取れないほどに希薄で、――居ても立ってもいられずジェノスは走り出す。
「(答えろ!)」
初めてのことだった。多くの魔使いがそうであるように、ジェノスも、孤独であることを知らない。
「(答えてくれ…っ)」
自分という自我が誰とも繋がっていないことが耐え難かった。
「カフカ」
いやあれは何かの間違いだろ。――そう思って今見た光景を忘れてしまおうと頭を振ると、ポラリスからしっかりとした声で呼ばれる。
目ざといなぁと、当然の事なのに心中でぼやかずにはいれなかった。
「…やっぱり見間違いじゃない?」
「えぇ、私にも見えましたから」
「マジか…」
がしがしと頭を掻きながら、たった今通り過ぎたばかりの中庭を省みる。危ないですよとポラリスが窘めるのも聞かずに暫く歩いて、見知った後姿がないことに溜息一つ。進行方向に向き直ると、ルーラが不思議そうな目でこちらを見ていた。
「何かあった?」
他意のない問いかけに一瞬真実を話すべきか躊躇う。偽ったところで意味はないのに。
「ジェノスが血相変えて走っていったからさ、珍しいなーって」
「ジェノスが?」
それは珍しい。――何か企むようにルーラが微笑んで、隣を歩くリドルが小さく眉根を寄せる。
「ルーラ」
「様子見だから、ね? ――クロウ」
どこに隠れていたのか、ルーラの言葉に応じて彼女のローブから飛び出したカナリアは、何を言われるでもなく中庭の方へと飛び去った。
クロウと呼ばれていたし、アルビノだからきっとあれば例の守護獣だろう。それならルーラが必要最低限のことすら告げなかったのにも納得がいく。
「出歯亀?」
「知的好奇心」
取り合えず、ジェノスが血相変えて走っていた理由くらいは分かりそうだ。
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