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 目が覚めたら不思議の国でした。なんて、笑えない冗談だ。





「おはよう」

 紅い目をした黒猫が、私に目覚めを促す。
 長い尻尾をぱたりぱたりと動かしながら可愛らしく首を傾げてみても、猫は猫だ。

「いつまで寝てる気なんだい?」

 私はハッ、と短く息を吐いて、遅ればせ目を丸くする。

「猫が喋ってる…」

 恐る恐る手を伸ばすと、ルビーアイの黒猫はくつくつと喉を鳴らした。――笑ったのだ。

「別に噛みついたりしないよ」

 初めて聞いた《猫の笑い声》に、私は動きを止める。すると黒猫はおかしそうに目を細め、私の手の下に自分から体を滑り込ませてきた。

「っ――」

 手を引く間もない一瞬のことに、私は思わず悲鳴を呑み込む。
 当の黒猫は、素知らぬ顔で距離を詰めてきた。柔らかい毛並みが手の平をすり抜けた次の瞬間、首元に温もり。

「おはよう」
「――あ、れ?」

 何かがおかしいと気付いたのは、その時だ。
 見たこともない部屋の見たこともないベッドの上に横たわっている《私》が誰なのかを、私は思い出すことが出来ない。物心ついてから今に至るまでの記憶の中で、自分自身の存在だけがぽっかりと抜け落ちているという、異常事態。
 ひやりと、冷たい手で心臓に直接触られたように、鼓動が止まる。自分が今息を吸っているのか吐いているのかさえ分からなくなって、胸をつかんだ。
 寒いのに熱いような、痛いのにこそばゆいような、苦しいのに気持ち良いような、奇妙な感覚が全身を駆け巡る。
 自分が見ているものが何なのかすら、私にはもう分からなかった。

「ルーラ」

 寒いのに熱いような、痛いのにこそばゆいような、苦しいのに気持ち良いような、奇妙な感覚が私を閉じ込める。

「ルーラ・シルバーストーン」

 二本の腕。薄い唇。優しい声とほど良い体温。――宝石のような、一対のルビーアイ。

「それが君の名前だよ。――《ルーラ》」

 たった今夢から覚めたみたいに、意識が覚醒する。
 それまでの混乱が嘘のようだった。一呼吸ごとに心が軽くなっていくのがはっきりと分かる。
 心臓へ触れた手に、温もりが戻った。

「もう平気?」
「う、ん…」

 大丈夫、と答える声が掠れていることに気付いて、差し出されるグラス。どこから取り出したのかも分からないものなのに、口を付けることへの抵抗は感じなかった。
 背中に添えられた手の動きに合わせて、まだほんの少し揺れていた心が綺麗に凪いでいく。グラスに半分ほど注がれた水を飲み干す頃には、私はすっかり落ち着きを取り戻していた。
 やんわり取り上げられたグラスは、私の視界の外で大気に溶ける。

「もう一度眠るといいよ」
「どうして…?」

 その時既に、私の瞼は落ちかかっていた。見下ろしてくるルビーアイに魔法でもかけられたように、体から力が抜ける。

「眠って、起きたら、全部わかるから」

 ずぶりと、意識の沈む音が聞こえたような気がした。

「おやすみ、ルーラ」





 ――おやすみ、私の――





(ようこそアリス/終わらない夢の世界へ)
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