リアリズ・クリアウォーターは黒と見紛う程に深い紅色の髪を持つ、赤目の吸血鬼だ。彼女は自分が吸血鬼と人間の混血児、《ダンピール》であると知るなり自ら命を絶ち吸血鬼としての生を望んだ変わり者で、吸血鬼としても変り種だった。
「アマギ、アマシロ、テンジョウ、喉が渇きました血を寄越しなさい」
リアリズ・クリアウォーターの隷属、天城[テンジョウ]は夜のように暗い色の髪を持つ、黒目の使い魔だ。彼は悪魔と吸血鬼の間に生まれた魔界の異端児で、リアリズに前の主人を殺されるまでは戯れで命を奪われるような毎日を送っていた。
「二時間前に飲んだばかりだろ」
「喉が渇いたんです」
「……」
ソファーでうつぶせに横たわり、気だるく手を伸ばしてくるリアリズの前で、天城は仕方なく膝を突き身を屈めた。リアリズは躊躇いがちに差し出された手を掴み、そのまま雪崩れるように彼を床へ押し倒す。
強かに打ちつけた背中に天城が痛みを感じるより早く、リアリズは彼の喉元に喰らいついた。
「ッ、――」
痛みと恐怖以外の感情が、吸い出される血と入れ替わるように流れ込む。抗い難いそれに耐えるため噛み締めた奥歯はギリッと嫌な音を立てた。
「…流されてしまえばいいのに」
空腹を紛らわす程度に血を吸って、リアリズは一息つく。
「何を意地になっているのですか?」
そう問いかけてはみても、天城が答えることはない。吸血行為の直後はいつもそうだった。天城は虚ろな瞳を虚空へ向けたまま、無防備に首筋を曝け出す。
たった今治まったはずの衝動がまた疼き、眩暈にも似た感覚に囚われリアリズはもう一度天城に覆い被さった。
「ぁ、ッ……やめ…っ」
二度目の吸血は容赦なく、相手が己の隷属であるのをいいことに、死なない程度の魔力を与えながら吸い尽くす。
抵抗の素振りを見せた両手はすぐに力を失くした。
「や、ぁっ…――!!」
びくりと一度引き攣って、それきり、天城は動かなくなる。さすがにやりすぎたかと、彼を押さえ込んでいたリアリズも顔を上げた。
「……」
そして嘆息。
「アマシロ…?」
気を失った天城はやはり答えない。彼の腹の上に乗り上げたまま、考えた末リアリズは吸血鬼らしく鋭く尖った爪を己の手首に押し当てた。抉るように皮膚を裂いて、溢れ出した鮮血は天城の唇へと落とされる。
「こうなることをわかっていて、どうして貴方は私の傍に来るんでしょうね」
彼の本能の半分が、意識を差し置いてリアリズの手首に縋った。生きるための容赦ない牙に顔を顰めるほどの痛みを感じながらも、リアリズは気のない手つきで乱れた髪を宥め梳かす。
「こうなることをわかっていて、どうして私は貴方を傍に置くんでしょうね」
天城は答えなかった。
『――――』
《あるじさま》が、何か言ってる。僕から引きずり出した内臓を踏みつけたまま、怒ってる。僕は何もしてないのに、《あるじさま》は踏みつけた内臓をぐちゃぐちゃに混ぜ返した。
『――――』
《あるじさま》が、何か言ってる。僕の腕を引き千切りながら、ドアの向こうに叫んでる。放り投げられるまま壁にぶつかって、ずるずると壁紙を汚しながら床に落ちても、《あるじさま》は更に僕を痛めつけようとはしなかった。
『――悪趣味な男ですね』
《あるじさま》は、何も言わない。《彼女》に殺されてしまったから。
『全く気が知れない』
動かなくなった《あるじさま》を床に転がして、《彼女》は血だらけの部屋を見渡した。《彼女》が指を振ると飛び散った僕の内臓と、引き千切られた腕は元通りになって、僕は、初めての経験に驚く。
『貴方、名前は?』
《彼女》は僕の新しい《ご主人》になった。
「……夢、か…」
気がつけばベッドの上、ということはよくある。むしろ《彼女》に血を吸われた後は大抵そうだ。誰が運んでいるのかは考えるまでもない。僕と彼女は二人で暮らしているのだから。
「……」
時計を見て、溜息をついて、どうせ遅刻ならと急ぐでもなく仕度をした。彼女はまだ寝ている。日が落ちるまで起きることはない。
朝食代わりに血でも吸ってやろうかと考えて、昨日までの空腹が嘘のように満たされていることに気付いた。けれど血を吸った覚えはない。憶えているのは彼女に吸い殺されそうになったことだけで、僕は満足な抵抗も出来ないまま気を失ったはずだ。
大体、彼女が血をくれるはずがない。だって彼女は――
「学校、行かなくていいのですか?」
「っ! ……なんで、起きて…」
「もう九時ですよ? …送ってあげましょうか」
「――冗談!」
けたたましい音と共に閉ざされた扉を暫くの間見つめていたリアリズは、大きく溜息をついてからベッドの上で寝返った。丁度いい場所を探しているうちに天城の足音と気配は遠ざかり、やがて見失う。
「喉が渇きました…」
寝ているうちに襲ってしまわなかったことを後悔しても、後の祭りだった。
『貴方、名前は?』
彼の《主》である悪魔の血を吸った私は、知っている。彼が《名無し》であることを。名前すら与えられなかったのだ、この《異端児》は。
『僕に名前なんてない』
『ならあげましょう』
『なんで』
『私が呼ぶ時困るからです』
彼の存在を知った時から考えていた。彼を見つけた時から決めていた。
『天城にしましょう』
だって彼に罪はない。ただ父親が吸血鬼で、母親が悪魔だったというだけで、そこになんの咎がある。
『てん、じょう…?』
『えぇ。それが今日から貴方の名前です』
彼が虐げられる理由など、ありはしないのだ。
『いつか大切なものを守れるように』
あっていいはずがない。
気だるい午後の授業が終わっても、早々と帰る気にはなれなかった。確かに今、僕は一日中五体満足でいられる。だけど苦しいほどに血を吸われる毎日に満足はしていない。できるはずがない。こんな体にさえ生まれなければ、僕は――
「――浮かない顔をしているな」
送ってあげましょうかと、からかい交じりに提案した彼女の顔が浮かんで消えた。考え込んでいたせいで、いつの間にか校門の近くまで来ている。道沿いに並んだ街路樹の上で、僕を見下ろす《銀の魔女》は微笑んだ。
「那智[ナチ]ならもう帰った」
「知ってる」
「じゃあここに何の用だよ」
銀の魔女、《大いなる災厄》、僕や彼女とはまた違う意味で《異端》な女は意味深に笑みを深めて姿を消す。取り残された僕は暫くその場に立ち尽くした後、ゆっくりと帰路についた。朝は確かにあった血に対する充足感は既になく、そうしなければ生きていけない身とはいえ、《契約》という名の鎖で僕を縛る彼女への不満と一緒に、血への渇望が燻っている。
今日は、どんなに頼まれても血なんてやるものか。
「なん、だよ…それっ!!」
「何って、血液製剤ですよ。見ればわかるでしょう?」
「そうじゃなくて!」
嗚呼、どうしたものかと、リアリズは首を傾けた。
「むしろ、貴方は喜ぶと思っていたのですが・・・」
「な、んで…」
飢餓感に負けて手を出した製剤は、実際舌の肥えたリアリズにとて到底飲めた代物ではない。それでもこうして美味くもない紛い物の血を飲んでいるのは、そうしなければ眠ることもままならなかったからだ。
「貴方、血を吸われるの嫌いでしょう?」
初めて彼女に血を吸われた時のことは、今でもよく憶えている。あれは彼女が僕の《ご主人》になった直後のことだ。彼女は僕を安心させるように微笑んでから何度も頭を撫でて、そっと、啄むように血を吸った。僕は初めての快楽にただ戸惑うことしかできなくて、同時に未知への強い恐怖も感じていた。救いだったのは、彼女がけして悪意や敵意を見せなかったことだ。虐げられ続けた僕には当時、それすら戸惑いを助長させるものでしかなかったけれど。
「……デジャヴ」
荒々しく部屋を出て行った天城の気配はすぐに感覚の外へと逃れ、残されたリアリズは溜息一つ。グラスに残った似非血を飲みほす。
「いいのか? 放っておいて」
いつの間に入り込んだのか、後ろから髪を梳いてくるイヴリースの言葉に返す応えはない。
「貴方は以前、全てのものは対になるべくしてなるのだと、言いましたね」
「言ったな」
「どうやら彼は、私の《対》ではなかったようです」
糸の切れた人形のように崩れ落ちたリアリズは、四肢を無造作に投げ出し、やがて目を閉じた。
その姿がイヴリースの目には不貞腐れているように映って、銀の魔女は一拍置いて音もなく笑う。
「それはどうだろうな」
リアリズは答えなかった。
《家出》なんて子供っぽいことをするのは初めてだ。だけどそうしなければならないと、説明しようのない衝動に押され、気付いたら家を飛び出していた。彼女が追ってくるわけもないのに《裏側の世界[ヒンタテューラ]》へ逃げ込んだのは、もう何もかもが嫌になってしまったからなのかもしれない。
元々その資格もないのに無理矢理世界と世界の境界を飛び越えたせいで、魔力は底を尽きかけていた。たまに紛れ込む不運な人間のように、今すぐヒンタテューラに呑み込まれることは免れても、自力で表の世界に帰ることはできない。そして僕の力は、契約主の血を吸わない限り回復しない。それどころかじわじわと減っていくせいで、徐々にこの世界へ呑み込まれていく恐怖に苛まれることになる。
緩やか死は、言葉の響きほど優しくはない。
自分がダンピールであると知って迷わず命を絶ったのは、人生を悲観したからではなく、自分自身の可能性を確かめてみたかったから。同時に飽き飽きしてもいた。同じことを繰り返すだけの毎日、上辺だけの友達、薄暗い未来に。歓喜はしなかった。ただ、幾らかマシになるだろうと、漠然と考えていただけ。
吸血鬼になってまず気落ちしたのは、自分がまたしても《異質》であったこと。《異質な人間》を卒業したら次は《異質な吸血鬼》、皮肉なものだと、取りあえず二、三年は殻の中に引き籠っていた。空腹に負けて動き出す頃には、それも個性だと無理矢理割り切った。
生きるために血を吸う度、私は私でなくなっていく。私にとって血は単なる糧ではない。たった一滴口にするだけで、私は血の主の記憶や知識、ありとあらゆる情報を何の苦もなく手に入れることができた。吸い殺してしまえば、人格だって取り込める。
そうして私は、いつしか自分が誰であるかを忘れた。
吸血鬼は孤独で、基本的に他の吸血鬼と行動を共にすることは、血族でもない限り殆んどない。私は自分が誰の血に連なる者かを知らなかったし、分かったところで、私のような異端を受け入れてくれる血族がいるとも思えなかった。血を吸う限り私は一人ではなかったし、私は半ば自棄的に《私》が《私以外》と混じり合うことを受け入れた。今使っているリアリズ・クリアウォーターという名前だって、実のところ誰のものかわかりはしない。私は生まれた時からリアリズだったかもしれないし、昨日からかもしれなかった。
いい加減吸血鬼として生きることにも厭きを感じていた私を寸でのところで生へと繋ぎとめたのは、一つの噂。魔族にさえ疎まれる《異端児》の存在が、私の中に眠る《何か》の興味を惹いた。期待していたのかもしれない。
《異端》という名の、《絆》に。
けれどあの子は私の《対》にはなれなかったのだ。――飽くことなく髪を梳き続けるイヴリースをそのままに、リアリズはそっと上体を起こした。喪失感は拭えないが、それもすぐ気にならなくなるだろう。これまでだってそうだった。
「貴女はいつまでここにいる気ですか? イヴリース」
「とりあえず今日は泊まる」
「ならソファーへどうぞ」
「つれないな」
「ベッドは私の寝床です」
「天城は寝かせるくせに」
「使い魔なんて、所詮体の一部ですよ」
「ほぅ?」
夜が近い。明かりのない部屋の中は薄暗く、イヴリースの銀髪だけが淡く輝いていた。
「ならどうして逃がした」
「彼が勝手に逃げただけです」
「その気になれば思考さえ操れるくせに」
「……」
目が痛い。
「本当は何一つ忘れてないのに忘れたフリして、いったいお前は何を得られたんだ?」
嗚呼、どうして、こんな魔女さっさと追い出してしまわなかったのか。
「《天壌》」
気付くのはいつだって、取り返しがつかなくなってからだ。
苦しさに気を失って、目が覚めたらまた彼女の隣、なんて、都合のいい奇跡は、きっと起こらないのだろう。――もう動くことはおろか思考さえ纏まらない状況で、僕はまだ期待している。彼女と出逢ってからずっとそうだ。
心のどこかで期待してしまった僕は、勝手な想いを裏切られる度に傷付き、反発する。彼女は何も悪くないのに、全ての罪を、僕はあの優しい吸血鬼に擦り付けたんだ。
今更悔やんだって遅い。謝る機会も与えられないまま、僕は闇に還される。
「――――」
願わくば、彼女が僕の死に気付きませんように。
「リアリズ・クリアウォーター」
手放されたグラスは床に当たって砕け散る。きらきらと、弾け飛ぶ破片が幾つも視界を横切った。
「お前たちはそろそろ、奇跡は起こすものだと気付いた方がいいよ」
眩しさに目を閉じる。
「そうかもしれませんね」
薄情な神モドキの笑う気配がした。
「アマギ、アマシロ、テンジョウ、喉が渇きました血を寄越しなさい」
リアリズ・クリアウォーターの隷属、天城[テンジョウ]は夜のように暗い色の髪を持つ、黒目の使い魔だ。彼は悪魔と吸血鬼の間に生まれた魔界の異端児で、リアリズに前の主人を殺されるまでは戯れで命を奪われるような毎日を送っていた。
「二時間前に飲んだばかりだろ」
「喉が渇いたんです」
「……」
ソファーでうつぶせに横たわり、気だるく手を伸ばしてくるリアリズの前で、天城は仕方なく膝を突き身を屈めた。リアリズは躊躇いがちに差し出された手を掴み、そのまま雪崩れるように彼を床へ押し倒す。
強かに打ちつけた背中に天城が痛みを感じるより早く、リアリズは彼の喉元に喰らいついた。
「ッ、――」
痛みと恐怖以外の感情が、吸い出される血と入れ替わるように流れ込む。抗い難いそれに耐えるため噛み締めた奥歯はギリッと嫌な音を立てた。
「…流されてしまえばいいのに」
空腹を紛らわす程度に血を吸って、リアリズは一息つく。
「何を意地になっているのですか?」
そう問いかけてはみても、天城が答えることはない。吸血行為の直後はいつもそうだった。天城は虚ろな瞳を虚空へ向けたまま、無防備に首筋を曝け出す。
たった今治まったはずの衝動がまた疼き、眩暈にも似た感覚に囚われリアリズはもう一度天城に覆い被さった。
「ぁ、ッ……やめ…っ」
二度目の吸血は容赦なく、相手が己の隷属であるのをいいことに、死なない程度の魔力を与えながら吸い尽くす。
抵抗の素振りを見せた両手はすぐに力を失くした。
「や、ぁっ…――!!」
びくりと一度引き攣って、それきり、天城は動かなくなる。さすがにやりすぎたかと、彼を押さえ込んでいたリアリズも顔を上げた。
「……」
そして嘆息。
「アマシロ…?」
気を失った天城はやはり答えない。彼の腹の上に乗り上げたまま、考えた末リアリズは吸血鬼らしく鋭く尖った爪を己の手首に押し当てた。抉るように皮膚を裂いて、溢れ出した鮮血は天城の唇へと落とされる。
「こうなることをわかっていて、どうして貴方は私の傍に来るんでしょうね」
彼の本能の半分が、意識を差し置いてリアリズの手首に縋った。生きるための容赦ない牙に顔を顰めるほどの痛みを感じながらも、リアリズは気のない手つきで乱れた髪を宥め梳かす。
「こうなることをわかっていて、どうして私は貴方を傍に置くんでしょうね」
天城は答えなかった。
『――――』
《あるじさま》が、何か言ってる。僕から引きずり出した内臓を踏みつけたまま、怒ってる。僕は何もしてないのに、《あるじさま》は踏みつけた内臓をぐちゃぐちゃに混ぜ返した。
『――――』
《あるじさま》が、何か言ってる。僕の腕を引き千切りながら、ドアの向こうに叫んでる。放り投げられるまま壁にぶつかって、ずるずると壁紙を汚しながら床に落ちても、《あるじさま》は更に僕を痛めつけようとはしなかった。
『――悪趣味な男ですね』
《あるじさま》は、何も言わない。《彼女》に殺されてしまったから。
『全く気が知れない』
動かなくなった《あるじさま》を床に転がして、《彼女》は血だらけの部屋を見渡した。《彼女》が指を振ると飛び散った僕の内臓と、引き千切られた腕は元通りになって、僕は、初めての経験に驚く。
『貴方、名前は?』
《彼女》は僕の新しい《ご主人》になった。
「……夢、か…」
気がつけばベッドの上、ということはよくある。むしろ《彼女》に血を吸われた後は大抵そうだ。誰が運んでいるのかは考えるまでもない。僕と彼女は二人で暮らしているのだから。
「……」
時計を見て、溜息をついて、どうせ遅刻ならと急ぐでもなく仕度をした。彼女はまだ寝ている。日が落ちるまで起きることはない。
朝食代わりに血でも吸ってやろうかと考えて、昨日までの空腹が嘘のように満たされていることに気付いた。けれど血を吸った覚えはない。憶えているのは彼女に吸い殺されそうになったことだけで、僕は満足な抵抗も出来ないまま気を失ったはずだ。
大体、彼女が血をくれるはずがない。だって彼女は――
「学校、行かなくていいのですか?」
「っ! ……なんで、起きて…」
「もう九時ですよ? …送ってあげましょうか」
「――冗談!」
けたたましい音と共に閉ざされた扉を暫くの間見つめていたリアリズは、大きく溜息をついてからベッドの上で寝返った。丁度いい場所を探しているうちに天城の足音と気配は遠ざかり、やがて見失う。
「喉が渇きました…」
寝ているうちに襲ってしまわなかったことを後悔しても、後の祭りだった。
『貴方、名前は?』
彼の《主》である悪魔の血を吸った私は、知っている。彼が《名無し》であることを。名前すら与えられなかったのだ、この《異端児》は。
『僕に名前なんてない』
『ならあげましょう』
『なんで』
『私が呼ぶ時困るからです』
彼の存在を知った時から考えていた。彼を見つけた時から決めていた。
『天城にしましょう』
だって彼に罪はない。ただ父親が吸血鬼で、母親が悪魔だったというだけで、そこになんの咎がある。
『てん、じょう…?』
『えぇ。それが今日から貴方の名前です』
彼が虐げられる理由など、ありはしないのだ。
『いつか大切なものを守れるように』
あっていいはずがない。
気だるい午後の授業が終わっても、早々と帰る気にはなれなかった。確かに今、僕は一日中五体満足でいられる。だけど苦しいほどに血を吸われる毎日に満足はしていない。できるはずがない。こんな体にさえ生まれなければ、僕は――
「――浮かない顔をしているな」
送ってあげましょうかと、からかい交じりに提案した彼女の顔が浮かんで消えた。考え込んでいたせいで、いつの間にか校門の近くまで来ている。道沿いに並んだ街路樹の上で、僕を見下ろす《銀の魔女》は微笑んだ。
「那智[ナチ]ならもう帰った」
「知ってる」
「じゃあここに何の用だよ」
銀の魔女、《大いなる災厄》、僕や彼女とはまた違う意味で《異端》な女は意味深に笑みを深めて姿を消す。取り残された僕は暫くその場に立ち尽くした後、ゆっくりと帰路についた。朝は確かにあった血に対する充足感は既になく、そうしなければ生きていけない身とはいえ、《契約》という名の鎖で僕を縛る彼女への不満と一緒に、血への渇望が燻っている。
今日は、どんなに頼まれても血なんてやるものか。
「なん、だよ…それっ!!」
「何って、血液製剤ですよ。見ればわかるでしょう?」
「そうじゃなくて!」
嗚呼、どうしたものかと、リアリズは首を傾けた。
「むしろ、貴方は喜ぶと思っていたのですが・・・」
「な、んで…」
飢餓感に負けて手を出した製剤は、実際舌の肥えたリアリズにとて到底飲めた代物ではない。それでもこうして美味くもない紛い物の血を飲んでいるのは、そうしなければ眠ることもままならなかったからだ。
「貴方、血を吸われるの嫌いでしょう?」
初めて彼女に血を吸われた時のことは、今でもよく憶えている。あれは彼女が僕の《ご主人》になった直後のことだ。彼女は僕を安心させるように微笑んでから何度も頭を撫でて、そっと、啄むように血を吸った。僕は初めての快楽にただ戸惑うことしかできなくて、同時に未知への強い恐怖も感じていた。救いだったのは、彼女がけして悪意や敵意を見せなかったことだ。虐げられ続けた僕には当時、それすら戸惑いを助長させるものでしかなかったけれど。
「……デジャヴ」
荒々しく部屋を出て行った天城の気配はすぐに感覚の外へと逃れ、残されたリアリズは溜息一つ。グラスに残った似非血を飲みほす。
「いいのか? 放っておいて」
いつの間に入り込んだのか、後ろから髪を梳いてくるイヴリースの言葉に返す応えはない。
「貴方は以前、全てのものは対になるべくしてなるのだと、言いましたね」
「言ったな」
「どうやら彼は、私の《対》ではなかったようです」
糸の切れた人形のように崩れ落ちたリアリズは、四肢を無造作に投げ出し、やがて目を閉じた。
その姿がイヴリースの目には不貞腐れているように映って、銀の魔女は一拍置いて音もなく笑う。
「それはどうだろうな」
リアリズは答えなかった。
《家出》なんて子供っぽいことをするのは初めてだ。だけどそうしなければならないと、説明しようのない衝動に押され、気付いたら家を飛び出していた。彼女が追ってくるわけもないのに《裏側の世界[ヒンタテューラ]》へ逃げ込んだのは、もう何もかもが嫌になってしまったからなのかもしれない。
元々その資格もないのに無理矢理世界と世界の境界を飛び越えたせいで、魔力は底を尽きかけていた。たまに紛れ込む不運な人間のように、今すぐヒンタテューラに呑み込まれることは免れても、自力で表の世界に帰ることはできない。そして僕の力は、契約主の血を吸わない限り回復しない。それどころかじわじわと減っていくせいで、徐々にこの世界へ呑み込まれていく恐怖に苛まれることになる。
緩やか死は、言葉の響きほど優しくはない。
自分がダンピールであると知って迷わず命を絶ったのは、人生を悲観したからではなく、自分自身の可能性を確かめてみたかったから。同時に飽き飽きしてもいた。同じことを繰り返すだけの毎日、上辺だけの友達、薄暗い未来に。歓喜はしなかった。ただ、幾らかマシになるだろうと、漠然と考えていただけ。
吸血鬼になってまず気落ちしたのは、自分がまたしても《異質》であったこと。《異質な人間》を卒業したら次は《異質な吸血鬼》、皮肉なものだと、取りあえず二、三年は殻の中に引き籠っていた。空腹に負けて動き出す頃には、それも個性だと無理矢理割り切った。
生きるために血を吸う度、私は私でなくなっていく。私にとって血は単なる糧ではない。たった一滴口にするだけで、私は血の主の記憶や知識、ありとあらゆる情報を何の苦もなく手に入れることができた。吸い殺してしまえば、人格だって取り込める。
そうして私は、いつしか自分が誰であるかを忘れた。
吸血鬼は孤独で、基本的に他の吸血鬼と行動を共にすることは、血族でもない限り殆んどない。私は自分が誰の血に連なる者かを知らなかったし、分かったところで、私のような異端を受け入れてくれる血族がいるとも思えなかった。血を吸う限り私は一人ではなかったし、私は半ば自棄的に《私》が《私以外》と混じり合うことを受け入れた。今使っているリアリズ・クリアウォーターという名前だって、実のところ誰のものかわかりはしない。私は生まれた時からリアリズだったかもしれないし、昨日からかもしれなかった。
いい加減吸血鬼として生きることにも厭きを感じていた私を寸でのところで生へと繋ぎとめたのは、一つの噂。魔族にさえ疎まれる《異端児》の存在が、私の中に眠る《何か》の興味を惹いた。期待していたのかもしれない。
《異端》という名の、《絆》に。
けれどあの子は私の《対》にはなれなかったのだ。――飽くことなく髪を梳き続けるイヴリースをそのままに、リアリズはそっと上体を起こした。喪失感は拭えないが、それもすぐ気にならなくなるだろう。これまでだってそうだった。
「貴女はいつまでここにいる気ですか? イヴリース」
「とりあえず今日は泊まる」
「ならソファーへどうぞ」
「つれないな」
「ベッドは私の寝床です」
「天城は寝かせるくせに」
「使い魔なんて、所詮体の一部ですよ」
「ほぅ?」
夜が近い。明かりのない部屋の中は薄暗く、イヴリースの銀髪だけが淡く輝いていた。
「ならどうして逃がした」
「彼が勝手に逃げただけです」
「その気になれば思考さえ操れるくせに」
「……」
目が痛い。
「本当は何一つ忘れてないのに忘れたフリして、いったいお前は何を得られたんだ?」
嗚呼、どうして、こんな魔女さっさと追い出してしまわなかったのか。
「《天壌》」
気付くのはいつだって、取り返しがつかなくなってからだ。
苦しさに気を失って、目が覚めたらまた彼女の隣、なんて、都合のいい奇跡は、きっと起こらないのだろう。――もう動くことはおろか思考さえ纏まらない状況で、僕はまだ期待している。彼女と出逢ってからずっとそうだ。
心のどこかで期待してしまった僕は、勝手な想いを裏切られる度に傷付き、反発する。彼女は何も悪くないのに、全ての罪を、僕はあの優しい吸血鬼に擦り付けたんだ。
今更悔やんだって遅い。謝る機会も与えられないまま、僕は闇に還される。
「――――」
願わくば、彼女が僕の死に気付きませんように。
「リアリズ・クリアウォーター」
手放されたグラスは床に当たって砕け散る。きらきらと、弾け飛ぶ破片が幾つも視界を横切った。
「お前たちはそろそろ、奇跡は起こすものだと気付いた方がいいよ」
眩しさに目を閉じる。
「そうかもしれませんね」
薄情な神モドキの笑う気配がした。
PR
カテゴリー
最新記事
(08/25)
(08/04)
(07/28)
(07/28)
(07/14)
(07/13)
(06/02)
カウンタ
検索