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小噺専用
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 一四三一年、この世に生を受けた後のワラキア公ヴラド・ツェペシュは、生まれながらに優秀な魔術師であった。
 一四五六年、邪悪なる儀式によって自らを人ならざる「吸血鬼」へと変貌させたヴラドは夜の支配者となり、魔性の者として世界にその名を広める。
 彼には血を分けた子が二人いたが、「純血」の娘・リトラは彼自身が「血分け」を行い、魔性の者へと変えた愛人・ニキータの子で、正妻であるキルシーとの子・セシルは呪われた混血児「ダンピール」だった。
 一四七六年、セシルは持って生まれた「吸血鬼を殺す力」によって実の父であるヴラドを手にかけた。こうして「真祖」と呼ばれる始まりの吸血鬼は昼と夜の分かたれた世界に別れを告げる。
 けれど彼を祖とする新しい種は、彼の死後も夜の支配者として君臨し続けた。


 深い夜が広がっていた。獣たちでさえ息を潜め気配を殺し、朝を待つ漆黒の夜が。
「――貴方も物好きね、コール」
 艶やかな女の声が冴え冴えとした空気を震わせる。冷たい石床をヒールが叩く音を辿って、コールは女――カサノバ――へと目を向けた。
 夜の支配者たる彼らの目は、容易く闇を見通す。
「お前か」
 愛想の欠片もないコールの言葉に肩を竦めて、カサノバは緩くくねる自慢の髪を指先に絡めながら、ごあいさつねぇと笑った。
「せっかく、貴方が知りたくて知りたくて仕方のない始祖鬼の情報を、持ってきてあげたのに」
 コールは目を瞠る。それはと、半ば無意識の内に零された言葉は掠れていた。
「聞きたい?」
 髪を絡めた指先を口元に寄せながら、カサノバは勿体つけて問う。
 コールは表情を歪めた。
「何が望みだ」


 優しい声がした。ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声。
『ユーリ、ユーリ、薔薇を持って来たよ』
 差し出された一輪の薔薇は、海の色を映したように鮮やかな青をしていて、ユーリの色だよと、声は笑った。
『ユーリに一番似合う色にしたんだ』
 あたしではない誰かの色。
『今度は花束にして持ってくるよ。土に根付いたら広い所に移して、花畑を作ろう』
 描かれる夢のような未来図に眩暈がした。真っ青な薔薇で埋め尽くされる世界。もしこの目で見ることが出来たなら、永遠だって信じられるだろう。
『二人で歩こうよ、ユーリ』

 泡沫の夢。

 幸福な夢から醒める。青の似合うユーリは平凡な女子高生の夕里に戻って、変化に乏しい日常のループに絡め取られた。
(二人で歩こう、か…)
 伸ばした手はありもしない薔薇を掴もうとして空を掻いた。幾ら手繰っても手繰っても手繰っても、夢の欠片は得られない。泡沫。
「あたしは夕里。立花、夕里」
 ユーリじゃないと、言い聞かせるような言葉が一体誰に対してのものなのか、あたし自身わからなかった。取り違えるなという自分への警告なのか、それとも――。
「学校、行かなきゃ」
 カーテンの隙間からのぞく空はどこまでも晴れていた。まるであの夢のように。


「おはよーレンフィーちゃん」
「…おはよう」
 なかなか働き始めない頭を振って二人がけのソファーに沈むと、斜め前に置かれた一人がけのソファーに座るジキルが首を傾げた。
「今日は早いんだね」
 肘掛に置いたカップに何杯目か分からない砂糖が落とし込まれる。
「目が覚めた」
「そう」
「…まだ入れるのか」
 カップの内容物を甘くすることではなく、砂糖を入れるという行為そのものが目的であるかのように、砂糖は足され続けた。
「レンフィーちゃんも飲む? 珈琲」
 少しして、ジキルが問う。
 柔らかく体を包むソファーの心地よさにまどろんでいた私は、ぼんやりとカップの中身が珈琲であることを理解した。力の抜けた腕が腹から落ちて、指先を絨毯が掠める。
「飲めもしないものを淹れるな、勿体無い」
「レンフィーちゃんが飲むかと思って」
 ジキルが〝態々〟飲めもしない珈琲を淹れたのだと理解して、ほんの少しだけ目が覚めた。
「…飲む」
 本当に少しだけ。横になっていたらまた眠ってしまいそうだったから、後ろ髪引かれながらも体を起こした。
 差し出されるカップ。
「小生今日は出かけるんだけど、レンフィーちゃんも来る?」
「いいや」
 ジキルが主に活動する時間帯を知っている私はすぐに同行を拒否して、カップだけは丁寧に受け取る。
 残念ながらジキルほどの酔狂さは持ち合わせていない。
「なら、レンフィーちゃんはお留守番」
 ジキルは肩を落とすでもなく分かっていたように頷いて、そのまま開けっ放しの扉へ。歩く度に揺れる長い灰色の髪は、すぐに視界から消えた。
「そうだな」
 私を目を閉じる。冷めた珈琲の何とも言えない味がじわりと胸にしみた。


 部屋の入り口に放り出していたカバンと携帯だけを持って家を出る。あたし以外誰も居ない、寂れた二階建てアパートの一室。錆付いた外階段を降りて見上げれば、壁にはりついた蔦が時代を感じさせた。いかにも古そうで、実際古い。壁も薄いからたまに隣の部屋の話し声が聞こえてきたりもする。でも家賃は安くて、住人も大家さんも親切だから結構気に入っている。あたしは、ここが好き。だけど…
「いってらっしゃい夕里ちゃん」
 二階の窓から顔を覗かせた角部屋のお姉さんが、キャミソールのまま手を振った。風邪引きますよと苦く笑って、あたしは大きく手を振り返す。
「いってきます!」
 朝の静けさに包まれた街を急ぐことなく歩いた。通い慣れた通学路。毎日のように目にする街並みが、ゆっくりと流れていく。
(――ぁ、)
 何気なく見上げた空と夢の中の空とが重なった。青い薔薇の花弁が無数にひらひらと、あたしの幻想に落ちてくる。伸ばした手はやはり空を掻いた。泡沫と、呟いて固く拳を握る。
 緩く頭を振ることで振り払った花弁は、打ち捨てられ朽ち果てることなく消えてなくなり、脆い幻想から目を背けたあたしはアスファルトの地面を見据えた。泣いても笑っても、あたしはここで生きていくしかない。だって、ここで生まれたんだから。
 ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声がリフレインした。

「――混血の匂いがするな」

 暗転。


 はらりと花弁が舞った。
「……」
 ジキルの淹れた珈琲はまだ半分ほどカップに残されたまま、テーブルの上に随分前から放置されている。その少し向こうに置かれた硝子のコップ。入れられた薔薇の花弁が一枚、はらりと舞った。
 普通の花ならそういうこともあるだろう。けれどこの屋敷で、その花が散るはずのないことを私は知っている。

 あれは二度と散らされることのない、約束された花だ。

「ジキル…?」
 まどろんでいた意識が急激に正常な働きを取り戻す。心臓が鼓動を増して、らしくないと分かっていても、部屋を飛び出さずにはいられなかった。無駄に広い廊下を駆けながら、伸ばした手は何もない空間から黒衣を引きずり出す。フードのついた、足元までを隙間なく覆うローブ。夜に溶け込むその色は、月のない世界では酷く浮いて見えた。
(クソッ)
 廊下の途中をエントランスではなくバルコニーへと曲がって、そのまま外へ。室内では抑えていた力を解放すれば周囲の景色が輪郭を濁した。人間の目では決して捉えられない速さで昼の世界を駆け抜ける。付きまとう違和感と倦怠感には目を瞑った。元々、日の光に弱い血統ではない。
(どこに行った…)
 出かけると告げて出かけるようになっただけ進歩。けれど行き先くらい告げて行けばいいものをと思わずにはいられなかった。昔から、ジキルの気配だけは探すのに苦労する。無駄に薄くて頼りなく、今にも消えてしまいそうな存在感。
 それでも、見失うことはない。
(――いた!)
 私たちもまた〝約束〟されているのだから。


 薄い被膜の破れるような音がして、はっと立ち止まる。
「今…」
 朝の少し冷たい空気に手を伸ばしても明確な答は得られなかったが、頭の中ではガンガンと警鐘が鳴り響いていた。
「……」
 なんとも言い難い感情が胸を満たす。歓喜しているとも、恐怖しているともつかないそれは酷く壊れやすいように思えて、一瞬扱いに困った。
 それでもと、頭の中で冷静な自分が行動を促す。
「ごめんね」
 胸に挿した薔薇から花弁を一枚貰い、そっと唇につけ必要な言葉を紡ぐ。この世界で最も魔術に適した言葉は、はっきりと発音されることなく花弁に溶けた。
 熱を持った花弁が独りでに動き出す。風に流され頼りなく揺れながら、進むべき方向を示し、後を追うように更なる呪文を唱えると、風を切るように飛んだ。
 追って駆け出すとすぐに人気のない方へ向かっているのだと気付く。鳴り止まない警鐘が音を増し、花弁が速度を上げた。
 風を切って走る感覚が、今は遠い過去の記憶と交差する。高層ビルに囲まれた今が昔よりも少しだけ息苦しく感じるのは、きっと――
「――こんな昼間から、お食事ィ?」
 意図して上げた〝普段通り〟の言葉は不自然ではなかったろうか。
「…来たな」
 見知らぬ吸血鬼が一人。腕の中にはこれまた見知らぬ少女。
(誘われた…?)
 息苦しさが遠のいたのは刹那。
「現存する最古の始祖鬼、灰被りジキル。領域を荒らせばあるいはと思ったが、こうも簡単にかかるとは」
 男の言葉にまんまと嵌められたのだと理解する。同時に、胸元の薔薇が散った。
「ッ!」
 無数の花弁が一つ一つ凶器となって男へと襲い掛かる。
「なら分かってると思うケド、」
 瞬くよりも短い間に意識のない少女を男の腕から攫い上げ、足場のない空に降り立った。
 よく知る人影が、入れ代わるように下へ。
「小生の街には凶暴なハンターがいるんダ」
 振り下ろされた大鎌は鈍い音と元にアスファルトの地面へと突き刺さる。男はチッと鋭く舌打ちして自分の影に沈んだ。ヒンタテューラへの逃走。
「追わなくていいよ、レンフィーちゃん」
「誰が追うか」
 引き抜いた大鎌を器用にクルクルと回していたレンフィールドが、どこか不機嫌そうにこちらを仰いだ。
「私はあそこが嫌いだ」


『二人で歩こう』
 長く伸びた灰色の髪から覗かせた同じ色の瞳に、溢れんばかりの幸福を湛えて、無邪気な男が笑った。欠片ほどの彩りも無いその男が、あたしの目には何よりも眩しく映る。
『―――』
 あたしではない誰かが彼を呼ぶ声は、音もなく弾けた。
『きっと見つけるから』
 どんなに願ったって、あたしは夢の中の愛されたユーリにはなれない。


「どうしようレンフィーちゃん」
 少し乱暴に扱えば壊れてしまう、酷く脆弱な人間の子供を宝物のように腕に抱いて、ジキルは途方に暮れているようだった。
 らしくないなと、からかい混じりの言葉を呑み込む。
「…お前が決めろ」
 ジキルによって散らされた薔薇は再び花の形を成し、少女の胸に納まっていた。
 それこそが明確な答であるはずなのに、ジキルは気付かない。
(約束された魂、か…)
 アスファルトの地面を蹴って、跳躍。何もない空間を足場にジキルと同じ目線に立って、咄嗟に持ってきてしまっていた薔薇を、眠り姫の胸へと捧げた。
 これが私の答。
「怒ってる…?」
「何について?」
「全部だよ」
 この世界で最も魔術に適した言葉を紡ぎながら、もう一度足元を蹴る。私とジキルの間で、世界が歪んだ。
「さぁな」
 歪みを意のままに操って、世界を渡る。所謂空間転移。
「私には決められない」
 最後に見えたジキルの顔が親においていかれる子供のようで、思わず笑ってしまった。
「お前にしか決められないんだよ」
 親はお前だろうに。


「あら、お早いお帰りね」
 態とらしく驚いたように振舞ってみれば、それを見て不機嫌そうに眉根を寄せる。
「種は蒔いた」
「それで?」
 全く、分かり易いったらない。
「芽が出れば私の勝ちだ」
 長い石畳の廊下を立ち止まることなく歩いていくコールの姿を見送って、ふと、戯れに自分自身の左手首に口付けてみた。
「貴方はあの人に勝てないわ」
 左腕には隙間なく、ワインレッドの薔薇を模ったタトゥーが刻まれている。手首の蕾から伸びた蔓を辿って、甲の咲き誇る大輪の薔薇へと唇を移すと、胸の奥が鈍く疼いた。
「だって、」
 そのタトゥーは忌まわしい呪いであり大切な約束だった。最後に交わした言葉は再会を誓うものではなかったのだから、与えられることのない愛を求め足掻いている方が私には似合いだろう。
「芽は出ないもの」
 彼[カ]の始祖鬼にとってコールなど、自ら手を下す価値もない存在であることは火を見るよりも明らかだ。
「バカねぇ」
 そのことに気付かないのは当の本人一人きり。
「灰被りなんて、一番手強い相手じゃない」
 ――ユーリ、ユーリ、ボクをおいていかないで
「無邪気に見えたって力だけは本物なんだから」
 ――泣かないで、ジキル。大丈夫、貴方は独りじゃない
「舐めてかかると瞬殺よ?」


 ――また会えるから


 柔らかくて、温かくて、優しい声に呼ばれて目を覚ます。穏やかな時間の流れる緑の丘。
「ユーリ、ユーリ、そろそろ戻ろうよ」
 真っ青な空を遮って――私を緑の大地に引き止めて――、貴方は笑う。
「夢を、見たの…哀しい夢」
 差し伸べられた手をとって立ち上がると、心地いい風が頬を撫でた。
「夢?」
 乱れた髪をそっと梳いていた貴方の手が止まる。
 どんな夢を見たのと、言外の問いかけには答えず私は歩き出した。緑の丘を、白い家へと。
「嗚呼でも、それほど、哀しくはなかったかもしれない」
 貴方は不思議そうな顔をしながらついてくる。
「ユーリ?」
「ジキルは何にも心配しなくていいの」
 繋がれた手を引く私に合わせて、貴方はほんの少しだけ急ぎ足。長く伸びた灰色の髪が揺れて、時々、綺麗な金色の目が覗いた。
「大丈夫」
 大丈夫、一目見て思い出すわ。どれほど時間が流れても、私が今の私じゃなくっても、貴方を見るだけで思い出す。そしてまた、恋に落ちるの。何度だって幸せになれるわ。
「私が見つけてあげるから」

 約束よ。

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