無雑作に振り上げられた金槌が無雑作に振り下ろされる度、耳を塞ぎたくなるような破壊音が部屋に響いた。それが十分も続けば金槌の標的は粉々に砕けて原形もわからなくなる。
指先で拾うことさえ困難な赤い石の欠片を前に、金槌を振り下ろしていた錬金術師は首を傾けた。こんなものだろうかと、一つ一つの欠片に向けられた双眸が細められる。
開けっ放しの窓から流れ込む微風が、まるで急かすように錬金術師の頬を撫でた。
「……」
ガシガシと乱暴に頭を掻いて、錬金術師は欠片の半分を両手で掬う。そして量りもせず火にかけたジャム瓶に放り込んだ後は、気を失うようにベッドへ倒れこんだ。
約三日振りの睡眠は、二時間足らずで終了する。
何の予備動作もなく、錬金術師はのそりと体を起こした。好き勝手な方向に伸びる濃灰の髪を混ぜ返しながら、寝ぼけ眼を彷徨わせ、くあ、と欠伸を一つ。視線はやがて机の上のジャム瓶に落ち着いた。
瓶の中では、不透明な赤茶色の液体が揺れている。二時間前に入れた赤い石の形はもう残っていなかった。それ以前に入れた様々な固体も、どろどろに溶けてわからなくなっている。
錬金術師は猫のように目を細め、もう一度ベッドに沈んだ。視線だけは瓶から離さずに、枕越しの呼吸を何度か繰り返す。
「知識と、体と、理性と、自我と、命と、好奇心と――」
くぐもった囁きは永遠と続き、最後に掠れた声で、錬金術師は「凝り固まれ」と締めくくった。
瓶を熱するランプの火は独りでに消え、赤茶の液面が落ち着きを取り戻す。それから瓶の中身が冷えて固まるまで、錬金術師は微動だにせず息を殺していた。
すっかり冷えて赤みを失くした固体は、また暫くすると――たぷんっ――音を立て液化する。真黒い液体はジャム瓶から零れんばかりに渦を巻いた。静かに音もなく、だが確かに。
床に転がっていた赤い石の欠片を一つ、瓶に投げ入れて、錬金術師は漸く体を起こしにかかった。
「凝り固まれ、人の形に。無知なる賢者よ、姿を見せろ」
朗々と、紡がれる言葉に渦が深さを増していく。
淡々と、まるで興味なさ気に錬金術師は微笑んだ。
「フラスコの中の小人[ホムンクルス]」
凝り固まれ。
「ホムンクルス」
それは私の名ではない。ホムンクルスとして造られた私の存在は意図して歪められていた。溢れる知識は塞き止められ、形を持った肉体が、人を模そうと暴れ回る。
「おはよう」
ガシャンと殻の割れる音がして、暗転。
瓶を割り出てきたホムンクルスは、人の形をしてはいたが無性で、大きさも、到底人とは呼べない手乗りサイズだった。だがそれは錬金術師にとって想定の範囲内の出来事で、特に驚いたり、落胆したりすることはない。小さいのなら、大きくすればいいだけの話だ。
湯を張ったバスタブに赤い石の残りを放り込んで、更に意識のないホムンクルスを放り込む。ホムンクルスは湯の中に沈んだが、まだ呼吸することを知らないために苦しみはしない。――まるで人形のようだ。
「……おなかすいた…」
一々時間を持て余す錬金術師は、パンを一枚かじってまたベッドに沈む。睡魔はすぐに訪れて、手際よく意識を連れ去った。
少し、白みがかった視界に、軽くて薄い体。――夢の中ではいつもこんな感じだ。僕はただ一人、世界から隔絶された存在。
『博士、どこですか? 博士――』
唐突に聞こえた声は、少しだけくぐもっていた。これもいつもと同じ。
緑に溢れた綺麗な場所を、中性的な顔立ちの人が歩いていた。博士、博士と、その人は辺りを見回しながら呼びかけ続ける。――探している《博士》の助手でも務めているのか、その人は白衣に身を包んでいた。
『あんな所に…』
助手(仮)は遠くに小さな人影を見つけて、深々と息を吐く。――きっとあれが、探していた《博士》なのだろう。
足早に去っていく助手(仮)を、僕は追わなかった。――いや、追えなかったんだ。
『 』
助手(仮)に気付いて振り返った博士の顔が、ぱぁっ、と華やぐ。半ば叫ぶように呼ばれた助手(仮)の名前が届く前に、僕は目を覚ました。
ばしゃり
「――……」
水音が一度。漸く呼吸を始めたのかと、錬金術師は浴室を覗き込む。ホムンクルスは白いバスタブの縁に乗り上げ目を閉じていた。
長い黒髪に覆われた背中が、不自然なほどゆっくりと上下している。
錬金術師は近くにあったタオルをホムンクルスに被せ、バスタブに湯を足した。溢れた湯で自分が濡れるのも構わずに、タイルの床に膝をついて濡れそぼった髪を拭く。
「起きてる?」
バスタブの中身がすっかり入れ替わる頃には、元々白いタオルは桃色に染まっていた。その色がもう落ちないことを錬金術師は知っていたが、気にも留めない。すっかり変色した服についても同様だ。
逆にホムンクルスの方が、濡れた膝を見咎めて眉根を寄せる。
「濡れているぞ」
錬金術師は器用にタオルだけでホムンクルスの髪を纏め上げた。体の成長に伴って伸びた髪はそれなりの長さがあるが、隙間から零れ落ちてくる気配はない。
「小姑みたいなことを言うね」
その時漸く、二人の視線が交わった。濃灰色をした錬金術師の瞳と、ホムンクルスの透き通った赤茶色のそれ。二人の目は到底かけ離れた色をしていたが、互いに抱いた感想は同じだった。
「私はお前より若い」
「冗談だよ」
酷く淡白で必然的な、それが運命だと誰が気付けただろう。
「おはよーさん」
時計の針が午後三時を回った頃、いつものようにRAIDはその家を訪れた。稀代の天才錬金術師、RASISの研究室兼自宅は、ごく一般的な民家と同じような外観をしている。おかげで誰も、そこに《あの》RASISが住んでいるとは夢にも思わなかった。
「食料買ってきたぞー」
合鍵を使って上がり込んだRAIDは、勝手知ったる人の家。手際よく両手に抱えた紙袋の中身を捌いて仕事を終えた。来週のために必要な物のメモを作れば完璧。もうそれ以上することはない。
「さて、と…」
RAIDはそれまで見向きもしなかった二階への階段を、そこに強敵でも待ち構えているかのようにじっと見つめた。見つめること三十秒。「よしっ」という小さな掛け声とともに、一歩踏み出す。目指すは二階奥。RAIDの雇い主であり、密かな想い人でもあるRASISの部屋だ。
ノックは静かに二度。RASISが寝ている時のことも考えて声はかけず、返事も待たずに扉を開ける。
RAIDが想像していたのは、いつもと同じ、散乱した実験器具と皺だらけのベッド。そこに横たわるか、実験に精を出しているRASISの姿。
「はっ…」
けれど現実はRAIDに冷酷だった。
「博士の不潔ー!!」
バタバタと品のない足音が遠ざかっていく。――随分前から目を覚ましていたホムンクルスは、なんだったんだと呆れ交じりに肩の力を抜いた。
「RAIDが来たの…」
「さぁな」
RAIDどころか、錬金術師以外の人間を知らないホムンクルスは生返事で目を閉じる。眠気はとうに醒めていたが、まだまどろんでいたい気分だった。
逆に、寝起きのいい錬金術師はすっかり目が覚めている。すぐにじっとしていることに耐えられなくなってベッドを抜け出した。
「寒い」
腕の中から抜け落ちた温もりに、ホムンクルスが唸る。
「起きたら?」
「……」
渋々起き出したホムンクルスは温かい窓際に椅子を置いて膝を抱えた。寒い寒いと、全身で訴えても錬金術師は気にも留めない。季節は秋だがまだ気温はそう低くなく、ホムンクルスが寒がっているのはただ体の温度調節がうまくいっていないだけだと知っているからだ。
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