「あたしはもしかすると、あんたのことが好きだったのかもね」
「歩…」
冷たく、病的に白いリノリウムの床に真赤な血溜りが広がっていく。流れた血が多すぎた。――もう助けられない。
「どうして僕を呼ばなかったの」
絶望が形を成したような光景を前に、羽音はそう呻くのが精一杯だった。
「呼んだら、来てくれた…?」
とくり、とくりと、心臓の鼓動にあわせ広がる血溜りが、靴の先を濡らす。
「たぶん…」
「嘘吐き」
刻一刻と命が失われていく。けれどそれが嘘のように美しく、歩は笑った。嘘吐きと、繰り返される言葉に音はない。――歩?
「あんたはあたしが心を込めて呼べば、絶対に来てくれた」
「だったらなんで、」
「だから呼ばなかったのよ」
「……」
羽音が押し黙ると、歩は少し哀しそうに目尻を下げた。そんな顔をしないで。――言葉は再び音を失くし、羽音は息を呑む。
「あゆみ、」
魔法でなんとか繋ぎとめている命が、失われようとしていた。致命傷を負った体に絶えず魔力を注いでいる羽音には、そのことが本人以上にはっきりと感じられる。
泣かないで。――歩の声なき声は、羽音の心を大きく揺さぶった。
「僕はもしかすると、君のことが好きだったのかもしれない…」
「――、…いじっぱりね」
呆れたような言葉とは裏腹に、歩は我が子へ無償の愛を注ぐ母親のように笑う。辛そうに持ち上げられる手を思わず握った羽音が後悔するほど彼女の体は冷え切っていたが、その表情に哀しみの色はない。ただただ愛おしそうに羽音を見上げ、最期に一度、はっきりと告げた。
「愛してる」
左手の中指に嵌めた指輪が熱を持っている。哀しみが大きすぎて、涙さえ出なかった。
「気付いた時には、いつだって遅いね」
温もりの失われた体へ、流れた血が戻っていく。羽音は行き場のない感情を押し殺そうときつく目を閉じた。再び開いた時、そこに惨状の名残はない。胸に開いていた穴さえ綺麗に塞がっている。まるで、眠っているようだ。
本当に眠っているだけなら、こんなにも胸が苦しくなることはなかったのに。
「おやすみ、歩。よい夢を」
閉じた瞼に口付けて、羽音は歩の体を《次元の狭間》へと隠した。全てから隔絶された《次元の狭間》ならもう二度と、歩が誰かに害されることはない。
羽音は自分一人になった真白い部屋で、唯一鮮やかな色彩を放つ円柱のガラスケースに目を向けた。その中を満たす淡い青色の液体は、羽音の視線を受けて柔らかく輝く。
「インフィ」
〈――はい〉
「僕と来て」
〈はい〉
機械で合成された少女の声は淀みなく、そのことに羽音は幾らか救われ微笑んだ。中の液体が光ることをやめると、ガラスケースは床へ格納され、部屋の照明も半分に絞られる。どこまでも白く、白すぎて現実味の薄い研究室を、羽音は一人後にした。この場所を現実足らしめていた女性はもういない。見る者のいない夢ならば、それはないも同じだった。
「――――」
最後の照明が絞られる直前、囁かれたこの世で最も魔術に適した言葉を、まるで歌っているようだと褒める人も、もういない。
嗚呼――
「静かに、息つくように、消えてしまえたらよかったのに」
消えてしまいたい。
薄暗い裏通りに面した扉を、羽音は決められたとおりの回数叩いて押し開けた。扉の向こうは小ぢんまりとした部屋で、明かりは机の上に置かれた蝋燭一つきり。視界はぼんやりとしかない。
「小夜、いる?」
羽音は後ろ手に扉を閉め、部屋の中へと呼びかけた。
「――何の用だ」
どこからとも知れない応えとともに、蝋燭の火が掻き消える。
必然的に、窓のない小部屋は闇に包まれた。
「預かって欲しいものがあるんだけど」
「おいていけばいい」
何を、とも聞かず、部屋の主は告げる。羽音は無言で、机の反対側にあるソファーの上に《次元の狭間》の出口を開いた。
「すぐに取りに来るよ」
「どれほど」
「ジンクスの仕事が終わったら、すぐに」
「まだあんな盗賊どもに手を貸しているのか」
「そうだよ」
「気が知れないな」
「そうだね」
羽音の大切な《預け物》を吐き出して、《次元の狭間》は閉ざされる。
「……」
羽音は踵を返した。
「手放したくないのなら傍に置けばいいものを」
再び蝋燭の灯された室内で、部屋の主は呆れ混じりに呟く。
最後に《預け物》を一瞥した羽音の目が、全てを物語っていた。今はそれが何よりも大切なものなのだと、縋るような目。これを失っては生きていないのだと、隠し切れない本心が溢れている。
「馬鹿が」
優しさの滲む声で、部屋の主は最後に一度吐き捨てた。
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