銀髪銀目の美丈夫と、銀髪藍目の美丈夫――異なる色の瞳以外、あとは鏡に映したよう瓜二つな顔を見比べて、はてと首を傾ける。
「双子?」
私の言葉に顔を顰めたリーヴとは正反対に、初めて会うのに見慣れた顔の藍目の男は、にこにことした笑みを崩さなかった。
リーヴが割と無愛想な方だから受ける印象は随分変わるけど、やっぱり二人の顔は驚く程によく似ていた。リーヴのそっくりさんはもう一人知っているけど――ビューレイストは女だから――男女の違いというのは結構大きい――と、そこまで考えてようやく気付いた。
「あ」
なんだそういうことかと、分かってしまえば酷く間の抜けたことを言ってしまったものだと思う。
リーヴのもう一人のそっくりさん――ビューレイストは、正真正銘「もう一人」のリーヴと言える存在だった。リーヴの《マナ》を分けて「作られた」二人目。誰よりも何よりも近く、たった一つの魂を共有する存在。
「あなたもリーヴだったの?」
きっとそうなのだろうと思った問いかけに、けれど藍目の男は「おしい」とリーヴを指差した。
ちょっとだけ違う――と。
「そいつが僕だったんだよ」
「え?」
虚を衝かれたのは一瞬で、すぐに「まぁ、そういうこともあるか」と納得することができたのは、深く考えることに意味がなかったから。そうする意義を、何一つ見出すことができなかったからだ。
始まりがどちらであろうと、事実として今はリーヴが「主」。《印》と《マナ》を併せ持つ巨人の《王》は、最早リーヴ以外にありえない。たとえ始まりがどちらであろうと、この現実は変えようのないものだった。
私がリーヴへ名前をつけたその瞬間に、命運は決している。誰でもない巨人の《王》は私のリーヴになったのだから、それ以前のことには意味が無い。
「それは災難だったわね」
かつては巨人の《王》であったのだという男も、今や単なる「リーヴの一分」。それなら「私のもの」に違いなかった。私が対価を払って手に入れた、「全て」の一つ。
「まったくだよ」
堪えた風もなく肩を竦めた藍目の男は、私の前へ唐突に跪いて頭を垂れた。姫へ額突く臣下のように、けして間違ってもいない遣り様で。
「僕はロキ。以後お見知りおきを、お姫さま」
「…その名前は知ってるわ」
「あ、そう?」
畏まった所作から一転、けろりと立ち上がったロキはいかにも「意外だ」とばかりに首を傾げて見せた。そんなものがただのポーズでしかないと即座にわかったのは、「ロキ」という巨人の名前があまりに有名すぎたから。
「アースガルズを治める神の《王》オーディンと義兄弟の契りを交わした巨人って…まさか、あなたなの」
それは、生粋の巨人でありながら神の一員としてアースガルズに住まうことを許された者の名だ。神は一方的に巨人のことを嫌っているがため、アースガルズへ足を踏み入れることさえ並の巨人では命取りとなりかねないものを、わざわざオーディンの宮殿まで出向いて行って無傷どころか、逆に気に入られてしまった稀有な男――それが、今私の目の前にいる。
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例えばそれが《枷》であったなら。堪えられなかっただろうと、リーヴスラシルは考える。そしてそれを、リーヴもまた分かっていたのだと。
だからリーヴは、リーヴスラシルに《鈴》をつけた。首輪でもつけてどこか適当なところに繋いでしまった方が余程手っ取り早いにも関わらず。他でもないリーヴスラシルでさえ、立場が逆であればそうしていただろうに。
四六時中誰かの動向を気にかけ――けれど結局は、その行動を力尽くで止めてしまうこともできずに――振り回され続けるなんて、きっと酷く神経がすり減る行為に違いなかった。
野放しにされている――けれど、けして見放されてしまったわけではない――という事実に、リーヴスラシルはリーヴの愛を感じていた。愛されている自分を実感できて、変わることのない気持ちを確認するために奔放な振る舞いを敢えてして見せてしまうくらいに。
リーヴスラシルが城を出た途端にそれをリーヴへ伝える「鈴」くらいなら――多少不便に感じることはあっても――愛故のものだと思うことができた。ただ鳴るだけのそれが、実害としてリーヴスラシルの自由を奪うことは絶対にありえないのだから。
「よろしかったのですか?」
最早リーヴに悟らせることなくウトガルズの城を出られないリーヴスラシルが、それでも大人しくしているようなことはない。ちょくちょく抜け出しては、ひとしきり遊びまわった後で連れ戻される、というようなことを最近は繰り返していた。
例外は、城下へ繰り出すのに供としてビューレイストを伴っているような時。突き詰めて言えばリーヴの「一部」でしかないビューレイストが付き添っていれば、リーヴも余程帰りが遅くならない限り大人しくリーヴスラシルの帰りを待っていた。
「いいのよ」
だから本当は、黙ってこっそり抜け出す必要などありはしないのに。リーヴスラシルはリーヴをひやりとさせるのが楽しくて、わざわざ断りもなく勝手に城を抜け出す。
そんなリーヴスラシルのことを、ビューレイストも強くは咎められないから、いつまでだって、リーヴスラシルが飽きるまで同じことが繰り返される。
「目を離したら私がどうするかなんて、リーヴは知ってるんだから」
分かっていて目を離す方が悪いのだという理屈。ビューレイストは「それもそうだ」と簡単にリーヴスラシルへ迎合して、うきうき出かける大切な姫君に付き添った。どのみちリーヴスラシルの満足以上に、リーヴが心配をする意味などない。誰もその存在を害せるはずなどなかった。既に《王》の寵姫であると知らしめられているうえに、本人の生まれ持った魔力も良質にして豊富ながら、いざとなればリーヴの《マナ》から魔力を引き出して使ってしまえさえするのだから。実質的には巨人の《王》その人がふらふら出歩いているのと同じことだった。
だからこそ、城下の巨人たちはリーヴスラシルを歓迎する。そしてその存在を害する愚かしさと危うさを理解してもいた。
いつまでも強く憶えているのは、狂気に満ちた男の声。途方もない痛みと喪失。絶望的なまでの哀しみと、それら全てを塗り潰して余りあるほどの怒り。そして――温もり。
失意の底から私を引き上げたのは、流れる血よりも深い紅色の目を持つ巨人の《王》だった。
そして私はその日から、彼の「リーヴスラシル」になった。
穏やかに繰り返されていた呼吸が止まり、少しして――それまでとは比べ物にならないほど密やかに――また再開される。
それが、リーヴスラシルの癖だった。目覚めている間はいつだって、そんな風に息を殺しながら過ごしている。無意識の内に――そうすることを当前として、努めもせずに。
だからリーヴは、いつだってリーヴスラシルの目覚めに気付くことができた。
「起きたのか?」
声をかければ、横向いていた体がごろりと転がる。
ヘッドボードへ寄りかかり、眠るまでリーヴスラシルが読んでいた本へ、暇潰しに目を通していたリーヴの方へと――転がったリーヴスラシルの腕はぱたりと、リーヴの膝に乗せられた。
「うん…」
柔らかな枕へ埋もれながらの応えは酷くくぐもっている。
寝起きで、気の抜けきった体を絡め取ってしまおうとでもするかのよう、乱れた髪を後ろへ梳いてやりながら――リーヴはリーヴスラシルの機嫌を窺って、膝へ乗せられていた手をやわく握った。
そして、少なくとも不機嫌ではなさそうだと判じる。
「おはよう、リーヴ」
「おはよう」
ふにゃりと幸せそうに笑ったリーヴスラシルの目元へ口付けて――機嫌の悪い時にこれをやると、ともすれば無造作に振り上げられた腕が強かに打ち付けられることさえあるのだから、恐ろしい――リーヴはリーヴで、さらりと肩を流れた己の髪を掻き上げた。
くすくすと聞こえた声に視線を落とせば、取り零した髪の一筋に擽られたリーヴスラシルが笑っている。
「くすぐったい」
「お前が長い方がいいと言うから」
背中を覆い尽くして余りあるほどに長い髪が、これ以上リーヴスラシルを笑わせてしまうことのないように――傾けていた上半身を起こすリーヴは、本当にただそれだけの理由で髪の長さを弄らずにいた。
「だって綺麗だし」
良質な魔力が通い、それ自体がまるで輝いているかのような美しさの髪――同じものを、リーヴスラシルもまた持ち合わせている。
けれど黒と銀では見栄えというものが違うのだという羨望を、リーヴは解さない。それでも悪い気はしなかった。
「三つ編みしていい?」
「お前の好きなように」
横になったまま手を伸ばしてくる横着なリーヴスラシルを抱き起こし、好きなようさせてやりながら――リーヴもまた、手元に流れてきた黒髪を手慰みと編みこんでいく。
何度も同じ事をされているうちに覚えた編み方はざっくりと、寝乱れたリーヴスラシルの髪を一つにまとめた。
簡単に解けてしまうことがないよう端を魔力で仮留めすると、いつの間にか手を止めていたリーヴスラシルもその出来栄えに満足したようにこりと笑う。
「ありがとう」
リーヴの髪は手を離されてさらりと解けた。
「もういいのか?」
「うーん」
返事ともつかない声を上げながらリーヴの膝へと倒れ込んだリーヴスラシルは、仰け反るよう体を伸ばして両手を投げ出す。ぐったりと脱力して、天蓋から垂れるカーテン越しに外が晴れていることを確かめ――ひっくり返ったままに今度こそ頷いた。
「もう起きる」
勢いつけて起き上がり、そのままベッドを抜け出ていく。
そうしてリーヴスラシルがまず向かうのは浴室と決まっていた。
「ビューレイストにお茶と何か摘めるもの頼んで」
「あぁ」
シャワーを浴び身綺麗にして、身仕度が整う頃には簡単な朝食の用意も済んでいる。
「今度はきっちり編んでね」
ソファーに足まで上げクラッカーを摘むリーヴスラシルに、そう言って目の細かなブラシを渡されて――リーヴは快く仕事を引き受けた。
背を向けてくるリーヴスラシルと同じソファーへ横向いて座り、流された髪を丁寧に梳き解かし編み込んでいく。端を留めるのに使ったのはやはり細長く紡ぎ出した魔力で、それなら髪を傷めることなく、解くのも容易かった。
「リーヴはなんでもできるのねぇ」
仕上がった三つ編みを肩に乗せ体の前へと垂らし、感心したよう一纏めにされた髪を撫でるリーヴスラシルは、「お返しに」と今度はリーヴの髪を一筋だけ編み魔力で留める。
そのまま、正面から抱きつくよう伸ばされたリーヴスラシルの腕はリーヴの肩を掠め、頭の後ろで髪を掴んだ。
「お前がやれと言うから」
「でも別に、私が言うからできるってわけじゃないでしょう? 近いものはあるんだろうけど」
「どうかな」
「そうなのよ。だって、そうでなきゃ私がリーヴに無理難題を突きつけてることになっちゃうじゃない」
伸し掛かるよう押し倒されたリーヴは大人しくリーヴスラシルの腰を抱く。されるがままに、さも機嫌の良さそうな容貌を見上げた。
「あなたにできないことなんてないの」
そうでなければならないのだと、リーヴスラシルが言うのなら。その通りになるのだろうと、リーヴは他人事のよう考える。けれど最早――自分に何が為せるのか、為せないのか――そんなことさえ、リーヴの思い通りにならないというのが真実だった。
流れる血よりも深い紅色の目を持つ人の姫。リーヴスラシルだけが、未来永劫リーヴの在り様を決める指針となり得る唯一。リーヴスラシルが「できる」と言えばできるのだろうし、「できない」と言えば、それがリーヴの限界だった。
初めから「やるべきこと」「やらなければならないこと」を持たないリーヴスラシルは下手をすると、日がな一日リーヴをソファーに座らせその膝を枕にごろごろと懐いているようなことも珍しくないような、ぐうたらな姫だった。気分が乗らなければ本当に何もせず、退屈であることを不幸だとも思わない。退屈することさえできなかった過去の経験から、それさえ今は面白がりながら楽しんでもいた。
巨人の《王》であるリーヴを無為に拘束し続けることへの罪悪感など、露程も覚えはしない。それが当然の権利であるとして、端整な容貌を見上げる視線はいっそ気怠げでさえあった。
「ねぇ、リーヴ」
伸ばされた手は、ぐいと無遠慮なまでに艶やかな銀の髪を引く。
「ん?」
「暇?」
そして時折、リーヴに対してそう問いかけた。
さしたる意味はなく――けれど、返答を誤れば確実に機嫌を損ねる――ただ「聞きたくなったから」と、それだけの理由で発せられる問いかけ。リーヴは迷うことも――偽ることさえ――なく「否」と答え、リーヴスラシルの首元へ置いていた手を擽るように動かした。
「なぁに?」
くすくすと笑いながら身を捩るリーヴスラシルの声は軽い。肩と頬で挟み込むようリーヴの手の動きを止めながら、気持ち良さそうに目を細めてもいた。
そうやってリーヴスラシルのことを見ているだけで、リーヴとしては割と楽しい。少なくとも、退屈だとは思わなかった。
「リーヴは私のことが好きすぎるわね」
「不満か?」
「いいえ。愛されることは好きよ、私は何をおいても愛されていたい」
まず愛されていることが重要なのだと、リーヴスラシルは言う。リーヴはその願いを叶えてやることができた。何よりもまずリーヴスラシルのことを愛し、そのためになら他のあらゆるものを蔑ろにしてさえしまえる。だからこそリーヴスラシルがこうして「退屈」していられるのだと、分かってもいた。
リーヴはリーヴスラシルの由縁を理解している。
「なら、構わないだろう」
リーヴスラシルが何故愛されることを望むのか、どうして愛され続けていたいのか。その理由を、リーヴは正しく知っていた。突き詰めて言えば結局のところ、リーヴスラシルが求めるものはたった一つでしかないことも、分かっている。
「でも、これじゃあ私が甘やかされてるのか、リーヴがただ甘やかしたいだけなのか分からないじゃない?
――たまにはつれなくしたっていいのよ」
「たとえば?」
「私をほっぽって出かけちゃうとか」
そんなことをすれば、脱走癖のあるリーヴスラシルが行方を晦ませてしまうことは目に見えていた。そんなことになってしまえば、リーヴにはリーヴスラシルが大規模に魔力を行使するか、リーヴのことを呼ぶかする他にその居所を突き止める手立てがない。
リーヴスラシルはリーヴが自分のことを必死になって探すだろうと分かっていて、そんなことを言うのだ。
自分が愛されているのだという実感のためにそうしょっちゅう逃げられても敵わない。
「この首に鈴をつけてしまうとか?」
リーヴはそう、口にしてみてから「案外名案かもしれない」などと考える。首輪をつけて繋ぐことはできないが、「鈴」ならば…と。
「リーヴ、あなた今すっごーく悪い人の顔してるわよ」
「お前が来てから表情豊かになったとよく言われる」
「鈴なんて、猫じゃあるまいし…」
「…近いものはあるだろう」
言い得て妙というやつだった。
「酷い!」
ぎゃっとして飛び起きたリーヴスラシルは、引っ掴んだクッションをリーヴへと叩きつけ部屋を飛び出していく。
一瞬、リーヴスラシルがまた城から脱走するのではないかと危惧したリーヴは、慌ててその後を追いかけ――部屋の外から聞こえた、ビューレイストを呼びつける声にほっと腰を落ち着けた。
そして、城の中を闇雲に歩き回っていては、いつ出会えるとも知れない女をわざわざ呼び出してもやる。
「(リーヴスラシルが探しているぞ)」
ビューレイストは、リーヴの《王》としての《マナ》を分けて生み出された分身のような存在だった。
元はただ与えられた役目へ忠実に動くだけの人形でしかなかったものを、リーヴスラシルがさも「個人」のよう扱ったがために、いつしか自我さえ持つようになっていたもの。
「(今度は何やらかしたんですか)」
「(私が悪いのか)」
「(悪いのはいつだって主(あるじ)ですよ、寵姫が正しいんですから)」
そういう経緯もあって、ビューレイストのリーヴスラシル贔屓はリーヴの比ではなかった。
歴然と白いものでもリーヴスラシルが言えば平然と黒だと断じてしまえるほどの盲目さが、ビューレイストにはある。リーヴのことを自分の上位にあたる存在であると認めながらも、リーヴスラシルのこととなれば口煩く意見することも厭わず、リーヴの不興を買うことさえ恐れはしなかった。
「(さっさと行ってやれ)」
「(言われなくとも)」
リーヴスラシルもリーヴスラシルで、そんなビューレイストの性質を分かっていて何かあればまず「告げ口」するというようなことを、最近は繰り返している。ヨトゥンヘイム広しといえど、《王》たるリーヴに正面切って嫌味を言ったり、批判することのできるような巨人はビューレイストの他にいない。リーヴスラシルは明らかにそれを面白がっていた。
何にせよ、城の中で事が済むなら問題はないだろうと、リーヴは落ちていたクッションを拾い――それをソファーの上へと戻して――それまでと同じよう頬杖ついて肘掛けにもたれた。ビューレイストが相手をすればリーヴスラシルもそのうち機嫌を直して――おそらく、リーヴにぐちぐちと文句を言いたくて堪らないビューレイストを連れ――戻ってくるだろうと、それをのんびりと待っているつもりでいる。
リーヴスラシルのいない一人の時間は、それまでと打って変わって「退屈」極まりなかったが、ビューレイストがリーヴスラシルの傍にいるだけ、リーヴにとってはまだ「マシ」だった。少なくともリーヴスラシルが自分から戻ってくるのを待っていることはできる。できるだろうと、リーヴは眠るでもなく目を閉じた。
よもやそのまま二人が連れ立って城下に繰り出し、半日近く待ちぼうけを喰わされるとは思ってもみない。
すっかり機嫌を直し戻ってきたリーヴスラシルへリーヴは《鈴》をつけ、それだけはリーヴスラシルが何と言おうと、けして外してなどやりはしなかった。
(愛玩少女と甘やかし/姫と王。すず)
例えるなら、それは微睡みの最中に夢を見ているようなもの。起きなければいけないと頭では分かっているのに、目覚めへと踏み切ることができないでいる。そんな私を誰も咎めようとさえしないものだから、なおのこと。体を包む心地良さに身を任せ、いつまでも微睡んでいたいと思ってしまう。――だって、そうしている私はとても幸福だから。
けれどけして、目覚めたくないというわけではなかった。目覚められなかったわけでもない。必要であれば、私はいつだって目覚めることができた。そうしたいと、ただ思いさえすれば。
私はもう、ただ与えられるばかりを待つ愚かな女ではないのだから。
自分がどういうものなのかということさえ分かっていないような、哀れな女。「微睡む自分」を磨り擦り潰すよう、「リーヴスラシル」――そう、巨人の《王》によって名付けられた人の姫――は目覚めた。
随分と長い「微睡み」になってしまったものだと、自嘲するかのよう笑みを浮かべさえしながら。限りなく自分の意思によって目覚めたリーヴスラシルは、一人きりのベッドを抜け出す。
天蓋から垂れるカーテンを避けたその向こうには――開け放たれた大きな窓越し――、どこまでも晴れ渡る青空が広がっていた。
それを一目見て、リーヴスラシルはただ「綺麗だ」と思う。
「嗚呼――」
微睡んでいた頃を除き、それはリーヴスラシルが生まれて初めて目の当たりにする「空」だった。
高い高い塔の上へと閉じ込められていた頃には、夢見たことさえなかった「外」の世界。それが今、リーヴスラシルの前にはどこまでも果てしなく広がり、手を伸ばせば容易に届いてしまうほどの距離にある。
なんて幸福な「現実」だろうと笑う。リーヴスラシルには最早、ままならない世界を恨めしく思いながら眠り続ける理由などありはしなかった。たとえ自分がどうなってしまおうと、「全て」を誓った約束が果たされ続けることは既に証明されているのだから。
ならばあとは、生きるばかり。
「綺麗ね」
躊躇いなく一歩を踏み出し、次の瞬間、リーヴスラシルはウトガルズを遠く離れた場所に立っていた。
寝間着代わりに着ていたスリップから黒色のキャミソールドレスへと着替え、足にはきちんと靴まで履いて。ミズガルズ――ミッドガルドとヨトゥンヘイムとを隔てる柵――に沿うよう流れるイヴィングの河畔へと下り立ったリーヴスラシルは、ひらひらとスカートの裾を揺らしながら歩き出す。
一見、楽しげな少女の振る舞いは、水辺へと涼みにやってきた良家の令嬢を思わせる。けれどそこはヨトゥンヘイムで、その姿をまともに見る者がいれば戦慄を覚えずにはいられなかっただろう。何故ならヨトゥンヘイムとは、黒い髪を持つ「人」にとって死者の国ヘルヘイムにも等しい「世界の果て」とされていたから。誰も、そこでリーヴスラシルのような「少女」が生きていけるとは思わない。もしもそれが可能であるとすれば、問題はリーヴスラシルにあるのだと当然のよう考えるに違いなかった。あれは「人」とは違う、何か恐ろしいものなのだ――と。
そしてその通り、リーヴスラシルはただの人ではなかった。そんな存在であったことはついぞ、生まれた瞬間から――そしてきっと、いつか死んでしまうその時まで――一度としてない。
リーヴスラシルは「特別」だった。リーヴスラシルが「リーヴスラシル」であるというただそれだけで、そこには大きな意味がある。
「――墜ちろ」
そんなリーヴスラシルの一言は、遥かな頭上へと向けられていた。
魔力の篭った、魔法の言葉。それはいつかリーヴスラシルが世界を服従させた悲鳴と等しい性質を持つもので、けれど実際の作用は、段違いにささやかなものだった。
行使されたのは頭上を横切ろうとしていた竜を一匹、地面へと引きずり下ろす――その程度の力。リーヴスラシルにとってそれは、自分の両足で地面を歩くより余程容易なことだった。
「ねぇ、誰か手を貸してくれない?」
笑うリーヴスラシルの目と鼻の先。放たれた言葉の通りに「墜ちた」竜は、その背に二人の「人」を乗せている。
無論それを分かっていて無茶な招き方をしたリーヴスラシルは、地面と強烈な激突を果たした騎竜の背から放り出される二人の内、明確に「こちらだ」と思う方だけを助けた。周囲を漂う《風》へと声をかけ、着地の瞬間衝撃を和らげてやることによって。致命的な負傷だけは、なんとか避けられるかどうかというような力加減で。
どさりと地面へ転がされたのは、リーヴスラシルと同じ年頃の青年だった。
「ありがとう」
そろそろリーヴに城を抜け出していることがばれる頃だろう、と――諸々の事情を鑑みながら――リーヴスラシルは手早く用件を済ませにかかる。
間違いなく幸福だった微睡みから目覚め、わざわざこんな辺鄙な場所まで自ら出向いて来なければならなくなった「理由」を排除するために。リーヴスラシルは痛みに呻く青年の傍らへと立ち、その――流れる血のように赤い――両の目を覗き込んで囁いた。
「もう二度と、私の前に現れるんじゃない」
そうして告げる。今度は再び、世界へと。
「ミッドガルドへ帰りなさい」
充分な力と意思に満ちた言葉を以って、世界の在り様を思うがままに捻じ曲げる。
最早その程度のことで、リーヴスラシルが休息を必要とするほどに消耗してしまうことはありえなかった。
リーヴにできて、リーヴスラシルにできないことなどありはしない。二人が交わしたのはそういう「契約」で、リーヴスラシルの「対価」は既に支払わているのだから。
リーヴの「全て」はリーヴスラシルのもの。それはつまり、リーヴが巨人の《王》として持つ魔力さえも、リーヴスラシルが好きなように引き出し使ってしまえるということだった。
一匹の竜と二人の人はヨトゥンヘイムから消え去り、引き出された魔力の痕跡を追ってすぐにでもやってくるだろう、リーヴへまず何と声をかけてやろうか――と、リーヴスラシルはほくそ笑む。
微睡んでいた頃のリーヴスラシルと、目覚めた今のリーヴスラシルが全く同一の存在であるとは言い難い。それでも自分のことをリーヴは「大切」にしてくれるだろうと、リーヴスラシルは疑ってもいなかった。そもそも「微睡む自分」こそが偽物で、そんなものさえリーヴは大切に「リーヴスラシル」として扱い続けたくらいなのだから。
微睡むリーヴスラシルは、リーヴへ――「私が今の私じゃなくなっても、ちゃんと大切にしてくれる…?」――問うた。その問いかけに対するリーヴの答えは――「お前がそれを望むなら」――とんだ嘘っぱちもいいところで、それもそのはず。リーヴがリーヴスラシルのことを大切にする、その、「契約」の履行でしかない行為において、リーヴスラシルの意思が考慮される必然性などありはしない。
リーヴとリーヴスラシル。二人が交わした契約は、お互いにただ与えられるものを与え合う、それだけのものでしかなかったのだから。
「早かったのね」
例え自分がどんなものへ成り果ててしまおうと。リーヴが変わらず「大切」にし続けるだろうことを、リーヴスラシルは確信していた。最早疑う余地もない。
だから現れたリーヴに対して臆面もなく笑いかけ、差し伸べられる《王》の手を恐れることさえしなかった。勝手な振る舞いを咎められることなどありはしないのだと、分かりきっていたから。
「おはよう、リーヴ」
だからこそ、リーヴスラシルは目覚めることを恐れなかった。ずっと微睡んだままでいてもきっと幸福だっただろうに、あえて目覚め自分の足で歩き始めることを選びここにいる。
「私があなたのリーヴスラシルよ」
きっとあの「微睡み」こそが、幸福なままに存在を終える最初で最後のチャンスであっただろうことを、分かってもいたのに。
滅びだけが結末の運命へと、自ら飛び込むことさえ厭わなかった。
(わざわざ目覚めて出かける必要/姫と王。めざめ)
最初は何もかもが空っぽで、そこにはただ私が「私」であるという事実だけがあった。
「リーヴスラシル」
誰かが私を、そう呼んで抱きしめてくれるまでは。
静かな部屋に一人。重い体を冷たい床へと横たえ、埃っぽい空気を吐いては吸っての繰り返し。
ただそれだけの夢を繰り返し見る。何度も何度も、くどいくらいに。
たった一つの窓も、家具らしい家具も、明かり一つさえない殺風景な部屋なんて、私は知らない。私が暮らしているウトガルズの城には沢山の部屋があって、窓のない部屋だって地下に行けばいくらでも見つけられるけど、物置としてさえ使われていないような部屋は一つとしてなかった。この城には、必要だからと望まれた部屋しか作られていないから。
それに私が床になんて転がっていたら絶対、誰かがやってきて引っ張り起こすに決まっていた。
なにせ、私はとても大切な「お姫さま」だから。
いつもいつも、「ただそれだけ」の夢を見た後は気持ちが落ち込んで仕方なかった。どうしようもなく憂鬱な気分にさせられて、伸ばした腕の届く距離に手を握ってくれる人のいないことが、とても不幸なことのように思えてしまう。呼べばすぐに来てくれるはずの人を呼ぶことさえなんだか怖くて――だってもしも、あの人が来てくれなかったら? なんて――ひたひた忍び寄ってくるような気のする「何か」から、隠れるように上掛けを被った。
けれどすぐに耐えられなくなって、部屋に横たわる静寂から逃げるようベッドを抜け出す。身を守る鎧かお守りのよう、頭の上から被った上掛けはそのまま。裸足の足で部屋から駆け出しバルコニーの手摺に飛び乗った。
「どこへ行く気だ?」
そのまま隣のバルコニーへ飛び移ってしまうつもりだったのに、後ろから突然ぐいと引かれて――それが体でも服でもなく、よりにもよって被った上掛けを掴まれてのことだったものだから――体は妙な具合にバランスを崩し、手摺に乗った爪先からすっ転ぶよう後ろへ倒れた。
「ぎゃっ」
勿論、そのままバルコニーの床へと引き倒されてしまうようなことはなく。可愛気なんて微塵もない悲鳴を上げることになった元凶が、私のことを受け止めた。
視界のほとんどを遮っていた上掛けは剥かれ、けれど顔なんて合わせるまでもなく、そんなことをしたのが誰なのかはわかりきったこと。少なくともこのウトガルズに、私の行動をあんなにも乱暴な遣り様で妨げられるような存在は、たったの一人しかありえなかった。
「ひどい」
抱きしめているようでいて、ただ単に私のことを捕まえているだけな腕の中から見上げて言うと、リーヴは何食わぬ顔で首を傾げて見せる。
「どこへ行く気だ?」
そうして、最初の問いかけをもう一度繰り返した。
「別に」
私はただ、逃げ出してしまいたかっただけ。どこへともなく何かから――逃げて。逃げるためにただ逃げ出した。
けれどそんな、自分でもよく分かっていないような胸の内を上手く説明してしまえるはずもなくて。つっけんどんに答えると、リーヴはただ「そうか」とそれだけ言って部屋の中へと引き返す。
「どこ行ってたの」
「隣の部屋」
「…なんでいなかったの」
流れる血のように赤い両の目の奥へ理解が過ぎったことに気付いて、思わず顔を顰めてしまう。
私のことをベッドへ戻そうとしていたリーヴは離しかけていた手を直前で止め、まるで小さい子供でもあやすよう目元へ口付けてきて頭を撫でた。
「今度は目が覚めるまで傍にいる」
私とは違うリーヴは、眠ったりしない。睡眠なんてものを必要としてはいなくて、私がくぅくぅ寝ている間に暇を持て余させてしまうことは素直に申し訳がなかった。だから私は、リーヴに「目が覚めるまで傍にいて」なんて言わない。――言えない。
ただ時々、リーヴが私と同じ「人」であれば――手を取り合って眠ることができるのに――と、考えてしまうことはどうしようもなかった。
「それとももう起きる?」
ベッドの端へ腰掛ける私の前へ跪くよう、俯けた顔を覗き込んでくる。リーヴはいつだってそうだ。なんでも私のいいようにって――甘やかして――私をどんどん駄目にしていく。優しくされることはただ嬉しいのに、同じくらいどこか哀しくてたまらなかった。
そんな風に思ってしまうことさえきっと、「ただそれだけ」の夢のせいで。それはちゃんと分かっているのに、私は私がどうしたいのかさえ分からなくなってしまう。いつもの私ならどうするか、いくら考えたって答えは出なかった。
そもそも「私」ってなんだ。
「リーヴィ」
抱きしめられると温かいのに、リーヴの指先はただ触れてくると少し冷たい。だから包み込むよう頬へ触れられると、だんだん馴染んでいく体温が心地良かった。
「リーヴスラシル」
視線を促しているのだろう。呼びかけは、まるで言い聞かせているようでもある。私が誰かということを――何度も何度も繰り返し――、刻み付けるよう。
そんな風に言ってもらわなければ、私はどうしようもなく自分が分からなくなってしまう。心細くて仕方がなくなって、できるならどこまでも逃げ出してしまいたいくらい。どこかに今の私でない「私」がいるのではないかと、どういうわけか思えてしまって。ここで遊ばせているたった一つの体を狙われているような気さえしていた。
「リーヴ…」
目を閉じ眠って、目覚めた時に私が「私」でなくなってしまっていたら――。
それでもリーヴは、「私」のことを私と同じよう大切にしてしまうのだろうか。
「私が今の私じゃなくなっても、ちゃんと大切にしてくれる…?」
「お前がそれを望むなら」
そんなのは嫌だ。だけどそんな、仮定の話に意味は無い。私はどんなに逃げたって私のまま、他の何者にだってなれるはずもなかった。
リーヴが私と同じになれないことと、それは同じ。私だってリーヴと同じものにはなれないのだから。
「大切になんてしなくていいよ」
手を伸ばして引き寄せて、触れ合わせた額から想いが伝わりますよう――。
そんな風に、願うよう目を閉じた。
だけどどうか、気付かないでいて欲しいとも思う。
「ここにいる私だけが、あなたのリーヴスラシルだから」
それ以外は違うのだと、あなたは分からなくてもいい。
私さえ、忘れなければそれでよかった。
(真夜中に目覚める理由/姫と王。ひとり)
「ふみゃっ」
「猫のままでいるくらいなら消えてください。邪魔です」
「お前なぁ…」
「――苦戦中?」
「遊んでいってくれてもいいですよ」
「あら嬉しい」
---
「怪我するなよ、骸。私まで痛くなってくる」
「それはすみません」
「…――あ、」
「骸ー、バトラーウォッチ一つ分け――」
「凄いタイミングで来たな」
「やだ。修羅場? この前さっさと骸連れて引き上げちゃったの不味かった?」
「顔がにやけてますよ」
「だって、これってつまり問答無用で殺し合いを始めましょうってことなんでしょう? ――嗚呼、ほんと凄いタイミングで来ちゃったわね」
「犬、千種。下がってないと巻き添え喰らいますよ」
「戦争よ!」
「せめて外でやってください!」
「ひゃっふぅ」
「馬鹿猫、私にも槍」
「あいよ」
「使えるんですか?」
「愚問よ」
「ぎゃっ」
「あぁもうっ、右ががら空きですって」
「そっちは恭弥がいる方なの!」
「知りませんよ。今日は僕なんですから自力で何とかしてください」
「わかってるわよぉ…」
「先に仕掛けてきたのはそっちなんだから、遠慮なく殺らせてもらうわよ。――ヴィンチ!」
「あの女はなんだ?」
「…話せば長くなります」
「ほぅ…」
「切れた…」
「携帯鳴ってますよ」
「この状況で出るのはさすがに非常識だって私でも分かるわよ」
「恭弥だぞー」
「きゃーっ」
「はいはいお姉ちゃんですよー」
〈…取り込み中?〉
「軽く争闘中」
〈今度は何やらかしたの〉
「その言い方はまるで私に非があるみたいで心外! ――代理戦争絡みでちょっと巻き添え喰っちゃっただけだからちゃっちゃと皆殺しにして帰るわー。急ぎの用なら今聞くけど?」
〈…先に寝てる〉
「はいはい」
「――と、いうわけで。巻きで行きましょうか? ヴィンディチェ」
「テンションだだ上がりじゃないですか」
「…眠いんだろ」
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