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 その苦しみを形容することの出来る言葉は存在しない。
 ただ、絶望と混沌が体の中で渦を巻き痛みを伴って広い世界へ飛び出そうとする。そんな、途方もない感覚なのだと聞いたことがある。










 暁羽は蒼燈を連れ姿を消した。沙鬼もまたそれに従い、月詠と共に残された朔魅は思考を切り替える。
 もう二度と、時塔蒼燈が自分達の前に現れることはない。



「冬星」



 虚ろな青い瞳。
 彼女は風王のいない世界に何を見たのだろう。



「冬星」
「無駄ですよ。須佐は死んだ。――神の守りなくして「古[コ]の神器」に連なる者は自我を保てない」
「・・・」



 突き放すような言葉とは裏腹に、冬星に歩み寄ろうとした朔魅の手を月詠はそっと掴んだ。
 近づいては、いけない。――そんなこと朔魅にだって充分わかっている。
 けれど、このままという訳にもいかないではないか。



「朔魅、」
「それでも、冬星はまだ人の姿をしているわ」
「・・・・・須佐の骸があるからでしょう」
「なら、髪でも身につけさせておく?」
「惨[ムゴ]いことを言いますね」
「なら、」



 どうしろっていうのよ。
 もどかしくてたまらない。なんて皮肉なことだろう。誰よりも人に近かった冬星が、誰よりも先に虚ろとなった。
 三貴神が一人風王須佐の守護を得たというのに、その守護は、脆くも崩された。



「――朔魅」



 俯いてしまった朔魅を気遣わしげに見ていた月詠の声が、不意に緊張を孕む。



「離れて」



 強く手を引かれ朔魅はよろめいた。
 俯いていたところを後ろに引かれ、反動で持ち上がった視線が、空高くから落ちてくる紅を捕らえる。



「あれは・・」



 目の覚めるような赤い扇を、風が取り巻いていた。



「姉上の仕業ですね。全く」



 呆れ混じりな月詠の声に、先程までの痛ましげな色はない。



「須佐は大巫女[オオミコ]のところにいるの?」
「大方、――神子としての力を持っていたとはいえ――人間に後れを取った事をネタにいびられていたんでしょう? ――手を出すならもっと早く出せばいいものを、あの人は」
「冬星は、」
「姉上が扇を落としたのならもう心配はいりません。それより、貴女に影響が出ないうちに戻りますよ」
「えぇ・・」



 大気の孕む水分を媒介に、月詠が空間を渡るその刹那。



「す・・・さ・・?」



 頬を掠めた淡い風。虚ろな瞳が空を仰ぐ。
 朔魅は見た。



「――――」



 大気に紛れたその姿。伸ばされた両の手。困ったように眉を寄せ風王須佐は冬星の耳元で何事か囁く。










「よかった」



 神は神の世に、人は人の世に。それは天照が定めた倭の法。血を分けた兄弟とはいえ例外ではない。



「須佐のことですか?」
「冬星のことよ」



 けれど人の世に留まる術はいくらでもある。月詠のように必要な時だけ「影」を顕現させることもまた、一つの手。



「消えてしまったら取り返しがつかない」
「そうですね」



 ただ、良くも悪くも不器用な須佐は人の世に置く「影」に力を込めすぎた。



「姉上が扇を手放さなければ、どうするつもりだったのか」



 力は神の命そのもの。故に、その大部分を持つ「影」を失った神の世の風王須佐自身いくらかのダメージを受けただろう。
 それこそ、すぐさま新しい「影」を作り出せないほどには。



「禁を犯したんじゃない?」
「かもしれませんね」



 困った弟だ。
 そう苦笑して見せた月詠は、朔魅に背を向け水槽の縁に手をかける。



「また来ます」



 そして、別れも告げず姿を消した。
 きっと「魂の海」に戻ったのだろう。そこに月詠の本体はある。
 ただ一人出雲に住まうことを許されぬ神。闇に関わる唯一の貴神。



「えぇ」



 唯一己を己たらしめることのできる神を笑顔で見送り、朔魅は何事もなかったかのように日常へと身を委ねた。






























 その苦しみを形容することの出来る言葉は存在しない。
 ただ、絶望と混沌が体の中で渦を巻き痛みを伴って広い世界へ飛び出そうとする。そんな、途方もない感覚なのだと聞いたことがある。

 暁羽だけが行使することのできるその責苦の前では、恐らく、死など救いでしかないのだろう。










 けれど当然の報いだ。









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