「来るぞ」
巫女装束に身を包む華月が告げ、凪いでいた湖面に飛沫もなく波紋が広がる。
社の地下にこんなにも広い空間が存在し、そこに出雲から漏れ出した神気が湖海[コカイ]となってたゆたっている事を知るのは、この国を治める卑弥呼と、社の主である華月。そしてその姫巫女である暁羽だけだ。
「っ」
沙鬼でさえこの場所の存在を知らない。
「沙鬼、」
「心配しなくても生きてる」
「大丈夫、なの」
「何のための矛だよ」
主である華月の呼び声に応じ現れた「矛」は、意図された通りそれを託された沙鬼を連れていた。
ふっ、とまるで最初からそこに存在していたかのように現れた沙鬼は華月の腰ほどまでしか深さのない湖の底で目を閉じている。
「煌」
社から洞窟――更に湖の水際――まで続く石段の途中に腰を下ろしていた暁羽は立ち上がり、膝から下を水に浸す華月のすぐ傍に立った。
沙鬼の手を離れた「矛」が湖面に顔を出し、一度淡く瞬く。
姿を現した煌は悲痛な面持ちで項垂れていた。
「沙鬼の中に戻ってやれ」
「でも、僕は・・」
「矛」に取り込まれていたせいか、はたまたこの場のせいか、煌の体ははっきりとした肉体を伴い水面ぎりぎりに浮いている。
華月の払う腕の動きに合わせ「矛」は姿を消した。
「矛は沙鬼を拒まずその身を守りさえした。それは、お前が中にいたからだ。違うか?」
「・・・」
「戻ってやれ、ここにいれば傷もすぐに癒える」
「・・・・・はい」
頷く煌の体が掻き消え、湖面に小さく波紋が広がる。
「どれくらいかかるの」
「肉体的な傷はもう癒えたさ」
沙鬼の体から剥がれ落ちた血がゆっくりと水に溶け込んでいった。
問題は、と、石段から滑るように下りた華月は沙鬼に近づく。
「問題は魂の傷さ」
膝を折り水の中に体を沈め――神気宿るこの水が命を奪うことはない――、沙鬼の肌に残る血の痕を拭ってやれば、もうそこに切り裂かれた名残はない。
けれど今、華月の目にははっきりと見えている。
(とりあえず俺の方は後回しだな)
深く深く、魂に刻まれた傷痕。
子でしかないといっても相手は神。神の力はいとも簡単に人を殺す。上辺だけを見てはだめなのだ。人と神は違う。魂につけられた傷は、やがて魂そのものを蝕み死をもたらす。
「暁羽、離れてろ」
再び立ち上がった華月の指先が湖面をなぞる。
「カヅキ?」
「早めに手を打っておく。――手遅れにならない内に」
なぞられる度に神気の水はピシリとピシリと凍りついていった。
「終わったら俺も暫く眠る」
淡い蒼銀色をした氷が湖を覆う。
「疲れた――」
貴女、神を殺したことがあるでしょう。
「それが何だって言うんです」
血の臭いがするわ。
「ついさっき浴びたばかりですしね」
でも後悔しているのでしょう?
「まさか」
貴女の心は、
「黙りなさい」
とても哀しい。
「貴女に何がわかるというのです」
僕はただ愛し愛されたかっただけなのに。
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