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「――何故」



 全身を苛む痛みが意識を失う前の続きなのか、そうでないのか。



「何故貴様がここにいる」



 目の前にある世界が本物なのか、そうでないのか。



「貴様は死んだはずだろう」



 ここにいる私は私なのか、そうでないのか。



「 浅 葱 」



 私には分からなかった。


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 赤黒く変色した血溜りの上に横たわる少女。
 その、明け方の空を思わせる青色の双眸が捉えたのは、何の変哲もないリビングと一人の女だった。



「だれ・・?」



 女は目を瞠り、手にしていた携帯を取り落とす。



「――ぇ?」



 霞がかっていた意識が、その音と共に現実へと引きずり出された。
 走馬灯のように駆ける記憶が、刹那で現在[イマ]へと辿り着く。





「どうして私がここにいるの」





 私という存在は、失われたはずだった。


 薄暗い室内に一人。
 床に染み付いた血は既に赤黒く変色し、それが流されてから相当の時間が経っているという事実を、女に教えた。
 つまりそれは、女がこの場所をつきとめ訪れるために費やした労力や時間が、全て無駄になってしまったということ。



「・・・はぁ・・」



 らしくないと、その場に女を知る者がいれば言っただろう。誰よりも女自身が一番よくわかっていた。溜息なんて、らしくない。
 けれどそれを禁じえないのは、水泡に帰したものがあまりに大きすぎるからだ。



「ヴルカーンの奴、帰ったら覚えてろよ」



 半ば八つ当たり気味にそう吐き捨てると、女は銜えていた煙草を落とし、苛立ちを紛らわすようにそれを踏み潰した。

 この手で死を紡ぎ、飛び散る鮮血で瞳を染め、泣き叫びながら命を乞う虫けら共を少しでも減らすことが、私達の望み。私を一番最初に動かした願望。
 そのために私達は武器を取る。そのために私達は不必要な物を切り捨てる。そのために私達は必要なものを同化する。そのために、私達は学ばなければならない。――世界を。





 そう思っていた。





「・・・・・」



 だけど今は違う。私はあの時の私じゃない。誰かを守るために力を揮う事を選んだ。もう一人の私は私を守るために力を揮うことを選択した。










 なのに世界はそんなこと許してはくれないんだ。









 それは恐怖だ。









 恐怖に駆られ走る足は思うように動かず、縺れそうになる度リナは自分自身の足を撃ち抜きたい衝動に駆られた。ロスト・エンジェルを持っていれば間違いなくそうしただろうに、愛銃は今日に限ってベッドサイドに置き去りだ。
 恐怖だけがリナの思考を支配する。微かに見え隠れする理性は到底自分の物とは思えないほどに脆弱だった。これではイレイザーとして機能しない。だが今のリナにそんなことを考える余裕はない。
 夜通し降り続いた雨が止み黒く濡れたアスファルトの上を疾走する。恐怖から逃れるために。そんな物ありはしないと、リナを宥めるエキドナの声は聞こえなかった。



 静寂。それが恐怖の名。



 二人でいる事があたりまえだった。リナにとってエキドナはもう一人の自分で、同時に自分自身でもあった。自分たちの生きる世界に与えられる全ては共有され――記憶も、痛みも、激情も――互いの思考に境界線など引かれはしない。立ちふさがる全ての問題は二人で解決すべきなのだ。




「エキドナ・・・っ」




 なのに今、その声が聞こえない。その存在が見つからない。


「大丈夫だから」



 それは、私があの子に対して吐いた初めて嘘。
 今から行われる実験の後、可能性の上で私がどうなるかは予め――きっと本当はいけないことなのだろうが――ルナさんに聞いていた。それでも私は、大人たちの自己満足でしかないこの実験につきあうことを承諾した。
 本当は逃げたかっただけなのかもしれない。私は、もう誰が苦しむ姿もみたくなかったから、一番生き残る可能性の低い実験を選んだ。多分、きっとそう。



「ごめんね」



 閉ざされた扉の向こうに呟くと、前を歩くルナさんが振り向いた。



「貴女なら、こちら側に回ることも出来たでしょう?」



 彼女が立ち止まったものだから、私もつられて立ち止まる。
 彼女の言うことはもっともだ。私は今15で、そうしようと思えば「被験体」という立場から逃れることが出来た。



「私は、子供のままでいいです」
「そう・・」



 でもあえてそれをしなかったのは、あの子の傍にいたかったのともう一つ。
 私は、たとえ自分がどうなろうと今まで一緒に育ってきた仲間を「物」として見ることが出来ないから、こちら側に残ることを選んだ。



「貴女は強いのね」
「あの子を守れるのは、私一人でしたから」



 あちら側に、私の居場所を用意していてくれたルナさんには悪いと思っている。









「大丈夫だから」



 嘘なんで一度だって言ったことのない彼女の言葉だから、あの絶望に急かされ先のない希望に縋り付く屑共の巣窟でも、僅かな光を見出せたのかもしれない。





 けれど彼女は失われた。





 その瞳を真っ赤に染め、濡れたように黒かった自慢の髪を鬱陶しげに払い、恐怖に怯える屑共を尽く葬りながら、彼女は蝶のように舞う。
 彼女が一人別の部屋に移されたときから誰もが気付いていたけれど、あえて否定し続けていた現実が突きつけられ、彼女が生きているということへの歓喜と、彼女が変わってしまったことへの絶望が思考を侵した。





 そしてただ美しいという思いだけが残る。





 狂っているのだろうか。それもいいかもしれない。何故なら彼女はもういない。自分が狂うことで哀しむであろう唯一の人は、愚かで矮小な屑共の手によって全く別の生物[イキモノ]へと変貌させられた。彼女はもういない。二度と還らない。他の誰に見せるよりも優しい笑みで僕を迎えることもない。
 いや、それはこの手を血に染めた時からわかりきっていたことだ。なのに欠片ほどの希望にすがりつき彼女を求めた代償がこれ。何も知らずに殺されていればよかった? それとも、鮮血に舞う孤高の群れが彼女であると気付きさえしなければ、こんなにも冷ややかな絶望を――。



「逃げるのか?」
「えぇ、そうですよ」
「なら、行け。今私が殺した奴が最後の一人だ」
「貴女はどうするんですか?」
「私はきっと長くない、じきに終わる」
「何故です?」
「大切なことを忘れてしまったからさ」



 僕は貴女に一体何を捧げられるのだろうか。何を捧げれば、今まで与えられてきた光に報い、絶望を払い、貴女という尊い存在を取り戻すことが出来るのだろうか。



「思い出そうとは、しないんですか?」
「いいや。忘れていたほうが、きっといいんだ」
「何故」
「刹那の自由を、得たから。もうこれ以上望むべくもない」
「そうですか・・」



 愛していました、そう言えば以前の貴女は笑うだろうか。私もよ、屈託のない笑顔でそう返してくるだろうか。姉弟として、そのことになんの疑いもなく。



「ラッシュ、どこ?!」
「今行く! ・・・じゃあな」
「えぇ」
「生き延びろよ」
「貴女も」



 失われた未来を夢見た。手に入らない、指先を掠めさえもしなかった幸福な未来を。
 貴女のいない世界で。



「消してしまおう――」



 胸の中で燻っていた思いを吐き出せば、それは思いのほか簡単なことのように思えた。
 彼女は、もういない。彼女の弟であるはずの存在[ココロ]は絶望とともに闇に堕ちた。自分は、彼女なしでも生きられる。――復讐のためなら。






























 だから、全て消してしまおう。






























 二度と戻らない貴女に、僕は終末を捧げると誓います。









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