私の魔力に隅から隅まで侵食され、とろとろと溶けたラピスラズリは小さな刷毛のひと塗りでサーフィールの爪を覆う。
深く落ち着いた青が彼女には良く似合っていた。
「綺麗に塗れるもんだね」
「魔法使いですから」
あっという間に両手の爪十枚を塗り上げ、満足のいく仕上がりに一つ頷く。
「落としたくなったら言ってね」
「わかったよ」
「うん。――ありがとう、サーフィール」
美しいことにはただそれだけで価値があると、私はとうに確信していた。
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「ねぇ見て、リドル。
サーフィールが褒めてくれたの」
真赤に煌めく小指を見せびらかすよう差し出すと、リドルはルビーよりももっと綺麗に艶めく瞳でそれを見つめた。
だけどサーフィールのよう褒めてはくれない。
ちょっと顔を顰めて――またすぐ完璧な笑顔になって――「良かったね」と。
それは――取り繕うことへ病的に慣れた男のやることにしては、酷く稚拙な――誤魔化しになってもいないような誤魔化し。――あからさまな「嘘」だった。
私は、そんなリドルに愕然とした。
だって「リドル」なのに。
「…褒めてくれないの?」
生きるために愛されることを望んだ過去の亡霊は、ただ私のことをぎゅうと抱き締めて離さなかった。
それはどこか戸惑っているようで、哀しんでいるようで、何かを諦めてしまったようでもある。
要は、意味が分からなかった。
リドルがいつも通りに笑って、喋って、そこにいるなら、日記帳の一つくらい何からだって守り通してあげられるのに。それさえ覚束なくなってしまったら、私を救ってさえくれない男にいったいどれほどの価値があるというのだろう。
「リドル――?」
役立たず。
そう罵って、ずたずたに引き裂かれてしまいたいのだろうか。
この、私に。
割とインドアな方。
「というか、単なる引きこもりだよね。君の場合」
呆れ混じりというか、なんというか。いかにも「仕方ないなぁ」みたいにリドルは言って、休日だからとぬくぬく布団にくるまっていた私を引きずり出す。
抵抗は、物理的には可能でもあまり意味が無い。なにせ膂力では完全に私の方が負けている。勝ち目なんて一分たりともあるとは思えなかった。
無駄なことはしない。
「こら」
とはいえ、休日仕様で完全オフの体が無理矢理立たされたところできっちりバランスを取れるはずもなく。
一人がけのソファーへ飛び込むよう倒れ込み、これ幸いと膝を抱えて丸まった。
「ミザリィ」
「…ジニーだし」
窘めるよう名前を呼ばれ、そう返したのはなんとなく。
視界を遮る長い髪を掻き上げられたついでに顔を上げると、ソファーの前へ両膝ついたリドルと視線がかち合う。
「ジニー」
甘い声出したって無駄だ。
「今日は絶対、一歩も、ここから出ない」
――ある自我の終焉――
微かに降って来る光によって煌く水底。目を眩ませるほどの強さも、眠りを誘うような温もりもない、深遠の淵。
私という存在が呑み込まれていくのを感じながら、少しばかり残された意識と自我で、私は考えていた。けして答が出ることのない、ささやかな疑問。今まで幾度となく出口のない迷路に迷い込んできた思考がまた、廻る。同じところをぐるぐると。
無意識のうちに腕が光の方へと伸びた。助けを求めるように水を掻く。自分の腕であるはずなのに、それはどこか遠い。
腕は光に届かず、私の思考も答に辿りつかない。助けを望む理由も相手もない私は現状にどうしようもない諦めを感じながら、悔いていた。結局見つけられなかった答。手にすることのできなかった光。私にとって必要なのかもわからないそれらを望みながら、僅かな素振で手は尽くしたと努力を投げてしまっていては、この理不尽で唐突な終わりに対する恨み辛みを口にするのも躊躇われる。
(もう少し、生きたかったな…)
そして私は緩やかに、落ちるように、闇へ呑まれた。
――命の紡ぎ手――
「人の一生は短い」
たった百年弱の生涯で悔いを残すなという方が無理な話だ。
「だから僕は造った。人と同じ姿、同じ力、同じ終焉を持ちながら、老いも病も持たない《人工》の《生体》を」
望むのなら与えよう。求めて希うがいい。
「お前がどんなキセキを残すのか楽しみだ」
緑色の溶液で満たされた円柱のガラスケースに触れると、ひんやりとした冷たさが心地よかった。ケースの中にいる少女にとっては冷たすぎるくらいだろうが、彼女は「まだ」そんなことを知らない。
「ハルカ、最終チェック終わりました」
「当該エリアをネットワークから切断。溶液排出。排出スピードを通常よりも遅らせて」
「生体を起動せずに?」
「あぁ」
「わかりました」
普段の倍、時間をかけて水位が下がり、あわせて中に浮いていた少女の体が下りてくる。僕は厚いガラス越しに彼女の頬を撫でた。炎のように赤い髪が、一度大きく広がって落ちる。少女はケースの中で膝をついた。
「もうすぐ会えるよ、つば――「ハルカ!」
彼女の鮮烈な赤とは違う、酷く毒々しい紅[アカ]が唐突に世界を侵した。
「生体、汚染…?」
既に大半の排出を終えていた緑の溶液が、ケースの底から溢れ出す紅い溶液に呑まれ、苦しげにのたうつ。けたたましい警告音[アラート]に急かされ、あっという間にケースの中は紅で満たされた。確かにそこにいるはずの少女の姿が、見えない。
「どうして……今ここは完全なスタンドアローンのはず…!」
視界を埋め尽くす濁った紅に、頭の奥が鈍く痛んだ。
「カノ、エ…カノエ! どういうことだっ!!」
「…外部からの汚染では、ありません……ここはまだネットワークから切り離されたままです」
「ならどうし――……ッ」
細い指先が、ガラスケースをなぞる。
「内側、から…?」
ありえないことだ。彼女は起動どころか、体を動かすためのプログラムさえ満足に与えられてはいないのに。
「ハルカ…」
けれど僕は、心のどこかで歓喜していた。
「……」
《お前がどんなキセキを残すのか楽しみだ》
「ケースの封鎖を、強制解除する」
――ある自我の目覚め――
いきなり何もない場所から放り出されたような感覚。何もない場所から、何もない場所へと放り込まれる。
あたしがあたしであるということは、あまりにも唐突に始まった。
(あか、い…)
目を開けてまず飛び込んできたのは、世界を埋め尽くす紅[クレナイ]。自分の体さえ見えないような「紅い闇」が広がっている。
なんなんだろうこれは。そう思って試しに伸ばしてみた手は、ほどなく何か硬いものにぶつかった。カツンと、闇の中に音が響く。
「――――」
すぐ傍で誰かのくぐもった声が聞こえた。聞こえただけで、あたしはそれがどこから聞こえてきたもので、誰が発した言葉なのかわからない。当然のことなのに、知りたいとあたしの中で誰かが訴えた。その《誰か》が誰なのかを、あたしは知りたい。
「――――」
声は何かをはっきりと告げた。途端世界が大きく揺れて、あたしは紅い闇の正体が不透明な液体であることを知る。あたしと同じくらいの体型の人がもう一人入っても充分な広さのあるガラスケースの中は、あっという間にあたしを残して空っぽになった。息をしようと喘ぐと、肺に溜まった紅い液体でむせた。吐血したみたいに、手と口がべっとりと紅く染まる。
「――しているのか?」
「……」
今度は少し聞き取れた。ガラス越しの言葉。声の主を確かめるために顔を上げると、――今まで液体の中にいたせいだろうか――体は自分のものじゃないみたいに重かった。ギシギシと軋む音が聞こえてきそうなほど動きは鈍いし、何かと何かがかみあっていないような気もする。
「僕の言っていることがわかるか?」
ガラスケースの外に立っている人と、ケースの底に座り込んでいるあたしでは、あたしの方が目線が低い。目を逸らさないようにすることだけを考えながら、あたしは小さく顎を引いた。頷いて見せたつもり。体が変な感じだから、ちゃんと出来たかはわからない。
「自分が《何》であるかは?」
「?」
「……」
その人はあたしが首を傾けると、少しだけ考えるような仕草をして、ガラスケースから離れた。
「動くな」
咄嗟に「おいて行かれたくない」と思って体を起こそうとすると、強い口調で止められあたしはケースから離しかけた背中を、またぺったりと冷たいガラスへ押し付ける。
「カノエ、開けろ」
私とその人との間に立ち塞がっていたガラスの壁は、まるで水銀のように融解して底にある溝の中に吸い込まれた。あたしが寄りかかっている側のガラスは融けずに残ったから、あたしは言われたとおり動かないでいる。
「話せるか?」
「な、にを…?」
体と同じで、口もあたしの口じゃないみたいだった。ほんの少し動かして声を出すだけで、頭が疲れる。集中しないとあたしの体は考え通りに動いてくれない。
「…立てるか?」
差し出された手に、あたしはすぐにでもつかまりたかった。なのに体はゆっくりとしか動かない。
「無理はしなくていい」
ゆっくりと持ち上げた手をつかみ引き上げられ、あたしは眩暈がした。今まで存在を意識していなかった足が上半身につられてペタペタとケースの底を歩く感触が、どこか遠い。
「まだ慣れてないだけだから、大丈夫」
あたしは半ば抱きかかえられながらも、自分の足で立っていた。つま先から踵までをしっかりと床につけ、ほんの少しだけ、自分の体を自分の力で支えている。
(へんな、かんじ…)
それがどこかくすぐったくて、あたしは意味もなくへらりと笑って、目を閉じた。
「大丈夫だよ」
優しい声に守られて。
――紡がれなかった命――
「どうやって動いたんだろう」
純粋な好奇心で満たされたハルカの言葉に対する答はない。常識的に考えて、体を制御するために必要なプログラムの一切を持たない《人工生体》が動くはずはないし、今見た限りでは、《彼女》はちゃんとした自我を持って行動していた。
「カノエ」
「はい」
何度データを確認しても、この部屋が完全にネットワークから遮断されていた事実は揺るがない。考えられるのは内側からの汚染。けれど《人工生体》の中に初めからバグが紛れていたというのも、俄[ニワカ]に信じがたい。
「当該エリアを緊急廃棄。椿鬼[ツバキ]プロジェクトに関わる全ての情報をAQUAネットワークより完全削除。ネットワーク第二層ヴィルへのアクセスを一時的に制限。なお、この制限は僕が自室へ帰るまでとする。――おやすみ」
矢継ぎ早に面倒な指示ばかり残してハルカはそそくさと部屋を後にした。ガラスケースの封鎖を強制解除したせいで使い物にならなくなった機材と一緒に取り残され、私は少しだけ顔を顰めながら部屋の中を見回す。
「部屋に連れ込んで何をする気ですか、あなたは」
元凶である《人工生体》の姿はどこにもなかった。
――ある少女の由来――
僕の体は生まれた時から壊れていた。だから僕は一度だって自分の足で大地を踏みしめたことはない。僕が始めて「立つ」という言葉の意味を実感したのは、祖父が死に祖母が死に母が死んだ後。祖父がたまに持ってきてくれていた本に由来する知識によって造り上げた《人工生体》に、僕という自我を構成するありとあらゆる情報を移してからだ。
初めて造った《人工生体》は姿こそ人間と同等ではあったけれど、力は機械そのもので、それは僕の求めた「欠陥のない体」から程遠かった。あらゆる面で人間と同等でなければならなかった。姿だけでは、足りない。
そうして改良を重ねるうちに、僕は《人工生体》の影とも呼びうるものを造り出した。《戦闘妖精》。《人工生体》を人間に近づけようとするうちに捨てた、「機械」であることの集合体。人と同じ姿を持ちながら、感情も、理性も、人間らしい一切のものを持たない、驚異的な戦闘力を有した、戦うことだけを目的とする存在。
僕はずっと、持てる力の全てを尽くして、二つの存在を遠ざけてきた。《人工生体》でありながら《戦闘妖精》の力を持つこと、《戦闘妖精》でありながら《人工生体》の心を持つことは容易い。でもそれを許してはいけない。僕が望んだのは、あくまで人が人としての最低限を保障されるための体なのだから。人を超越した体に、心はいらない。
そうすることの理由を、カノエには優しいからだと言われた。自分が造り出す存在が戦って傷つき、涙する姿を見たくないのでしょう、と。傷つく姿を見たくなければ造らなければいいだけなのに。生み出すことをやめられない僕の矛盾した心を知っていて、カノエは僕が優しいのだという。
だから僕は、たった一度だけ、自分自身で定めた禁忌を犯そうと決めた。他ならぬ君の、君だけのために。唯一の心持つ妖精を。
――世界で一番深い朝――
フワフワと雲の中を漂っているような夢を見て、あたしは凄く満ち足りた気持ちで目覚めた。
目を開けると灰色がかった天井があって、点在する照明が室内をそっと照らしている。知らない場所。
「ゆっくり起き上がって」
聞き覚えのある声があたしを促した。
あたしは言われた通りゆっくり体を起こす。違和感はない。
「調子は?」
姿の見えなかった声の主はベッドのすぐ横に置かれた椅子に座っていた。
「悪くはない、です…」
極々自然に頬へと添えられた手にあたしが戸惑いながら答えると、白っぽい銀色の目をしたその人は可笑しそうに目を細める。
「ならよかった」
優しそうな人だと、思った。目の奥のほうで柔らかい光が揺れている。あたしはなんだか夢の続きを見ているような気分になって、添えられた手の平に擦り寄るように目を閉じた。
(あったかい…)
少しの間あたしもその人もそのままでいて、――それでもずっとそのままでいることなんて出来るはずもなくて――頬を撫でながら離れていく手を追ってあたしは目を開ける。
「手を出して」
体はもう完全にあたしの物だった。そうしようと思うだけで簡単に動かすことが出来る。
「これを飲んで」
渡された小瓶には、淡い水色の液体が入れられていた。さらさらとした感じで、少し揺らすと瓶の中でタプンと波打つ。蓋の付け根にある突起を押すと、バネ仕掛けの蓋が勢いよく跳ね上がった。
「甘くしてあるから、飲み難くはないよ」
促され、とりあえず一口だけ口に含む。確かに飲み難くはなかった。砂糖水みたいな味で、少しだけ、冷たい。
「AQUAっていうんだ。水という意味で、ここでは必要不可欠なもの」
空になった瓶をナイトテーブルに置いて、その人は「とても便利なものなんだ」と、どこか誇らしげに笑った。
「何故、必要なんですか…?」
あたしが疑問に思ったことをそのまま口にすると、小さく首を横に振られる。
伸ばされた手はまた頬に触れ、感触を確かめるように上下した。
「敬語じゃなくていいよ、堅苦しいから」
「…なんで必要なの?」
「それはね、」
ここには人の生きていける環境がないのだと、その人は言う。だから僕のAQUAがここの環境になって、僕がその管理をしているんだよ、と。
それを聞いて、あたしはさっき見た誇らしげな表情の意味を知る。
「あなたはここの王様なのね」
「そうかもしれない。でも、きっと違うよ」
「どうして?」
「ここがアンダーグラウンドだから、かな」
頬を撫でていた手はゆっくりと首を伝って鎖骨にかかり、膝に置いていたあたしの手に触れた。
そのまま包み込むように握られ、そっと引かれる。
「見せてあげるよ、僕の世界を」
あの時のように、あたしは繋いだ手を引かれ立ち上がった。そして唐突に、目の前にいる人のことを何も知らないのだと気付く。
「ねぇっ」
「なんだい?」
「あたし、あなたの名前知らない」
凄く今更だと、自分でも思った。あたしの手を引いて歩き出そうとしていた人もそう思ったのか、一瞬目を丸くして、「ああそうだね」と笑った。
「僕はハルカ」
「ハルカ…ハルカね」
「僕に名前を聞く人なんて久しぶりだ」
名前を聞かれた時目を丸くしたのは、あたしが今更名前を聞いたからじゃないらしい。名前を聞かれること自体が久しぶりなんて、一体どういう生活をしてるんだろう。
「そういえば僕も、君の名前を知らないな」
「あたしはヒノエ」
「ヒノエか…いい名前だね」
「あなたもよハルカ。とってもいい名前」
「ありがとう」
あたしが笑うとハルカも笑って、二人して意味もなくニコニコしながら部屋を出た。部屋の中よりも少し明るい通路には幾つも扉が並んでいて、右も左も、同じ方向へカーブしているからあまり先の方までは見えない。
「僕の助手に紹介しておきたいから、道すがら大まかにアンダーグラウンドについて説明してあげるよ」
そう言って、ハルカは歩き出した。
――イーハトーブ――
「信用してもいいのかい?」
地表に最も近い第一層《フラウ》よりも地下深く、第三層《ケイオス》よりは浅い第二層《ヴィル》の一室で、一人の男が端末に語りかけていた。
室内には端末の他に光源はなく、モニターの放つ微かな光だけが部屋を照らしている。
〈その後すぐにヴィルへのアクセス制限がかけられたのは確かです〉
「ふむ…それは興味深いな」
男――カナタ――は端末に映し出される状況の変化を目で追いながら、顎に手を当て一つ頷いた。寄りかかった椅子の背もたれがギシリと音を立てる。
少しの沈黙を挟んで、シュアは続けた。
〈引き続き調査を?〉
「我々の目的はあくまで《蝶》だが…いいだろう。そちらに支障が出ない程度なら探ってみてくれ」
〈はい〉
「それと…」
右手で左腕の付け根を押さえながら、カナタは端末から視線を外しあらぬ方へと目を向ける。
《ヴィル》に夜はなかった。《ケイオス》にも、そんな概念はない。《フラウ》にはあるが、全てが虚構だ。
「少し上に行ってくるよ」
久しぶりに太陽が見たい。小さくそう零したカナタに、シュアは沈黙をもって返した。
カナタはこのアンダーグラウンドが作られる以前から大陸にいる。彼は当然のようにシュアの知らない本当の空を知っていて、地上へと出るための術を持っている。シュア自身は今更地上に出たいとは思わなかったが、カナタが少しだけ羨ましかった。
「大した情報は期待できないだろうけどね」
大半がバーチャルで構成されたアンダーグラウンドにおいて、彼とごく少数の人々だけが、自らが虚構ではないと胸を張れる希少な存在だからだ。
「留守を頼むよ」
〈はい…〉
彼はこのアンダーグラウンドを出た途端、自分という自我が消失してしまうのではないかという恐怖を味わったことがない。
――海――
「第一層フラウが一番治安がよくて、第二層ヴィルはその逆。第三層ケイオスはそれ以前の問題。一番地上に近いのがフラウで、アンダーグラウンド全体はまだまだ広がり続けている…――憶えたよハルカ。これでいい?」
それがアンダーグラウンドについて必要最低限の知識だと思う。ヒノエを一人で出歩かせるつもりはないからおそらくこれだけ知っていれば平気だろうが、最近は上層で妙な組織も動いているようだし、あまり楽観視は出来ない。
「多分ね」
「じゃあ約束! 憶えたら海、見せてくれるんでしょ?」
《ケイオス》の最も下層に位置するこの場所に閉じ込めて出さないという手もあるが、どうにも現実味に欠けた。
「わかってるから引っ張るな。海は逃げない」
ヒノエの持つ体の性能を考えれば、アンダーグラウンドで不可能なことは殆どない。僕とほぼ同等の権限を、彼女は知らず知らずの内に手にしてしまっている。
それがどういうことか知りもしないのに。
「バーチャルとAQUA、どっちがいい?」
「んー…ハルカはどっちが好き?」
「僕が普段使ってるのはAQUAだな、バーチャルの方はフラウだから遠い」
「じゃあバーチャルの方で!」
「わかった」
遠いと言っているだろう、という悪態を呑み込んで、意識下でカノエへとその旨を伝える。「暫く留守にするから」と何でもないことのように告げれば、悲鳴のような声と共に物理的な目の前へモニターが浮かび上がった。
〈海って、あなたまさかフラウまで行く気ですか!?〉
「うわすごっ、なにこれ」
珍しく感情を顕にしたカノエの向こうで、ヒノエが面白そうに半透明のモニターを覗き込んでいる。
「そう言ってるだろ。後のことは任せる」
〈もう何十年も引きこもってるくせになんで突然…っ、製作途中の戦闘妖精はどうするんです!〉
だから任せるって言ってるじゃないか。
「凍結」
素っ気無く言い放って、モニターを壁際へと押しやる。カノエの非難がましい声が通路に響いたが、そんなの知ったことじゃない。珍しく気が向いたんだ。今出ておかないともう二度とこんな機会ないかもしれない。
「ねぇハルカ、いいの? カノエさん怒ってなかった?」
「別に。連絡は取れるし問題ない。驚いてるだけさ」
「ならいいけど…」
世界にたった一つしかない大陸の地下にアンダーグラウンドという一つの世界を作り上げたのはこの僕だ。これは過言でもなんでもなく紛れもない事実で、だから僕がアンダーグラウンドのどこで何をしようと、誰にも止める権利なんてない。
「せっかくだから、ケイオスとヴィルがどんなところか、その目で確かめるといい」
僕はいつだって、僕の好きなようにする。一生分の不自由は、とっくの昔に払い終わった。
「気に入るかどうかは保障しないけど」
夢見るだけだった世界は今、確かに、この手の中にある。
――アンダーグラウンド――
「少しのぞくだけだから」
その言葉通り、ハルカはあたしに《ケイオス》と《ヴィル》の様子をざっとしか見せてくれなかったけど、その方がよかったと思う。
《ケイオス》は凄く息苦しい場所で、《ヴィル》は、息をするのも辛かった。地下にぽっかりと開いた空間の中に造られた街は暴力で溢れ、強い人だけが胸を張って歩けるような場所。アンダーグラウンドの中では《ヴィル》が一番自由な場所だとハルカは言うけど、あんな自由ならあたしはいらない。
「フラウは完全に管理された世界。ヴィルは力が全て。ケイオスでは戦闘妖精とその主だけが存在を許される。…失望した? 僕は人々のために心を砕く優しい王様なんかじゃない。独り善がりな天才さ」
「ハルカ…」
でも《フラウ》は違った。
「うっわぁ…凄い! 空がある!」
見上げれば頭上に広がるのは無機質な天井ではなく雲の浮く青空。何の違和感もない街並みはどこまでも続いて、遠くには緑生い茂る山々。柔らかい風が街路樹の葉を揺らしながら街を吹き抜けていく。
それまで胸の中でわだかまっていた気分の悪さなんて忘れてあたしが走り出すと、ハルカは少し焦ったように声を上げた。
「遠くまで行くなよ!?」
「大丈夫!」
風が吹いてくる方に向かって走ると、微かに潮の匂いが鼻先を掠める。大丈夫、海を見に行くだけよ。それにどこにいたってハルカは見つけてくれるでしょう?
「だってあたしは――」
あたし、は?
――ある男の夢――
「君がこんなところにいるなんて、珍しいじゃないか」
海へと一直線に駆けていたヒノエが失速し、やがて立ち止まる。息が切れたにしては不自然な止まり方に首を傾げていると、久しく聞いていない――けれど忘れはしない――男の声が鼓膜を揺らした。
無意識の内に息を呑む。
「――ハルカ君」
鮮やかな日常の中で、彼だけが色を失っていた。男にしては長い髪も、その瞳も、霧にぼやかされたような灰色をしている。
「カナタさん」
彼の名を紡ぐ僕の声は掠れていた。
「おかげでこちらから出向く手間が省けたよ」
「あなたは、まだ…」
嗚呼僕は、だから《ケイオス》を出たくなかったのに。
「まだあんなものを捜し求めているんですか」
「当然だろう?」
どうしてこんな気紛れを起こしてしまったんだろう。前回のことで分かっていたはずだ。どれだけ時が流れてもカナタの心は変わらない。彼の時間は、とうの昔に凍り付いてしまっている。
「《蝶》さえあれば、全てをこの手にすることが出来る」
この世界の全てが記されたオーパーツ《蝶》。そんなものが本当にあると、それを手に入れれば本当に世界を手に入れることができると、あなたは…
「彼女を取り戻すことだって出来るんだよ、ハルカ君」
本当に信じているんですか。
「失われたものを取り戻す術なんてありませんよカナタさん。それが命なら、尚更」
「だから《蝶》を探すんじゃないか。《蝶》の力を得れば、人は神に並ぶ。あるいはそれ以上の力を持つことだって出来るかもしれない」
「思い上がりです。人は人だ。それ以上にも、それ以下にもなれない」
「…知ったような口を利くね」
「ッ」
向けられた敵意に息が詰まった。同時に僕は、目の背けようのない現実を突きつけられる。
灰色の瞳に宿る憎悪が向けられているのは、この偽りだらけの世界か、人に救いの手を差し伸べることのない神か、それとも――
「私が知らないとでも思っているのかい?」
「なにを…」
二人の間で保たれていた距離が、カナタによって崩される。一歩、二歩と、詰められていく距離に僕は抗えなかった。
「君の犯した二つの罪に」
――椿鬼――
「あたしは…」
ヒノエ。と、誰かに呼ばれる。知ってる声。振り向いたら、さっきと同じ場所にハルカがいた。でも一人じゃない。
「ハルカ…?」
色のない男の人と一緒だ。
「ッ…」
頭を鈍器で殴られたような衝撃。いけないと、あたしの中で何かが告げる。
あの男にハルカを渡してはいけない。
「――ハルカ!」
そう思ったら、あたしは海に背を向け走り出していた。絶叫じみた呼び声に気付いて男が振り向く。伸ばされた手がハルカに触れる直前で止まって、あたしは足に力を込めた。
「ハルカに触るな!!」
あたしの言葉にハルカが目を瞠る。そして一歩後退って、唇の動きだけであたしを呼んだ。
あたし自身、どうして自分が怒っているのかわからない。初めて会うのに、あたしはハルカの目の前にいる男のことが大嫌いだった。
「これはこれは」
男の声を聞くだけで、例えようのない怒りが込み上げる。
本能の叫びに任せ、あたしは地面を蹴った。体は宙を舞い、視界が開け、落下。ハルカと男の向こう側に着地して、また地を蹴る。
「――アシル」
あたしと男との間に割って入ったのは、あたしより少しだけ背の高い少年。彼が物陰を飛び出したのは男の言葉より早かった。
「悪いね」
「別に」
止められた拳を握られ、下がれなくなったあたしは迷わず右足を蹴り上げる。アシルと呼ばれた少年は一瞬驚いたような顔をして、それでも、あたしに折られるより早く腕を引いた。
「凶暴な女」
続けざまに繰り出した回し蹴りも避けられる。
でもそれは全部あたしが意識してやったんじゃなくて、あたしじゃない誰かが、あたしの体を使ってやったこと。
「椿鬼…」
そう、きっとそんな名前だった。
――至高の妖精――
その体が宙を舞ったとき、僕は感嘆と共に空を仰いだ。
炎の様に鮮烈な赤が翼のように広がって舞い降りる。刹那垣間見えた紅色の瞳は深みを増して、真っ直ぐに正面を見据えていた。
「椿鬼…」
僕が造った至高の妖精[フェアリィ]。お前は今、何を思って目覚めたんだい?
「随分感情的な妖精だね、ハルカ」
寝坊するにもほどがある。
「…カナタさん」
椿鬼、僕の椿鬼。僕は君のせいでとんでもない面倒に巻き込まれたんだ。責任は取ってくれるよね? 僕の椿鬼。僕の最高傑作。
最強の妖精。
「あなたに《蝶》はあげません」
「! やはり君が…」
「だって、」
カナタとアシルに対峙するヒノエ――それとも、椿鬼と呼んだ方がいいのだろうか――の手を引いて、僕は一歩後退る。よろめいた体をそっと抱きとめて、自分でもそうとわかるほど満面の笑みを浮かべた。
「手放すには惜しいですから」
――罪の所以――
「それでカナタから逃げるために試作段階の転移装置使って、このザマですか」
救えませんね。
「あの場合そうするしかないだろう…」
広いメンテナンスプールに沈められたボロボロの生体が、淡い水色のAQUAに包まれ揺れている。プールサイドのカノエさんはハルカの言葉に「知るもんですか」と眉根を寄せて、コンソールから目を逸らそうとしなかった。
「椿鬼が使えたのなら使うべきでした」
急ごしらえの生体が馴染まないのか、居心地悪そうにハルカが身じろぐ。首の後ろから伸びたコードが一緒に動いて、そのコードはカノエさんのコンソールに繋がっているから、まるでハルカがカノエさんに捕まっているようだ。
「無理だ。…ちゃんとした戦闘プログラムは、入れてなかった」
歯切れの悪いハルカの言葉に、カノエさんが手を止める。
「戦闘妖精の力を持った人工生体なのに?」
「……」
そして深々と溜息一つ。プールのAQUAが色を変えた。
「ねーハルカー?」
生体を駄目にしかけたハルカとは対照的に、全くの無傷だったあたしは、爪先で淡い緑色のAQUAを波立たせながらさも退屈ですと声を上げる。
「…なに」
恨めしそうに応じたハルカは、転移の直後、真っ先にあたしの安否を確かめた。
「ちゃんと連れて行ってよね、」
あたしよりも自分の方がよっぽど大変だったくせに。
「海」
「……僕の生体が治ったらな」
渋々ながらも頷いたハルカに、カノエさんが「懲りない人ですね」と、笑った。
(椿鬼)
ヨトゥンヘイムの《王》の右腕たる巨人が一切の妥協無く、持ちうる技巧のあらん限りを尽くして織り上げた魔布。その性能はあろうことか物理攻撃の無効化(・・・)から始まり、魔力による干渉の阻害と続き、更なる魔術の重ねがけによって実際にはどれほどの機能を持たされているのか、ノスリヴァルディにさえも想像が及ばないほどだった。
けれど。何よりもまず、そこまで手の込んだことをする意義が見出せない。明らかに過剰防衛が過ぎる。
そもそもウトガルド・ロキと並んで遜色ないほどの魔力量を誇るリーヴスラシルに、後付けの守りなど必要ない。魔力の伴わない攻撃であれば周囲に漂う余剰魔力だけで防ぎきってしまえるほど、リーヴスラシルの生み出す魔力は法外だった。その上、四六時中傍について離れようとしないウトガルド・ロキのことを思えば、上等な魔布を着せることさえいっそ馬鹿馬鹿しい。
「我ながら傑作ではなかろうかと」
ちょっとどころでなく得意満面なビューレイストは、トルソーにでも着せたかのよう程良い高さへ浮かべる外套を隅から隅までくまなく点検し、その出来に充分満足できたのかにやりと笑う。
「ジャケットはまだ時期的に早いと思うだろう?」
「そもそもいらないでしょ。外套羽織ったら嵩張るわよ」
ノスリヴァルディのそれは、外套があれば上着の類は必要ないだろうという主張。無論、そもそも中に着る服の機能的に――温度調節機能は至極当然の如く完備されているのだろうと、ノスリヴァルディは踏んでいる――外套そのものが必要とされていない事実を度外視してのことだが。
そんなノスリヴァルディにトルソーの正面を譲り、ビューレイストは外套の内側から引っぱり出したベルトのバックルをかけ、深さのあるフードごと見えない肩からごっそり布を落として見せた。
見目麗しい刺繍の施された裏地が表へ出ると――いかにも高性能な魔布製の代物として正しく、あちこち通常ではありえないような微調整を経て――丈長なオーバースカートができあがる。
表地の黒と裏地の赤とのコントラストは、どう控えめに表現したところで素晴らしかった。
「手が込んでるわね…」
そして、そうなるとカウチにおかれた黒のノースリーブに白シャツという上半身が些か物足りなく思えてくる。確かに下のスカートと揃いのジャケットでもあれば「完璧」だと、ノスリヴァルディも納得せざるをえなかった。
とはいえ今時分のウトガルズを歩くのであれば、むしろジャケットのない状態の方が服装の程度としては丁度いいというのが実際。ビューレイストも、それについては異論なかった。
ジャケットは冬までに仕上がればいい。
「鞄の類はないの?」
トルソーから取り上げた外套をカウチへ移すビューレイストに、ノスリヴァルディはふと気になったことを訊いてみる。
並べられた衣服一式の中にはちょっとした小物入れになりそうなベルトポーチはあるが、まともに「鞄」と呼べるようなものはなかった。
「外套の内ポケットを拡張、全体の重量は軽めに固定値をとってある」
「容量は?」
「寵姫が使うのであれば無制限と言って差し支えない」
「さすが。《王》に連なるお方はやることが無茶ねぇ…」
それなら確かに、鞄はいらないだろうとノスリヴァルディも納得してしまう。
その処置が――ビューレイストが簡単に言ってのけるほど――容易に施してしまえるような類のものでないことは、重々承知していた。
ただ、それをさらりとやって退けられるからこそのビューレイストなのだ。
「やっぱり、魔力の消費を考えなくていいとあれこれ弄りやすいの?」
「当然だな」
----
「寵姫の体は《マナ》が生み出す魔力を蓄えられない。それは致命的だが、主が傍に張り付いている限り実害はない。…とはいえ、垂れ流される魔力をそのままにしておくというのも勿体無いだろう」
「その状態で実害がないって辺り途方も無いわね。私たちのお姫様は」
「…溜め込む器がないなら代わりを与えれば済むことなのに、主は何故《枝》を寵姫へ持たせないんだと思う?」
「独占欲」
「やっぱりそうかな…」
「それ以外ないでしょ。他に何か思いつく? わざわざ大切なお姫様を不安定なまま放っておく理由。たとえ実害がなくったって、姫さま的には不自由もあるでしょう。常にその時、生み出されただけの魔力しか使えないんだから」
「…それでも街一つ吹き飛ばす程度軽いが」
「違う違う。ウトガルド・ロキのやることなすこと、まともに抵抗できないってことが問題なのよ」
「主は寵姫を傷付けない」
「背中に契約印刻まれてたわよ」
「……」
絶句。
「しかもでかでか、これみよがしと。さすがに芸術的な仕上がりだったけど、あの様子じゃ碌な説明なんてしてないわよ。あんたと同じで、自分の都合の悪いことは聞かれるまで言わないんでしょう?」
「人聞きの悪い言い方をするな」
「それが悪いとは言わないけどねぇ」
「その契約印、内容を見たか?」
「読み取れるわけないじゃない。ちょっと見惚れておしまいよ」
「…下がっていい」
「えぇ?」
「寵姫の仕度は私が。どうせ外套の説明もある」
「ウトガルド・ロキに直接訊けばいいじゃない」
「寵姫の前で? 聞かせられない内容だったらどうする」
「そんな可能性あるの?」
「ないと思うか?」
「あなた、最近楽しそうね?」
「どういう意味だ?」
「生き生きしてるわよ。…あなたに限ったことじゃないけど」
「あぁ…その筆頭は間違いなく主だな」
「私、今の《王》が好きよ。あなたにこんなこと言っても仕方がないってわかってるけど、やっぱり《王》は民と共にあるべきだわ。心をもって寄り添うべきよ」
「主の心はお前に寄り添ってなどいない」
「でも、姫さまはお優しい方よ。姫さまの傍にいる限りウトガルド・ロキが民を虐げることはないないわ。たとえ私たちに対する感心はなくとも、だからって私たちが理解できないわけでもない。――そうでしょ?」
「心を得たことそのものが重要だと?」
「お飾りの《王》より心無い《王》の方がなお性質(たち)が悪いとは思わない?」
「…確かに、その感慨は私の手に余るな。難解だ」
「残念ね」
----
「うわぁ…これ全部ビューレイストが作ったの?」
「えぇ」
驚くほど、リーヴスラシルに対して配慮のなされた契約だった。むしろウトガルド・ロキに全く旨みがないと言ってもいい。そんな契約を刻むくらいなら、かえって何もしない方が良かったとさえ思えるほど。
だからこそ、ビューレイストはウトガルド・ロキの真意に気付けた。つまり、契約としての体(てい)を成していない印を刻むことこそが目的だったのだ。
どちらかが命を落とすまで、けして消えることのない刻印。それは肌へ散らした鬱血よりも余程――そしてあまりに明確な――所有の主張だった。よもや見過ごしてしまいようもない。
----
上等な魔布を着慣れたリーヴスラシルは何の疑問も抱くことなくそれを身につけ、ウトガルド・ロキに対してそれを自慢するようくるくると回って見せた。
「似合う?」
「あぁ」
無論、ビューレイストがリーヴスラシルのために作った衣装だ。似合わないはずがない。
「ありがとう、ビュー」
「どういたしまして」
するりと抜かれた指輪に、仕舞い込まれていた髪が広がる。私にとっては鬱陶しいばかりのそれを、リーヴはさも満足そうに梳き流した。
私だってリーヴの髪は好きだし気に入ってるけど、きっとリーヴが私の髪を気に入っているほどじゃない。
「何がそんなに楽しいの?」
「――楽しい?」
なのに。その理由を尋ねてみれば、そんなことを訊かれるとは思ってもみなかったのだとばかりの反応が返る。
ベッドへ仰向けに寝そべる私の上で、リーヴは虚を衝かれたよう目を瞬かせた。
「ふふっ…」
だけど。驚いたのは私の方で、まさかそんなつもりもなく執着していたのかとおかしくなってしまう。
次第にこみ上げてくる笑いごと腹を抱えて横向くと、首を傾げながらも片手間に髪を弄んでいる。
そんなの「楽しんでいる」以外にいったい何があるというのだろう。
「リーヴスラシル?」
「なんでもない」
---
少し考えるような素振りを見せ、リーヴは手にした指輪を私の耳元へ近付けてきた。何をするのだろうと内心首を傾げているうちに、なんだかひんやりとしたものが耳朶に触れる。
「ひあっ…」
それがリーヴの指先でなかったことだけは確かだ。
「…耳が弱いのか」
咄嗟に逃げを打とうとした体をあっさり抑え込み、どうどう宥めすかすよう背中を撫でてくる。リーヴが感心したよう呟く間も、私は自分の耳に張り付いてうぞうぞと蠢く「何か」の感触へ耐えるのに必死。
ぶんぶん頭を振り回しても、「それ」は結局落ち着くところへ落ち着くまで私の耳を這い回った。
動きが止まる頃にはこっちがぐったり。
「なにしたの…」
私がこんな目にあわされていいはずがない――。
そんな心境のありありと篭る声は震えていた。
「見た方が早い」
ようやく私の体を自由にしたリーヴは小さな手鏡を差し出して、未だに妙な感覚の残っている耳を映して見せた。
結論から言って、そこには穴を開けた覚えもないピアスが嵌っている。
銀の台座に赤い石の乗った、飾り気のないピアス。恐る恐る触ってみると、見事に耳朶を貫通していた。
全然痛くはなかったのに。
「傷物にされた…」
「その言い方は人聞きが悪い」
「ほんとのことじゃない」
ジト目で睨んでも涼しい顔。リーヴは私にやったのと同じよう、自分の分の指輪も耳へ触れさせピアスに変えた。
その過程はどうにも悍ましい。ただ、銀の指輪がとろりと形を崩した瞬間だけを切り取ってみれば美しくもあった。先にその様を見せられていたら、抱く印象もきっと変わっていただろう。
そしてリーヴと「話」をするための魔具を耳につけるのは、なかなか理に適っていると思えた。
「どうしていつも説明の前に実行がくるの」
「手間が省けていいだろう」
もしかしてリーヴも大概、性格の悪い人なんじゃないかと気付いても後の祭りだ。もしそうじゃなかったとしてもそれはそれで性質(たち)が悪い。
「お前がもっと愚かな子供であれば、言葉を尽くしてみるのもいいかもしれないな。
それに…」
「それに?」
「私のことを信用しきって体を差し出されているのは気分がいい」
「うわぁ…」
「私が意図して魔力を無力化しない限り、お前に無断で肉体への干渉はできない。それができているということはつまり、それをお前がはじめから許しているということだ。――本当に嫌なら、お前は私を拒むことができる」
「……」
そこまでする必要はないだろうと、思っているのが実際。確かに私はリーヴを許していた。そして信用しきっている。リーヴを信用できなくなってしまったら、私は今ここにいる私自身をも否定するようなものだ。
私はリーヴを信じている。返して言えば、返して言えば、私はリーヴ以外に信用のできるものなんて何一つとしてなかった。それが本当のこと。
「リーヴ?」
放り出すよう些か乱暴に下ろされた先。
カーテンのすっかり開かれたベッドに私のことを組み敷いて、リーヴは問う。
「どこがいい?」
「どこ、って…?」
互いの呼吸が数えられるほどの距離。流れる血のよう真赤な双眸に見下され、胸騒ぎがするなんて初めてのことだった。
慣れた行為。見慣れた容貌が、不穏。
「私を魔獣として連れ歩くつもりなら、私がお前のものだという印が必要だろう」
「そんなの…」
「刻めば、私はいついかなる時であろうと――どんな状況でも――お前の召喚に応じられる。――これがどういうことか、よもや分かないとは言うまい?」
魔法使いは万能じゃない。リーヴと違って私は《王》でさえない人なのだから、保険は多い方がいうということなのだろう。
リーヴはどこにいたって私の声を聞くことができる。だけど私の声がいつだってリーヴにまで届くとは限らない。
「…心配し過ぎじゃないの」
「私がこういう性質(たち)なのは、お前がそうなるように望んだからだ」
「……」
「服着て隠れるところ…」
「…背中でいいか」
「痛みはないだろうか…少し熱くなるぞ」
「そう言うならやめてよ」
「無理だ」
「っ――」
「わかるか? ――ここに私の《マナ》と同じ模様が刻まれている」
「ノスリヴァルディに何か言われたら、リーヴに無理矢理されたって言うから」
「好きにしろ」
「もう…」
「リーヴの《マナ》は、どんな形をしているの」
「きれい…」
複雑な、幾何学模様だ。言葉では到底形容し難い形状をしている。肌を這う血色の筋は、強いて言うなら絡みつく薔薇の蔓じみて私に根を張っていた。
「気に入ったか?」
未だ熱を持つ刻印にリーヴが触れると、背筋にぞくりと震えが走る。
思わず漏れそうになった声はどうにか、既の所で呑み込んだ。
「うん。でも…ちょっと幅とりすぎじゃない? 背中が半分埋まってる。あとこれだと背中の出る服着たとき見えちゃうんじゃ…」
「隠すようなものでもないだろう」
「隠れる所がいいって言ったのに!」
----
「一人で座れる」
「そうか?」
私の言うことになんてまるで聞く耳持たず、リーヴは私のことを抱きしめたまま。さも当然の事のよう一人で椅子に腰掛けて、大人しい背もたれと化す。
そりゃあ私は、そうしてくれた方が楽でいいけど。
「ちょっとずつ動いたほうがいいって、ノスリヴァルディが言ってたのに…」
目一杯寄りかかったまぶすくれていると、顰めっ面を抓まれた。
むにー、と頬を引っ張ってくる指をはたき落とせば、宥めるよう頭を撫でてくる。
誤魔化されないぞ…。
「手を退けて!」
それ以上は怒るわよ…と、脅しつけるよう言ってようやくしっかりと腰へ回されていた腕が離れる。横向きに座らされていた膝から下りてすぐ隣りの椅子へ移れば、往生際悪く後ろ髪を引かれた。
丸いティーテーブルへ頬杖ついたリーヴは、まるで「戻って来い」とでも誘いかけるよう髪に絡めた指を動かす。
「ついに逃げられたんですか?」
ティーセットを持ってきたビューレイストにそう言われると、今度はリーヴが顰めっ面になる番だ。
「ビューレイストも一緒に飲む?」
「お望みとあらば」
「お前、仕事はどうした」
「急ぎの分は終わってますよ、勿論」
三人分のお茶と、私だけが手を付けるお菓子をテーブルに広げ、ビューレイストはリーヴの正面――私の右隣――に陣取る。
両手に花ってやつだろうか、これは。
「たまにはリーヴが交代すれば?」
「それはさすがに…いくら寵姫の『お願い』でも私が心労で倒れます」
「ふぅん?」
「あとで八つ当たりされるのも嫌ですしね」
四六時中一緒にいるからまぁいいや――と。ビューレイストとばかり話して放っておくと、そのうちリーヴは椅子ごとにじり寄ってきて私の髪を弄り始める。
横からやって、変に歪んだ仕上がりになったりしないのだから器用なものだ。
「あ、これ美味しい」
「寵姫は酸味のある果物が好きですね」
「んー…そうなのかな。結構な甘党だと自分では思うんだけど」
「それは加工品ですから」
「…元々酸っぱい果物を甘くしたのが好きってこと?」
「明日は手を加える前のものを持ってきましょう。食べ比べてみては?」
「そういえばジャムになってないそのものは食べたことないかも。うん。――楽しみにしてる」
「はい」
一頻り話した後でビューレイストが仕事に戻ると、会話が途切れる。これといって話すことがないというわけでもないけど。沈黙が苦ということもない。
リーヴが手を付けなかったカップにミルクと砂糖を流し込みぐるぐるとかき混ぜているうち、なんだか眠たくなってくる。
小さなテーブルに頬杖ついてぼんやりしていたら、欠伸が零れ落ちる前にリーヴが席を立った。
断りもなく抱き上げられるのは予想通りの展開で、特に驚くほどの展開でもない。二人してバルコニーから引っ込んで、私一人がソファーで昼寝だ。そういうお約束。
体の隅々から力を抜いてリーヴへ寄りかかると、それはもちろんとても楽なことだった。気持ちがいい。
「ちょっとだけ」
「あぁ」
「すぐ起きるから…」
「おやすみ」
こういう甘やかしが私を駄目にしているのだといういうことは、ちゃんとわかっていた。
***
「なにこれ酸っぱいっ…」
「甘いものもありますよ。品種によって違ってきます。――こちらをどうぞ」
「……あ、これは甘い」
「寵姫にお出しすると話したら厨房が用意してくれました。普通ここには、加工用のものしかないんですけどね」
「なんでこんなに違うの?」
「それはまぁ、そういう種類だからとしか言い様がありません。品種改良してあるんですよ。加工用のものはどうせ砂糖と混ぜますから。それ自体に甘さは必要とされないんです。生食用の方は色が鮮やかで粒も揃っているでしょう? 味と同じくらい見栄えも重要なんです」
「全部美味しくすればいいじゃない」
「加工用のものは、その分早く成長するし虫にも強いんですよ。あまり欲張りにはできないんです」
「ふぅん…」
「あとで農園の方へ行ってみては? 面白いかもしれませんよ」
「摘み食いしに?」
「歩き回れば腹ごなしにもなりますし」
***
「――ノスリヴァルディ?」
「あら、姫さま。どうしたの? こんな所で」
「散歩。ノスリヴァルディこそ、治癒士なのに畑仕事するの?」
「あぁ。これはね、薬なのよ。ぜーんぶ薬草。だからあたしが管理しておかないと」
「へー」
「あの辺りにあるのはハーブだから、姫さまにも分かるかしら? お茶の時間用にって、ビューレイストにも分けてあげてるのよ」
「ハーブ…カモミールとか?」
「カモミールも、ローズも、ミントも、タイムも、ラベンダーも。なーんでもあるわよ。この季節じゃ本当は手に入らないような花も、一緒に育てられない苗も、ここは土も水も特別なものを使っているから」
「…便利ってこと?」
「とーっても。本当はね、種を撒いてしまった後は放っておいても大丈夫なくらいなのよ。それでも手をかければかけてあげるだけいいものができるんだけど」
「あぁ、そろそ夜の時間よ。戻りましょ、姫さま」
「夜の時間?」
「ここでは四刻ごとに昼と夜が変わるの。つまり、一日二回は昼か夜があるってことね。明日は外が昼間のうちに来てもここは夜だから、気をつけるのよ」
「どうしてそんな風になってるの?」
「毎日が早く過ぎたように勘違いさせて普通より早く収穫するためと、夜しかできない作業が昼間にできるように。慣れれば便利なのよ」
「ふぅん…」
***
ドワーフが管理しているのです。
「林檎とかどうやって採るの?」
「積み上がって」
「……あぁ…」
***
「馬だ!」
「乗れるかなぁ」
「よっぽど機嫌を損ねなければ、落とされるようなことはないだろう」
「――失敬な。この私が姫君を落としたりなどするものか」
「…馬って喋るの?」
「ここに真当な馬なんていやしないよ、姫さま。みーんなユニコーンさ。今は昼間だからこうして化けているけどね」
「凄い!」
「姫さまのためなら鞍くらいどうってことないさね」
「…現金な奴らだ」
「リーヴは?」
「こいつらは男を乗せん。城の中を走るくらいなら危険もないさ」
「わかった」
「さぁ姫さま、行きますよ」
「うん!」
「――女性に変わられればよかったのでは?」
***
城壁の内側を一周りして戻ると、リーヴは地面に伏せたユニコーンの一頭へ寄りかかるようにして青草の上へ座り込んでいた。
「リーヴ!」
呼びかける前から私の方をずっと見ていて、声をかけ手を振るとひらひら振り返してくれる。
「今度遠乗りに行こうよ、姫さま。朝から晩まで一日中、ウトガルズの果てまでだってあたしとなら楽しいよ!」
「そうね!」
「楽しかったか?」
「とっても!」
「そうか」
「ねぇ、今度は遠乗りに行かせて。今日じゃなくてもいいから!」
「ビューレイストに暇があればな」
「…リーヴは一緒に来てくれないの?」
「ウトガルド・ロキ。意地悪はよくないよ」
「何の話?」
「姫さま、姫さま。一生懸命お願いするんだよ。姫さまには逆らえないんだから」
「お前…分かって言ってるのか?」
「何を?」
「だから…」
「姫さまがんばってー」
「どこ行くの?」
「寝室」
「…疲れてないよ?」
「ユニコーンは乗り手に負担をかけないからな。…女しか乗せないというのが玉に瑕だが」
***
下ろした私をそのままベッドの奥まで押し込んで、カーテンを閉ざしてしまう。
リーヴは「つまりな」と、片手で私の視界を遮った。
「お前が私に要求しているのはこういうことだ」
その、声質の変化に気付く。
***
綺麗な女の人だ。
「美人…」
「…ビューレイストと大差ないはずだが」
「ぜんぜん違うよ…」
触れ合った唇の柔らかさだって違っている。素肌を這う指の細さや抱きしめられた時の感触だって、全然。
「こっちの方が気持ちいい…」
「おい」
「だってぇ…」
***
「聞いてよビュー! リーヴの方が胸大きいのよ!」
「女になって見せたんですか? 甘やかしも大概ですね。
あと寵姫、胸の大きさは調整できますよ」
「そうなの!?」
「できないと不便じゃないですか」
「…出来ないのが普通だと思う」
「それはまぁ、巨人に生まれた特権というやつですね。姿形の偽装は十八番です。なにせ、誰でも生まれながらに二つの姿を持つ種族ですから」
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