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 暗い夜道。
 女の一人歩き。

 そんな場面(シーン)から始まる話はありがちだ。
 この物語も例に漏れず、独り身の女性が歩き慣れた帰路の途中で抗い難い「運命」との邂逅を果たすようなテンプレ通りに動き出す。

 女の名は栞菜(かんな)。足の付根にまで届くほど長く伸ばした癖のない黒髪を結うこともせず背中へ流し、颯爽と歩くさまがいかにも「凛」として人目を惹く、生き物が呼吸するほどには自然と美しく在るような女性だ。
 黒水晶の瞳を囲う目の輪郭は切れ長で、射抜くような視線が意思の強さを匂わせる。
 化粧っ気もないのに抜けるよう白い肌と紅を刷いたが如く赤く色付いた唇に、同性でさえ嫉妬よりも強く羨望の念を抱く。まるで絵に描いた令嬢がカンバスの中から飛び出してきたか、腕利きの人形師が丹誠込めて仕上げた極上の人形が魂を得て動き出したかのよう、完成された美しさを持つ女性。
 そんな栞菜が出会す「運命」もまた、常人とは相容れない――いわば、別次元の――美しさを生まれ持つ男だ。
 金髪碧眼。
 栞菜が極東に暮らす倭人(わじん)の典型なら、その男は西大陸に暮らす徒人(ただびと)の典型だった。
 二人が出会したのは、倭(やまと)。
 この場では男の方が「異邦人」ということになる。
 道端で蹲る見ず知らずの男へ栞菜が声をかけるには、それくらいの理由が必要だった。

「あなた、死ぬわよ」

 まるで天気の話でもするよう、軽く、栞菜は血塗れの男へ告げる。
 さもありなん。倭は有史以来、その閉鎖性にかけては東大陸並の島国だ。人工島との交流で外界の情報は湯水の如く入ってくるが、生身の人は輸入品目に含まれない。いるはずのないもの、あるはずのないもの、いてはならないもの、あってはならないものにとって倭の環境は過酷としか言いようがない。
 道端に血塗れの男が蹲っていても「異邦人だから」と、ただそれだけの理由で納得できてしまうほどには物騒な場所。それが栞菜の知る倭という国で、その認識は正しい。
 かといって、倭に暮らす誰もが出会い頭に問答無用で殺そうとするほど異邦人を生理的に受け付けないのかといえば、そうでもない。少なくとも栞菜は違うし、栞菜の知り合いの中にも、そこまで極端な鎖国民は片手で数えられるほどしかいなかった。
 けれどそもそも、入るな、と言われてる場所に入る方が悪い。
 何事も「自己責任」が基本の国で育った栞菜はそんな風に考えながら、傍目から見てどう控えめに表現したところで「死にかけている」男の前にしゃがみ込む。うっすら開いた瞼の向こうでゆらゆらと揺れる硝子玉のように透き通った目の動きを少しの間追いかけてから、ようやく、己の過ちに気付いた。
 月明かりで落ちる濃色の影が波立って、栞菜にそれを教えた。

「あら」

 その男は異邦人ではなかった。

「あなた、妖なのね」

 その男は徒人でさえなかった。
 倭ではさして珍しくもない妖(あやかし)の一匹。それが男の正体で、ある意味異邦人以上に道端で死にかけていたとしてもおかしくない存在だ。倭人離れした容姿にも説明がつく。そもそも「人」でさえないのだから、目に見える器(ようし)だけでその本質を測ろうというのも馬鹿げた話だった。
 人外(それら)は本来、傷付けて血を流す肉体(からだ)なんてもの、端から持ちえない存在(もの)だ。
 そうとわかれば。
 栞菜はいかにも機嫌良くにんまりと笑い、足下の影を見た。

「真神(まがみ)」

 次の瞬間、男の姿は消えている。

 もちろん、栞菜が男を己の影に棲まう妖狼に喰らわせた…などという非情な結末の話ではない。
 目に見える《表》の世界から姿を消した男は、栞菜が使役する《式》――大口真神(おおぐちまがみ)――の《領域》へと収容されていた。
 そうすれば、男を単純に「荷物」として考えた場合の重さや嵩は考える必要がない。栞菜はそれまでと変わらず手ぶらのまま、仕留め損ねた獲物を追って徘徊している|かもしれない(・・・・・・)「何か」のことを気にする必要もなく、何食わぬ顔で歩みを再開することができた。
 それから三十分ほど歩いた先に、栞菜の仮住まいはある。
 単身者向けの小さなアパート。三階建ての最上階。階建を上がりきった先に伸びる廊下の突き当たり。五つ並んだ一番奥の扉が、栞菜が借りている部屋のものだった。
 何の変哲もない金属の鍵で錠を開け、何事も無く帰宅した栞菜は真先に浴室へと向かい、真神に男を出すよう言いつけた。
 《式》である真神が主人(かんな)の命令に逆らうようなことはない。
 瞬き一つする間に姿を現した男は相も変わらず満身創痍。死にかけていて、その状態は栞菜にとって酷く都合が良かった。
 ぐったりと目を閉じた男の額へ手を当てて、栞菜は力ある言葉を掠れるほどほんの少しの声で囁く。それは大抵の妖にとって忌諱すべき呪縛で、要は「命を助けてやるから下僕になれ」というようなことを栞菜は言い、弱り切った男の心臓を言葉の鎖で雁字搦めに縛り上げた。
 妖を弱らせて下すというのは、《式》を手に入れるにあたって真当な手段。乱暴な言い方をすれば、死にかけの妖を運良く見つけ《式》へと下す術を知ってもいた栞菜の正当な「権利」だ。
 男の弱り方から見て、失敗などありえない。
 そう確信していた栞菜は正しく、契約は不備なく結ばれた。
 それまでは真神だけのためにあった力の流れが目の前の妖にも向かい始めたのを感じ、栞菜は浴室を後にする。
 充分に力(えさ)さえ与えておけば、放っておいても勝手に最適化(かいふく)する。妖とはそういうものだと、真神との付き合いもそれなりに長い栞菜は知っていた。


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 目覚めると、そこは見慣れた部屋の中。抱きしめて眠ったはずの温もりはなく、闇色の硝子に映る私一人きり。
 普段と何一つ変わることのない朝だった。

「…うそつき」

 主(オーナー)の目覚めを感知して、透明な硝子のあちらこちらに《窓》が開く。時計と今日のスケジュールと、あらかじめ指定してあったニュース番組。
 時間はいつも起きるより少しだけ早かった。

「インフォメーション」
〈コンタクト〉

 独り言よりは少し大きいくらいの声で囁くと、指向性のスピーカーからすぐに返事が会った。それもいつものとおり。

「今日の天気は?」
〈人工島全域にわたって降水予定はありません〉
「…次の雨は?」
〈二日後の深夜に環境調整のためナノマシン散布を予定しています〉
「クローズ」
〈切断します〉



---



 身支度をしようと、鏡の前に立って初めて事の重大さを知った。鏡に映る自分の姿を一目見て。
 黒髪黒目。昨日まではこれといって目立つこともない彩色だったのに。今日の私の瞳は鮮やかなアイスブルーに染められていた。

「アル…」

 夢の竜と同じ色。
 好きに呼べ、と言われてその通りにした。たった二つの音で喉を震わせた途端、胸の奥に生まれる熱がある。見過ごすことができない程の、強い熱。それは夢の中で美しい竜に名前を付けた時と、まるで同じ。だから期待してしまっていた。

「姫榊」

 胸を押さえ蹲る私を、いるはずのない「誰か」の腕が引き寄せる。真後ろへ。
 尻餅をつくと思った体は、あまりに易々と抱きあげられた。

「姫榊」

 抱き上げたのは見たこともない男だった。青みがかった銀髪の、美しい。

「ようやくお前の全てに会えた」

 青く凍りついたような色の目をした男。
 交わる視線は鏡越し。絡めとるよう抱きしめられながら。見間違え様のないほど熱の込もった目を向けられ、顔が火照った。

「アル、なの…?」
「あぁ」

 これが夢なら、もう覚めなくていい。



---



 代わり映えしない「日常」は壊れた。
 さて次は?

「ここはエーテルが濃いな…」

 感慨深く言ったアルに、それはそうだろうと思う。ここは人工島だ。世界を二つに分ける魔術的境界線の始まりと終わりの場所。世界で唯一この場所だけに、エーテルは正しく存在する。――そう、私たちは教わった。

「アルはどこからきたの…?」



---



 さて次は?

「あっ…」

 アルに触られていると、胸の奥に生まれた熱がじくじくと疼いた。痛みとは違う。だからといって優しくもない感覚に離してほしくて頭を振った。背中から抱きしめるアルとの間に少しでも冷静になれる距離が欲しくて。身を捩る。

「はなして!」

 アルの腕はあっけないほど簡単に外れた。

「私に何をしたの!?」

 もどかしい疼きが治まると、今度は妙な焦燥が私を苛んだ。どうにか紛らわそうと頭を振ってもどうにもならない。喉の奥から叫びだしたいくらいの衝動がせり上がってきて、苦しさはどちらにしろ変わらなかった。
 私を見つめるアイスブルーの目だけが変わらない。

「お前は俺に名を付けた。その声でもって存在を定め、縛り、そして――」

 どちらがいいか、なんて決められなかった。どちらも最低。「マシ」な方さえ選べないくらい。触れられていても、触れられていなくても同じくらい苦しかった。

「お前は俺を手に入れた」

 捕まったのは私だと、腕の中へ連れ戻されて悟る。たとえ夢の中であろうと人外への「名付け」なんて行うべきではなかった。それが時としてどれほどの意味を持つか、人工島で生まれ育った私は知っているはずだったのに。
 「それでもいい」と、思うだなんて。

「お前はもう一人でないよ」

 艶やかに笑うアルの前に、代わり映えしない「日常」は脆くも崩れた。
 あとはきっと、どこまでも落ちていくばかり。



---



 胸の疼きはしばらくすると落ち着いた。それまで私のことを抱きしめたまま、ずっと傍にいてくれたアルは、熱の在処を探るよう肌蹴させたシャツの胸元をなぞる。

「くすぐったい…」

 その頃にはもう、すっかりアルとの接触には慣れきってしまっていた。

「お前が魔術師であれば、もっと早く馴染んだのだろうがな」
「馴染む…?」
「俺のマナが、お前の体に」
「マナ…」

 《マナ》。それは、人間以外の魔力を持った生き物にとっては心臓と同じ意味を持つものだ。竜族にしろ妖にしろ、彼らはそれを人へ渡すことによって命を繋ぐ。契約を、結び。
 人へと己に近い寿命を与える。

「正気なの」

 それは取り返しの付かない契約だ。《マナ》を持った人が死ねばその持ち主さえも道連れにされる。そんなことをしなければいつまでだって生きられるのに。

「マナを渡すということの意味は知っているんだな」
「あなたの命なんて背負えない…!」
「もう手遅れだ」

 なんて非常識で身勝手な竜だ。信じられないくらい。
 双方の合意なく契約が交わされるなんて聞いたこともない。

「お前が現れなければ、俺はあのまま緩やかに死んでいただろう…だが、お前と出会ってもう少し生きたくなってしまった。だからお前が責任をとれ」

 なんて傲慢な男だ。

「だいたいあなた、どこから来たの」



---



 床に直接置いた枕とくしゃくしゃになったタオルケットが唯一の生活感と言っていいくらいの、何もない部屋だった。寝に帰っているだけの、だけどこの人工島で生まれ育ったのだから仕方のないことだと思っている。ここではIDさえあれば、ほとんどなんだってできてしまうのだから。

「同じだな」

 アルの言わんとすることは、なんとなく理解できた。「同じ」というか、「似ている」のだ。この部屋は。アルと私が出会ったあの場所に。

「妙な気分だ」

 どうしてアルは、あんな場所に蹲っていたのだろう。

「…気になるか?」

 ちょっとした身長差。隣に並んで立たれると、私はアルを見上げなければならなかった。

「俺は閉じ込められて、閉じこもっていた。役目を終えた竜の末路だ」



---



「アル」

 知りもしない名前は、初めからわかりきっていたようするりと口をついて出た。

「(いいだろう)」

 竜は頷く。細められた目の奥に揺れたものの正体を知りたくて一歩近付くと、それからの距離は竜の方から詰めてきた。頤を床へこすりつけるよう頭を下げて。何もかもを明け渡すよう目を閉じてしまう。

「アル」

 けれど呼べばまた目を開けて。

「(お前の名は?)」
「姫榊」
「(姫榊)」

 話す言葉に音はない。


「(目覚めろ)」


 そのたった一言で雷に打たれたよう目が覚めた。するとそこは見慣れた部屋の中。飛び起きた体からずり落ちていくタオルケットを手繰り寄せても、醒めた夢は戻らない。

「…うそつき」

 私にくれると言ったのに。
 丸めたタオルケットを抱え込んだまま。横になり直すと、暗色の硝子に映る自分と目が合った。硝子の向こうは内海で、まだ夜が明けていないからだろう。そこには明るさの欠片もない。「海」とは名ばかりの水溜りは、外の明るさに合わせて光を帯びるのが常だった。そういうもの。海中にある居住区ではそうでもしないと実感として昼夜の別が分からなくなってしまうから。そして内海に満たされたアクアは、朝焼けの色を完璧なまでに再現する。
 窓の外がすっかり白んでから、ようやくのろのろと起きだした。硝子面に指先を触れさせて「ニュース」と囁けば、耳が痛くなるほどの静寂を落ち着き払ったアナウンサーの声が追いやった。開かれた《窓》の隅に目をやると、起きるにはまだ随分と早い時間。それでももう眠れるような気はしなかった。どうせ同じ夢は見られない。

「スケジュール」

 今度は上向けた手の上に《窓》が開いて、そこには今日の予定が時間通りに整理されていた。授業が三つ。だけど時間はどれも遠い。一番早いものでも数時間後だ。教室まではこの寮から歩いたって三十分もあれば充分すぎる。
 手の平を閉じると、握り潰されるようくしゃりと丸まり《窓》は消えた。

「だから一人がよかったのに」



---



 冷たくも、温かくだってない。寝慣れた床に押し倒されて思わず喉がひきつった。

「ア、ル!」

 両手は頭上。片方ずつ掴まれていた手首は簡単に一纏めにされ、緩いシャツの裾を捲り上げられる。

「なにする気!?」
「お前が考えている通りのことだろうな」

 一人で余裕そうな態度がやたらムカついた。

「…足グセが悪いな」

 膝から蹴り上げた足を避けるよう、落とされたアルの体が密着してきて。身を捩ることさえままならなくなる。
 非難を告げようと開いた口まで躊躇いもなくあるは塞いだ。

「あまり暴れると痛くするぞ」
「やめるっていう選択はないわけ…」
「お前が俺を心底嫌っているなら手も出さないがな。そうでないことは明らかだ。マナがお前の中にある以上、それくらいのことは分かる」

 濡れた唇を舐めて笑う。アルの指先が触れたのは、丁度心臓の真上辺り。
 そこに《心》があるのだとでもいわんばかりの、まるで慈しむような触れ方だった。

「それとこれとは話が違う!」
「同じことだよ」

 たとえアルの言う通りなのだとしても、勢いで雪崩込むようなやり方は違う気がする。確かに出会いは奇跡的で、運命もきつく絡まり合ってしまったけど。

「お前は俺を愛するだろう。俺がお前を愛したように」

 結末が同じなら過程はどうだっていいなんて、そんな風には思いたくなかった。



---



 解けた手は背中に回って、もう一方の手と力の抜けた体を抱き起こした。
 膝の上に跨るよう座らされ、乱れてしまっただろう髪に擦り寄るよう頬を寄せてくる。アルの手は、さっきまでの強引さが嘘のようにさり気なくシャツの裾を元に戻した。

「いいさ…」

 なだめるよう背中を行ったり来たりする。手の平は、私にとってもう安全なのだと分かった。目の前の肩へ顎を乗せるよう体をすっかり預けても、不安はない。
 私の中に《マナ》があるからと、そう言ったアルの気持ちも分かるような気がした。きっと、こういう感覚なのだろう。理解よりも直感に近い。

「お前に嫌われたくはない」

 アルは言った。それでも結末は変わらない。だから私の望む通りにしてくれるのだと、言うほど押し付けがましくもない風に。

「だが、唇は拒んでくれるなよ」

 だからだろうか。断りをおいての触れ合いは、なんともなしに心地良かった。

「こうして触れることも」
「うん…」

 それがアルの精一杯なら、私も譲歩すべきだろうと思う。何より単純でいて表面的な触れ合いは、私にとっても心地良かった。落ち着いて、穏やかな気持ちになれる。
 それも抱き込んだ《マナ》の影響なのだろうか。

「お前は俺のマナを受け入れた。本質的に俺はお前に逆らえず、お前を傷付けようとするものに容赦しない」
「だから…?」
「遠からず、お前は手に入れたものの意味を知ることになるだろう」

 アルの語り口はあくまで穏やか。抱き竦めるよう回された腕も大人しく優しいままで、告げられた真実の意味なんて私は半分も理解できていないに違いなかった。それでもなんとなく想像することはできる。私は人工島に生まれた人間だから。
 「力」の意味は知っていた。





 一通りのことが終わると、参はあっけなく女に戻って甲斐甲斐しく叶の世話を焼いた。
 元が自動人形なので、女だからといって同じ体格の同性一人抱え上げるにも苦労はしない。叶があてつけがましくぐったりと脱力していても、難なく身奇麗にしてしまう。
 新しい服を着せられた叶はソファーに下ろされ、カップ一杯のコーヒーを両手に持たされる。その時ようやく、自分がまだ朝食も食べていないことに気付いた。
 端末で確認すると、時計の針は二時を回っている。
 午後だ。

「おなかがすいた」

 待っててね、とばかり。参は叶の頭をひと撫でしてキッチンに向かう。
 体のあちこちが痛んで立ち上がる気も起きない叶は、大人しく朝食だか昼食だかおやつだかわからない食事が出来上がるのをソファーで待った。
 ちびちびと飲むコーヒーがカップの中程まで減る頃には、トレーに乗せたハムエッグと焼きたてのパンが差し出される。
 朝食だ。



 なんて可愛気のない自動人形(ドォル)だろう。
 そう思って、叶(かのう)は磨き上げられた宝石のように黒々と輝く参(サード)の瞳をぺろりと舐めた。
 舐められた方の参といえば、人形らしくソファーへ押し倒されたまま。身動ぎ一つすることなく、両目を開いて叶を見つめている。
 硝子玉の瞳は鏡のよう、参のマスターである叶を映した。
 自動人形である参には、瞬きをする必要がない。叶に抱きしめられると、参は決まって精巧な自動人形(ドォル)であることを放棄した。人の真似事としての瞬きをやめ、呼吸さえ止めて。それこそただの機械人形――あるいは単なる人形――のよう振る舞い、脱力し、叶のなすがままになる。
 そんな参が、叶は憎たらしくてならない。
 それでも手放せないくらいには、どうしようもない参(おにんぎょう)をたまらなく愛していた。

 参(サード)・ナンバーズは、叶が名前の次に親から貰った人形だ。
 貰った、というのは正しくない。叶をマスターとして選んだのは参自身だ。そのくせ瞳の色を叶と同じ金に染めようとはしないのだから、矛盾している。主人を選んだ証明に瞳を主人の色に染めるのは、《ナンバーズ》として作られた自動人形が備える標準的でいて基本的な機能であるにも関わらず…だ。言うなれば、参は初期設定を終わらせないまま稼働した挙句、ちょいちょいフリーズをおこす不良品。製作者である叶の父――プペ――さえ匙を投げた欠陥人形だ。

 それでも、参が叶に応え動き出した事実は変わらない。変えようもなかった。だからこそ、叶は参を愛している。参は叶だけの自動人形だ。
 けれど。ともすれば、あらゆる自動人形を正しい主人と引き会わせる《鍵(クレ)》の導きによって引き離されてしまう可能性もなくはない。なにせ、参は未だ叶を正当な主人と認めていないも同然の振る舞いを平然と続けている。その瞳へ叶の色を宿さずに。


 とりあえずの満足が得られるくらい血を吸って、にやにやしていた気分の良さから一転。
 がしりと腰を抱かれ、ベルーフは目を白黒させた。

「うぇっ!?」

 きょどった。

「やっ、ちょっ…なに!?」
「お姉さん、吸血鬼?」
「そうだけどっ…」

 まさか、ついさっきまで死にかけていた雅人に熱烈な抱擁を食らうとは思ってもみない。
 抵抗しようにも、壊してしまってはせっかくの「食料」が台無しなので力加減が難しい。

 あうあう。

「俺のこと助けてくれたんだ?」

 慌てふためきながらも、間違ったことは言われていないのでベルーフは頷いた。

「ふぅん?」

 あれぇ…と、そこでようやく雲行きの怪しさに気付く。
 両手でぎゅうと華奢な魔性を抱き竦め、その目を上目遣いに覗き込みながら。己の見舞われた不条理に激怒したとしておかしくもないだろう青年は、まるでついさっきまでのベルーフのよう満面の笑みを浮かべている。

 なにこの子、怖い。
 ベルーフは背筋を震わせた。

「美味しかった?」
「へっ?」
「俺の血。夢中で吸ってたよ、お姉さん」
「あ、うん…」




 十一年という歳月は人の記憶を劣化させるのに充分で。なんとも投げやりにまぁいいか、と己の運命を敷かれたレールの上へ横たえてしまえるほどに長かった。
 私はジニー・ウィーズリー。今年ホグワーツ魔法魔術学校に入学する、ウィーズリー家唯一の女児だ。つまり長女。ただし上から数えて七番目。

「汽車が出るわ。急いで!」

 今更新鮮味も何もなく。六人の兄たちへそうしたよう、両親は私を送り出した。
 九と四分の三番線。ホグワーツ最寄りのホグズミード駅へと直行する、真紅の機関車の中へ。

「行ってきます。ママ!」

 別れを惜しむ間もなく出発した特急は、ぐんぐんスピードを上げキングス・クロス駅を離れた。

「ロン兄さんとハリーは?」
「さぁな」
「ギリギリ滑り込んでるだろ」

 座れるコンパートメントを探して混み合った通路を進む双子な兄の後ろをついて歩きながら。


---


「兄さん」
「「なんだい、妹よ」」
「ホグワーツ特急に乗り遅れたらどうなるの?」

 兄たちは、瓜二つな容貌を見合わせて笑った。

「妹よ」
「「それはそれは楽しいことになるだろう」」

 それは、笑いごとじゃない。




(トラブルメーカーは誰だ/末姫。いやなよかん)

 退屈な家を飛び出して、
 深い森を抜け、
 走る。走る。走る。

 名立たる迷宮(ダンジョン)を素通りし、
 数多の魔物たちを袖にして、
 遠く、遠く、《果ての森》まで。

 イアールンヴィズに暮らす狼(ヴァナルガンド)たちの長(おさ)は漆黒の魔物だった。
 金の目をした黒い狼。
 この上は無いだろうという程に、気高い獣。

 その姿は美しく、
 瞳もまた輝かしいばかり。
 その声の凛々しさと、
 眩いほどの力に魅せられた。

 注がれる眼差し。
 与えられる優しさ。
 抱き締められた腕の温もり。
 意地悪な微笑み。

「…また来たのか、お前」

 きっと許されない、恋をしていた。

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