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 目覚めると、そこは見慣れた部屋の中。抱きしめて眠ったはずの温もりはなく、闇色の硝子に映る私一人きり。
 普段と何一つ変わることのない朝だった。

「…うそつき」

 主(オーナー)の目覚めを感知して、透明な硝子のあちらこちらに《窓》が開く。時計と今日のスケジュールと、あらかじめ指定してあったニュース番組。
 時間はいつも起きるより少しだけ早かった。

「インフォメーション」
〈コンタクト〉

 独り言よりは少し大きいくらいの声で囁くと、指向性のスピーカーからすぐに返事が会った。それもいつものとおり。

「今日の天気は?」
〈人工島全域にわたって降水予定はありません〉
「…次の雨は?」
〈二日後の深夜に環境調整のためナノマシン散布を予定しています〉
「クローズ」
〈切断します〉



---



 身支度をしようと、鏡の前に立って初めて事の重大さを知った。鏡に映る自分の姿を一目見て。
 黒髪黒目。昨日まではこれといって目立つこともない彩色だったのに。今日の私の瞳は鮮やかなアイスブルーに染められていた。

「アル…」

 夢の竜と同じ色。
 好きに呼べ、と言われてその通りにした。たった二つの音で喉を震わせた途端、胸の奥に生まれる熱がある。見過ごすことができない程の、強い熱。それは夢の中で美しい竜に名前を付けた時と、まるで同じ。だから期待してしまっていた。

「姫榊」

 胸を押さえ蹲る私を、いるはずのない「誰か」の腕が引き寄せる。真後ろへ。
 尻餅をつくと思った体は、あまりに易々と抱きあげられた。

「姫榊」

 抱き上げたのは見たこともない男だった。青みがかった銀髪の、美しい。

「ようやくお前の全てに会えた」

 青く凍りついたような色の目をした男。
 交わる視線は鏡越し。絡めとるよう抱きしめられながら。見間違え様のないほど熱の込もった目を向けられ、顔が火照った。

「アル、なの…?」
「あぁ」

 これが夢なら、もう覚めなくていい。



---



 代わり映えしない「日常」は壊れた。
 さて次は?

「ここはエーテルが濃いな…」

 感慨深く言ったアルに、それはそうだろうと思う。ここは人工島だ。世界を二つに分ける魔術的境界線の始まりと終わりの場所。世界で唯一この場所だけに、エーテルは正しく存在する。――そう、私たちは教わった。

「アルはどこからきたの…?」



---



 さて次は?

「あっ…」

 アルに触られていると、胸の奥に生まれた熱がじくじくと疼いた。痛みとは違う。だからといって優しくもない感覚に離してほしくて頭を振った。背中から抱きしめるアルとの間に少しでも冷静になれる距離が欲しくて。身を捩る。

「はなして!」

 アルの腕はあっけないほど簡単に外れた。

「私に何をしたの!?」

 もどかしい疼きが治まると、今度は妙な焦燥が私を苛んだ。どうにか紛らわそうと頭を振ってもどうにもならない。喉の奥から叫びだしたいくらいの衝動がせり上がってきて、苦しさはどちらにしろ変わらなかった。
 私を見つめるアイスブルーの目だけが変わらない。

「お前は俺に名を付けた。その声でもって存在を定め、縛り、そして――」

 どちらがいいか、なんて決められなかった。どちらも最低。「マシ」な方さえ選べないくらい。触れられていても、触れられていなくても同じくらい苦しかった。

「お前は俺を手に入れた」

 捕まったのは私だと、腕の中へ連れ戻されて悟る。たとえ夢の中であろうと人外への「名付け」なんて行うべきではなかった。それが時としてどれほどの意味を持つか、人工島で生まれ育った私は知っているはずだったのに。
 「それでもいい」と、思うだなんて。

「お前はもう一人でないよ」

 艶やかに笑うアルの前に、代わり映えしない「日常」は脆くも崩れた。
 あとはきっと、どこまでも落ちていくばかり。



---



 胸の疼きはしばらくすると落ち着いた。それまで私のことを抱きしめたまま、ずっと傍にいてくれたアルは、熱の在処を探るよう肌蹴させたシャツの胸元をなぞる。

「くすぐったい…」

 その頃にはもう、すっかりアルとの接触には慣れきってしまっていた。

「お前が魔術師であれば、もっと早く馴染んだのだろうがな」
「馴染む…?」
「俺のマナが、お前の体に」
「マナ…」

 《マナ》。それは、人間以外の魔力を持った生き物にとっては心臓と同じ意味を持つものだ。竜族にしろ妖にしろ、彼らはそれを人へ渡すことによって命を繋ぐ。契約を、結び。
 人へと己に近い寿命を与える。

「正気なの」

 それは取り返しの付かない契約だ。《マナ》を持った人が死ねばその持ち主さえも道連れにされる。そんなことをしなければいつまでだって生きられるのに。

「マナを渡すということの意味は知っているんだな」
「あなたの命なんて背負えない…!」
「もう手遅れだ」

 なんて非常識で身勝手な竜だ。信じられないくらい。
 双方の合意なく契約が交わされるなんて聞いたこともない。

「お前が現れなければ、俺はあのまま緩やかに死んでいただろう…だが、お前と出会ってもう少し生きたくなってしまった。だからお前が責任をとれ」

 なんて傲慢な男だ。

「だいたいあなた、どこから来たの」



---



 床に直接置いた枕とくしゃくしゃになったタオルケットが唯一の生活感と言っていいくらいの、何もない部屋だった。寝に帰っているだけの、だけどこの人工島で生まれ育ったのだから仕方のないことだと思っている。ここではIDさえあれば、ほとんどなんだってできてしまうのだから。

「同じだな」

 アルの言わんとすることは、なんとなく理解できた。「同じ」というか、「似ている」のだ。この部屋は。アルと私が出会ったあの場所に。

「妙な気分だ」

 どうしてアルは、あんな場所に蹲っていたのだろう。

「…気になるか?」

 ちょっとした身長差。隣に並んで立たれると、私はアルを見上げなければならなかった。

「俺は閉じ込められて、閉じこもっていた。役目を終えた竜の末路だ」



---



「アル」

 知りもしない名前は、初めからわかりきっていたようするりと口をついて出た。

「(いいだろう)」

 竜は頷く。細められた目の奥に揺れたものの正体を知りたくて一歩近付くと、それからの距離は竜の方から詰めてきた。頤を床へこすりつけるよう頭を下げて。何もかもを明け渡すよう目を閉じてしまう。

「アル」

 けれど呼べばまた目を開けて。

「(お前の名は?)」
「姫榊」
「(姫榊)」

 話す言葉に音はない。


「(目覚めろ)」


 そのたった一言で雷に打たれたよう目が覚めた。するとそこは見慣れた部屋の中。飛び起きた体からずり落ちていくタオルケットを手繰り寄せても、醒めた夢は戻らない。

「…うそつき」

 私にくれると言ったのに。
 丸めたタオルケットを抱え込んだまま。横になり直すと、暗色の硝子に映る自分と目が合った。硝子の向こうは内海で、まだ夜が明けていないからだろう。そこには明るさの欠片もない。「海」とは名ばかりの水溜りは、外の明るさに合わせて光を帯びるのが常だった。そういうもの。海中にある居住区ではそうでもしないと実感として昼夜の別が分からなくなってしまうから。そして内海に満たされたアクアは、朝焼けの色を完璧なまでに再現する。
 窓の外がすっかり白んでから、ようやくのろのろと起きだした。硝子面に指先を触れさせて「ニュース」と囁けば、耳が痛くなるほどの静寂を落ち着き払ったアナウンサーの声が追いやった。開かれた《窓》の隅に目をやると、起きるにはまだ随分と早い時間。それでももう眠れるような気はしなかった。どうせ同じ夢は見られない。

「スケジュール」

 今度は上向けた手の上に《窓》が開いて、そこには今日の予定が時間通りに整理されていた。授業が三つ。だけど時間はどれも遠い。一番早いものでも数時間後だ。教室まではこの寮から歩いたって三十分もあれば充分すぎる。
 手の平を閉じると、握り潰されるようくしゃりと丸まり《窓》は消えた。

「だから一人がよかったのに」



---



 冷たくも、温かくだってない。寝慣れた床に押し倒されて思わず喉がひきつった。

「ア、ル!」

 両手は頭上。片方ずつ掴まれていた手首は簡単に一纏めにされ、緩いシャツの裾を捲り上げられる。

「なにする気!?」
「お前が考えている通りのことだろうな」

 一人で余裕そうな態度がやたらムカついた。

「…足グセが悪いな」

 膝から蹴り上げた足を避けるよう、落とされたアルの体が密着してきて。身を捩ることさえままならなくなる。
 非難を告げようと開いた口まで躊躇いもなくあるは塞いだ。

「あまり暴れると痛くするぞ」
「やめるっていう選択はないわけ…」
「お前が俺を心底嫌っているなら手も出さないがな。そうでないことは明らかだ。マナがお前の中にある以上、それくらいのことは分かる」

 濡れた唇を舐めて笑う。アルの指先が触れたのは、丁度心臓の真上辺り。
 そこに《心》があるのだとでもいわんばかりの、まるで慈しむような触れ方だった。

「それとこれとは話が違う!」
「同じことだよ」

 たとえアルの言う通りなのだとしても、勢いで雪崩込むようなやり方は違う気がする。確かに出会いは奇跡的で、運命もきつく絡まり合ってしまったけど。

「お前は俺を愛するだろう。俺がお前を愛したように」

 結末が同じなら過程はどうだっていいなんて、そんな風には思いたくなかった。



---



 解けた手は背中に回って、もう一方の手と力の抜けた体を抱き起こした。
 膝の上に跨るよう座らされ、乱れてしまっただろう髪に擦り寄るよう頬を寄せてくる。アルの手は、さっきまでの強引さが嘘のようにさり気なくシャツの裾を元に戻した。

「いいさ…」

 なだめるよう背中を行ったり来たりする。手の平は、私にとってもう安全なのだと分かった。目の前の肩へ顎を乗せるよう体をすっかり預けても、不安はない。
 私の中に《マナ》があるからと、そう言ったアルの気持ちも分かるような気がした。きっと、こういう感覚なのだろう。理解よりも直感に近い。

「お前に嫌われたくはない」

 アルは言った。それでも結末は変わらない。だから私の望む通りにしてくれるのだと、言うほど押し付けがましくもない風に。

「だが、唇は拒んでくれるなよ」

 だからだろうか。断りをおいての触れ合いは、なんともなしに心地良かった。

「こうして触れることも」
「うん…」

 それがアルの精一杯なら、私も譲歩すべきだろうと思う。何より単純でいて表面的な触れ合いは、私にとっても心地良かった。落ち着いて、穏やかな気持ちになれる。
 それも抱き込んだ《マナ》の影響なのだろうか。

「お前は俺のマナを受け入れた。本質的に俺はお前に逆らえず、お前を傷付けようとするものに容赦しない」
「だから…?」
「遠からず、お前は手に入れたものの意味を知ることになるだろう」

 アルの語り口はあくまで穏やか。抱き竦めるよう回された腕も大人しく優しいままで、告げられた真実の意味なんて私は半分も理解できていないに違いなかった。それでもなんとなく想像することはできる。私は人工島に生まれた人間だから。
 「力」の意味は知っていた。




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