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 愛銃の弾倉とベルトポーチに詰め込んだ銃弾。
 銃器をディスプレイしていたガラスケースの裏側から引っ張り出してきた予備弾倉。



「あー、落ち着く」



 体に馴染むそれらの重さにリナは思わず表情を綻ばせた。
 傍目から見れば怪しいことこの上ない。

 そんな時、



「――リナ」



 不意に呼び止められた。
 振り向いたリナは声の主を目に留め立ち止まる。



「あ、おかえり雲雀」



 一方呼び止めた雲雀は、普段エキドナが好んで着る黒のロングコートに身を包むリナに軽い違和感を覚えた。
 本当に軽い、けれど軽視できない違和感を。



「・・・」
「どうかした?」



 何かが違う。



「脱ぎなよ、それ」
「へ?」
「エキドナのコート」



 何もかもが紙一重ですれ違う。



「似合ってない」
「酷っ」



 そんな、何とも言えない奇妙な違和感。
 二人で一人。他の誰とも違う彼女たちの存在に慣れきっている雲雀でさえも、もどかしくなる。



「だからさ、」



 いいから、早く。



「早く脱いでお茶でも淹れてよ」



 それを脱いで僕を安心させてよ、リナ。



「しょうがないなー」



 君は大人しくここにいればいいんだ。






























 どうか、どうかもういなくなってしまわないで。






























(似合わない、か)



 リナの裏側、その遣り取りを聞いていたエキドナは一人微笑む。



(そうさ、似合っていいはずがない)



 そして彼女が零した言葉は、表のリナにさえ届かず広がる闇に呑まれて消えた。



(私とリナは――)



 温かい二人の闇に。









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 外からの音が完全に遮断された室内に高めの金属音が落ちた。
 それまでの静寂に慣れきっていたリナはその音に顔を顰め体を起こす。

 覗きこんだベッドの下に、鎖の付いた銃弾が転がっていた。



「・・・」



 本来円を描いているはずの鎖はバラバラになり、その役目を果たしていない。
 普段首にかかっている重さを拾い上げ、リナは、どうしたものかと目を細めた。

 生憎、日本へは身一つで来ている。

 つい最近までいたイギリスの家ならルナに頼むなりなんなり、とにかくすぐに修理することも出来たのに。と、そこまで考えてはっとする。



「私は・・」



 もう、あそこに帰るべき場所はない。



「・・・」



 一度硬く握り締めた銀の銃弾を枕元に置きリナは宛がわれた部屋を出た。
 家の中に自分以外の気配はしない。だからもうそう早くない時間なのだと理解して、リビングの壁にかけられた時計を見上げる。



「三時・・」



 雲雀が帰ってくる前に着替えなければと、その時はそんな事を思った。










「しまった」



 持ち上げた愛銃の軽さに舌打ち一つ。
 かけた指を軸にそれを回しホルスターに押し込んだ。
 弾倉は空。ホルスターを吊っているベルトの後ろに付いたポーチは、何も入っていないと言わんばかりに潰れている。
 家を飛び出したときありったけの銃弾を詰め込んだ鞄は日本に入る直前空になり、ついこの間その中に紛れていた殺傷力のないゴム弾も使ってしまった。
 銀の銃弾を使うことは論外。たとえそれが使えたとしても、所詮無きの一発。



「落ち着かない」



 体の軽さに眉を寄せ思わずそう呟いたリナの脳裏を、ふと、よぎる物があった。



「――そうか、」



 どこにでもあるような住宅地にある、なんの変哲も無い一戸建て。



「あるじゃん、あそこに」



 考えるより先に、リナは部屋を飛び出した。






























「・・・・・ここか?」



 マンションを出る前にリナと代わっていたエキドナは、朧な記憶を頼りにたどり着いた家を前に一人呟く。
 ぱっと見違和感は感じないからそうなのだろう。――何の返事も寄越さない裏側のリナに不満を吐くでもなく、コートの内ポケットから白[シラ]んだ鍵を取り出すとそれを鍵穴に差し込んだ。
 ガチャリ。



「ビンゴ」



 確かな手応えと、開いた扉。
 取りあえずリナの弾だな。気付いてしまったが最後体の軽さと、それに伴う心許無さに引きこもってしまった片割れのためにそんな事を思いながら、エキドナは後ろ手に扉を閉めそこを施錠した。
 靴を脱ぐことはせず土足のまま上がりこみ、薄暗い廊下を迷わず進む。
 リビングの扉を通りすぎ、突き当りで左に向き直り、階段の下に作られた不自然なスペースを前に膝を折り軽く床を叩いた。



「秘密基地。だな」



 その空洞音に確信を持って、今度は強く二度。
 叩くというより殴るに近かったそれを受け弾ける様に開いた隠し扉と舞った埃に、エキドナは目を細める。
 開いた扉は50cm四方の正方形。その扉が閉じてしまわないよう片手で押さえながら、終わりの見えない暗闇に迷わず飛び込んだ。



「よっ」



 手の離れた扉が閉じる音が着地から一拍遅れて狭い空間に響く。
 音もなく明かりが灯った。



「フェイク」



 明かりの真下にあるいかにもな鉄の扉を一瞥し、エキドナは左手の壁に向き直るとその左側をゆっくりと押す。
 びくともしない壁に少し力を強めれば、二つ目の隠し扉は漸く道を開けた。

 正面の壁には一面の銃器。右手にはルナの集めた日本刀のコレクション。左手には赤の油性ペンで白々しく「危険」とかかれたこれまた鉄の扉。中央には飾り気の無いテーブルと椅子。










 最後に見たときと寸分変わらない光景がどこか可笑しかった。










「裏切り者が」
「そんな・・」



 向けられた銃口。



「ならば証明するか?」



 向けられた悪意。狂気。



「その身をもって」



 銃声。



「ッ――」



 風を切った影。



「バタ、フライ・・?」



 赤を侵す銀。



「私を庇ったの!?」



 伸ばされた、幼い――



「――楽しかったよ」



 蝶の手のひら。










「ありがとう」










 失われたラッシュ。






























 そこでいつも目が覚める。










「夢か・・・」



 白々しい程に明かりが灯された部屋に男が一人、女が一人、子供が一人。
 傍目にも高そうな椅子に座る男は立ち上がり女に銃を向ける。
 女は目を瞠り男は嗤った。

 引き金が見せ付けるように絞られる。

 銃声の轟いた次の瞬間、子供は女の前にいた。
 絶望に染まりかけた女の目に驚愕が浮かび、崩れ落ちる子供に思わず手を伸ばす。
 子供は、笑った。男とは違う穏やかな顔で。
 楽しかったよ、ありがとう。と、女に貰った自由の中で。

 たったそれだけの夢だ。



「・・・」



 それよりも凄惨な光景は厭きるほど見て来た。
 なのにその、たった一人の女を年端もいかない子供が助けたあの瞬間が、目に焼きついて離れない。

 自分と女を助け、男を殺す力を子供は持っていたのに、使わなかった。

 何故。と、エキドナは問う。
 それはね。と、リナはしたり顔で微笑んだ。



「楽しかったからだよ」



 楽しかったからこそ、もう、終わってもよかった。



「・・・理解出来ないな、私には」



 楽しかったからこそ、耐えられなかった。



「そう?」



 楽しかったからこそ、



「あぁ、」



 全てを、



「だからお前はやめてくれ」



 神の手に委ねた。










 必然という名の神の手に。










「制服でもないのに行ける訳ない。目立つの嫌い」



 その一言でリボーンの誘いを蹴り、リナは屋上を後にする三人を見送った。



「で、何してるの」



 背後には赤ん坊サイズの足場を用意する殺し屋。



「準備だ」



 答えになってない。零しかけた言葉を呑み込み壁を背に腰を下ろした。



「お前も来るか?」



 答えも待たず足場を下ろし始めたリボーンに、リナは軽く目を細め再び立ち上がる。



「見てる」
「そうか」



 肘を突いたフェンスに体重をかけ下を覗き込めば、三階の辺りで足場が止まるのが見えた。



「死ね」



 銃声。
 引き金を引いてすぐリボーンは足場から窓に飛び移り、リナの視界から消え失せる。
 オートで戻ってきた足場を胡乱気に見遣りリナは呟いた。



「どうせ行かないと見えないんじゃん」



 それでも気配を窺うことは怠らない。



「でも行くと雲雀に怒られるかな?」



 不思議とマンションを出るまでの倦怠感は消えていた。
 ねぇエキドナ? 微笑と共に音もなく問えば片割れが苦笑したような感じもする。



「気のせいか・・」



 エキドナが応えなかったのは血を流しすぎて疲れていたから。そう結論付けて、リナは屋上を後にした。



「そうだよね、私達に限って」



 背後で聞こえた爆発音は、取り合えず聞かなかった事にする。






























「おかえり恭弥」



 聞こえたのは微かな扉の開閉音だけだった。



「今日来てたよね」



 それでも帰って来たのが〝彼〟であると確信を持って声をかけ、返ってきた言葉にエキドナは苦笑した。



「ただいまとか言えよ」
「ただいま」



 リビングのソファーに座ったまま仰け反るように仰ぎ見ていると、体温の低い指先が無防備な首筋をなぞる。



「それで? 何しに来てたの、僕に会いもせず」
「知り合いに挨拶を」
「知り合いって、」
「静馬[シズマ]じゃないぞ? 私の、仕事の知り合いだ」
「あの赤ん坊?」
「ビンゴ」



 伸ばした人差し指を雲雀の額に向けエキドナは「Bang.」と腕を跳ね上げた。
 リナの愛銃、「ロストエンジェル」の入ったホルスターはテーブルの上に投げ出されている。



「腕だけはいいヒットマン」
「ふーん」



 けれど続く言葉には興味なさ気な返事を返し雲雀はリビングを後にした。



「なんだ、つまらない」



 持ち上げていた腕を落とし、ソファーの背もたれを滑り落ちるとエキドナは頬にかかる髪を除け目を閉じる。



「なぁ? リナ」










 次の瞬間そこに彼女はいなかった。










「傷は?」



 かけられた言葉にリナは薄っすらと目を開け視線を上げる。



「元々そんなに酷いのなかったから、大丈夫」



 放った言葉は紛れもない真実で、現にもう目に見えるような傷は残っていない。あの時倒れたのはただの貧血。
 それも暫く休めば自然と治ってしまうもので、ただ、あのままあそこにいたらと思うとぞっとした。



「次は気をつけなよ」
「うん」



 それでもいいと思ったのは確か。けれどそれを否定する心もある。
 ここにいれてよかったと思う私と、早く離れなければと思う私。そして、



「何考えてるの」



 逃げられる「今」は終わってしまったのだと、納得する私が鬩[セメ]ぎ合う。
 いつの間にかソファーの前へと回って来た雲雀の為に起き上がり、彼のためのスペースを空けるとリナは欠伸を噛み締めた。



「何って?」
「・・余計な事は考えなくていいよ」



 体を支えていた右腕を掬われ、倒れこんだのはそれを意図した人の膝の上。



「君は僕のものだ」



 柔らかな口付けと共に落とされた言葉にリナは綻ぶように笑った。



「そうだね、」



 もう随分と切っていない黒髪を梳かれながら、その心地良さと押し寄せてきた眠りに身を任せ目を閉じる。



「雲雀がいればいいや」



 顔を押し付けた薄い腹から聞こえる鼓動がさらに睡魔を引き寄せた。











 何も考えなくとも出来るはずの、〝立ち上がる〟という動作に失敗した。



「っ――」



 強かに打ちつけた腰を押さえ、道連れにしたブランケットと共に縮こまり舌打ち一つ。
 こんな時呆れ顔で助け起こしてくれるはずの幼馴染は、時間も時間なだけに学校へ行ってしまい不在。



「最低・・」



 自分はただカーテンを開けたかっただけなのに。



「ねぇエキドナ、カーテン開けて」



 起きる気力もなくし、フローリングの床で丸まったままリナは独り言の様に呟いた。



「エキドナ・・?」



 けれどそれに返るはずの声がない。



「ねぇエキドナ、聞いてる?」



 感じるのは不安か、焦燥か、はたまたその両方か。



「ふざけないでよ・・」



 届かない呼びかけは思いがけず固かった。






























「何だお前。並盛の生徒ではないな」
「煩い」



 銃声。



「ちゃおっス」



 不機嫌さを隠そうともせず引き金を引き、立ちふさがる男共を片付けるとリナは愛銃をホルスターへと戻す。



「・・・ボンゴレの・・」



 生憎実弾の手持ちはなかった。



「リボーンだ。いい加減憶えろ」
「・・必要性を感じない」
「相変わらずだな、お前」
「餓鬼と親しくなった覚えはない」
「でも性格違うぞ」
「・・・・・」



 黒いワンピースの上から羽織った同色のシャツを引き寄せリナは顔を顰める。
 どうした。と、足下から覗き込んで来るリボーンに一瞥くれ、視線を上げた。



「何してるの」
「家庭教師だ」
「ふぅん」
「お前は仕事か?」
「イレイズの仕事はもうやめた」



 ギラつく空を忌々しげに見遣りまた視線を落とす。



「そうか」
「誰の家庭教師」
「ボンゴレの10代目候補だ」
「・・・・顔見たい」
「いいぞ。今ならきっと屋上にいる」
「・・・」



 無言で手を差し出してきたリナの肩に飛び乗りリボーンは体を固定する。
 年相応に小さな手が羽織ったシャツを握るのを何となく感じながら、数歩の助走の後リナは勢い良く地を蹴った。



「相変わらずすげーな」



 大して驚いてもなさそうなリボーンの声はリナに届いたが、リナが途中で蹴った校舎の壁が立てたはずの音はリボーンに届かない。



「どれ」
「ちょっと待ってろ」



 音もなくフェンスの上に降り立ったリナの肩から飛び降り、リボーンは談笑する三人組に近付いて行った。



「夏休みもあっという間に終わって何かさみしーなー」
「補習ばっかだったしな」
「アホ牛がブドウブドウって最近ウザくねースか?」





「栗もうまいぞ」










「・・・あれか」



 まずリボーンがちょっかいを出した少年の顔を憶え、ついでに他の二人も紹介させようとリナはフェンスを降りる。



「リボーン」
「何だ、来たのか」
「どちら様・・?」



 まず声を上げたのはボンゴレの10代目。



「リナ」
「別名〝孤高のイレイザー〟。俺たちと同じ殺し屋だ」
「えぇっ!?」
「・・・知ってるぜ」



 次に声を上げたのは、――嗚呼、あの顔は知っている。



「スモーキン・ボム」
「孤高のイレイザー。確か一夜にして当時アメリカで最も力のあるファミリーを壊滅に至らしめた・・バケモノだ」
「口の利き方を親に習わなかったの? 貴方リボーンよりクソ餓鬼ね」
「なんだとっ!?」
「ご、獄寺君・・!」





「よせ」





 今にもリナに攻撃を仕掛けようとする獄寺 隼人に銃を向け、それ制したのはリボーンだ。



「なんだ、つまらない」



 抑揚のない声で愛銃にかけていた手を放すと、リナは最後の一人に視線を向ける。



「俺は山本 武、よろしくな」
「・・・よろしく」



 嗚呼、こいつはまともな人間か。
 求められた握手に応えリナは心の中で呟いた。



「じゃあ、私は行くから」
「何だ、来ないのか?」
「一応聞いておくけど、どこに?」
「今からアジトの下見に行くんだ」



 まともといっても、ここにいる時点で怪しいが。










「―――」



 人魚の賛美歌に誘われるがまままどろんでいた冬星は、ふと、頬を撫でた風に意識を浮上させた。



 ――来るぞ



 声なき声が耳元で囁き、もう一度風が頬を撫で方向を示す。
 教会の立つ丘の上。柔らかな青草の上に横たわっていた冬星は、仕方なしに肘を突き上体を起こした。



「僕を起こすなんてほんっとうにいい度胸だよ」





「――散歩はしてみるものですね」





 音も無く、気配も無く、見知らぬ声だけが落ちてくる。



「その台詞、姐さんの前で言ったら相当喜ばれるだろうね」



 感情の見えない声で誰にとも無く呟くと、冬星は何も無い宙へと気だるげに手を伸ばした。



「何故ですか?」



 そして何も無い場所で手のひらを握り、あたかもそこに支えでもあるかのような動きで立ち上がる。
 ぱたぱたと服についた塵を払うと、また風が頬を撫でた。



「姐さんって、活字があれば漫画でも何でもお構いなしだから」



 冬星が立っている場所から五歩も進めば、もうそこに大地はない。
 広がるのは白々しいほどに青い海とそれよりは幾分か薄い色の空。



「?」



 どこか遠い目で口元を歪めると、冬星は背を向けていた教会に向き直った。



「要[ヨウ]は雑食なんだよ」



 そこにいたのは自分とそう変わらないであろう年頃の少女と、逞しい体躯の黒狼。



「僕は冬星」



 人一人なら背に乗せ優に疾走できるであろうほどのそれは、大人しく青草の上に伏せている。



「僕の眠りを妨げた、君は誰?」



 冬星は少女の目を見据えた。



「僕は時塔。時塔 蒼燈[トキトウ ソウヒ]と言う者です」
「それで?」



 風が柔らかく髪を撫でつける。





「君は何をしに来たの?」





「散歩、ですよ」



 悪びれもせずそう言ってのけた蒼燈に、冬星は軽く眉を寄せ首を傾けた。
 僕は仲間内じゃ気の長い方なんだけどね。と前置いて、唐突にその眼光を強める。



「せっかくの昼寝を礼儀知らずの余所者に邪魔されても黙ってられるほど、お人好しじゃないんだ」



 風が凪いだ。






























「だから止せと言っただろう」



 背に人一人を乗せ海面擦れ擦れを疾走する黒狼――夜空[ヤソラ]――は、自らの背にしがみ付いたまま後方を見つめる蒼燈に、自業自得だと吐き捨てた。



「まさかいきなり攻撃されるとは思いませんでした」



 視線を後方から愛用のコート――その右肩から肘にかけて――へと移し蒼燈は苦笑する。
 そこには、何か鋭利な刃物で切られたような切り込みがざっくりと入れられていた。



「だが肉は断たれていない」
「えぇ。――相当な使い手ですね、脱帽です」



 けれどぶら下がる袖の下には真新しいシャツが当然のように覗いている。――肉どころの話ではない。彼女は、コートの生地と密着していたそれにすら傷一つ付けていないのだ。



「それに礼儀知らずだと言われました。心外です」
「だがこの国の礼儀を知らんのは確かだろう」
「うっ・・・・・・相変わらず痛いところ突きますね、夜空」
「事実だ」



 少なくとも蒼燈の知り合いに――人間に限るならば――そんなことを何の下準備もなしにやってのける者はいない。



「嗚呼、全く」



 西の果てから遙々[ハルバル]海を越えこの国に辿り着いた時から感じていた疑惑が、ついさっき確信に変わった。



「何て渡来人に手厳しい国でしょうね、ここは」



 この国は異質だ。









「嗚呼、時間だ」



 聞き飽きた電子音に気付き顔を上げたティアーユに、それまで黙々と手を動かしていた少年は頷いた。



「ちょうどいいですよ、こっちも大方終わりです」



 少年――戸川原 和宮[トガワハラ カズミヤ]――は持っていた筆を水差しに放り、パレットを床に置く。



「そうか? 出来たらちゃんと見せてくれよ? 和宮」
「わかってますって、見せてるじゃないですか、毎回」



 長いこと窓枠に座り外を眺めていたティアーユは立ち上がり、椅子にかけていた上着からストラップをつかみ携帯を引きずり出すと、軽く目を瞠り、そして微笑んだ。



「?」
「クリスがな、午後から暇を貰って息子とショッピングにでも行こうと思った副社長が、肝心な息子と連絡が取れないと騒いで困っているそうだ」
「げっ」
「携帯の電源くらい入れておけよ? 和、いくら絵に集中したいからといっても」



 楽しげに言うティアーユとは違い、探し当てた携帯のディスプレイに並ぶ着信履歴を目の当たりにした和宮は蒼白だ。
 慌てて弁解の電話をしたいところだが一番古い履歴は2時間も前――つまりスメラギからの呼び出しもなく暇を持て余したティアーユがふらりとここを訪れてすぐ――なので、母の怒り具合を考えるとそれも気が引ける。嗚呼、でも今電話しないときっと後で酷い。しばらく家に入れてもらえないかもしれない。



「ほら、行くぞ」



 両手で携帯を握り締めたまま動かない和宮に声をかけ、ティアーユは壁にかけてある部屋の鍵を手に取った。



「え?」
「ナイン・ヤードの本社まで連れて行ってやる。――なんなら言い訳に使ってくれてもいいぞ」
「マジですか」
「お前の母親は怒ると怖い。それに、今日は暇だからな」



 ほら、急がないと状況は悪化するぞ。
 扉の向こうへ姿を消したティアーユを、和宮は慌てて追いかけた。
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