酷く暑苦しい夜。だから全てが夢だと、どうして言えよう。
軋むベッド、波打つシーツ、鳴り止まない嬌声。全てがこんなにも現実味を帯びている。夢だなんて、嘘だ。
「これは夢ですよ」
僕と同じ顔、少し高い声をした女が耳元で囁く。甘く。冷たく。酷く、緩やかに。謳うように。
頭[カブリ]を振った拍子に汗ばんだ髪が頬を覆った。それを丁寧に除けながら、女は笑った。
「だから、ね?」
僕と同じ顔、少し高い声をした女が耳元で囁く。甘く。冷たく。酷く、緩やかに。枷を取り払うために。
諦めなさい。落とされた優しい口付けが、これは夢ではないのだと、言い聞かせ続けた努力を泡とする。
「僕を見て」
全て暑苦しい夜が見せた悪夢ならばよかったのに。
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それはまるで運命のようだった。
振り上げようとした切っ先は微動だにせず、琴音の柄を握った両手は貼りついてしまったかのように離れようとせず、全身の自由を奪われてしまったかのように、体が言うことをきかない。
それはまるで希望のようだった。
雁字搦めの鎖が音を立てて軋む。私をこの地に縛り付けて放さない宿命が、もういいのだと、耳元で囁く。甘く、辛く。
それはまるで絶望のようだった。
気の遠くなるほど永い間縛られてきた私には、自由が何なのか、それすらもわからない。今更自由になってどうしようという。この世界で、もう、やりたいこともないだろうに。
「―― 」
それはまるで運命のようだった。
それはまるで希望のようだった。
それはまるで絶望のようだった。
そして私は、愚かな老いぼれでしかなかった。
「――霹靂[カミトキ]?」
夕凪[ユウナギ]は知っていた。
「あら、夕凪。どうしたの?」
「それはこっちのセリフ。――そこ彩花の部屋」
「えぇ、そうね」
自分と夕立[ユウダチ]、彩花は普通の人間で、暁羽と霹靂がそうでないことを。
それは自らに流れる血の直感。培ってきた勘。生きるための本能。
霹靂の力は暁羽のように言葉一つで他人を傷つけることはないけど、この倭――特に彩光――では、充分な脅威となりうる。
「だから、入るの」
ネットワークとの同調[シンクロ]。
「大丈夫。暁羽は止めなかったから」
「・・・アキは止めないよ」
電脳世界への介入。
「そうかもしれないわね」
「リカコに殺されるかもよ?」
「それはないわ」
1と0の世界を垣間見た霹靂を、言霊の巫女は敬意を持ってこう呼んだ。
「私は霹靂神[ハタタカミ]だもの」
人にして神の名を持つ者、と。
「――ノックもしないつもりですか?」
蒼燈は嘲笑混じりに声を上げた。
オートロックの扉を鍵となる携帯端末もなしに開いてみせた霹靂は、困ったように小首を傾げ謝罪する。
「どちら様?」
「蒼燈。――貴女は彼女の知り合いですか?」
「従姉よ」
「なら、後はお願いします」
それ以上咎める気はないのか蒼燈は立ち上がり、それを霹靂が制した。
「待って」
「・・・僕には用事があるんですけどね」
「彩花の傍にいてくれないかしら」
蒼燈が値踏みするように目を細め、霹靂はベッドに横たわる彩花を視界に納める。
うつ伏せた彼女の左手は、しっかりと蒼燈の手を掴んでいた。
「その方が、いいわ」
「いいえ」
霹靂の言葉を一蹴すると、蒼燈は名残惜しさの欠片も見せず彩花の手を振りほどく。
「僕には、まだ果たさなければならない約束がありますから」
もっとも、彼女のあれは命令にも等しいですけどね。
「――、」
女は力を揮い損ねた。それは完全に予想外の出来事だった訳ではない。ただしさすがの彼女でも今この状況でそれが成されるとは思ってもみず、また、その程度には唯一己の力を無効化できる存在の分別を信じてもいた。
この状況だからこそ、と言えないこともないが、あんまりだ。
「嘘だろ、おい・・」
故に零れたのは異様に覇気のないセリフ。次いで魂まで吐き出してしまいそうな溜息。
「X、さすがにこれはあんまりだろう・・・」
世界が暗転しようとしていた。
「大丈夫だから」
それは、私があの子に対して吐いた初めて嘘。
今から行われる実験の後、可能性の上で私がどうなるかは予め――きっと本当はいけないことなのだろうが――ルナさんに聞いていた。それでも私は、大人たちの自己満足でしかないこの実験につきあうことを承諾した。
本当は逃げたかっただけなのかもしれない。私は、もう誰が苦しむ姿もみたくなかったから、一番生き残る可能性の低い実験を選んだ。多分、きっとそう。
「ごめんね」
閉ざされた扉の向こうに呟くと、前を歩くルナさんが振り向いた。
「貴女なら、こちら側に回ることも出来たでしょう?」
彼女が立ち止まったものだから、私もつられて立ち止まる。
彼女の言うことはもっともだ。私は今15で、そうしようと思えば「被験体」という立場から逃れることが出来た。
「私は、子供のままでいいです」
「そう・・」
でもあえてそれをしなかったのは、あの子の傍にいたかったのともう一つ。
私は、たとえ自分がどうなろうと今まで一緒に育ってきた仲間を「物」として見ることが出来ないから、こちら側に残ることを選んだ。
「貴女は強いのね」
「あの子を守れるのは、私一人でしたから」
あちら側に、私の居場所を用意していてくれたルナさんには悪いと思っている。
「あら・・?」
やんわりとした声とともに霹靂[カミトキ]ははてと首を傾げた。
何気なく目を遣った先には見知った顔と、見知らぬ顔が一つずつ。
見知った従妹の手を見知らぬ少年が引き、寮の方へと歩いていくのが図書館の二階からは手に取るように見えた。
気になるのは、プライドの高い彼女が人前も憚らず涙を流し、甘んじて繋がれた手を引かれるがままにしているということ。
しかも霹靂は、もう一人の少年に見覚えがない。
「どうしたのかしらね」
気遣うような言葉とともに表情を曇らせた霹靂の正面で、片付かない課題に追われていた夕凪が漸く顔を上げた。
姉の優れない表情に気付いた夕凪は、彼女の視線の先へと目を向ける。
「誰あれ」
そして首を捻った。
「あら、ナギも知らないの?」
「見たことないなぁ・・好みの顔だけど」
「私も、心当たりがないのよ」
「じゃあ転入? ・・・彩花といるあたりまたアキの拾い物だったりして」
「ナギ」
「全く・・」
あの夢で彩花と会えなければ、きっと蒼燈は目覚めることが出来なかっただろう。
国を失った哀しみ、怒り、己が犯した過ちに対しての後悔――時塔蒼燈を動かしていた全て――は、「時塔」が与えられた罪とともに持っていってしまった。
自分達をこんな風にした暁羽にしてみれば、「蒼燈」は必要な不要だからして目覚めなければそれでも構わず、どこか適当な場所にでも放り込んでおくつもりだったらしい。――湖とか、言っていたか。
「いい加減泣き止みませんか?」
けれど暁羽の予想に反して、蒼燈は目覚めた。
それもこれも、全てあの夢の中で立てた誓約を守るためだ。
例え彩花が完全な夢だと思っていたとしても、その誓約があったからこそ蒼燈は目覚めた。蒼燈にとってあの誓約は絶対、そして唯一。
「彩花、」
生きることに理由を求めたのは蒼燈も同じだ。彩花に「探すな」と言えた義理ではない。
言い訳じみたことを言うとすれば自分は「理由」のおかげでここにいて、彩花は「理由」を探すためにここにいる。その差は大きいと、蒼燈は思っている。
「僕はいい加減貴女の笑った顔が見たいんですけどね」
嗚呼、でも・・同じかもしれない。
結局は僕も貴女も「理由」に縋り付いていなければ一人で立っていることも出来ない。
脆弱な愚者だ。
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