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「それで、」


 パチリパチリと、弄ばれる緋扇[ヒオウギ]の音が久しく支配していた部屋に、主の声が落ちる。

 あの妖狼のことだが。


「沙鬼[サキ]って名前らしいな」


 態とらしく振られた話題に、とりあえず華月は世間話でもするような態で応じた。
 すると上座で水鏡を覗いていた卑弥呼は緋扇で口元を覆い、ついと手を伸ばす。


「妾は捕獲を命じなかったかえ?」


 弾かれた水鏡の水が床を濡らした。
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 淡い風が吹いた。頬を撫で去っていくその風はどこか温かく、裏腹に一切の創造を奪い去っていくような気配を孕んでいる。


「リナ?」


 何故、彼女だと思ってしまったのかはわからない。ただ彼女に貰った彼女の欠片が熱を持っているような気がして、――僕は空を仰いだ。

 すぐ、戻るから。

 空耳としか思えない微かな言葉の後に、また、あるかないかの風が頬を撫でる。


「君らしくないね」


 叶わないと知りつつ彼女を求め伸ばした手はやはり、空を掻いた。



 ――全く、見てられない


 頭の中に直接響いてくるような声と共に、――ぐにゃり――少し先の世界が歪んだ。


「おい、大丈夫なのか・・?」


 山本の気遣うような言葉をよそに世界は歪み続ける。
 そして、悲鳴じみた高い音と共に、歪みは一つの存在を吐き出した。


「そうも言ってられないでしょう。この状況じゃ」


 背を覆い隠すほどに長い髪を払い、その言葉、仕草とは裏腹に幼い少女は、不敵な笑みを整った容貌に貼り付ける。


「心配なら足手まといをお願いね」


 血のように紅い彼女の瞳は、獲物を捕らえ酷く残忍に輝いた。

 竜から人へと擬態したイヴリースは暫く何もない空中に立ち、死の森の向こうを見つめていたが、不意に小さく笑みを零すと、滑るようにバルコニーへと降り立った。


「ここからの景色も見飽きたな」


 それが傍らに立つ藤彩への言葉なのか、単なる独り言なのか、問う者がいれば彼女は答えただろう。最愛の愛し子への言葉だと。
 そして、誰もが思わず見惚れてしまうような笑みを浮かべるのだ。


「行くの?」


 藤彩の問いにイヴリースは答えなかった。


「世界が最も美しい瞬間を知っているか?」
「・・・私は貴女ほど永く生きてはいないわ」
「だがいつか目の当たりにするだろう」


 見上げた空の彼方で、朧な太陽が陽炎のように揺れる。


「たまには飛ばないと、飛び方を忘れてしまいそうだ」


 それは、あたかも世界の終焉を思わせるような光景で――


「来るか?」


 嗚呼なんて絵になる生物なのだろうと、藤彩は感嘆と共に息を吐いた。


「連れて行ってくれる?」
「もちろん」


 苦笑混じりの問いに彼女の契約竜は快く応じ、差し出された手を取る。


「それをお前が望むなら」

 何度か招かれる内にすっかり見慣れてしまった光景が、どこまでも続いている。
 絵に描いたように美しいこの場所を私は知らなかった。


「骸・・?」


 常ならば柔らかい笑みと共に迎えてくれる少年の姿はなく、名前を呼んでも現れないところを見ると招かれたわけではないのだろうと、リナは状況を正確に把握したがる思考に一応の答を与え、ゆっくりと周囲を見渡す。
 どこまで行けばこの楽園は途切れるのだろうと考えかけて、やめた。ここは俗に言う精神世界[アストラルサイド]なのだから、「ここで世界が終わる」と強く思えば、見据える先は混沌へととって変わる。この世界は、人の心に正直すぎるから。


「どうするかな・・・」


 たった一人でこんな所にいても退屈で仕方ない。美しい光景は別段不愉快でもないから揺るぐことはないし、厄介ごとはごめんだと心底思っているのでその手のことは起きない。故にここはとても退屈な世界だ。
 より強い心の持ち主だけが楽しむことを許される、この世で最もエゴの強い楽園。


「骸ー?」


 あの子は、こんなにも美しい世界を望んでいた。



 たとえそれがどんな無理難題であろうと、お前の頼みなら、結局は仕方ないといいつつ聞き入れてしまうのだろう。


「恭弥、ちょっと出掛けてくるから」
「・・こんな時間に?」
「うん。今夜は帰れないかもしれない」
「携帯の電源は入れておきなよ」
「わかった。おやすみ」
「おやすみ」


 現に今も、私はお前の頼みだからこそこうやって行動している。お前の頼みでさえなければ、今頃温かい布団の中で惰眠を貪っていることができたのに。


「こんな風に話して平気なの?」
「(貴女となら僕に負担はかからないようです)」
「バタフライ・ラッシュのネットワークを経由してるってことか・・」
「(貴女の因子には助けられてばかりだ)」
「それば多分、私も同じ」




「――待ちくたびれましたよ」


 集中治療室。――扉の上に掲げられたプレートにはそう記されていた。


「これでも急いだんだから許して」
「無理を言ってすいません」
「構わないわ」


 だがその中で大人しく治療を受けているべき少女は呼吸器を外し、何でもないように体を起こしている。
 その腕に点滴こそ繋がれているが、それはリナが無理やりに引きちぎろうとはするなと言い含めていたせいだろう。


「服持ってきたから、一旦戻って」
「おや、僕はこのままでも構いませんが?」
「私とこの子が構うのよ」
「仕方ありませんね」


 ふっ、とほんの刹那意識を失ったように見えたが、リナの手を借りるまでもなく華奢な体が倒れることはなかった。
 何度か瞬いた幼い瞳が、やがてまたリナを捉える。


「あなたが、浅葱さま・・?」
「それも私の名前の一つ。でも、リナと呼んでくれると嬉しい。その名前はとても特別なものだから」
「リナ、さま」
「様もいらない。骸に何言われたか知らないけど、私は貴女と対等でありたいと思ってる」
「・・・リナ」
「そう、それでいい。・・貴女の名前は?」
「凪・・」


 今にも零れ落ちてしまいそうな目だ。ついさっきまではあんなにも落ち着いていたのに、今はもう不安と戸惑いで一杯。なのに恐怖は一欠片もない。


「じゃあ凪、私と逃げてくれる?」
「どこへ?」
「貴女が貴女の生きたいように生きられる場所へ」


 眩しいほどに、彼女の存在は真っ直ぐだった。


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