――お前には名前があるだろうとあんたは言った。俺はそんなもの疾うの昔に失くしたと答えた。
「バカ言うな、外の人間なら親に貰ってるだろ」
「親は死んだ。だからあいつらのつけた名前はもうない」
それは紛れもない事実だった。俺に名前をつけた親が死ねば俺は〝俺〟という鎖から解き放たれることが出来、俺の名を知る人がいなければ、俺が〝俺〟でいる必要はない。
「面白いな」
それで俺が〝俺〟として生きてきた時間が消えてなくなるわけもないのに、俺はそう信じきっていて、またそうでなくてはならないと考えていた。
「なにが」
「お前がだよ、クソ餓鬼」
そんな俺をあんたは嗤って、それでも手を差し伸べた。
「――来い」
そして俺は、どういうわけかそんなあんたを心から拒絶できないでいたんだ――
「バカ言うな、外の人間なら親に貰ってるだろ」
「親は死んだ。だからあいつらのつけた名前はもうない」
それは紛れもない事実だった。俺に名前をつけた親が死ねば俺は〝俺〟という鎖から解き放たれることが出来、俺の名を知る人がいなければ、俺が〝俺〟でいる必要はない。
「面白いな」
それで俺が〝俺〟として生きてきた時間が消えてなくなるわけもないのに、俺はそう信じきっていて、またそうでなくてはならないと考えていた。
「なにが」
「お前がだよ、クソ餓鬼」
そんな俺をあんたは嗤って、それでも手を差し伸べた。
「――来い」
そして俺は、どういうわけかそんなあんたを心から拒絶できないでいたんだ――
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雲に覆われているわけでもないのに灰色がかった空に見下ろされ、息苦しささえ忘れたスラム。絶望で満たされた掃き溜め。たかが人間ごときの手で掴むことの出来るものなどないのだと、誰もが知りながら薄っぺらい生を謳うことやめない。生きていられるだけで幸せだなんて、本当は誰も思っちゃいないのに。
「キング」
「…今行く」
皆に慕われここを治めていたスラムキングはもういない。あの爺さんが死んでからだ。このスラムの闇が濃さを増したのは。
「なんかあったのか」
ガキ共が持ち込んだ銃の暴発であっけなく死んだ。爺さんらしいといえばそう。でも、ガキで溢れたこのスラムには爺さんの存在が必要だった。
「西地区の連中だよ。あいつらお前の忠告なんて全然聞いちゃいないんだぜ」
三十まで生きられたら幸せ、四十まで生きられたら奇跡、五十を越えたらそいつはバケモノ。――ここはそういう場所。だからこそ、年寄りの思慮深さと知識はなくてはならない。
「かまわねーよ、死なせてやれ」
自分たちが持ち込んだ銃の暴発で死ぬのならそれは自業自得だと、俺なら割り切れる。手を伸ばさずに、ガキ共が息絶える様をただ見ていることだってできる。でもそんなガキ共をスラムキングの爺さんは庇って死んだ。だからこそ、あの人はまだ必要。せめて次のキングを育て上げ、そいつがキングとして独り立ちするまでは、必要だった。
「死ねるなら幸せさ。俺はアンダーグラウンドの連中に捕まることの方がが怖いね」
「…俺が行く。お前は何人か連れて南に回れ」
俺だって時が戻らないこと、死が覆らないことくらい知っている。なのに爺さんの存在を望んでしまうのは、現状に満足しきれていないせいだ。
「南?」
爺さんが生きてるうちはよかった。あの頃の俺は、自分が生きるためだけに毎日を費やして、時折爺さんの話す世界や神、精霊、魔法なんかの話を聞いていればよかったんだから。
「そろそろ見回りの時期だろ」
「あ、そうか…了解」
なのに今はなんて不自由なんだろう。
「ヤバそうだったら戻れよ」
「わかってるって」
爺さんが死んで、周囲が次のキングにと望んだのは他の誰でもなく俺だった。
「キングこそ気をつけろよ」
「あぁ」
行くあてもなく彷徨い、そしてこのスラムに辿り着いた薄汚い子供。それが俺。他人の死に興味を示さず、まるで感情すら持たない人形であるかのように振舞っていたのに、爺さんが俺の事を気に入り手元に置いていたせいでこのザマだ。笑えないにもほどがある。
「…雨か」
今やスラムは俺の国。俺はスラムの囚われ人。
――私を呼んで。
「ッ――」
憶えのある音が轟いて、俺の意識は唐突にブラックアウトした。
「キング」
「…今行く」
皆に慕われここを治めていたスラムキングはもういない。あの爺さんが死んでからだ。このスラムの闇が濃さを増したのは。
「なんかあったのか」
ガキ共が持ち込んだ銃の暴発であっけなく死んだ。爺さんらしいといえばそう。でも、ガキで溢れたこのスラムには爺さんの存在が必要だった。
「西地区の連中だよ。あいつらお前の忠告なんて全然聞いちゃいないんだぜ」
三十まで生きられたら幸せ、四十まで生きられたら奇跡、五十を越えたらそいつはバケモノ。――ここはそういう場所。だからこそ、年寄りの思慮深さと知識はなくてはならない。
「かまわねーよ、死なせてやれ」
自分たちが持ち込んだ銃の暴発で死ぬのならそれは自業自得だと、俺なら割り切れる。手を伸ばさずに、ガキ共が息絶える様をただ見ていることだってできる。でもそんなガキ共をスラムキングの爺さんは庇って死んだ。だからこそ、あの人はまだ必要。せめて次のキングを育て上げ、そいつがキングとして独り立ちするまでは、必要だった。
「死ねるなら幸せさ。俺はアンダーグラウンドの連中に捕まることの方がが怖いね」
「…俺が行く。お前は何人か連れて南に回れ」
俺だって時が戻らないこと、死が覆らないことくらい知っている。なのに爺さんの存在を望んでしまうのは、現状に満足しきれていないせいだ。
「南?」
爺さんが生きてるうちはよかった。あの頃の俺は、自分が生きるためだけに毎日を費やして、時折爺さんの話す世界や神、精霊、魔法なんかの話を聞いていればよかったんだから。
「そろそろ見回りの時期だろ」
「あ、そうか…了解」
なのに今はなんて不自由なんだろう。
「ヤバそうだったら戻れよ」
「わかってるって」
爺さんが死んで、周囲が次のキングにと望んだのは他の誰でもなく俺だった。
「キングこそ気をつけろよ」
「あぁ」
行くあてもなく彷徨い、そしてこのスラムに辿り着いた薄汚い子供。それが俺。他人の死に興味を示さず、まるで感情すら持たない人形であるかのように振舞っていたのに、爺さんが俺の事を気に入り手元に置いていたせいでこのザマだ。笑えないにもほどがある。
「…雨か」
今やスラムは俺の国。俺はスラムの囚われ人。
――私を呼んで。
「ッ――」
憶えのある音が轟いて、俺の意識は唐突にブラックアウトした。
――雨が降っていた。さらさらと綺麗な音をたてながら、今ここにある現実を洗い流すことなんで出来もしないくせに、赤い水溜りだけをぼやかして、無責任にも、あの人の体温を奪い去っていく。
俺は立ち尽くしていた。降りしきる雨に濡れながら、今ここにある現実を消し去ってしまえる術を手探り、流れるように血の気を失う表情と、伴って広がり、ぼやかされる血溜りを呆然と見つめる。
「な、ぁ…」
こんなはずではなかった。
「起きろよ」
撃たれるのは、狙われたのは俺だった。
「俺を庇うなんて、馬鹿じゃねぇの…」
俺は見たんだ。黒光りする銃口と、絞られる引き金、乾いた音共に放たれた銃弾を。
それでいいと思ったんだ。もう行くところなんてない、哀しむ人なんていない、だからここで終わるならそれでもいいと。
「起きろよっ…!」
でもあんたが邪魔をした。俺と銃弾の間に立ちはだかって、冷たい死の抱擁から俺の命を遠ざけた。そんなことする義理も義務もあんたにはない。俺たちは出会って半月も経たない赤の他人で、あんたは、俺の名前だって知りはしないのに。
「あんたが死ぬ理由なんてないだろ?」
あんたが死ぬ必要なんてない。あんたは何も悪くない。だから死なないで。
「なあ!」
俺のキング――
「だぁーかぁーらぁー、そういうのをタイムパラドックスって言ってね、もし君が過去に遡って母親殺したらおかしいことになるでしょーが。おばさんがいなきゃ君生まれないんだよ? 過去でおばさん殺して君の存在が消えちゃったらどうすんの。……え? 構わないって? そうは言うけど君、この前僕が貸した千円まだ返してないでしょー。うん? …うん……そうだね、君が消えたら僕が君に千円貸した事実も消えちゃうね、よく気付いたね。…いや、馬鹿にしてるわけじゃないよ。ただそろそろ千円返して欲しいなーなんて……あ、そう? うんわかった。じゃあいいけど…うんそうだね。それでさっきの話の続きなんだけどね……」
〝時間関係〟――そう、安易に銘打たれたファイルを捲っていた博士の手が止まり、指先がぎっしりと敷き詰められた文字の上を滑りました。
記されたタイムパラドックスとそれに関係する事象のことをなるべく噛み砕いて説明しながら、博士は早く眠ってしまいたいと壁にかけられた時計に目を向けます。
「だからねぇ…」
そもそも君には時を遡る術がないだろうと、言ってしまえたらどれほど楽なことでしょう。電話の相手がどこにでもいるような人間であるのは確かでしたが、恐ろしいことに、アルヴェアーレにはそういう人間に平気で時間旅行をさせてしまう非常識な輩が、時折出入りしているのです。そういうことを商売にしている人だって住人の中にはいます。安易に「出来ないだろう」などと言って、出来る術を手に入れようと躍起になられてはたまりません。
ですが博士自身、このやりとりに厭き厭きしていました。
「……え? 何? 何だって? おーい? おかしいなー混戦してるのかなー聞こえないなー、おかしいなー聞こえないなー…あ、」
すると、そんな博士の考えを分かっているかのように、電話にノイズが混ざりました。ノイズは徐々に酷くなり、やがて通話は途切れます。
「切れちゃった」
漸く実のない会話から開放され、博士はにこやかに受話器を置きました。
「終わったんですか?」
話し声が止んだことに気付いた助手が資料室に顔を出します。
「うん。なんか急に電話の調子が悪くなっちゃってねー。せっかくだから電話線抜いといて」
「…またやったんですか」
「うん?」
「なんでもありません」
温めたばかりのホットミルクを置いて、助手は律儀に電話のコードを抜きました。
用済みの電話が片付けられている間にホットミルクを半分ほど飲み干し、机に伏せた博士は欠伸を一つ。
「寝るならベッドで」
「寝ようとしたところに電話があったんだよぉ」
「だからってそこで寝ないで下さい。誰が運ぶと思ってるんですか」
「君」
「博士は最近太ったから重いんですよ」
「……それホント?」
「嘘をつく必要がどこにあるんです」
「それにしたって言いようがあるでしょー」
時間関係のファイルを手に取った助手に元あった場所を指差してやり、博士は席を立ちました。
「それで、今回はどんな話だったんですか?」
「いつもと同じさ」
油断すれば落ちてくる瞼と必死に格闘していると、戻ってきた助手が促すように手をとり背中を押します。
「今度は母親を殺したいって言ってたよ」
「この前は確か…」
「妹。冷蔵庫に入れてたプリン食べたから」
「博士と大して変わりませんね」
「僕は、プリン食べられたくらいで君を殺そうとしたり、しないよ」
「そうですか? 拗ねて部屋に引きこもるのもどうかと…――ほら、つきましたよ」
二階から階段を下りてすぐの所に博士の寝室はありました。
「五歩も歩けばベッドなんですから、途中で行き倒れないで下さいね」
「うん…」
部屋の隅にベッドが一つ置かれただけの、眠るためにしか使われていない部屋です。
「おやすみぃ」
時計の針は午後十一時を回りました。博士が普段就寝する時間を、既に一時間ほど過ぎてしまっています。
「おやすみなさい」
博士がベッドに入るまでをしっかりと見届けて、助手は博士の寝室を後にしました。
この国で一番大きな自然公園「アベリア」には、とても不思議なアパートメントがありました。
「アルヴェアーレ」――蜂の巣――と呼ばれるそのアパートメントは、名前の通り蜂の巣のような造りをしています。六角形の小さな家が、身を寄せ合い円を描いたような造りです。中央には、家四つ分開[ヒラ]けた中庭もあります。
アルヴェアーレは、誰が見ても素晴らしいアパートメントでした。
アベリアを利用する人々は一様に、アルヴェアーレの住人に憧れを抱き、羨望の眼差しを向けます。自分にとっては雲の上の世界だと諦めながらも、心のどこかで夢見ることをやめられないのです。アベリアの豊かな自然と、それらに囲まれた日常を。
そんな、誰もが羨むアルヴェアーレに住むことが出来るのは、本当に一握りの人々でした。アルヴェアーレを構成する家々は十一棟しかなく、その内の二棟は、住人なら誰でも利用することの出来る共有スペースですから、人が住むことの出来る棟はたったの九つしかないのです。
そして、その九つのうち一つ、「フィーシェ」と呼ばれる棟には、一組の「博士」と「助手」が住んでいました。
「…そうだ。じゃあ、こういうのはどうだい?」
相手に気付かれないよう欠伸を噛み締めながら、博士はファイルを閉じました。
「僕が電話を切るから、切れたら君は財布の中から千円取り出して机の上に置くんだ。ちゃんと茶封筒か何かにいれてね。それから窓を開けて――今日は月が綺麗だろう? ――、飛び降りる。それで万事解決。いい? じゃあ切るよ、千円忘れないでね。いい夜を」
「博士、朝ですよ」
助手の一日は、まず博士を起こすことから始まります。眠りの浅い博士は大抵部屋の外から声をかけるだけで起きてくれるので、起こすだけならそう面倒なことではありません。
寝室の扉を二度ノックして声をかけ、助手はその場を後にしました。
それから一階にあるキッチンで朝食の用意をして、後はもう食べるだけというところで、もう一度二階に足を運びます。
「博士、朝食出来ましたよ」
寝室の扉を二度ノックして声をかけ、返事が返ってこないことを確認してから、助手は扉を開けました。
「いい加減起きて下さい」
「んー」
左隅にベッドが一つ置かれただけの部屋を、カーテンの下からもれた僅かな光が照らしています。気のない返事をして寝返りを打った博士は、起きているくせにベッドを出ようとはしません。
眠りの浅い博士は大抵部屋の外から声をかけるだけで起きてくれるので、起こすだけならそう面倒なことではありません。起こすだけなら。
「ったく…」
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