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「こんな話を知っているか?」

 自慢の銀髪を夜風に揺らしながら、女は口を開いた。長い間続いていた静寂の時間が途切れると、ぴたり、どこからか聞こえていたピアノの旋律も途切れ、女を取り巻くありとあらゆるものが沈黙する。

「世界中の災厄を閉じ込めた「匣」の話だ」

 話し始めると、女は髪よりも強い輝きを放つ瞳を楽しげに細め、唇を笑みの形に歪めた。

「その匣は気の遠くなるほど昔作られたものでな? 閉じ込められた災厄は「パンドラ」と呼ばれ、一度匣から解き放たれたパンドラは、美しい女の姿をとるそうだ」

 掲げられた両の手は、慈しむように夜をなぞる。

「面白いと思わないか?」

 女は、嗤った。

「面白いと思うだろう?」

 世界中の誰よりも美しく、何よりも輝かしく、そして残忍に。

「だから欲しくなった」

 女は嗤って、月のない漆黒の夜へと両手を広げた。

「どこにあるのかなぁ」

 その指先がはらはらと、夜に解けていく。

「パンドラの、匣は」

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 朝からこの世の終わりのように曇っていた空は、チャイムが四限目の終了を告げる少し前から冷たい雪を降らせ始めた。はしゃぐ女子にただ苦笑して見せた教師は早めに授業を切り上げて、暖房の効いた職員室へと引き上げる。我先にと教室を飛び出した何人かの生徒が、ベランダの手摺から身を乗り出し歓声を上げた。

「元気だねぇ」

 呆れ交じりの声が、落ちる。

「混ざってくれば?」

 サクラは皮肉混じりに笑って、傍らに立つヤマブキを仰ぎ見た。

「冗談」

 大仰に肩を竦めて見せたヤマブキも同じように笑って、二人は教室を後にする。廊下に出てみれば、既にどの教室も午前の授業を終えていた。

「私が寒いのダメなの、あんたも知ってるでしょ?」
「そうでした」

 今度はサクラが肩を竦めて、ヤマブキは憮然とした表情を浮かべる。
 HRのある教室棟を抜けると、喧騒は一気に遠のいた。

「ほら、すねないで」
「すねてない」

 サクラとヤマブキ以外誰もいない職員棟の廊下は静かで、サクラは自分をおいていこうと早足になるヤマブキを追いかけながら、そっと肩にかけたスクールバッグの表面をなぞった。無意識の内の行動に、ヤマブキが保健室のドアをノックする音が重なる。

「失礼しまぁす」
「…失礼します」

 保健室の中は程よく暖房が効いていて、サクラは廊下との温度差に身震いし、ヤマブキは歓喜の声を上げた。

「いらっしゃい二人とも」

「あの部屋には何重に魔法をかけた?」

 床に刻み込まれた魔法陣を弄っていたリーヴは不意に作業の手を止めて、遅めの朝食にありついていた私に目を向ける。

「あの部屋って…どの部屋?」

 私はリーヴと僅かに発光する魔法陣、手元のパンを順番に見て、零れそうになった蜂蜜を慌てて舐め上げた。独特の甘さが口の中でパンの甘さと混ざりあう。

「王城でお前に与えられていた部屋だ。西の塔にある」

 やっぱり苺ジャムにすればよかった。

「…実験も兼ねてだいぶ重ねがけしたから憶えてない。――あの部屋がどうかした?」
「少なくとも対人の魔法は施していないな」
「それは、まぁ…」
「わかった」

 王城の中で対人の魔法を仕掛けるわけにもいかないでしょうと、最もな言葉は最後のパンと一緒に呑み込んだ。そんなことは、リーヴにだって分かっているはずだから。

「――――」

 幾つかの魔法を矢継ぎ早に紡ぎ上げ、リーヴは床の魔法陣に翳していた手を握る。魔法陣から蜃気楼のように立ち昇っていた淡い光はぱっと霧散して、その残滓は部屋中に広がった。体感温度が少し下がって、私は椅子の上で膝を抱える。


 鈍く痛みを訴えるこめかみを半ば押し潰す勢いで押さえていると、いつの間にか思考の大半を暁羽への恨み言が占めていた。むしろ痛みが強すぎてそれ以外のことが考えられない。

「帰らなくていいのか」

 夜空の問いかけを理解するのにも長い時間がかかって、暁羽への殺意が鎌首をもたげた。

「……」

 出来もしないことをと心中で毒づき、勢いよくソファーに倒れ込んで天井を見上げる。

(ばけもの…)

 天井一面に描かれる巨大な魔法陣。その、あまりの複雑さに眩暈がした。

「暁羽がいないのに、僕まで彼女の傍を離れるわけにはいかないでしょう」

 一見簡単そうな造りをしているのに読み解く糸口さえ見あたらず、規則的なようで不規則に並ぶ文字は複数の言語が混ざり合っていて怖ろしく難解。一体どれだけの時間と魔力を注げば、ここまで精密で捻くれた魔法陣が描けるというのだろう。

「律儀だな」
「暁羽ほど奔放には生きられませんよ」

 ずきりと、また酷く頭が痛んだ。










「ひとまず王城へ」

 含みのある言葉に頷いて、部屋を出る。当然のようについてくるリーヴは数歩置いて私の斜め後ろを歩いた。肩に乗るか前を歩くかしていた黒猫との距離に慣れている私は少しだけ戸惑い、その戸惑いを隠したまま王城へと足を進める。
 リーヴは何も言わなかった。

「…面倒?」
「何がだ」
「私に憑いた夢魔を殺すの」
「面倒だからといって捨て置くわけにもいかないだろう」
「……そうだね」

 時々、何故、リーヴが私の傍にいてくれるのかを考えることがある。たとえば今みたいに、私の都合でリーヴの手を煩わせた時、何故と、考えてしまう。リーヴに私を助けなければならない必然なんてないのに、と。

 日中は開放される城門を形ばかり警備する兵が、私の姿を目に留め姿勢を正した。それまでの思考を頭の隅に追いやって、私も彼ら同様気持ちを切り替える。

「ご苦労様」

 今日だけは、半ば押し付けられるように拝命した騎士号にも感謝した。

「で、どこ行くの?」
「…西の塔、」

 さっと城内の気配を探ってリーヴが告げる。西塔といえば「開かれた王城」の中でも数少ない「閉ざされた場所」で、中は城に出入りする魔法師たちの研究施設になっている。

「六階」
「は、」

 私が立ち止まっても、リーヴは止まらなかった。

「――私の部屋?」

 逆転する立ち居地。離れていく背中。

「お前が厳重に守りの魔法をかけていたから、丁度よかったんだろう」
「……ちょっと待って。リーヴが探してるのって、まさか――」

 まさかと、うわごとのように繰り返して私はリーヴの腕を掴む。

「リーヴ、貴方は何を探しているの」

 ぐるぐると頭の中で奇妙な感覚が渦を巻いていた。心臓が怖ろしいほど速いスピードで鼓動を刻んでいる。――指先が、冷たい。

「……」
「リーヴ、答えて。どうして何も教えてくれないの」
「…知る必要がないからだ」
「私はっ」



「傀儡は傀儡らしく、していろ」



 震える指先を払って、背を向ける。

「……て、ないで」

 それがどんなに残酷なことであるか、私は知っていた。










「――さぁおいで、僕の所へ」

 指先に絡みつくルーンを引き寄せ、口付けて、囁く。周囲を取り巻いていた帯状の魔法陣が漸く発動にたる力を与えられ、歓喜に躍った。

「光はここにあるよ」

 放たれる光は眩いばかりの金色[コンジキ]。同色の髪を揺らし、同色の瞳を輝かせ、アースガルズの片隅で、ロキは笑った。

「僕が与えてあげるから、」

 無邪気そうに差し出される手は、招く。

「僕の所へおいで」

 打ち捨てられた枝を。










 西塔六階。暁羽と共に幾度となくくぐってきた扉は姿こそ違えど、私を私と認めて大人しく道を開けた。音もなく開いた扉はやはり音もなく閉じ、施錠されると部屋の中に漂う魔力ともつかない気配が揺れる。

「――何者だ」

 その微かな変化を、人は見過ごした。

「答える義理はないな」
「…他人の部屋に勝手に入っておいて、その言い草はないでしょう」

 けれど人につき従う精霊の眷属は、ともすれば私よりも感覚に優れている。故にいち早く私の存在に気付き声を上げた地狼に、遅れて、人の子も警戒の色を露にした。

「勝手に?」

 煩わしいことこの上ない。人など皆、寄りかかるものがなくては一人で立つこともままならない脆弱な存在であるのに。

「それは、違うな」

 嗚呼、いっそのこと全て壊してしまおうか。そうすればもう煩わされることもない。暁羽に対してもそうしたように、ただ少し、この腕を揮うだけでそれは叶う。

「暁羽の許しを得ずこの部屋に足を踏み入れたのは、お前達の方だ」

 なのに何故それが出来ない。簡単なことだ。暁羽にさえできたことを何の関わりもない人間と地狼相手に出来ないはずがない。

「失せろ」

 出来る、はずだ。

「誇りに思え」

 もしもそう、私がどこにでもいる平凡な人間だったとしたら、どうだろう。

「お前はこの国の礎となるのだ」

 私は幼くして世界に絶望することも、実の兄が父をその手にかける瞬間を目にすることもなく、ただ平凡に生涯を終えることができただろうか。

「はい、父さま」

 それとも、結末は変えられなかったのだろうか。





 描かれた魔法陣の中央に立つ。父さまの詠唱が狭い地下室の空気を絶え間なく揺らした。歓喜に満ち溢れた声。

「――ポルタメント」

 父から娘へ、別れの言葉はなかった。上辺だけでもなにか一言あれば、私は最期に全てを許せたかもしれなかったのに。

(さようなら、)

 貴方から貰えない言葉を私から与えるのはどこかおかしいような気がして、心の中でだけ別れを告げて、私は私を誘う力の流れに身を任せた。術者と同じ、綻びだらけの魔導は酷く不安定で、ああこれは失敗するなと、私はどこか他人事のように考える。


「――愚かな、ことだ」


 もしもそう、私がどこにでもいる平凡な人間だったとしたら、どうだろう。

「喰われているぞ、お前」

 私は幼くして世界に絶望することも、実の兄が父をその手にかける瞬間を目にすることもなく、ただ平凡に生涯を終えることができただろうか。

「お前が私の所有物だとも知らずに」

 彼と出逢うことも、彼と共に生きることもなく、ただただ、生きて、

「愚かなことだ」
「っ…」





 一生を、終える?





「『私と共に来るか? 人の子よ』」

 幼心に響いた言葉も、視線が手元の本へと注がれていては台無しだ。

「…それ、実体?」

 窓際においた読書用のソファーに陣取るリーヴの長い銀色の髪が、太陽の光を受けてきらきらと煌く。

「本体だ」
「それってまずいんじゃ…」

 どれくらいぶりだろう、彼が彼として私の前に姿を現したのは。

「問題ない」

 リーヴがミズガルズにいるためには沢山の制約がある。それはもう、沢山。だから黒猫がいて、本当に必要なときは私の体を貸す。それが一番簡単でリーヴにも負担が少ない方法。

「なくはないでしょ」

 なのになんで今更、リーヴはこちら側に来たのだろうか。

「…『そうすることが許されるのなら』、」
「……」
「どれほど制約があろうと関係ない」

 彼の考えることはいつまでたってもわからない。





「リーヴがそれでいいなら、いいけどね」
「ならこの話は終わりだ」
「えぇ」

 窓の外には明るい世界が広がっていた。

「それはそうと…いつまで寝ている気だ?」

 スコルに追い立てられ空を駆ける太陽は遠く、だがヨトォンヘイムにいては決して目のあたりにすることは出来なかっただろう。太陽の運行を司る女神ソールの歌声が、今にも聞こえてきそうだ。

「あと少し」
「喰われていると言っただろう」

 私には眩しすぎる。

「夢魔でしょ? 殺してくれたんじゃないの?」

 当然のように言う暁羽に他意はなかった。だからこそ微かな苛立ちが募り、私は眉間に皺を寄せる。

「出来るものならお前を二度も喰われたりはしない」
「…二度?」

 飛び起きる、とまではいかないものの、上体を起こし漸く起きる素振を見せた暁羽の表情はさえなかった。当然だ。一度ならず二度までも夢魔による侵入を許しているという事実は、私にとっても認めがたい。

「状況の深刻さを察したのなら仕度を」

 けれど認めなければならなかった。










「――嗚呼、なんてザマなの」

 一人の少女がさも悲劇じみた声を上げると、彼女を取り巻いていた複数の気配がそれに応じる。

「繋がれたネズミ一匹捕まえられないなんて」

 ガシャリと、鎖同士の擦れ合う音に少女は大きく頭を振った。嗚呼なんてこと。――繰り返す言葉には呪詛さえ宿る。

「嗚呼、情けない」

 ガシャリ、ガシャリ。耳障りな音の響く部屋で少女は大きく頭を振った。
 跪く黒衣の男が屈辱に整った容貌を歪め、二人を取り巻く気配が男を嘲笑する。

「私が出向かなければならないというの」
「我が君、」
「私が出向かなければ、お前は剣一つまともに手に入れられないというの!?」

 ガシャンッ。

「……」
「嗚呼、なんて情けない」

 ガシャリ。

「私が言ってることはそんなに難しいことかしら」

 ガシャリ、ガシャリ。

「私はただ、あの剣が欲しいだけなのに」

 黒衣の男をそっと、覆いかぶさるように抱きしめ、少女を嘆くように囁いた。

「私は欲しいのよ。あの――」

 男は、首肯する。

「〝災いの枝[レーヴァテイン]〟」

 そしてその存在を、部屋を包む闇に溶かした。

「必ずや、かの剣を貴女様の手に」

 ガシャリ。

「約束よ」

 少女は喜劇じみて笑った。


「陛下?」

 はたと視線を窓の外へ投げたカールに、エイリークは何事かと無言の内に問う。カールはエイリークの視線に気付きながらも、窓の外へと向けた注意を逸らすことはしなかった。

「…っ」

 そして気付く。

「なに…?」

 次いで彼の視線を追っていたエイリークも、大気を伝う微かな魔力の波動に気付いた。けれどその魔力が明確に〝何〟であるかまでは掴めずに、そっと息を潜める。
 カールが弾かれるように席を立ったのは、その直後だった。

「エリー、ここ頼むよ!」
「えっ!?」

 閉めきられた資料室を吹き抜ける風とともにカールは姿を消し、不意打ちを食らったエイリークは完全に出遅れる。

「――なんだって言うのよ、もうっ」

 魔力は既に、王都のすぐそこにまで迫っていた。










「本当に、君って人は…」

 呆れとも、感嘆ともつかない息を吐きながらカールは微笑した。次元の狭間から取り出した魔鏡は、魔力を注いでもいないのに力を帯びカタカタと小刻みに震えている。

「僕は確かに帰っておいでと言ったけどね、」

 共鳴、しているのだ。

「これはちょっとやりすぎじゃないかな」

 パリンと、魔鏡の割れる澄んだ音が光差す庭に落ちる。流れ込む力の大きさに耐えられず砕けた鏡は光の粒子となって、周囲を高い壁に囲まれる中庭に満ちた。己に与えられた最後の役割が何であるかを魔鏡が理解しているのだと気付き、カールは笑みを深める。
 カールの知る世界と異世界との狭間を駆け抜けた魔力の塊は、その強大さに似合わず夜の静寂を乱さぬよう、静かに顕現した。

「おかえり、僕の――」

 カールははっと口を噤む。それは本当に咄嗟の判断で、彼自身己がそうした理由に気付いたのは、見知った少女の瞳に静寂を見てからだった。

「……君か、」

 カールもよく知る、彼の最も信頼する騎士の姿をした〝黒猫〟は、己の他に三つの存在を無事――全員が気を失ってはいたが――運び終えたことを確認すると、口元を笑みの形に歪めただけの、歪で、冷やかな笑みを浮かべる。

「これで満足か?」

 カールを正面から見据えながらも、〝黒猫〟の瞳はカールを映してはいなかった。
 カールは、その瞳に唯一映し出されることを許された存在を知っている。

「…なら私は戻ろう」

 一度眠た気に瞬いて、〝黒猫〟は肉体を手放した。足元をふらつかせた少女を支えるために伸ばしたカールの手は――ぱしり――、少女の意思によって払われる。

「エルフは無事連れ帰りました。大仕事だったんですから、暫くは休みを下さいね」

 有無を言わせぬ口調で告げると、暁羽はカールなど眼中にないとでも言うようにその場を後にした。残されたカールは払われた手をもう片方の手で覆い、深く息を吐く。

「君は――」

 光差す庭の魔法は、いつの間にか解けていた。










「まぁたあっちに行ってたんだー?」

 意識を取り戻すなり飛び込んできた甲高い声に、それでもなく悪かった機嫌が更に悪化する。

「それがどうした」

 殺気すら混じる言葉とともに周囲を囲っていた障壁を解くと、その外側で足踏みしていた同族――グレイプ――が、嬉々として境界の内側へ足を踏み入れた。

「こっまるんだよねぇ、あんたにちょくちょくこっち空けられちゃ」

 ちょこまかと周囲を跳ね回るグレイプの存在を疎ましく思いながらも、私は意識の大半をミズガルズの〝黒猫〟へと向けている。
 だからだろうか、

「王様は王様らしく、どーんと、王座で威張りくさってなきゃ」

 背中から胸にかけてを、文字通り灼熱の炎が貫いた。鮮やかに赤いその炎を、私は知っている。

「俺が代わってやろうか」

 ぐらりと体が傾いて、私と私のマナを貫いた炎の刃が消失した。

「ばいばーい」

 ひらひらとぞんざいに手を振るグレイプは、知らない。



「ウトガルド・ロキは死んだ!」



 高らかに宣言したグレイプは、かつて王であった者の屍を前に笑った。比類ない力持ち永らくこの世界を支配していたウトガルド・ロキは死んだ。己が殺したのだと、その力を誇示するように二度と動くことない屍を踏みつける。

「これで俺が王だ! 誰にも文句なんて言わせない。王は俺だ! こいつじゃない!」

 そんな彼を、ヨトォンヘイムに住まう誰もが冷やかに嘲笑していた。










「――黒猫?」

 ついさっきまでそこにいたはずの存在が消える。一人と一匹分の足音は一人分の足音になって、私が立ち止まると、暗い小路に名ばかりの静寂が落ちた。

「っ」

 次いで、焼け付くような心臓の痛みに苛まれる。咄嗟に握り締めた胸元で外套が不自然に歪んだ。これ以上の痛みを避けるため強張る体。不快さに顔を顰めることすらできず苛立つ私。その苛立ちを表現することも叶わず、この上ない悪循環。
 詰めていた息を探り探り吐き出す。哀しいかな、人間である限り呼吸は必要だ。――それがどんなに痛みを伴う行為だとしても。

「……?」

 けれど恐れていた苦痛が訪れることはなく、胸の痛みもいつの間にか引いていた。なんだったんだと独りごちて、黒猫の不在をここが王都であることを理由に切り捨てる。
 誰かさんが――こちらから助けを求めたとはいえ――好き放題やってくれたおかげで、失った魔力を取り戻そうと体が睡眠を欲していた。部屋は目前。辿りつきさえすればこの際床でも構わないから早く眠ってしまいたい。
 落ちたきり上がらなくなりそうになる瞼をなんとか持ち上げて、扉にかけた魔法錠を解くと、力尽きた体は本当にそのまま部屋へと雪崩れ込んで動かなくなった。扉が閉じると同時にかかる鍵の音を聞きながら、私は意識を手放す。

「――――」

 冷たい手の平が頬を撫でたような気がした。

 攻撃を仕掛けていた相手が魔族だと分かるや否や、暁羽は魔法書を捨て自らの魔術書を顕現させた。血の気の多い彼女らしい判断だといえばそうかもしれないが、対峙する相手が強ければ強いほど、切り札は最後まで取っておきたがる彼女にしては、早急な決断だとも思った。

「どう見る、蒼燈」

 深い紫色の毛並みを持つ地狼の言葉に、僕は努めて普段通りに返す。

「暁羽が負ける状況が思いつきませんね」

 地狼――夜空――の張った結界の強度は白の書を使った結界の比ではなく、そうそう破られることもないだろうが、それはあくまで〝暁羽がアルスィオーヴと戦っている間は〟という条件付だ。彼女が負ければ――王命に従いエルフを守ろうとする限り――僕たちに生き残る術はない。魔物相手ならまだしも、魔族相手に戦いを挑めるほどの実力と無謀さを、僕は持ち合わせていなかった。

「心配しなくても、彼女ならうまくやりますよ」

 そう、負けるはずがない。彼女は魔術師であり王の信頼厚い騎士なのだから、その誇りにかけて負けるはずはないのだ。

(でももし、貴女が負けるようなことがあれば――)





 無言のまま揮われる杖。咄嗟に地を蹴る魔族。焦らず杖先でその動きを追って術を発動すると、アルスィオーヴは舌打ちとともに力に力をぶつけた。

「学生にしてよくやる」

 魔法書を使っていては一生行使できないような大量の魔力を消費する術式を、魔術書は無言のままに発動させる。杖先の動きと意思だけで紡がれていく力を相手にするのはさぞ厄介だろうが、そういう意味で条件は五分だった。
 魔族はもともと、呪文や杖の類を使ったりはしない。

「だが力押しだな」

 アルスィオーヴが右手を掲げる。黒猫が肩に爪を立てた。わかってるわよと痛みに対する不満を訴える時間はない。

「魔力の絶対量で、魔族に勝てると思うな」

 振り上げた杖先を追って築かれる障壁。更に攻撃呪文を四重で重ね打って舌打ち。

「さらばだ、死を免れぬ人の子よ」

 そう言ってアルスィオーヴが落としたのは、両手で包み込めるほどの球体だった。見た目の割に恐ろしいほどの魔力が詰め込まれたそれはゆっくりともったいぶって落ち、途中ぶち当たった攻撃呪文を取り込んで、肥大する。

「うわやばっ」

 思わず声が漏れた。攻撃に攻撃をぶつけて相殺、あわよくば逆に攻撃へと転じてやろうという浅墓な思惑はあからさまに裏目に出て、その上障壁を築き直す時間はない。

「リーヴ!」

 そうこう考えているうちに球体は障壁に辿りつき、――爆発した。





 アルスィオーヴは笑う。対峙したミズガルズの子は確かに力ある存在ではあったが、自らの崇高な目的を妨げられるほどの存在でもなかった。所詮、人は人でしかないのだ。

「健闘は称えよう。…だが、」

 立ち込める土煙の下には、少女の肉片すら残されてはいないだろう。至近距離で魔族の持つ邪悪な力をもろ受け、髪一筋残されていればそれは奇跡に他ならない。この力の残滓すら、脆弱な人の身には致死の毒。初めから、結末は分かりきっていたのだ。
 この戦いはそう、言うなれば――。

「喜劇だな」



「――調子に乗るなよ、三下が」



 展開の速さに眩暈がしそうだった。確かに暁羽はやられたと、そう思い、また彼女の魔力も一際[ヒトキワ]大きな爆発とともに掻き消えていたのに、再び姿を現した暁羽は全くの無傷で、尚且つ魔力は先ほどの比ではないほどに膨れ上がっている。

「一体なんだって言うんです…」

 夢でも見ているようだ。いい加減非常識な人物だとは思っていたが、これはあんまりだろう。

「私たちに刃を向けたこと、後悔させてやる」

 どこかの悪役じみた言葉とともに地を蹴った暁羽の背で、肩につくかどうかほどの長さだったはずの髪が躍った。背を覆い隠すほどにまで伸びたそれを見て溜息一つ。非常識にもほどがある。

「お前の知り合いにはロクな奴がいない」
「…彼女がその代表格ですよ」

 暁羽の手の中で、杖は長剣へと形を変えた。彼女が真正の刃物を持っているところなんて式典くらいでしか見たことはないが、腕前はそこそこだと風の噂に聞いたことがある。

「どういう、ことだ…っ」

 アルスィオーヴが牙を剥き出して叫んだ。暁羽は無表情のまま、その瞳に僅かばかりの敵意を宿して飛躍する。

「喧嘩を売る相手を間違えたな」

 常人離れした跳躍力は魔力によるものだと思いたい。

「剣よ、我が名の下に示せ」

 でなければ彼女の方がよっぽど化物じみている。





 振り下ろした剣の一閃で両断した魔族の残滓は、反撃に打って出ることなく次元の狭間へと逃げ込んだ。

「……」

 私はそれを深追いする必要はないと判断して、空中での足場にしていた魔力を解く。落下のスピードを同じく魔力で抑え緩やかに着地すると、急激な魔力の開放につられ長さを増した髪が目に留まった。
 どうせ暁羽は、暇を見つけてまた切ってしまうのだろう。出逢ったばかりの頃を彷彿とさせて、私は長髪の方が気に入っているのに。

「…〝天は地に、地は天に〟」

 地狼が結界を解く素振を見せたので、まだ終わっていないことを示すために呪文を紡ぐ。暁羽の声で放たれる私の言葉は朗々と場に響き渡り、溢れる魔力がそれに応えて鳴動した。
 差し出した手の上に落ちる魔鏡の片割れが、魔力を伴った光を放つ。

「〝絶たれる事のない絆を手繰る。世界樹の枝を辿り開け、かの地への扉〟」

 剣を杖へと戻し、杖先に力を集め陣を描いた。必要なのはこの地に残る魔族の痕跡を消し去るための、一時的ではない強力な術式。大地に染み込んだ穢れを浄化しつくすまでは決して消えない、魔導の域に達しようかというほどの魔術。それを、口頭での術式と同時に構築する。

「〝応え、光差す庭〟」

 そして発動させた。
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