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 鈍く痛みを訴える頭を抱えてソファーに沈む。今日は目が覚めた瞬間からこの調子で、もしかすると痛みで目が覚めたのではないかと疑いたくなるほどだ。

「屋敷に帰ればいいだろう」
「まったくですよ」

 屋敷で帰りを待つ呪医見習いの妹のことを言っているのであろう、夜空の言葉に頷き返して体を起こす。

「暁羽がいれば今すぐにでもそうしたいところですがね」

 肩越しに後ろを顧みると、簡素な寝台にはあのエルフの姿があった。

「…逃げられたのか」
「貴方があっさり気を失っている間に」
「お前だって、転移中の記憶はないだろう」
「当然ですよ。僕は真っ当な人間なんですから」

 陛下曰く、彼女は強力な呪いをかけられているらしい。言葉と記憶を失ったのもその一端で、これから状況は更に悪化する可能性がある、と。

「真っ当、か」

 僕には想像も出来ないことだ。使者の証を持ち、記憶と言葉を失くし、呪いを受けたエルフが王城にいて、当のエルフは空間転移の後一向に意識を取り戻さない。
 これ以上、どこをどう弄れば状況が悪化するというのだろう。

「何か言いたそうですね、夜空」
「そうつっかかるな」

 例えば彼女を魔族に殺害される、とか?

「…八つ当たりでもしていないと、やってられませんよ」

 笑えない冗談だと思った。けれど天井に描かれた大掛かりな魔法陣が、冴えなかった陛下の顔色が、暁羽を一瞬とはいえ追い詰めかけた魔族の存在が、思考を怖ろしいほどの速さで悪い方へと引っ張っていく。

(次の任務は、絶対に断ろう…)

 ずきりとまた酷く、頭が、痛んだ。










「――暁羽」

 気を抜けば泥沼の眠りへ落ちそうになる意識をリーヴが引き止める。

「…ごめん」

 もう何度目かすら分からなくなったやり取りを繰り返して、私は小さく頭を振った。

「もうすぐ王城だ。気を抜くな」

 傾いた体が倒れてしまわないよう支えてくれていた腕が離れて、先に行けと背中を押す。足元を見ていた視線を上げると、城門を警備する兵の姿が遠くに見えた。

「今眠ったら、私どうなるの?」

 ただ歩いているだけでは眠ってしまいそうで、苦し紛れに会話を振ると、分かっているだろうにと、真紅の瞳に呆れが滲む。

「さすがに、目覚めるのは難しいかもしれないな」
「リーヴが呼んでも?」

 状況は怖ろしく深刻なのに、当事者である私には今一実感が湧かない。手の届く場所に本物のリーヴがいるという現実だけが鮮やかで、それ以外の全部が滲んでしまっていた。

「だから、夢魔を殺すんだ」

 夢魔による精神への影響が強まっているのだと、分かっている。でも理解は出来ていない。全てが表面的。全てが、他人事のように移ろう。

「そのためにあのエルフを――」



 鮮やかなのは、いつもたったひとつだけだった。



 魔法師の力を増幅させ魔族による干渉を防ぐ王城の防壁は強固だが、どちらにも当て嵌まらない存在に対しては完全に機能しない。一度その構成を知れば、逆に利用することも容易かった。

(西塔か…)

 暁羽の持つ魔法師としての力に作用する術式だけを選び取って、手を加えた物を隠れ蓑に目当ての者を探す。魔力で溢れた王城で個を特定するのは骨の折れる作業だが、そうすることで幾つかの手間が省けた。

「あの部屋には何重に魔法をかけた?」

 焦点を失いかけた瞳は弾かれたようにこちらを向き、無言のまま城の西側に位置する塔を示せば、緩く首を振られる。

「実験も兼ねて重ねがけしたから、覚えてない」
「攻撃系の陣は敷いていないな?」
「たぶん…」

 限界はもうそう遠くない。私がすぐ傍にいて支えていても、夢魔の力は確実に暁羽の精神を蝕んでいた。

「…行くぞ」

 今日中に全てを片付けてしまわなければならない。意図せずとはいえミズガルズの王が有利になるようことを進めることは癪だが、迷っている暇はなかった。

(今更潰されたりは、しない)

 これは私のものなのだから。










「――――」

 こえが、きこえた。ちいさく、ちいさく、わたしをよぶ、こえが。
 あのひとでは、ない。あのひとでも、ない。あのけものでも、ない。わたしのしらない、こえ。
 わたしは、しらない。なにも、しらない。だから、あのひとのことばにうなづいた。だから、こたえない。
 よばれているのが、ほんとうにわたしなのかさえ、しらないわたしは、わからないから。
 だからこたえない。だからきこえない。わたしはしらない。なにも。なにもかも。
 わたしはわたしがなんなのかさえ、しらない。しらなくていい。

「――ぅ、る」

 こえが、きこえた。ちいさく、ちいさく、だれかをよぶ、こえが。

「ゆ…ぅ、」

 わたしは、こたえなかった。だれかが、いったから。

「 ユ ー ル 」

 こたえては、いけない。










 本来そこにあった魔法錠は王の名の下に歪められ、部屋の中には覚えのある気配が三つ。既に足元の覚束無い暁羽を引きずるように連れ込んですぐに、鍵の歪みを修正した。

「――何者だ」

 そうして部屋の《内》と《外》は分かたれる。王城の持つ独特の気配は遠退き、逆に満ちた私の力を受け、暁羽が再び視線を上げた。

「自分の部屋に入るのに、名乗らなくちゃいけないの?」

 常と変らぬように、自身の変化を悟られぬように、暁羽は私の手を離れ歩き出す。

「不法侵入はそっちでしょうに」

 そう、それでいい。

「夜空。――陛下が仰ったんですよ。あのエルフをおくならここがいいだろうって…」
「私の守りがあったから?」
「おそらく」
「この部屋に何故こんなにも多くの守りが張り巡らされているか、蒼燈、貴方にわかる?」
「僕に貴女の考えることはわかりませんよ」
「それはね、」

 力を揮う。二つのマナの混じり合った力を。

「なにを…」

 部屋中に点在していた魔法陣は混ざり、反発し、増減を繰り返して、力を増す。

「「《閉じ込めるために》」」

 重ねた言葉は力を宿した。一度溢れた力は集束し、点在する光は小規模な爆発を繰り返す。

「閉じ込めるって……いったい…」
「馬鹿ね」

 暁羽は嗤って、天井に描かれた魔法陣の一点を指差した。

「一晩中この部屋にいて、あの魔法陣を読み解こうと思わなかったの?」

 刻まれた文字が命を得る。光を放ちながら流れ出した構築式は徐々に形を変え、巧妙に隠された本来の姿を顕わにしようとしていた。

「魔法書によって封じられて尚流れ出す力、魔術書を使って尚有り余る力、必要なのは力の逃げ道。逃げた力の溜まり場所」
「まさか…」
「ルーン文字で描かれた陣の特性くらい、知ってるでしょ?」

 力は反転し逆流を始める。大きすぎるが故に封じられ、逃がされていた力を急速に取り戻し、暁羽は目を輝かせ私を仰いだ。

「おまたせ」

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「最近那智が冷たくていけない」

 心底憂鬱気に、イヴリースは呻いた。

「いじめすぎたんだよ」

 強い酒を湯水のように飲みながら玉藻[タマモ]は意地悪く笑う。グラスの中で小さくなった氷を口に含み噛み砕くとガリガリ情緒のない音がして、無遠慮な冷たさが火照った体に心地よかった。

「…やっぱり?」
「気に入った相手ほど手酷くやるんだから、小学生のような習性じゃあないか」

 既に空になったボトルは三つ。まだまだ酔いは回ってこないが、はてさて、いつまで飲めたものか。――傷口に塩を塗るようなことばかり言いながら、玉藻はグラスに映る冴えない容貌を覗き込んだ。

「イスラの姿を見なくなったのもそのせいか…」
「そのうち本当に嫌われるよ」

 ばたり。イヴリースがカウンターに突っ伏すと、心なしか精彩を欠いた銀糸が扇のように広がって、玉藻の元に届いた。

「人間の子供に、何をそこまで入れ込むことがある」

 思いがけず真摯な響きの声に、イヴリースは息を吐く。

「やっぱり変?」
「…いいや。お前らしといえばそうだろうね」

 彼女自身戸惑っているのだ。

「けれど思わせぶりなことばかりしないことさ。お前が《そう》であることを割り切れるモノは以外と少ないんだからね」

 感情が奇妙な具合に揺れているのは知っていた。けれどそれを放置した。なぜなら彼女は《力》であり《精神》ではないのだから、心の乱れによって力を乱されることはない。
 そう、彼女は失念していたのだ。ここが《例外》の世界であることを。

「さぁさ、本格的に嫌われないうちにご機嫌取りにでもいっといで」

 イヴリースは《神の力》。《神の精神》ではない彼女にとって《感情》は決して《力》以上のものにはなりえず、またそうあるべきだ。――彼女によって生み出された《世界》の中では。

「お前がいつまでもそれじゃ調子が狂うんだよ」

 ぐずるイヴリースを無理矢理に談話室から追い出し、玉藻もまた深く溜息を吐いた。
 流した視線はカウンターの端へ。

「ここの全てが落ち着かなくなる」

 アベリアを映す小窓の外で、世界は落ち着きなく揺れていた。


 カーテンの隙間から差し込む光が床の上に温かそうな日溜りを作り出していた。

「――うるさい…」

 頭の上ではジリジリと目覚ましが鳴っている。

「那智ー?」

 タイミングを見計らったように俺を呼ぶ声。

「起きてるよー」

 枕に顔を埋めたまま意味のない返事をして、片手で枕元を探った。指先を掠めたシーツ以外の感触を引き寄せて、態とらしく古いアラームを止める。
 少しの間そのままぼーっとしていると、――カチカチカチカチ――必要のない秒針の音が二度寝を誘っているような、そうでもないような。
 どっちつかずの間[マ]があって、仕方なく這うようにベッドを出た。部屋を出て階段を降りリビングに顔を出すと、エプロンなんて俗なものを着けたイヴリースが朝食の用意をしていて、そんな朝の光景にも慣れつつある自分自身に――くらり――眩暈。

「顔洗って来い?」
「…うい」

 フライ返し片手にイヴリースは首を傾げた。高い位置で結われた銀色の髪がその拍子にキラキラと光りを弾いて、眩しい。

「なに」
「いや…別に? なんでもない」

 彼女は含み笑いを隠そうともせず、フライパンを置いた手の動きで俺を洗面所へと追いやった。鏡を見てもなんてことはない、いつも通りの俺がそこにはいて、何がそんなにおかしかったのか見当もつかない。

「なぁ、さっきなんで笑ってたの?」
「だから何でもないって、疑い深い奴だな」

 からかい交じりに笑われて、俺はそれ以上何も言えなくなった。

「いただきます」
「…いただきます」

 朝食は片目の目玉焼きとウインナー、トースト。トーストにイヴリースは真っ赤なジャムを塗って、俺はマーガリンを塗った。何もかもが現実離れしているくせにイヴリースの作る料理はいつだって美味しい。――それ自体が《普通》ではない可能性はともかくとして。

「そういえば…」
「ん?」
「お前、学校とか行きたい?」

 いつも唐突なイヴリースはまた唐突にそう言って、俺の反応を窺うように手を止めた。

「え…行けんの?」

 そういえばと、俺も手を止める。イヴリースという《異常》の登場で全てが狂ってしまったけど、彼女と出会うまで俺は《普通》の高校生で、高校にも当然のように通っていた。

「近場でよければな」

 イヴリース曰く、《俺》という一つの存在は「世界の裏側」である「ヒンタテューラ」に堕ちて一度《リセット》されてしまったらしい。だから何もかもを新しく始めなければならないらしいんだけど…どうだろう。

「戸籍とかどうなんの」
「葵に言えばなんとかなる」
「葵さんがかわいそうじゃん」
「仕方ないさ、それが仕事なんだから」

 きっと俺が一言「行きたい」と言えば、イヴリースは簡単に必要な準備を整えてくれるはずだ。あの時「死にたくない」と言った俺を助けたように。

「で、どうする? 別に今すぐ決めなくてもいいが、こういうことは早いほうがいいだろう?」

 イヴリースという女性はそういう存在で、彼女もまた自身がそうあることを誇りに思っていた。

「俺が学校に行ったとして…」
「行ったとして?」
「俺がいない間、あんたはどうするんだよ」
「…私?」

 一瞬イヴリースの声が驚愕に揺れて、俺は自身の失言に気付く。

「なんだお前、私の心配をしてるのか?」
「や、別に…そういうわけじゃ…」

 イヴリースはにたにたと笑いながら最後のパンを頬張った。そのまま機嫌よさそうに指先に残ったジャムを舐め上げて、意味もなく俺の方をじっと見つめる。

「違うって…」
「はいはい」

 俺はさも不満ですと眉間に皺を寄せ、わざとらしく彼女から視線を外した。

「暫くは私と遊ぼうな」

 拒否権はどこを探したって見当たらない。










「――って言ってたのは、自分のくせに」

 アルヴェアーレの十一ある棟のうち、エントランスのあるシュティーアから順番に数えて六つ目、近い方から数えて五つ目のスコルピオーンに、俺とイヴリースは暮らしていた。
 俺がヒンタテューラに堕ちてから既に一週間が過ぎて、同じだけここでの生活は続いている。その間、いつだって傍にいたイヴリースの姿が今はない。

「どこ行ったんだよ…」

 どこにいたって目立つ銀色を探して二階のテラスから中庭をのぞき込むと、中央にある噴水の水が床に彫られた溝を伝っているのが見て取れた。空から降って来る太陽の光に照らされて、流れる水はキラキラと眩しい。
 見渡した中庭にもイヴリースの姿はなくて、俺は手摺に寄りかかりながら体を反転させ、もう一度部屋の中に目を向ける。向かって左は俺の部屋、右はイヴリースの部屋で、俺たち二人はスコルピオーンの二階を丁度半分ずつ使っていた。

「……」

 部屋の中にもイヴリースの姿はない。シュティーアの二階を丸々使ったサンルームにも人影は見当たらないし、イヴリースの行きそうな所に心当たりもない俺はきつく眉根を寄せた。
 置いてきぼりを喰らった子供みたいだと、分かっていても溢れる不安を押さえ込むことはできない。大体、出かけるなら出かけるで声くらいかけて行かないイヴリースが悪い。

「――あ…」

 不意に、誰もいなかった中庭から声がして、俺は何気なく肩越しに階下を見下ろした。



 ――そして、硬直。



「馬鹿」

 私が声を上げてすぐ、ジンが至極面白そうにそう言った。顔がにやけている時点で彼があえて黙っていたことは明白で、私は零れそうになった溜息をなんとか呑み込む。

「君、なんでここにいるの?」

 噴水の縁に立つ私と、私の前に立つジン、私たちを見下ろす《彼》。今ヴィッダァと呼ばれるアルヴェアーレの中庭にいるのは明らかに出会ってはいけなかった三人だ。よくある少女漫画的な意味じゃなくて、もっと切実に。

「なんで、って……俺に言われても…」
「質問を変えようか」

 考えろ、私。今ここでどうすることが最良か。

「どうして君は、まだ、生きているの」

 ひゅっ、と《彼》が鋭く息を吸う。《彼》に背を向け私と向き合うジンはまるきり他人事のように笑った。かわいそうにと、音もなく彼の唇が嘯く。
 イヴリースの姿が見当たらないことだけが唯一の救いだった。

「…来て、マガミ」

 低く呟くと――ザワリ――周囲の大気が音を立てて研ぎ澄まされる。足下を蹴れば体は軽く、一躍で《彼》のいるテラスへと移動した私は気持ちを完全に切り替える。

「悪いけど、君には死んでもらわなきゃ」
「なっ…」
「それがイヴのため」

 振り上げた手の動きを追って私の影を飛び出したマガミは脇目も振らず《彼》へと襲い掛かり、私は《彼》の死を疑いもしなかった。――いや、そもそも彼は死んでいるのだ。彼にとってこれは《死》ではなく《消滅》。無への回帰。



「――させると思ったか?」



 神狼・大口真神を力で押さえつけるなんて荒業をやってのけたイヴリースは平然とテラスの手摺に腰掛けていた。

「なんだ、いたの」

 祈沙はさっさと大口真神を呼び戻し、俺は言われるまでもなく彼女の傍に移動する。

「残念だったな。今戻ったところだ」
「どこ行ってたの?」
「野暮用」

 ハァ、と溜息一つ。祈沙が白旗を上げた。

「…どうしてもその子を守り通す気なら、」

 俺はさっさとここから離れられるよう力を揮い、イヴリースはつまらなそうに肩を揺らす。祈沙は俺に寄りかかりながら目を閉じて、本当にどうでもいいことのように言った。

「無茶はしないでね」

 もしもその手に力があったなら、彼女は躊躇わなかっただろう。





「引き際は弁えているか」

 ぐらぐらと、俺の足下が揺れていた。

「なんで、」
「ん?」

 最初から頼りなかったそこは既に崩壊寸前。危ういバランスの上に立っていた俺はもう、自分一人の力では体勢を立て直せそうにない。

「あんたのために、俺が死ななきゃならないんだよ」
「…世迷言さ。祈沙はヒンタテューラに関わる全てが憎い」

 なのにあんたは手を差し伸べてはくれなくて、

「でもっ」
「お前が気にする必要はないよ、那智。私がついてるんだから」

 俺は突き放される。

「…何かあったら私をお呼び。お前が私の名を呼べば、私はいつだってお前の傍に駆け付ける。それが私たちの契約で、私が唯一お前に強いることだ」

 まるで呪いの言葉のように、イヴリースが放つ一つ一つの音は俺に絡み付いた。どうしてこんな風になってしまったのか、俺にはわからない。わかるはずがない。

「お前は《生きたい》言った。だから生きておいで」

 だって彼女は何一つ教えてはくれないんだ。

「私がお前を生かすから、」

 俺は望んだ。生きることを。そして今思い知った。

「お前はただただ生きておいでよ」





 本当は《生きている》ことに意味なんてない。





 血の雨が降る荒野に一人、立ち尽くす「悪夢」は言いました。

「こんな世界、滅んでしまえばいい」

 感情という名の色を失くし、酷く透明な言葉は流された血と共に乾いた大地に染み渡り、宿された力によって、ありとあらゆる命を拒絶します。
 夜を蝕む悪夢の化身は、たった一言でこの地を永遠の地獄と化すのです。

「こんな世界、いらない」

 その力の、なんと強大なことでしょう。

「なにもいらない」

 けれど同時に、悪夢の言葉はとても哀しげな響きを伴っていました。

「なにも、いらないんだ」


「ならば何故、貴様は涙する」


 愚かなことをと、悪夢に声をかけた男は自らを嘲笑いました。面識のない男でさえ、その魔術師の名は知っています。

「紅目の悪夢[ルビーアイ・ナイトメア]」

 その名は恐怖。その名は絶望。その名は終焉。その名は――

「まだ、生き残りがいたんだ…」

 死、そのもの。

「あらかた片付けたと思ったのに…おかしいな」

 男は理解していました。対峙する悪夢と自分の間にある、埋めようのない実力の溝を。刃を合わせて勝てる相手ではなく、逃げおおせることすら、存在を悟られた今となっては不可能であることを。

「あんまり考えないでやっちゃったからかな」

 それでも、男が「直死の宝石」と恐れられる真紅の双眸の前へその身を曝したのは、確かめたいことがあったからに他なりません。男は、最期に知りたかったのです。

「答えろ」
「…僕がなんで泣いてるか、だって?」

 虐殺の限りを尽くしながらも、歪むことのなかった容貌。にもかかわらず、悪夢の頬を絶え間なく伝う、――涙。

「そんなの決まってるじゃないか」

 男は魅せられてしまったのです。故に、その涙が何の、誰のための涙であるのかを知りたい。


「あの人が死んでしまったから」


 刹那宙を舞った紅目の悪夢は、魔術師でありながら剣士のように淀みなく剣を抜き、男へと斬りかかりました。

「だから僕は泣くし、世界なんていらないんだ」
「……貴様は、」

 男は紙一重で悪夢の剣をかわします。

「貴様は何故「――聞いてばかりだね、竜族の若造」

 即座に返された剣の切っ先は男の腕をかすめ、太刀筋を目にすることも叶わなかった男は、振るわれた剣の速さと悪夢が紡いだ言葉、その両方に戦慄しました。

「なっ…」
「気付かないとでも、思ったの」

 感情のこもらない声で、悪夢は嗤います。

「生まれて千年も経たないひよっこが、なんでこんなところにいるのかな」

 なんと愚かなことだろうと、言葉にされなくとも悪夢の瞳は告げていました。つい先ほど悪夢によって揮われた力は強大でしたが、人間より上位の種族である竜を殺すほどのものではありません。悪夢にとって男の力は些細なものなので、もし男が声を上げず息を潜めていたら、悪夢は男の存在に気付きもしなかったでしょう。
 なのに男は、自ら死を選択したのです。それは長命で思慮深い竜族にあるまじき愚行で、悪夢は同じく剣を抜いた男に再び斬りかかりながら、あまりの愚かしさに声を上げて笑いました。

「今の長老は、君みたいな子供も引き止められないの?」

 ありとあらゆる魔術を会得した悪夢にとって、剣での斬りあいは児戯に等しい行為ですが、小柄な体型ゆえの軽さをカバーするそのスピードには目を瞠るものがあります。現に幾多の戦場を渡り歩いてきた男は容易に翻弄され、少しも経たないうちに膝を突かされてしまいました。

「長、老…?」

 一片の曇りもない剣先を男の首につきつけながら、悪夢は首を傾げます。

「最近竜の姿を見ないのは、長老が引きとめてるからじゃないの?」

 そして男は、悪夢にとって驚愕の事実を口にしました。

「この大陸に…もう、竜はいない…」
「は…」
「俺で最後だ」

 カランと乾いた音がして、剣を取り落とした悪夢は、そのままふらふらと数歩後退しました。それに驚いたのは男の方で、凝視してくる視線にも構わず、悪夢は焦点の定まらない視線を落とします。

「竜が…滅んだ? この大陸で最も誇り高い種族が?」

 悪夢の声にははっきりとした動揺が現れていました。なりを潜めていた魔力の顕現が、男にその動揺が心からのものであることを伝えます。

「それに俺は〝長老〟なんて呼ばれる竜のことも知らない。竜は孤高だ。誰に従いもしない」
「…〝秩序がなければ、そこに輝く歴史は生まれない。故に竜を束ねる竜が必要だ〟――エンシェント・ドラゴンが滅んだのは知っていたけど、まさか…」
「エンシェント?」

 漏れ出した悪夢の魔力は瞬く間に広がり、男の目には世界が淡く紅に色付いて見えました。

「そんなことも知らないの」

 それは悪夢が日頃目にする世界の光景で、その中では、何一つ色鮮やかなものなどありません。唯一世界を染め上げる紅だけが確かな色です。

「……」
「本当、に?」

 壮絶な光景に絶句する男に、悪夢はどこか諦めを含んだ声で問いました。そして男が頷くと、力なく目を閉じます。

「そう」

 男の前に落ちていた悪夢の剣が独りでに鞘に収まり、紅の世界が消え、悪夢は落胆と共に肩を落としました。力ない右手が振られると、二人の周囲に溢れていた血と、おびただしい数の死体が消え失せます。
 そこには何一つ残されていませんでした。

「なら僕は君を殺さない。君が最後の竜だというのなら、僕は殺せない」

 いつの間にか止まっていた涙は再び流れ出し、悪夢の頬を濡らします。
 命拾いした男は、もう一度だけ、悪夢に問いました。

「何故、涙する」

 さらさらと流れていく涙を掬い上げ、悪夢は答えます。

「今日だけは、そう…失われた誇りのために」

 優しい風が、二人の間を吹き抜けました。



 朝からこの世の終わりのように曇っている空は今にも泣き出しそうで、冷たい風が頬を撫でるたび気分は降下していった。

「だから出かけたくなかったのに…」
「ぼさっとすんなよサクラ!!」
「……はいはい」

 手袋に包まれて、温かいはずの指先から失われた感覚を取り戻そうと両手をこすり合わせながら、サクラは深々と息を吐く。

「でも、貴女がいつまでも手間取っているのが悪いんですよ?」

 依然灰色の空へと目を向けたまま、渋々引き離した両手は宙に浮く水晶球へと伸び、そっと、空虚な輝きを包み込むように動いた。

「いい加減決めてください」

 刹那、沈黙する世界。

「――〝カトレア〟」

 注がれた力と意思に呼応して、カトレアは高く高く飛躍した。掲げた両手はサクラが許しただけの力を纏い振り下ろされ、叩きつけられた力は対峙する同朋の拠り所となる「匣」を、一欠片の情もなく破壊する。
 響き渡った断末魔の叫びにも浮かべた笑みを揺るがすことなく、カトレアはたった今倒した「パンドラ」の核である「災厄」を呼び寄せた。淡く水色に色付いた光はすっ、と胸に飛び込み、サクラの手元にある彼女の核が輝きを増す。

「これで満足?」

 カトレアの得意げな言葉に、サクラは一つ頷くことで返した。

「漸く帰れます」

 翳されていた手が退くと、カトレアの核はカトレアの中へと戻る。カトレアの中で広がった温もりはやがてサクラにも伝わり、全身から不機嫌オーラを出していたカトレアの匣は、幾らか持ち直した気分に任せ、その肩に己がパンドラを招いた。

「あぁ疲れた」
「言い方が態とらしいですよ」

 かつて世界中の災厄を集め作られた「パンドラの匣」。既に失われた匣の因子を魂に宿す「匣」。匣の意思によって具現化される災厄、「パンドラ」。

「お前が力をくれないからこんなに手間取ったんだぞ? 今日の奴は格下だったのに」

 闘う宿命を持って生まれる命。

「この間もそう言って油断して、最後の最後で酷い目にあったじゃないですか」
「あれは相手が特殊だったんだ」

 嗚呼どうしてと、サクラは誰にともなく胸の内で嘆いた。

「いい加減力任せに闘うのはやめてくださいよ。貴女燃費悪いんですから」

 どうして私たちは闘わなければならないのだろう、と。たった今破壊した「匣」の顔を思い浮かべながら。

「はいはい」

 パンドラは闘う。闘わなければならない。それが彼女たちの存在理由で、パンドラを宿す匣が唯一生き永らえる術。――そう、

「でもこれで、暫くは大丈夫だな」

 私達[ハコ]は同朋[ハコ]を殺[コワ]し、その命[サイヤク]を喰らう[トリコム]ことでしか存在を保てない。だからパンドラは闘う。自らの拠り所を守るために。

「…そうですね」

 なんておぞましい生き物。
「――アシェラ?」

 たとえるならそれは、取り合った手と手を心無い第三者によって断ち切られてしまうような感覚。
 中庭に面した廊下を大広間へと歩いていたジェノスは立ち止まった。胸の中にぽっかりと風穴を開けられてしまったような喪失感が、じわじわと広がっていく。

「(アシェラ、どこだ)」

 思いのほか強い口調になった呼びかけに、幾ら待っても答えはなかった。
 それどころかアシェラの気配は神経を研ぎ澄ませなければ感じ取れないほどに希薄で、――居ても立ってもいられずジェノスは走り出す。

「(答えろ!)」

 初めてのことだった。多くの魔使いがそうであるように、ジェノスも、孤独であることを知らない。

「(答えてくれ…っ)」

 自分という自我が誰とも繋がっていないことが耐え難かった。










「カフカ」

 いやあれは何かの間違いだろ。――そう思って今見た光景を忘れてしまおうと頭を振ると、ポラリスからしっかりとした声で呼ばれる。
 目ざといなぁと、当然の事なのに心中でぼやかずにはいれなかった。

「…やっぱり見間違いじゃない?」
「えぇ、私にも見えましたから」
「マジか…」

 がしがしと頭を掻きながら、たった今通り過ぎたばかりの中庭を省みる。危ないですよとポラリスが窘めるのも聞かずに暫く歩いて、見知った後姿がないことに溜息一つ。進行方向に向き直ると、ルーラが不思議そうな目でこちらを見ていた。

「何かあった?」

 他意のない問いかけに一瞬真実を話すべきか躊躇う。偽ったところで意味はないのに。

「ジェノスが血相変えて走っていったからさ、珍しいなーって」
「ジェノスが?」

 それは珍しい。――何か企むようにルーラが微笑んで、隣を歩くリドルが小さく眉根を寄せる。

「ルーラ」
「様子見だから、ね? ――クロウ」

 どこに隠れていたのか、ルーラの言葉に応じて彼女のローブから飛び出したカナリアは、何を言われるでもなく中庭の方へと飛び去った。
 クロウと呼ばれていたし、アルビノだからきっとあれば例の守護獣だろう。それならルーラが必要最低限のことすら告げなかったのにも納得がいく。

「出歯亀?」
「知的好奇心」

 取り合えず、ジェノスが血相変えて走っていた理由くらいは分かりそうだ。
 朝からこの世の終わりのように曇っていた空は、チャイムが四限目の終了を告げる少し前から冷たい雪を降らせ始めた。はしゃぐ女子にただ苦笑して見せた教師は早めに授業を切り上げて、暖房の効いた職員室へと引き上げる。我先にと教室を飛び出した何人かの生徒が、ベランダの手摺から身を乗り出し歓声を上げた。

「元気だねぇ」

 呆れ交じりの声が、落ちる。

「混ざってくれば?」

 私は皮肉混じりに笑って席を立った。

「冗談」

 自分の席を離れ私の傍に来ていたヤマブキも大仰に肩を竦めながら同じように笑って、スクールバッグ片手に教室を出る私の後をついてくる。
 廊下に出てみれば、どの教室も午前の授業を終えていた。

「私が寒いのダメなの、あんたも知ってるでしょ?」
「そうでした」

 今度は私が大げさに肩を竦める。

「私購買だから」
「うん」

 教室棟と特別教室棟の境でヤマブキと別れて、そのまま家庭科棟へ。滅多に使われることのない第二準備室に忍び込んで、内側からしかかからなくなった鍵をかけたところで、漸く、一息吐いた。
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