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 緩やかな上昇を経て、覚醒。
 満ち足りた闇の中、垣間見た月は鋭く目を焼いた。

「――ティア」

 身じろげば――ジャラリ――重く尾を引く鎖。冷たい手触りをなぞって嘆息。

「私を呼んだ、あなたはだぁれ?」

 ゆらゆらと頼りない月光が周囲を照らしていた。

「ティア・グランド」
「はぁい」

 声のする方を見ても、そこには闇があるばかり。ほんの隙間から差し込む月光は僅かだった。むしろそのせいで闇が濃くなっている。

「目覚めてしまいましたネ」
「そんなつもりはなかったのに」
「這い上がってくるのですカ?」
「こんなにも雁字搦めなのに」

 ティアは歌うように笑った。クスクスと、おかしそうに自分を地面へと縫い付ける鎖を持ち上げては落とす。

「嗚呼、私はなんで目覚めてしまったのでしょう」

 応える者はなく、紫水晶色の鎖だけが彼女の傍にいた。

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 人は何故生きているんだろう。どうせ死んでしまうのに生きてるってなんだか気持ち悪い。
 人が幸せになるために生まれるなんて嘘よ。だってもし人が幸せになるために生まれるのなら、幸せでない人に存在価値はない。幸せじゃない人は、生きながら死んでいる。
 人はきっと、死ぬために生まれるの。死は幸せなんかと違って誰にでも平等に訪れる。私もいつかは死ぬし、死神は例外なく全ての人を手に掛ける。
 幸せになるためなんかじゃない。人はいつか死ぬために生まれて、生きる。全ての人がいずれ自分の元に死が舞い降りることを知っている。

 だから私は生きている。

 幸せになるためなんかじゃない。幸福は不平等だから、私はそんなもののために生きたりはしない。
 でも、もし、私の元に幸せと呼びうるものが舞い降りたら、その時は――

「僕には君が必要です」

 私はその幸福のために生きよう。

 関わるべきではないと、ノスリヴァルディは言った。だが関わらずにはいれない。
 我らは物言わぬ木偶ではなく思考する駒なのだ。

(――主よ、気付いているか)

 力を欲しのたうつ彼[カ]の闇は、翡翠色の静寂に身を潜め期を窺っている。我が力は歪んだが、それもまた《唯一の声》によって本来の色を取り戻すだろう。目を覚ませ、我が主。身の程をわきまえぬクズが主の宝を狙っているぞ。
 主の願いと共に我は再び剣を取ろう。





 あの日失われたものを取り戻すのだ。





「――沙鬼[サキ]」

 苛立ちの隠しきれていない声に、沙鬼は心地いいまどろみから現実へと引き戻された。閉じていたせいで光に慣れていない目を庇いながら視線を上げると、そこにはさも不機嫌ですといった顔の彩花が立っている。
 王立魔法学校の中庭は、既に午後の講義が始まっていることもあってそこそこに静謐としていた。

「なに」

 傾けた首がゴキッと可愛くない音をたて、反射的に音のした場所を押さえる。彩花はニコリともせず、沙鬼が首に嵌めた銀色の《環》を指さした。

「入れるでしょ」
「…主語」
「あんた。王城。首輪」
「首輪じゃない、チョーカーだ」
「入れるでしょ」

 沙鬼は首を横に振る。

「連れてはいけない」
「……」
「分かりきったことだろう」
「…もういい」

 今にも零れ落ちそうな涙は視界から消え、向けられた背にはっきりと表れる負の感情。
 沙鬼にはどうすることもできなかった。首に嵌めた《グロッティの環》は沙鬼が貴族の従者であることを示す物であって、便利な通行証ではないのだから。

「……」

 溜息と共に憂鬱な気分を吐き出して、沙鬼は眠りなおそうと居心地のいい場所を探して身じろいだ。ごつごつとした木の幹には一箇所だけ丁度いい具合の窪みがあり、そこに落ち着くと、睡魔はすぐに訪れる。

「…ガキが」

 静謐。










「ごくろうさま」

 姿勢を正す兵に一瞥とともに短い言葉をかけ、暁羽は普段と変わらないゆっくりとした足取りで王城の《裏門》をくぐった。彼女の隣にはリーヴがいたが、そのことを咎められるでもなく、王城全体に張り巡らされた結界が反応するわけでもなく、想像以上に容易く果たされた侵入に思わず肩が落ちる。

「だから言っただろう」

 得意気に笑って、リーヴはさっと王城内の気配を探った。

「お前といれば問題ない」
「それもどうかと思うけどね」

 匿われているエルフの気配は巧妙に隠されていたが、見つけるのにそう時間はかからず、交わされた視線一つで行くべき方向を示され暁羽は頷く。
 魔法師の力を増幅させ魔族による干渉を防ぐ王城の防壁は強固だが、どちらにも当て嵌まらない存在に対しては完全に機能しなかった。それをいいことに、リーヴは暁羽の持つ魔法師としての力に作用する術式だけを選び取って利用し、少ない労力で望みを果たす。
 同じく気配を探っていた暁羽にもすぐにエルフの居場所は知れた。傍に憶えのある気配が三つ。

「呪屋か」

 ティーディリアス侯爵家が有名な召喚師の家系であるように、コールドチェーン伯爵家もまた有名な呪術師の家系だ。当然その次期当主である冬星・コールドチェーンにも、呪いに関して城付き魔術師とも肩を並べられるほどの知識と技術がある。
 だが所詮人だ。――心中で鋭く舌打ちしてリーヴは暁羽に急ぐよう促した。
 呪いは確かに無力化されていたが、あのエルフが抱える問題はそれだけではない。呪いはあくまでその《問題》の一部が偶然表面化したものに過ぎず、原因を取り除かなければ意味がなかった。

「影にいる」
「え?」
「地狼に姿を見られたくない」
「それはいいけど…体だけ別の次元に放り込んでおけば?」
「…そうだな」

 一度立ち止まって額に当てられた手がそのまま視界を塞ぎ、体の中に何か流れ込んでくるような感覚がして、手が消える。
 空になったリーヴの体が足元から次元の狭間に消えていくのを見送って、暁羽は何事もなかったように歩き出した。

(西塔でいいんでしょ? 六階の、私が使ってた)
(あぁ)

 精神を一時的に同居させた二人に音を伴う言葉は必要ない。その代わり表情や仕草から読み取っていた情報は手に入らなくなり、それだけが不便だと暁羽はぼやく。リーヴは呆れ混じりに溜息を吐いたが、気付かれることはなかった。

(そういえばここにもあったね)

 西塔唯一の出入り口である扉の前に立って、六度のノック。ノックの回数と魔力に反応した魔法錠は直接六階へと道を繋げた。

(もうすぐ消える)
「…そう」

 これが終われば休暇だ。


「――《包囲》」


 扉を開け放ち、杖を振り下ろす淀みない動作がどちらの意思なのか、二人にも分からなかった。その直後紡がれた言霊は確実にリーヴのものだが、彼が杖を振る必要はない。言葉に魔力を込めているのだから。

「《反転》《固定》」

 ちらりと視線を、突然の出来事に出遅れた蒼燈と傍観するつもりらしい冬星に向け、暁羽は内心嘆息した。
 エルフへと向けられていた杖は天井に描かれた魔法陣へと矛先を変える。言霊ではない単なる呪文は口の中で小さく呟かれるだけで、発動した魔法陣は鮮やかな紅色に輝いた。

(エルフの構成を書き換える)
(ここで?)

 振られた杖に応えてエルフを隔離した結界は魔法陣の真下へと移動する。

「何をするんだい?」
「…仕事」

 冬星の、場違いに楽しげな言葉が暁羽の気をそいだ。魔力はリーヴが思う通りに揮われ、またエルフの存在も、彼が望む通りに書き換えられていく。

「なにを…」
「まぁ、黙って見てなよ。見物だ」

 結界の中で、紡がれる言霊が帯のようにエルフを取り巻いた。幾重にも重なり合ったそれは途切れることなく、エルフの体に張り付いては消える。

「エド、カルマート、――フィーネ」

 最後だけは魔法師らしく締めくくって、リーヴはエルフの周囲に張り巡らせていた結界を解いた。エルフはゆるやかに真下のソファーへと下ろされ、魔法陣の放つ光が色を変える。

「起きろ、《ユール》」

 鮮烈な紅から、穏やかな翡翠へ。

「 は い 」

 そして、《覚醒》。





 床に刻んだ魔法陣を弄っていたリーヴが何気なく手を伸ばし、次元の挟間から何かを取り出す。
 取り出された《何か》が私宛の《手紙》であることに気付いたのは、そこに覚えのある魔力を見つけてからだ。手紙の表面を覆う魔法は所々破損していて、リーヴは視線だけで私にどうするか問う。

「……」

 私は無言のまま杖も持たない右手を振り上げた。腕の動きに合わせて放たれた魔力は綺麗に手紙だけを真っ二つにして、持っていたリーヴの手には傷一つない。

「いいのか?」
「どうせあのエルフのことよ」

 小首を傾げたリーヴは私を指差しておかしそうに笑った。

「そうじゃない」

 気付いた時にはもう手遅れ。

「――うそ…」

 目には見えない魔力の《鎖》が私の腕を引いた。窓際のソファーから引きずられるように立ち上がると、そのまま倒れそうになった体をリーヴが支える。

「迂闊だったな」
「笑い事じゃない! 何で言わなかったの!?」
「聞かなかったろ」
「教えてくれるって思ってたからよ!」

 鎖は手紙が消滅した場所へと続き、そこからどこか別の空間へと繋がっていた。多分その先にいるのは手紙を寄こした蒼燈とあのエルフで、そこにあるのは《厄介事》。

「手間が省けるからな」
「えっ?」
「どうせあのエルフには用があった」
「っ…やっぱりわざと黙ってたんじゃない!!」

 もう一度小首を傾げたリーヴは私から手を放し、私は自分の体が意思に反して強制的に転移させられるのを感じた。

「大丈夫」

 何が大丈夫だっていうのよ。





「――まさか成功するとは思いませんでした」
「あんたの魔法に引っかかったわけじゃないわよ」

 無造作に放り出された体を魔力で支える。確認しなくてもそこが《私の部屋》であることは空気でわかった。王城の中にありながら、この部屋からは王城に作用する一切の魔法が排除されている。

「というと?」
「身内の裏切り」

 けれどそれが完全ではなく、理由を探して気配を探ると、私と私に許されたものだけの出入りを許すよう設定されていた魔法錠は、王の名の下に歪められていた。

「ここにいろって言ったのは陛下ね」
「はい。…自分の部屋を除けばここが一番安全だろうから、と」

 確信のもと問えば案の定蒼燈は頷いて、私は苛立ちも露に舌打ちする。

「鍵が壊れてれば同じことよ」

 取り出した杖で扉を示し《鍵》を構成する魔法陣を取り出してみれば、幾つもの破損が目に付いた。

「あれで壊れてるんですか?」

 僅かだけど陣自体も歪んでいる。

「私に言わせれば穴だらけ」

 鍵として使うためだけなら、この程度の破損は問題ない。でも《守り》としては、もう使い物にならないくらいにボロボロだった。こうなったらむしろ地道な修正よりも再構築した方が早い。

「――リーヴ!」

 天井にある巨大な魔法陣に向けて叫ぶと、魔法陣の所々に青白い光が灯った。光はすぐに中央の円へと集まり、その中から何食わぬ顔でリーヴが現れる。

「まだ怒ってるのか」
「わかってるならご機嫌とったら」
「……」

 棘のある言葉にリーヴは無言で取り出された陣へと目を向けた。鍵は私の手を離れ、再構築されると共に本来の位置へと戻される。

「これでいいか?」
「とりあえずは」

「貴方はあのエルフのことどう思いまして? ノール」
「まだこの目で確かめたわけではないので、なんとも」
「見たって分かるわけありませんわ。私たちは賢者であって魔術師ではないのですから」
「ならどのような答をお望みで? 東の賢者殿」

 ノールのおざなりな言葉にエイリークはペンを置いた。

「陛下はなぜ、あの魔術師に固執するのかしら」

 写しかけの書類には栞を挟み、既に必要なくなった書類は手元から遠ざけ、必要なものを引き寄せながら、何も見ていないような目でノールを見やる。
 いい加減に過去の資料を漁る退屈な作業にも厭きてきていたノールもそれに倣った。しばし休憩と、外した眼鏡をペンと並べる。

「皆の前ではあくまで公平に振舞っていますよ」

 エイリークは口を噤み首を振った。

「…あの呼び名は渾名のようなもので、正式なものではありません」
「記録には残らずとも記憶には残りますわ。ともすれば胸に飾られる勲章よりも、それは重いものではなくて?」
「確かに…」
「わたくしは進言しましてよノール」
 今にも落ちそうだった瞼をしっかりと持ち上げ、暁羽は笑った。

「リーヴがそれでいいなら、いいけどね」

 憶えていないとでも思っていたのだろうか。忘れるはずもないのに。

「ならこの話は終わりだ」

 あの日の言葉が始まりだった。私にとっては単なる気紛れ、暁羽にとってもそれは単なる戯言だったろうに、成り行きで始まった二人の関係はいまだに終わりを見ていない。終わりが訪れることさえ、それが当たり前となった今では疑わしく感じる。

「うん」

 緩慢に絡んだ指先に引かれ、頭が下がる。枕元についていた腕は折れ体は落ち、寝台の軋む音がして、世界は横転した。

「…いつからだっけ?」
「なにが」
「一緒に寝なくなったの」

 自分だけぬくぬくと毛布に包まって暁羽は目を閉じる。私はわざとらしく溜息を吐いて体を起こした。

「一緒に寝たことなんてないだろう」

 立ち上がろうとすれば文字通り後ろ髪を引かれ、振り向けばもの言いたげな視線とかち合う。

「眠っていたのはお前だけだ」
「そうなの?」

 髪をつかんだ手に触れれば拘束は思いのほか簡単に緩まり、今度こそ寝台を離れ窓際のソファーへと移動した。


 時間がなかった。

「…すぐ終わらせる」

 特製の魔法陣が私に寄越す力は確かに膨大だけど無限ではないし、夢魔によって精神を蝕まれ魔力の源であるマナが正常に機能していない現状では、恐ろしいほどの速さで魔力を消費する。

「そうして」

 本当は蒼燈と夜空をどこかへやってしまいたいのに、魔力が安定しないせいでそんなことすらままならない。

「――蒼燈」
「…なんですか」
「邪魔しないでね」

 どす黒い何かが胸の中でわだかまっている。元々白くなんてない私の内側がどんどん汚されていくのが嘘みたいに鮮明で、――全部夢ならよかったのに。

「――――」
「っ……」

 リーヴが人の耳では聞き取れない言葉を紡ぎ始めると、私にかかる負荷が増した。何事かと身構えた夜空を蒼燈が制して、私は彼らの死角で拳を握る。

「――――」

 力の矛先は呪われたエルフ。傷付けはしない。ただ媒体として使い、私との繋がりを断ち切るだけ。
 私の中に夢魔は入れない。けれど夢魔は私の夢を喰らった。原因は意図せずして結ばれた《繋がり》。あってはならない綻び。意識を失っていたエルフと精神を切り離していた私の間に生まれた《目覚め》ようとする《無意識》。

「――いた」

 不運にも閉じ込められた夢魔。

「潰すぞ、感覚を切り離せ」
「簡単に言わないでよ」
「出来なければ言わない」
「はいはい」

 言われた通り精神的な感覚を肉体から切り離した刹那、消失する《わだかまり》。崩れ落ちかけた体を当然のように支えられた私は、リーヴの手の中に赤黒い石を見つけた。

「終わり?」
「…いいや」

 夢魔の命[マナ]。

「まだだ」





 人ではない。魔物でもない。魔族でもなく、ましてやエルフなんてものであるはずもない。ならば残された可能性は二つ。

「そろそろ説明してもらえませんか? 暁羽」

 神か、巨人か。

「その必要はないな」

 当然のように暁羽の傍らに立ち、彼女を支える男は不愉快そうに表情を歪め、こちらを見やる。

「お前たちと馴れ合うつもりはない」
「……」

 人らしさの欠片も持たず、魔物のように醜いわけでも、魔族のように禍々しいわけでも、エルフのように透き通っているわけでもないその男は、指先の動き一つで部屋中の魔法陣を止め、同時に溢れさせていた己の力を消した。

「それに…、」

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