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――囚われの魔女――

 光はなかった。ただ闇が広がっていた。それが世界のあるべき姿だと考えることにしていた。光はない。必要ない。だから私は闇に抱かれて今日も眠る。長い眠りと短い覚醒を繰り返していた。他にすることもない。いつか変化があるのではないかという期待は初めからなかった。こうなる前に絶望と共に閉ざされていたのだ、私の世界は。
 嗚呼何故、私たちでなければならなかったのか。何故、引き離されなければならなかったのか。何故、あの時手を離してしまったのか。
 愛する人の名さえ奪われ、私は何故生きてる。私が私を《私》と認識できない《真名の檻》の中で、私が個であり続ける意味がどこにある。
 傲慢な神々が欲したのは《器》であったはずだ。入れ物に心は必要ない。ならば何故、私はまだ思考している。
 嗚呼、誰か私を消してくれ。そうして永劫続くこの苦しみか解き放ってはくれないか。愛する人の名さえ思い出すことも叶わない無力な私に、僅かでも心動かされたのなら、どうか。

 私を殺してはくれないか。





――異端者の憂鬱――

 僕が取り返しのつかない過ちを犯してしまったあの日、オーディンは僕に言った。《災い》を誰の手も届かない、誰も見つけることの出来ない場所へ隠さなければならないと。だから僕は隠した。それが全ての始まりで元凶。あんな所へ隠すべきではなかったのに、僕はただ嫉妬していた。氷のように冷たかった弟の心を溶かし、あまつさえその愛を得た《彼女》に。そして同時に、存在を歪めてしまえばその価値は失われると信じてもいた。
 もたらされた結末はこれ以上ないほどの悲劇で、僕は最愛の弟とその恋人を、他でもない自分自身の過ちによって一度に失った。
 かつて、彼女が綺麗だと褒めてくれた金の双眸は彼女が吐いた呪詛によって黒く濁り、徐々に失われていく視力はじくじくと僕を苛み続ける。
 僕は恐れていたんだ。ヴァナヘイムでの生活に浸りきって、本当に大切なものが何なのかもわからなくなっていたから。守らなければいけなかったのは神族としての立場ではなく唯一の家族で、それだけが僕に残された最後の《真実》だったのに。





――パンドラ――

 それは箱だった。両手で包めば覆い隠せてしまえる程の、極々小さな、黒い箱。

「開けてください」

 時塔は別段特別なことを言いはしなかった。なのに僕は戸惑う。
 その箱はただただ黒いばかりで、到底開きそうな代物ではなかったからだ。

「開くんですかこれが」
「開くんですよそれが」
「開いたらどうなるんです?」
「封じられた《災い》が目を覚まします」
「それはまた…傍迷惑なものを拾ってきましたね」

 見た目通りと言えばそうだった。だが大きさからして、想像出来る災いの程度は知れている。

「開けてください」

 時塔は繰り返した。僕は頷くほかない。

「仰せのままに」

 残されるのが希望なのか、予兆なのか、予言者でもない僕には知る由もなかった。

「――ハガル」

 望んだのは唯一の命。失われた日常の回帰。





――不磨の呪い――

 二度と見ることもないと思っていた《彼》の剣が目の前に現れて、私は、二度と外れることもないと思っていた鎖を引きちぎる。四肢を留めた十字架は砕け散り、忌々しい闇の世界は崩壊した。
 私を器とする至高の災いは囁く。私が《私》であった頃のように、私が《私》であるために必要とする言葉を与えた。私は力を揮う。

「《砕けろ》」

 闇は晴れた。

「《消え去れ》」

 彼の名はまだ思い出せない。





――微睡の守護者――

 蒼燈の紡ぐ《破壊》のルーンは狂いなく《箱》を捉えた。粉々に砕かれた箱の残骸は意志を持った霧のようにわだかまり、少しもしない内に一振りの剣を吐き出して霧散する。

「値の張りそうな剣だな」

 それは到底時塔の言うような《災い》には見えなかったが、遠目に見ても《よくできた》剣だった。剣士ではない二人にはわからないだろうが、魔力なんてものに縁のない私には手にするまでもなくわかる。あれは、たった一人定めた主に尽くす剣だ。

「どういうことです? 時塔…」
「見ての通りですよ」
「その剣が災いを目覚めさせる《鍵》か」
「そういうことです」

 時塔は満足そうにいけ好かない笑みを深めて、蒼燈は疑わしげに剣を見やる。対照的な双子に挟まれた剣は、纏う魔力を忙しなく揺らめかせていた。

「…呼んでる」

 直感して、私は己の剣へと手を伸ばす。立ち上がり拾い上げたそれを腰に差すと、双子はやはり対照的な顔で私を見た。

「この剣が?」
「何を呼ぶっていうんです」

 嗚呼、やはり剣士にしかわからないのだろう、この剣の真価は。

「決まっている――」

 薄い硝子を引っ掻くような音が、私の言葉を遮った。前触れもなく歪み始めた空間に蒼燈が飛び退き、時塔の影が波打つ。

「己の主を、だ」

 空間を切り裂き現れたのは長い黒髪の女で、女は、体が地面に放り出されるのも構わず縋るように剣へと手を伸ばした。私は女の纏う魔力と剣との差異に緊張を高め、女が剣を掴むと同時に己の剣を抜く。

「来ましたね」
「どうだかな」
「沙鬼?」

 女は剣の主ではなかった。

「何者だ」
「……」

 返事はないが聞こえていないわけではないのだろう。掴んだ剣を宝物のように抱きしめて、女は手負いの獣を思わせる獰猛な目付きで私たちを睥睨した。体のいたる所から血を垂れ流し、睨み付けることでなんとか意識を繋ぎ止めているようにも見える。

「答えろ」
「人間ごときが…」
「下がりなさい蒼燈! 沙鬼!」

 時塔に言われるまでもなく、私は女が口を開いた次の瞬間壁際まで飛び退いていた。
 女はゆらりと立ち上がる。片手に持ち替えた剣の先を血溜りに浸し、天を仰ぎながら独り言のように呟いた。

「…魔族がいるわね」

 剣の鞘を重力に逆らい這い上がった鮮血は瞬く間に女の体を覆い、真っ赤なローブへと形を変える。それまで剥き出しだった警戒心など嘘のように口角を吊り上げ、女は再び剣を抱く。

「このまま戦うのは不利そうだわ」

 そして姿を消した。
 何の予備動作もない《空間転移》に目を瞠ったのは私だけではない。

「…逃げられたわね」

 言葉とは裏腹に安堵したような時塔の声が印象的だった。





――独りの夜――

 起き抜けに力を使いすぎたせいでふらつく頭を抱え、《次元の狭間》から抜け出す。これ以上の《転移》はどの道無理そうだった。
 空間の不自然な歪みと魔力の不安定さが重なって、せっかく止血した傷さえ開きそうになる。

「――――」

 中途半端に開かれた口から、彼の名が零れ落ちることはなかった。そのことがどうしようもなく哀しくで、もどかしくて、情けなくて、蹲る。《災い》は行動を促していた。そうする他ないことを理解しているのに、動くことが出来ない。
 ただ思い出したかった。

「――誰かいるのか?」

 他に何もいらないから。


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 リアリズ・クリアウォーターは黒と見紛う程に深い紅色の髪を持つ、赤目の吸血鬼だ。彼女は自分が吸血鬼と人間の混血児、《ダンピール》であると知るなり自ら命を絶ち吸血鬼としての生を望んだ変わり者で、吸血鬼としても変り種だった。

「アマギ、アマシロ、テンジョウ、喉が渇きました血を寄越しなさい」

 リアリズ・クリアウォーターの隷属、天城[テンジョウ]は夜のように暗い色の髪を持つ、黒目の使い魔だ。彼は悪魔と吸血鬼の間に生まれた魔界の異端児で、リアリズに前の主人を殺されるまでは戯れで命を奪われるような毎日を送っていた。

「二時間前に飲んだばかりだろ」
「喉が渇いたんです」
「……」

 ソファーでうつぶせに横たわり、気だるく手を伸ばしてくるリアリズの前で、天城は仕方なく膝を突き身を屈めた。リアリズは躊躇いがちに差し出された手を掴み、そのまま雪崩れるように彼を床へ押し倒す。
 強かに打ちつけた背中に天城が痛みを感じるより早く、リアリズは彼の喉元に喰らいついた。

「ッ、――」

 痛みと恐怖以外の感情が、吸い出される血と入れ替わるように流れ込む。抗い難いそれに耐えるため噛み締めた奥歯はギリッと嫌な音を立てた。

「…流されてしまえばいいのに」

 空腹を紛らわす程度に血を吸って、リアリズは一息つく。

「何を意地になっているのですか?」

 そう問いかけてはみても、天城が答えることはない。吸血行為の直後はいつもそうだった。天城は虚ろな瞳を虚空へ向けたまま、無防備に首筋を曝け出す。
 たった今治まったはずの衝動がまた疼き、眩暈にも似た感覚に囚われリアリズはもう一度天城に覆い被さった。

「ぁ、ッ……やめ…っ」

 二度目の吸血は容赦なく、相手が己の隷属であるのをいいことに、死なない程度の魔力を与えながら吸い尽くす。
 抵抗の素振りを見せた両手はすぐに力を失くした。

「や、ぁっ…――!!」

 びくりと一度引き攣って、それきり、天城は動かなくなる。さすがにやりすぎたかと、彼を押さえ込んでいたリアリズも顔を上げた。

「……」

 そして嘆息。

「アマシロ…?」

 気を失った天城はやはり答えない。彼の腹の上に乗り上げたまま、考えた末リアリズは吸血鬼らしく鋭く尖った爪を己の手首に押し当てた。抉るように皮膚を裂いて、溢れ出した鮮血は天城の唇へと落とされる。

「こうなることをわかっていて、どうして貴方は私の傍に来るんでしょうね」

 彼の本能の半分が、意識を差し置いてリアリズの手首に縋った。生きるための容赦ない牙に顔を顰めるほどの痛みを感じながらも、リアリズは気のない手つきで乱れた髪を宥め梳かす。

「こうなることをわかっていて、どうして私は貴方を傍に置くんでしょうね」

 天城は答えなかった。










『――――』

 《あるじさま》が、何か言ってる。僕から引きずり出した内臓を踏みつけたまま、怒ってる。僕は何もしてないのに、《あるじさま》は踏みつけた内臓をぐちゃぐちゃに混ぜ返した。

『――――』

 《あるじさま》が、何か言ってる。僕の腕を引き千切りながら、ドアの向こうに叫んでる。放り投げられるまま壁にぶつかって、ずるずると壁紙を汚しながら床に落ちても、《あるじさま》は更に僕を痛めつけようとはしなかった。

『――悪趣味な男ですね』

 《あるじさま》は、何も言わない。《彼女》に殺されてしまったから。

『全く気が知れない』

 動かなくなった《あるじさま》を床に転がして、《彼女》は血だらけの部屋を見渡した。《彼女》が指を振ると飛び散った僕の内臓と、引き千切られた腕は元通りになって、僕は、初めての経験に驚く。

『貴方、名前は?』

 《彼女》は僕の新しい《ご主人》になった。





「……夢、か…」

 気がつけばベッドの上、ということはよくある。むしろ《彼女》に血を吸われた後は大抵そうだ。誰が運んでいるのかは考えるまでもない。僕と彼女は二人で暮らしているのだから。

「……」

 時計を見て、溜息をついて、どうせ遅刻ならと急ぐでもなく仕度をした。彼女はまだ寝ている。日が落ちるまで起きることはない。
 朝食代わりに血でも吸ってやろうかと考えて、昨日までの空腹が嘘のように満たされていることに気付いた。けれど血を吸った覚えはない。憶えているのは彼女に吸い殺されそうになったことだけで、僕は満足な抵抗も出来ないまま気を失ったはずだ。
 大体、彼女が血をくれるはずがない。だって彼女は――

「学校、行かなくていいのですか?」
「っ! ……なんで、起きて…」
「もう九時ですよ? …送ってあげましょうか」
「――冗談!」

 けたたましい音と共に閉ざされた扉を暫くの間見つめていたリアリズは、大きく溜息をついてからベッドの上で寝返った。丁度いい場所を探しているうちに天城の足音と気配は遠ざかり、やがて見失う。

「喉が渇きました…」

 寝ているうちに襲ってしまわなかったことを後悔しても、後の祭りだった。





『貴方、名前は?』

 彼の《主》である悪魔の血を吸った私は、知っている。彼が《名無し》であることを。名前すら与えられなかったのだ、この《異端児》は。

『僕に名前なんてない』
『ならあげましょう』
『なんで』
『私が呼ぶ時困るからです』

 彼の存在を知った時から考えていた。彼を見つけた時から決めていた。

『天城にしましょう』

 だって彼に罪はない。ただ父親が吸血鬼で、母親が悪魔だったというだけで、そこになんの咎がある。

『てん、じょう…?』
『えぇ。それが今日から貴方の名前です』

 彼が虐げられる理由など、ありはしないのだ。

『いつか大切なものを守れるように』

 あっていいはずがない。










 気だるい午後の授業が終わっても、早々と帰る気にはなれなかった。確かに今、僕は一日中五体満足でいられる。だけど苦しいほどに血を吸われる毎日に満足はしていない。できるはずがない。こんな体にさえ生まれなければ、僕は――

「――浮かない顔をしているな」

 送ってあげましょうかと、からかい交じりに提案した彼女の顔が浮かんで消えた。考え込んでいたせいで、いつの間にか校門の近くまで来ている。道沿いに並んだ街路樹の上で、僕を見下ろす《銀の魔女》は微笑んだ。

「那智[ナチ]ならもう帰った」
「知ってる」
「じゃあここに何の用だよ」

 銀の魔女、《大いなる災厄》、僕や彼女とはまた違う意味で《異端》な女は意味深に笑みを深めて姿を消す。取り残された僕は暫くその場に立ち尽くした後、ゆっくりと帰路についた。朝は確かにあった血に対する充足感は既になく、そうしなければ生きていけない身とはいえ、《契約》という名の鎖で僕を縛る彼女への不満と一緒に、血への渇望が燻っている。
 今日は、どんなに頼まれても血なんてやるものか。










「なん、だよ…それっ!!」
「何って、血液製剤ですよ。見ればわかるでしょう?」
「そうじゃなくて!」

 嗚呼、どうしたものかと、リアリズは首を傾けた。

「むしろ、貴方は喜ぶと思っていたのですが・・・」
「な、んで…」

 飢餓感に負けて手を出した製剤は、実際舌の肥えたリアリズにとて到底飲めた代物ではない。それでもこうして美味くもない紛い物の血を飲んでいるのは、そうしなければ眠ることもままならなかったからだ。

「貴方、血を吸われるの嫌いでしょう?」





 初めて彼女に血を吸われた時のことは、今でもよく憶えている。あれは彼女が僕の《ご主人》になった直後のことだ。彼女は僕を安心させるように微笑んでから何度も頭を撫でて、そっと、啄むように血を吸った。僕は初めての快楽にただ戸惑うことしかできなくて、同時に未知への強い恐怖も感じていた。救いだったのは、彼女がけして悪意や敵意を見せなかったことだ。虐げられ続けた僕には当時、それすら戸惑いを助長させるものでしかなかったけれど。





「……デジャヴ」

 荒々しく部屋を出て行った天城の気配はすぐに感覚の外へと逃れ、残されたリアリズは溜息一つ。グラスに残った似非血を飲みほす。

「いいのか? 放っておいて」

 いつの間に入り込んだのか、後ろから髪を梳いてくるイヴリースの言葉に返す応えはない。

「貴方は以前、全てのものは対になるべくしてなるのだと、言いましたね」
「言ったな」
「どうやら彼は、私の《対》ではなかったようです」

 糸の切れた人形のように崩れ落ちたリアリズは、四肢を無造作に投げ出し、やがて目を閉じた。
 その姿がイヴリースの目には不貞腐れているように映って、銀の魔女は一拍置いて音もなく笑う。

「それはどうだろうな」

 リアリズは答えなかった。










 《家出》なんて子供っぽいことをするのは初めてだ。だけどそうしなければならないと、説明しようのない衝動に押され、気付いたら家を飛び出していた。彼女が追ってくるわけもないのに《裏側の世界[ヒンタテューラ]》へ逃げ込んだのは、もう何もかもが嫌になってしまったからなのかもしれない。
 元々その資格もないのに無理矢理世界と世界の境界を飛び越えたせいで、魔力は底を尽きかけていた。たまに紛れ込む不運な人間のように、今すぐヒンタテューラに呑み込まれることは免れても、自力で表の世界に帰ることはできない。そして僕の力は、契約主の血を吸わない限り回復しない。それどころかじわじわと減っていくせいで、徐々にこの世界へ呑み込まれていく恐怖に苛まれることになる。
 緩やか死は、言葉の響きほど優しくはない。










 自分がダンピールであると知って迷わず命を絶ったのは、人生を悲観したからではなく、自分自身の可能性を確かめてみたかったから。同時に飽き飽きしてもいた。同じことを繰り返すだけの毎日、上辺だけの友達、薄暗い未来に。歓喜はしなかった。ただ、幾らかマシになるだろうと、漠然と考えていただけ。
 吸血鬼になってまず気落ちしたのは、自分がまたしても《異質》であったこと。《異質な人間》を卒業したら次は《異質な吸血鬼》、皮肉なものだと、取りあえず二、三年は殻の中に引き籠っていた。空腹に負けて動き出す頃には、それも個性だと無理矢理割り切った。
 生きるために血を吸う度、私は私でなくなっていく。私にとって血は単なる糧ではない。たった一滴口にするだけで、私は血の主の記憶や知識、ありとあらゆる情報を何の苦もなく手に入れることができた。吸い殺してしまえば、人格だって取り込める。

 そうして私は、いつしか自分が誰であるかを忘れた。

 吸血鬼は孤独で、基本的に他の吸血鬼と行動を共にすることは、血族でもない限り殆んどない。私は自分が誰の血に連なる者かを知らなかったし、分かったところで、私のような異端を受け入れてくれる血族がいるとも思えなかった。血を吸う限り私は一人ではなかったし、私は半ば自棄的に《私》が《私以外》と混じり合うことを受け入れた。今使っているリアリズ・クリアウォーターという名前だって、実のところ誰のものかわかりはしない。私は生まれた時からリアリズだったかもしれないし、昨日からかもしれなかった。

 いい加減吸血鬼として生きることにも厭きを感じていた私を寸でのところで生へと繋ぎとめたのは、一つの噂。魔族にさえ疎まれる《異端児》の存在が、私の中に眠る《何か》の興味を惹いた。期待していたのかもしれない。

 《異端》という名の、《絆》に。





 けれどあの子は私の《対》にはなれなかったのだ。――飽くことなく髪を梳き続けるイヴリースをそのままに、リアリズはそっと上体を起こした。喪失感は拭えないが、それもすぐ気にならなくなるだろう。これまでだってそうだった。

「貴女はいつまでここにいる気ですか? イヴリース」
「とりあえず今日は泊まる」
「ならソファーへどうぞ」
「つれないな」
「ベッドは私の寝床です」
「天城は寝かせるくせに」
「使い魔なんて、所詮体の一部ですよ」
「ほぅ?」

 夜が近い。明かりのない部屋の中は薄暗く、イヴリースの銀髪だけが淡く輝いていた。

「ならどうして逃がした」
「彼が勝手に逃げただけです」
「その気になれば思考さえ操れるくせに」
「……」

 目が痛い。

「本当は何一つ忘れてないのに忘れたフリして、いったいお前は何を得られたんだ?」

 嗚呼、どうして、こんな魔女さっさと追い出してしまわなかったのか。

「《天壌》」

 気付くのはいつだって、取り返しがつかなくなってからだ。










 苦しさに気を失って、目が覚めたらまた彼女の隣、なんて、都合のいい奇跡は、きっと起こらないのだろう。――もう動くことはおろか思考さえ纏まらない状況で、僕はまだ期待している。彼女と出逢ってからずっとそうだ。
 心のどこかで期待してしまった僕は、勝手な想いを裏切られる度に傷付き、反発する。彼女は何も悪くないのに、全ての罪を、僕はあの優しい吸血鬼に擦り付けたんだ。
 今更悔やんだって遅い。謝る機会も与えられないまま、僕は闇に還される。

「――――」

 願わくば、彼女が僕の死に気付きませんように。










「リアリズ・クリアウォーター」

 手放されたグラスは床に当たって砕け散る。きらきらと、弾け飛ぶ破片が幾つも視界を横切った。

「お前たちはそろそろ、奇跡は起こすものだと気付いた方がいいよ」

 眩しさに目を閉じる。

「そうかもしれませんね」

 薄情な神モドキの笑う気配がした。





 あそこに入ってはいけないよ、と言うのは子供に対して逆効果だ。黙っていれば興味なんて持ちはしないのに、入るなと言われたらどうしても入りたくなってしまう。
 家の地下の、一番奥まった所にある扉の前で、俺は深々と溜息を吐いた。もうずっと使われてないその扉は魔法で厳重に施錠された上、物理的な鍵まで付けて封印されていた。こんなんじゃ、入りたくても入れないじゃないか。

「無駄足かよ…」「――リヴァル?」

 長居は無用と踵を返して、硬直。

「こんな所で何を?」

 わかりきったことをそ知らぬ顔で尋ねてきたのは、この家に昔からいる奇妙な女だった。沙鬼、と呼ばれるそいつのことを俺はよく知らないが、一般人じゃないことだけははっきりしている。何年経っても姿が変わらないなんて、どう考えたって異常だ。

「別に何でもねぇよ」
「扉を開けたいのか?」
「何でもねぇって!」
「手伝ってやってもいいぞ」
「なっ…」

 思いがけない沙鬼の提案に、俺は言葉を失う。昔から何を考えてるのかわからなかったけど、どこかでこいつは《親父側》の人間だと思っていたから。

「魔法錠が解けないんだろう?」
「……」
「私が解いてやってもいい」

 突然の提案に動けないでいる俺の横をすり抜けて、沙鬼が扉の前に立つ。伸ばされた手はいとも簡単に扉の中から《魔法錠》を構成する《魔法陣》を引きずり出した。
 肩越しに振り返った沙鬼の黒い瞳が、これほどに底知れないと感じたことはない。

「それであんたに何の利益があるんだよ。…バレたらただじゃすまないぜ?」
「構わないさ。お前が扉を開けてくれるならな」
「自分でやればいいだろ」
「いいからさっさと決めろ。開けるのか、開けないのか」

 冷静であることを装ってはみても、その時俺は確かに混乱していた。

「…開けてやるよ」

 ニヤリと口角を吊り上げた沙鬼が、幾重にも重なり合って歯車のように回る魔法陣の一つに触れる。奴の髪と同じどす黒い色をした光は瞬く間に全ての魔法陣へと流れ込み、パリン、と薄い硝子を割ったような音が強かな風と共に埃っぽい廊下を駆け抜けた。
 俺が目を閉じた一瞬の間にもう一つの鍵も破壊して、沙鬼が場所を譲る。

「開けるだけだからな…」

 そして扉は開かれた。



「『共に来るか? 人の子よ』」

 隙間なく抱きしめられて息が詰まる。苦しさに目が覚めて、何の嫌がらせだと溜息が零れた。流し込まれた人外の魔力は体の中で私の魔力と混ざり合い、力を増す。

「どうかしたの…」

 夢見も目覚めも最悪で、気分もけしていいとは言い難かった。起き抜けに告げられた《あの日》の言葉も、この状況では意味を成さない。
 誤魔化されてやるものかと肩を押しやれば、真夜中の侵入者はあっさり退いた。

「うなされていたぞ」
「嘘吐き」

 部屋の闇は深い。朝は遠く、ぼんやりと周囲が見えているのは注ぎ込まれた魔力のせいだ。

「うなされるような夢じゃなかった」
「そうは思えないな」
「リーヴ、何しに来たの」

 思ったよりも取り込んだ魔力が多い。――起き上がると同時に酷い眩暈に襲われて、思わず舌打したい衝動に駆られる。リーヴの前でなければ確実にしていた。

「行くな」
「…任務のこと?」
「二度目はないぞ」
「……わかってるわよそんなこと…。あの時は運がよかった」
「お前じゃない」
「…はっきり言ってくれないとわからないんだけど?」

 普段ならこの少ないやり取りで彼の言わんとすることを理解していたかもしれない。けれど今は頭が思考することを放棄していた。早く寝なおしたいと、気を抜けば体を重力に持っていかれそうになる。

「お前は私のものだ」


 耳元の髪をそっと掻き上げて、優しく目覚めを促される。まどろみの心地良さに沈みかけていた意識は緩やかに浮上した。
 目を開けても、そこには誰もいない。わかっていたのに落胆する心を持て余し、傍らの黒猫を抱き寄せた。

「――どうぞ」

 二度のノック、返事を待って開いた扉に黒猫は腕をすり抜ける。

「またサボりですか?」
「小言なら出てってよ」
「教授に呼んでくるよう言われたんです。貴女と――」
「僕をね」

 テーブルの上で揺れているはずの湯気は見当たらず、冷め切った紅茶を飲む気にはなれなかった。かといって、淹れ直す気もおきはしない。

「…顔洗ってくるから待って」
「急いでくださいね」

 黒猫が急かすように鳴いた。微温湯に手を浸して息を吐く。わかったからと肩を落として、鏡に映る自分は酷く憂鬱気だ。

「暁羽」
「今行く」

 脱いだ部屋着をバスタブに放り込んで、杖の一振りで仕度を整える。黒猫は擦り寄るように歩きながら器用に足下を縫った。

「誰が呼んでるの?」
「グラブス教授ですよ」
「あの人は嫌い」
「君にも平気で雑用言いつけるから?」
「戦略戦略煩いから」
「戦略部門の主任ですからね」
「ただの理屈っぽい賢者[ワイズマン]よ」
「それでもA級魔法師には変わりないんですから、あまり悪く言うとどやされますよ」
「私は特A級の魔術師[ウィザード]」
「校内ではただの生徒」
「言ったわね」
「――そろそろ着きますよ」

 一声鳴いた黒猫が姿を消す。他愛のない話をするうちに気分は幾らか浮上していた。
 先に立って扉を叩いた蒼燈が紳士らしく道を譲る。十分に開かれた《会議室》の扉をくぐると、そこにグラブス教授の姿はなかった。

「スヴィーウル卿…?」

 代わりにいたのは《王騎士》グロイ・スヴィーウル。輝かしき旅人。

「早かったな」
「どうして貴方がここに…」
「あんたに用があるんだ」

 少なからず面識はあるけれど進んで関わりたくはない相手だ。

「正確にはあんたのチームに、だが」
「僕たちにですか?」
「まぁ立ち話もなんだ、座れよ」

 促され、渋々適当な席に座ると苦く笑われる。嫌われてるなと、当たり前のことを言うので鼻で笑ってやった。

「根に持つ方だから」
「あの時の事は謝っただろ?」
「魔族と剣一本で戦ってから言ってくれる? 生きて帰れたらの話だけど」
「…悪かった」

 斜め前に座る蒼燈が目を瞠ったことに気付いて、グロイは居心地悪そうに謝罪する。冬星は口元を手で隠しながら楽しそうに笑っていた。

「それで? 用って何なの?」

 ほっと安堵の息を吐いて、グロイが居住まいを正す。懐から取り出されたのは手の平に収まる程の記録用魔法陣で、記されていたのは何の変哲もないこの国の地図だった。

「まず断っておくが、これは陛下からの勅命だ。あんたたちに拒否権はないし、失敗も許されない。口外することもだ」
「東方の地図ね」
「あぁ、こっちが今いる王都で、目的地はここだ」
「…冗談でしょ?」
「いいや」

 四人のほぼ中央で、魔法陣から展開した地図が回っている。グロイが指差したのは王都の真反対、東の国境近くにある大きな森。

「《魔女の棲む森》にまた行けって言うの? 今度は蒼燈と冬星まで連れて」

 また繰り返す気かと、怒気の滲む言葉にグロイは表情を歪めた。
 今でもはっきりと思い出せる。昼間でも薄暗い森の中で聞いた魔族の笑い声を、罠に嵌められ魔力を失った瞬間の絶望を。

「それがあんたの仕事だ」

 怒りに任せ彼を殴ってしまえたらどんなによかっただろう。


 胸の高さに浮いた黒い《魔法書》が、ぱらりと独りでに捲れる。

「黒の書第十二項、風[ウィンド]」

 手にした杖は狂いなく振るわれた。

「風よ、逆巻け」

 ぎゅるり。



〈――そこまで!〉



 頭の上から降ってきた《試験官》の声に、暁羽[アキハ]・クロスロードは杖先を上げた。

「フィーネ」

 終了を告げる言葉と共に《マナ》を閉ざせば発動直前の魔法は無力化され、魔力の余韻だけが残る。

「完敗です」

 ガラガラと崩れ落ちる《盾》の魔法を前に、蒼燈[ソウヒ]・ティーディリアスは諸手を上げた。

「魔法を使うまでもなかった?」
「子供だましでもしないよりマシでしょう」
「バレバレだけどね」
「……」

 勝ち誇った笑みを浮かべ、暁羽は《黒の書》を閉ざす。
 試験中封鎖される出入り口はいつの間にか開いていた。


「……僕は、」

 力の入らなくなった体には既に感覚もなく、視界に入っていなければその存在さえ疑いたくなるほどだ。

「いつかこうなるんじゃないかと思ってたよ」
「そう…」
「わかってたんだ」

 乾ききった瞳が今にも泣き出しそうに思えて、私は目尻を下げる。不思議と、表情だけは自由に出来るような気がしていた。

「なら、哀しくないわね」
「君は馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。…哀しくないわけないじゃないか」
「でも乗り越えられるでしょう?」
「……」
「恭弥なら大丈夫よ」

 立ち尽くす貴方に差し伸べようとした手はピクリともせず、最期に触れられないことが酷く寂しかった。出来ることなら貴方の温もりを感じたまま眠りたいなんて、我侭かしら。

「だから私も大丈夫」

 貴方のおかげで人として生きる喜びを知った。平凡ではないけど幸せだった毎日の、やはり平凡ではないこの結末に、私は少なからず満足しているの。本当よ。バタフライ・ラッシュとして殺戮と破壊の限りを尽くす日々となんて、比べるまでもないわ。だから、いいの。早すぎるなんてことはない。十分すぎるほどに、私は幸せだった。そしてこれからも。

「おやすみなさい」

 貴方と過ごした日々は、けして偽りではなかったのだから。

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