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「あたしはもしかすると、あんたのことが好きだったのかもね」
「歩…」

 冷たく、病的に白いリノリウムの床に真赤な血溜りが広がっていく。流れた血が多すぎた。――もう助けられない。

「どうして僕を呼ばなかったの」

 絶望が形を成したような光景を前に、羽音はそう呻くのが精一杯だった。

「呼んだら、来てくれた…?」

 とくり、とくりと、心臓の鼓動にあわせ広がる血溜りが、靴の先を濡らす。

「たぶん…」
「嘘吐き」

 刻一刻と命が失われていく。けれどそれが嘘のように美しく、歩は笑った。嘘吐きと、繰り返される言葉に音はない。――歩?

「あんたはあたしが心を込めて呼べば、絶対に来てくれた」
「だったらなんで、」
「だから呼ばなかったのよ」
「……」

 羽音が押し黙ると、歩は少し哀しそうに目尻を下げた。そんな顔をしないで。――言葉は再び音を失くし、羽音は息を呑む。

「あゆみ、」

 魔法でなんとか繋ぎとめている命が、失われようとしていた。致命傷を負った体に絶えず魔力を注いでいる羽音には、そのことが本人以上にはっきりと感じられる。
 泣かないで。――歩の声なき声は、羽音の心を大きく揺さぶった。

「僕はもしかすると、君のことが好きだったのかもしれない…」
「――、…いじっぱりね」

 呆れたような言葉とは裏腹に、歩は我が子へ無償の愛を注ぐ母親のように笑う。辛そうに持ち上げられる手を思わず握った羽音が後悔するほど彼女の体は冷え切っていたが、その表情に哀しみの色はない。ただただ愛おしそうに羽音を見上げ、最期に一度、はっきりと告げた。



「愛してる」



 左手の中指に嵌めた指輪が熱を持っている。哀しみが大きすぎて、涙さえ出なかった。

「気付いた時には、いつだって遅いね」

 温もりの失われた体へ、流れた血が戻っていく。羽音は行き場のない感情を押し殺そうときつく目を閉じた。再び開いた時、そこに惨状の名残はない。胸に開いていた穴さえ綺麗に塞がっている。まるで、眠っているようだ。
 本当に眠っているだけなら、こんなにも胸が苦しくなることはなかったのに。

「おやすみ、歩。よい夢を」

 閉じた瞼に口付けて、羽音は歩の体を《次元の狭間》へと隠した。全てから隔絶された《次元の狭間》ならもう二度と、歩が誰かに害されることはない。
 羽音は自分一人になった真白い部屋で、唯一鮮やかな色彩を放つ円柱のガラスケースに目を向けた。その中を満たす淡い青色の液体は、羽音の視線を受けて柔らかく輝く。

「インフィ」
〈――はい〉
「僕と来て」
〈はい〉

 機械で合成された少女の声は淀みなく、そのことに羽音は幾らか救われ微笑んだ。中の液体が光ることをやめると、ガラスケースは床へ格納され、部屋の照明も半分に絞られる。どこまでも白く、白すぎて現実味の薄い研究室を、羽音は一人後にした。この場所を現実足らしめていた女性はもういない。見る者のいない夢ならば、それはないも同じだった。

「――――」

 最後の照明が絞られる直前、囁かれたこの世で最も魔術に適した言葉を、まるで歌っているようだと褒める人も、もういない。
 嗚呼――

「静かに、息つくように、消えてしまえたらよかったのに」

 消えてしまいたい。










 薄暗い裏通りに面した扉を、羽音は決められたとおりの回数叩いて押し開けた。扉の向こうは小ぢんまりとした部屋で、明かりは机の上に置かれた蝋燭一つきり。視界はぼんやりとしかない。

「小夜、いる?」

 羽音は後ろ手に扉を閉め、部屋の中へと呼びかけた。

「――何の用だ」

 どこからとも知れない応えとともに、蝋燭の火が掻き消える。
 必然的に、窓のない小部屋は闇に包まれた。

「預かって欲しいものがあるんだけど」
「おいていけばいい」

 何を、とも聞かず、部屋の主は告げる。羽音は無言で、机の反対側にあるソファーの上に《次元の狭間》の出口を開いた。

「すぐに取りに来るよ」
「どれほど」
「ジンクスの仕事が終わったら、すぐに」
「まだあんな盗賊どもに手を貸しているのか」
「そうだよ」
「気が知れないな」
「そうだね」

 羽音の大切な《預け物》を吐き出して、《次元の狭間》は閉ざされる。

「……」

 羽音は踵を返した。

「手放したくないのなら傍に置けばいいものを」

 再び蝋燭の灯された室内で、部屋の主は呆れ混じりに呟く。
 最後に《預け物》を一瞥した羽音の目が、全てを物語っていた。今はそれが何よりも大切なものなのだと、縋るような目。これを失っては生きていないのだと、隠し切れない本心が溢れている。

「馬鹿が」

 優しさの滲む声で、部屋の主は最後に一度吐き捨てた。

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 淡い水色に染まった無重力空間を、時折、目の覚めるような色彩の光が駆けていく。ゆらゆらと一所[ヒトトコロ]で漂ったまま、まどろみながらも亜紗人[アサト]はその光を眺めていた。赤、青、黄、白や緑。幾つもの光の筋が絶えることなく流れていく。
 そのまま世界に溶け込むような錯覚と共に意識を手放すのが、亜紗人はたまらなく好きだった。いっそこのまま目覚めなければいいとさえ思っている。
 亜紗人が漂っている場所を一言で言い表すなら、そこは《海》だった。亜紗人はその海底で漂い、光は海面近くを行き交っている。
 暫くすると、光の一つが緩やかに下降して暗がりの亜紗人を照らした。眩しさに目を覚ました亜紗人は一度不愉快そうに顔を顰める。

「――――」

 開いた口から零れたのは大きな泡。不満を訴えたはずの言葉はそのまま海面へと向かい、弾けて消えた。亜紗人は諦め混じりに表情を崩して、自分の周囲を漂う光を手元に招く。光は手首に埋まった、小指の先ほどの大きさしかない石に吸い込まれ亜紗人に溶ける。光はメッセージだった。早く帰ってきなさいと、仲間が呼んでいる。

(もうそんな時間か…)

 亜紗人が手を伸ばすと、幾つかの光がまた彼に溶けた。取り込んだ情報は瞬時に亜紗人の物となる。
 《陸》の時刻は正午を回ったばかりで、いわるゆる昼食時だ。空腹は感じないが、呼ばれたからには戻らなければならない。――この居心地のいい海の底から、息苦しい陸へと。
 重さのない体を起こして、亜紗人は立ち上がった。頭上を駆けていく光を一度名残惜しそうに見上げると、その姿は泡となって消える。泡はそのまま海面へと向かい、弾けて消えた。
 行き交う光たちはほのかに気落ちした様子で、それでも海面を駆けていく。










 室内の空調は完璧。なのに入るなり肌寒さを感じたのは、きっと剥き出しのコンクリートのせいだ。四方の壁は打ちっ放しにされたまま放置。部屋の雰囲気に合っていると言えば聞こえはいいが、雪夜[ユキヤ]に言わせてみればただ殺風景なだけだった。せめて明るい色の家具でも置けば寒々しさも幾らか紛れただろうに、がらんとした室内に家具はたった一つしかない。部屋の中央に置かれた灰色のソファー。ただそれだけ。

「亜紗人、有栖が呼んでるぞ」

 ソファーが出入り口に背を向けているせいで姿は見えないが、雪夜は亜紗人がそこにいると決め付けて声をかけた。根拠ならある。亜紗人は俗に言う《ヒッキー》なのだ。だからこうして誰かが呼びに来ない限り部屋を出ることはない。

「亜紗人」

 一度目の呼びかけに返事はなかったが、二度目には少し間をおいて反応があった
 ソファーの背もたれから生えた腕がひらひらと揺れる。雪夜は一度首肯して、すぐさま踵を返した。

「早く来いよ」

 ひらりとまた一度、腕が揺れる。

「――――」

 開かれた口から零れたのは、泡ではなく乾いた吐息だった。耳が痛くなるような静寂の中、亜紗人は重い体を起こしにかかる。そしてまた溜息。

(めんど…)

 現実世界ではあの海の中ほど自由に動けない。そのことが亜紗人の心にいつも枷をかけていた。――早く戻りたい。
 別に俺が行かなくてもいいだろうにというぼやきを呑み込んで、亜紗人は首にかけたカードを弾く。カードは《隠者》の描かれた、金属製のタロットカードだった。










「揃ったね」

 亜紗人の部屋は喫茶《アルカナ》の地下にある。そこへ通じる扉は《アルカナ》の店内にしかなく、訳あって巧妙に隠されていた。

「じゃあ、仕事の話を始めようか」

 面倒なことだと、隠し扉を元の位置に押し込みながら亜紗人は内心息をつく。集められた誰もが流風の言葉に耳を傾ける中、亜紗人だけが気乗りしない顔で壁に寄りかかっていた。
 だが誰も、そんな亜紗人の様子を気にも留めない。

「今回のターゲットはこの国最大の企業《カンパニー》。獲物は、カンパニーが極秘裏に開発した最新鋭の人工知能だ」

 待ちに待った仕事が、始まる。

「さぁ、パーティを始めよう」

 それが合図だった。

 昼間は活気に溢れ、人々の笑い声が絶えない街も、時計の針が頂点を仰げば静まり返る。
 ひっそりと、ともすれば息つく音さえ響いてしまいそうな夜の街を、男とも女ともつかない影が歩いていた。中肉中背、特にこれといってあげられる特徴のない、ありふれた人影だ。
 ぽつりぽつりと灯る街灯も、闇の深さに影を照らすことは出来ない。
 月は、我関せずと厚い雲の向こうに隠れてしまっていた。

 かつーん

 それまで些細な衣擦れの音一つ立てず闇を闊歩していた影が、足音高く立ち止まる。昼間なら車の行き交う道の真中で、影は懐から一枚のカードを取り出した。薄い金属で出来たカードは角の一つを細い鎖に繋がれているが、今はそれさえ闇が覆い隠している。
 カードを月に翳すような仕草をして、影は微笑んだ。

「――――」

 そっと、呼吸するように発せられた言葉が夜風に攫われる。
 たたん、と石畳の地面を蹴った影は、街灯の頭を踏みつけ更に高く跳躍した。

「――――」

 足首までを覆う、裾の長いコートが翻る。ばたばたと布のはためく音が静寂を乱すと、月は漸く雲の切れ間から顔を覗かせた。
 道沿いに並ぶ建物の屋根に着地した影の姿が、月光で浮き彫りになる。中肉中背、特にこれといってあげられる特徴のない、ありふれた影は、月と同じ色の髪を揺らしてもう一度カードを翳した。

「――――」

 そっと、呼吸するように発せられた言葉が夜風に攫われる。










「静かに、息つくように、消えてしまえたらよかったのにね」

 喫茶《アルカナ》を仕切る女主人、有栖[アリス]は、カウンター席で物憂げに息をつく客に一杯のココアを差し出した。

「砂糖は?」
「病気になるわよ」

 客の名は羽音[ハノン]。客といっても、訳あって一つ屋根の下で暮らす有栖の仲間だ。

「貴女のココアは甘くない」

 一目見ただけでは男とも女ともつかない中性的な容貌を苦く歪めて、ココアを一口。羽音は何かに耐えるようきつく目を閉じた。

「どうぞ」

 アルカナには、砂を吐くほどに甘いホワイトチョコレートが常備されている。本来はデザートに使うためのものだが、一口大に切り分けられたそれを羽音は嬉々として口にした。
 常人なら二、三欠片で手が止まる甘さも、羽音にかかれば五分と持たない。すっかり空になった器を引き寄せ、有栖は苦笑した。

「死神なのに早死にしそうね」
「それはただの呼称であって、僕は真性の死神じゃないよ」
「そうでした」
「…嗚呼――」

 静かに、息つくように、消えてしまえたらよかったのにと、謳うように羽音は繰り返す。
 病的な科白ねと、有栖は目を伏せた。

「狂ってはいない。これが正常なのだから」

 舞台じみた科白だと、羽音は内心自嘲する。

「嗚呼、消えてしまいたい」





 柔らかいドアベルの音が店内に響く。

「いらっしゃいませ」
「どうも」

 訪れたのは有栖も既知の客で、注文を聞く前に用意されるブレンドコーヒーに、客――流風[ルカ]――は小さく微笑んだ。

「ありがとう」

 二人の間に余計な会話はなく、沈黙を楽しむように流風が目を細めると、手をつけられていないカップとあいまってまるで猫がまどろんでいるようだった。男にしては華奢な体躯も、その印象を強めている。

「羽音はいつもここで寝ているね」

 カップから立ち昇る湯気が幾らか治まった頃、唇を湿らせた流風が微笑んだ。視線の先には、カウンターに突っ伏して眠る羽音の姿がある。
 肩にかけられたブランケットは、彼の昼寝専用だ。

「寝心地がいいのかしらね」
「カウンターで?」

 冗談めかした有栖の言葉に流風も肩を揺らす。背中を丸めた羽音の姿を見る限り到底そうとは思えなかったが、毎日のように目にするとなれば話は別だ。窮屈な体勢など、本人は気にもしていないのだろう。

「昔は貴方だって、よくここで寝てたじゃない」
「それは…」

 突然話を振られ、流風は言葉を詰まらせた。

「……あの頃はソファーがあったじゃないか…」
「ならまた置こうかしら。ピアノと一緒に」
「……」

 考えた末の反論も微笑みと共に封じられ、沈黙。降参だと諸手を上げると、有栖は声を立てて笑った。

「寝心地がいいのかしら?」

 繰り返される問いかけに、目を伏せる。

「最高だよ、ここは。居心地がよすぎて困るくらいだ」

 ゆっくりと、一言一言を噛み締めるような告白は静かに優しい空気に溶けた。

「光栄だわ」



(バカップル…)

 起きるタイミングを逃したカノンはどうしたものかと内心嘆息する。





 喫茶《アルカナ》の午後はこうして穏やかに過ぎていった。

 ポケットに押し込んだ携帯が何度目かの電子音を奏でる。家々の屋根を飛び越え夜の街を駆ける羽音はいい加減それが鬱陶しくなって、一度足を止めた。電話の相手はわかっている。

「――もしもし?」
〈今どこにいる?〉
「そっとしておいてくれたら七秒で合流できる位置」
〈…急げよ〉

 短いやり取りで通話は切れた。遠くに見えるカンパニーの本社ビルを見遣って、羽音は深々と息を吐く。――余計な連絡さえなければ今頃合流できていた。
 たたん、とそれまでより強く跳躍した羽音の足音が、澄んだ夜に響く。

「お待たせ」

 羽音は電話口で告げた時間よりも二秒早く仲間に合流した。
 着地の瞬間乱れた髪を肩口から背へと払う動作は女性的だが、やはり中性的な奴だと、羽音の到着を待ち構えていた雪夜の双子の姉・雪奈は内心呟く。

「遅い」
「集合時刻を聞きそびれたもので」

 黒のボディースーツに身を包む雪奈と違って、羽音はいつもと変わらないコート姿だった。ただしその色は、雪奈のボディースーツよりも断然闇に近い漆黒。月と同じ色をした髪と紙のように白い肌がなければ、夜目の聞く雪奈でさえその姿を見失ってしまいそうになる。

「…流風、」
「――いいよ、始めよう」

 羽音の不在を理由に双子を引き止めていた流風が、雪夜に急かされゴーサインを出した。羽音に噛み付く理由を失くした雪奈は雪夜を鋭く睨む。

「行くぞ、雪奈」

 雪夜はさっと身を翻し駆け出した。雪奈も弾かれたようそれに続く。

「君も行ってくれるかな、羽音。二人だけじゃ心配だ」
「僕が行ったら二人は要らなくなるけど?」
「そんなことはないよ」
「…わかった」

 遅れて羽音も駆け出した。




 カンパニー本社ビルのエントランスは、時間が時間なだけあって固く閉ざされている。それを遠くから見て取った羽音は、前を走る双子を易々と抜き去り片手を構えた。

「―――」

 深く息を吸って、鋭く吐く。呼吸にあわせ振り抜いた腕から、研ぎ澄まされた力が放たれた。魔法と呼べるような代物ではない、純粋な魔力の塊は一直線に飛んで、音もなく爆発する。
 次の瞬間、エントランスは見るも無残に吹き飛んでいた。
 確かに起きた爆発にたった一つ、音という要素が欠けるだけでこれほど異様な事態になるのかと、双子は俄かに戦慄する。これが一見、人畜無害そうな顔をしている羽音が《死神》と恐れられる所以だ。彼――もしくは、彼女――の魔力は、桁が違いすぎる。

「……」

 羽音は無言でガラスとコンクリート片の飛び散ったエントランス跡を駆け抜けた。その足取りに迷いはなく、逆に後を行く双子の方が、格の違いを見せ付けられ足が鈍っている。

「あんなのに背中預けて仕事してたわけ? 私たち」
「正面きって対峙するよりマシだろ。…行こうぜ」

 心からの本音を口にして、雪夜は雪奈を促した。
 羽音の姿はもう、二人の視界にはない。


 遠くに大きな力の発現を感じて、美香[ウツカ]は足を止めました。命がけの乱闘の只中です。刀の切っ先を下げた美香は恰好の的でしたが、十数人はくだらない狩人の誰一人として、彼女を傷付けることはできませんでした。
 彼らは優秀な狩人です。けれどそれ以前に、愚鈍な獲物でもあったのです。

「イヴが気にしてた錬金術師かな…」

 美香の独り言のような呟きを聞いた獲物はいませんでした。

「…かえろ、」

 崩れ落ちた死体は、どれも砂となって風に流されていきます。久々の食事を終え満足気な愛刀――如月[キサラギ]――を鞘へ収めて、美香はとん、と軽く地面を蹴りました。
 《次元の狭間》を渡って、美香が向かったのはついさっき感じた力の発現場所です。

「――来たのか」

 そこには美香の予想したとおり、《銀の魔女》ことイヴリースが佇んでいました。
 けれど美香の予想に反して、その表情はあまり明るくはありません。

「イヴ?」

 イヴリースはこの世界で見つけた一つの存在を、ずっと観察し続けていました。その存在に、隔絶された世界を人のみで越える可能性を見出したからです。
 そしてついに今日、イヴリースの観察対象は世界を飛び越えました。
 美香からしてみれば、イヴリースが上機嫌で口笛を吹いていたって不思議はありません。なのに彼女はどこか不満気で、まるで大切にしていた玩具を壊してしまった子供のような顔で立ち尽くしています。

「イヴ、どうかしたの?」

 美香の言葉に、イヴリースは小さく首を横に振りました。

「なんでもない」

 とてもそうは見えませんでした。けれど美香はそれ以上何も言わず、先に帰るわねとだけ言い残してこの世界を後にします。
 残されたイヴリースの足下には、小さな石が一つだけ落ちていました。

「これがお前の願いなのか? レイシス」
 《扉の廊下》――そう呼ばれる場所に、藤彩[フジアヤ]は立っていました。長い藤色の髪は風もないのに優しく揺れ、同じ色をした瞳の奥には、綺麗な光が宿っています。
 藤彩は思案していました。
 《扉の廊下》は、その名の通り、扉しかない廊下です。緩くカーブした廊下の見える限りには、左右で均等に白い扉が並んでいます。鍵穴に鍵が刺さっている扉には模様がなく、そうでない扉には、びっしりと繊細な幾何学模様が刻まれていました。
 それが、目印なのです。
 一つ一つが別の世界へ繋がる扉を並べた《扉の廊下》で、藤彩は思案していました。暇を潰すことが目的でしたから、あまり面倒な世界へは行きたくありません。けれど藤彩には、扉に刻まれた模様を読み解くことが出来ないのです。
 間の悪いことに、それが出来る知り合いは二人ともが外出中でした。
 いっそ出かけるのを諦めてしまおうかと、藤彩は考えます。一か八かの賭けと退屈なら、まだ退屈の方がいいような気がしました。何しろ今回は自分一人。もしもの時、哂いながらも手を貸してくれる《銀の魔女》はいないのです。
 悩んだ末、大人しく退屈を持て余していることにした藤彩は、くるりと踵を返し《扉の廊下》を後にしました。

 無雑作に振り上げられた金槌が無雑作に振り下ろされる度、耳を塞ぎたくなるような破壊音が部屋に響いた。それが十分も続けば金槌の標的は粉々に砕けて原形もわからなくなる。
 指先で拾うことさえ困難な赤い石の欠片を前に、金槌を振り下ろしていた錬金術師は首を傾けた。こんなものだろうかと、一つ一つの欠片に向けられた双眸が細められる。
 開けっ放しの窓から流れ込む微風が、まるで急かすように錬金術師の頬を撫でた。

「……」

 ガシガシと乱暴に頭を掻いて、錬金術師は欠片の半分を両手で掬う。そして量りもせず火にかけたジャム瓶に放り込んだ後は、気を失うようにベッドへ倒れこんだ。



 約三日振りの睡眠は、二時間足らずで終了する。



 何の予備動作もなく、錬金術師はのそりと体を起こした。好き勝手な方向に伸びる濃灰の髪を混ぜ返しながら、寝ぼけ眼を彷徨わせ、くあ、と欠伸を一つ。視線はやがて机の上のジャム瓶に落ち着いた。
 瓶の中では、不透明な赤茶色の液体が揺れている。二時間前に入れた赤い石の形はもう残っていなかった。それ以前に入れた様々な固体も、どろどろに溶けてわからなくなっている。
 錬金術師は猫のように目を細め、もう一度ベッドに沈んだ。視線だけは瓶から離さずに、枕越しの呼吸を何度か繰り返す。

「知識と、体と、理性と、自我と、命と、好奇心と――」

 くぐもった囁きは永遠と続き、最後に掠れた声で、錬金術師は「凝り固まれ」と締めくくった。
 瓶を熱するランプの火は独りでに消え、赤茶の液面が落ち着きを取り戻す。それから瓶の中身が冷えて固まるまで、錬金術師は微動だにせず息を殺していた。
 すっかり冷えて赤みを失くした固体は、また暫くすると――たぷんっ――音を立て液化する。真黒い液体はジャム瓶から零れんばかりに渦を巻いた。静かに音もなく、だが確かに。
 床に転がっていた赤い石の欠片を一つ、瓶に投げ入れて、錬金術師は漸く体を起こしにかかった。

「凝り固まれ、人の形に。無知なる賢者よ、姿を見せろ」

 朗々と、紡がれる言葉に渦が深さを増していく。
 淡々と、まるで興味なさ気に錬金術師は微笑んだ。

「フラスコの中の小人[ホムンクルス]」



 凝り固まれ。



「ホムンクルス」

 それは私の名ではない。ホムンクルスとして造られた私の存在は意図して歪められていた。溢れる知識は塞き止められ、形を持った肉体が、人を模そうと暴れ回る。

「おはよう」

 ガシャンと殻の割れる音がして、暗転。





 瓶を割り出てきたホムンクルスは、人の形をしてはいたが無性で、大きさも、到底人とは呼べない手乗りサイズだった。だがそれは錬金術師にとって想定の範囲内の出来事で、特に驚いたり、落胆したりすることはない。小さいのなら、大きくすればいいだけの話だ。
 湯を張ったバスタブに赤い石の残りを放り込んで、更に意識のないホムンクルスを放り込む。ホムンクルスは湯の中に沈んだが、まだ呼吸することを知らないために苦しみはしない。――まるで人形のようだ。

「……おなかすいた…」

 一々時間を持て余す錬金術師は、パンを一枚かじってまたベッドに沈む。睡魔はすぐに訪れて、手際よく意識を連れ去った。





 少し、白みがかった視界に、軽くて薄い体。――夢の中ではいつもこんな感じだ。僕はただ一人、世界から隔絶された存在。

『博士、どこですか? 博士――』

 唐突に聞こえた声は、少しだけくぐもっていた。これもいつもと同じ。
 緑に溢れた綺麗な場所を、中性的な顔立ちの人が歩いていた。博士、博士と、その人は辺りを見回しながら呼びかけ続ける。――探している《博士》の助手でも務めているのか、その人は白衣に身を包んでいた。

『あんな所に…』

 助手(仮)は遠くに小さな人影を見つけて、深々と息を吐く。――きっとあれが、探していた《博士》なのだろう。
 足早に去っていく助手(仮)を、僕は追わなかった。――いや、追えなかったんだ。

『    』

 助手(仮)に気付いて振り返った博士の顔が、ぱぁっ、と華やぐ。半ば叫ぶように呼ばれた助手(仮)の名前が届く前に、僕は目を覚ました。



 ばしゃり



「――……」

 水音が一度。漸く呼吸を始めたのかと、錬金術師は浴室を覗き込む。ホムンクルスは白いバスタブの縁に乗り上げ目を閉じていた。
 長い黒髪に覆われた背中が、不自然なほどゆっくりと上下している。
 錬金術師は近くにあったタオルをホムンクルスに被せ、バスタブに湯を足した。溢れた湯で自分が濡れるのも構わずに、タイルの床に膝をついて濡れそぼった髪を拭く。

「起きてる?」

 バスタブの中身がすっかり入れ替わる頃には、元々白いタオルは桃色に染まっていた。その色がもう落ちないことを錬金術師は知っていたが、気にも留めない。すっかり変色した服についても同様だ。
 逆にホムンクルスの方が、濡れた膝を見咎めて眉根を寄せる。

「濡れているぞ」

 錬金術師は器用にタオルだけでホムンクルスの髪を纏め上げた。体の成長に伴って伸びた髪はそれなりの長さがあるが、隙間から零れ落ちてくる気配はない。

「小姑みたいなことを言うね」

 その時漸く、二人の視線が交わった。濃灰色をした錬金術師の瞳と、ホムンクルスの透き通った赤茶色のそれ。二人の目は到底かけ離れた色をしていたが、互いに抱いた感想は同じだった。

「私はお前より若い」
「冗談だよ」

 酷く淡白で必然的な、それが運命だと誰が気付けただろう。










「おはよーさん」

 時計の針が午後三時を回った頃、いつものようにRAIDはその家を訪れた。稀代の天才錬金術師、RASISの研究室兼自宅は、ごく一般的な民家と同じような外観をしている。おかげで誰も、そこに《あの》RASISが住んでいるとは夢にも思わなかった。

「食料買ってきたぞー」

 合鍵を使って上がり込んだRAIDは、勝手知ったる人の家。手際よく両手に抱えた紙袋の中身を捌いて仕事を終えた。来週のために必要な物のメモを作れば完璧。もうそれ以上することはない。

「さて、と…」

 RAIDはそれまで見向きもしなかった二階への階段を、そこに強敵でも待ち構えているかのようにじっと見つめた。見つめること三十秒。「よしっ」という小さな掛け声とともに、一歩踏み出す。目指すは二階奥。RAIDの雇い主であり、密かな想い人でもあるRASISの部屋だ。
 ノックは静かに二度。RASISが寝ている時のことも考えて声はかけず、返事も待たずに扉を開ける。
 RAIDが想像していたのは、いつもと同じ、散乱した実験器具と皺だらけのベッド。そこに横たわるか、実験に精を出しているRASISの姿。

「はっ…」

 けれど現実はRAIDに冷酷だった。


「博士の不潔ー!!」


 バタバタと品のない足音が遠ざかっていく。――随分前から目を覚ましていたホムンクルスは、なんだったんだと呆れ交じりに肩の力を抜いた。

「RAIDが来たの…」
「さぁな」

 RAIDどころか、錬金術師以外の人間を知らないホムンクルスは生返事で目を閉じる。眠気はとうに醒めていたが、まだまどろんでいたい気分だった。
 逆に、寝起きのいい錬金術師はすっかり目が覚めている。すぐにじっとしていることに耐えられなくなってベッドを抜け出した。

「寒い」

 腕の中から抜け落ちた温もりに、ホムンクルスが唸る。

「起きたら?」
「……」

 渋々起き出したホムンクルスは温かい窓際に椅子を置いて膝を抱えた。寒い寒いと、全身で訴えても錬金術師は気にも留めない。季節は秋だがまだ気温はそう低くなく、ホムンクルスが寒がっているのはただ体の温度調節がうまくいっていないだけだと知っているからだ。

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