昼前に起きて弁当を作り、正午までに届ける。――それがようやく日課と呼べるようになった頃、事は起きた。
おかしいと思ったのは並中の敷地に入ってから。恭弥が殺気を駄々漏れにしている事なんて珍しくもないけど、その殺気がどうにもおかしかった。苛立ち混じりなのにどこか楽し気。普段目障りな群れを咬み殺している時とは明らかに様子が違う。
その理由が気になって屋上へ顔を出すと、尋ねるまでもなく答は知れた。同時にまた別の疑問が浮かびもしたけど。
「なんで跳ね馬…」
所属している組織の性質と立場上、元々そういう情報は手に入りやすい。けれどそれを抜きにしても恭弥と武器を交えるイタリアーノが誰であるかくらい、裏社会へ足を踏み入れたばかりの下っ端にだって分かっただろう。トレードマークの刺青が隠れていたって、今時鞭を使う人間自体珍しいのだ。
「――誰だ?」
状況を掴みかねて気配の絶ち方が甘くなっていたところを、フェンスにもたれ恭弥と《跳ね馬》の闘争を眺めていた黒服に見つかる。次に自分が取るべき行動がいまいちどころかさっぱり分からなかった。
どうしたものかと視線を流せば、今気付いたといわんばかりに恭弥が笑う。
「あぁ、来たんだ」
白々しい。
「知り合いか?」
「貴方には関係ないよ」
恭弥と対峙する《跳ね馬》に殺意や悪意の類がないのは分かるから、多分手を出す必要はないのだろう。それにしたって訳の分からない光景だ。中学生とマフィアのボスが学校の屋上で戦っているなんて、そうそうある事じゃない。むしろ今ここで実際目の当たりにしていなければありえないと言ってもいいくらいだ。接点がさっぱり思いつかない。
「私には関係あるから説明して!」
「知らない」
頼むから面倒事は私が日帰りでどうにか出来る範囲にしてくれ。
「お前なぁ…」
頭を抱えかけたところで《跳ね馬》が「あっ!」と悲鳴じみた声を上げた。つられて顔を上げながら額直撃コースで投げ寄越された「何か」を受け取る。
「朝来たら応接室にあった」
投げた恭弥は「あとは勝手にしろ」とでも言わんばかりに武器を構え直し、愕然とする《跳ね馬》の懐へ突っ込んだ。反応は遅れたものの紙一重でトンファーの攻撃を往なした《跳ね馬》の意識は、半分こっちに向けられている。私に、というよりこれは投げて寄越されたものにだろう。
理由はその「何か」を見ればすぐに分かった。
「……ボンゴレリング…」
これなら私だって悲鳴をあげたくもなる。
「お前、これ…」
そもそもこんなものがここにある事自体間違っているのだ。その上「応接室にあった」?
んな馬鹿な。
「――あぁもうっ!」
今度は私が悲鳴じみた声を上げて歪な指輪を握り込む。乱暴に頭を掻きむしった片手を凪ぐよう肩と平行に振り切って返した拳を開くと、手品のように黒い蝶が現れ翅を広げた。
「やめろ恭弥、そこまでだ!!」
ひらりと舞い上がった蝶に恭弥はあからさまに嫌そうな顔をする。それでも《跳ね馬》との闘争をやめようとしないのは、私が自分に対して「これ」を使うはずがないと高を括っているからだろう。忌々しい。全くもってその通りだ。脅しが脅しになってない。
だけど私も、今回ばかりは引くに引けない理由がある。
「チッ」
舌打ち一つ。《跳ね馬》の方へと駆け出す私に、恭弥が目を瞠るのが視界の端で見て取れた。この展開は想像出来なかったのだろう。お互いの獲物に手を出さないというのが私達の間にある暗黙のルールだ。私はおろか恭弥でさえ、それを破った事は今まで一度だってなかったのだから。
「なっ――」
展開が読めなかったのは《跳ね馬》も同じ。それでも振り向き様どうにか対応しようとした事は賞賛に値する。振り向いた瞬間本気で鞭を振るわれていたら私も一旦飛び退くしかなかっただろう。けれどそれ以外の中途半端な反応はないも同じだ。傷付ける事を躊躇った時点で勝負はついている。
「ボス!!」
「手を出すな、ロマーリオ!」
屋上のざらついた地面へ《跳ね馬》を押さえ込んだ私を、恭弥は呆れ混じりに見下ろしていた。けれど不意に交わっていた視線を外すと、武器をしまい無言でロマーリオと呼ばれた黒服へと近付いていく。
黒服――ロマーリオ――は一旦私の胸元へ照準を合わせた銃口を、《跳ね馬》の言葉によって下げたまま迷わせていた。ボスが素性の分からない女に押さえ込まれたこの状況で、どうするべきか量りかねているのだろう。私は敵意を顕にしていない。だからといって、《跳ね馬》を傷付けないという保証はどこにもないのだ。
「リナ」
手を伸ばせば銃を叩き落とせる距離。立ち止まった恭弥は動向を窺う《跳ね馬》やロマーリオの事なんて素知らぬ顔で私を呼ぶ。その意図が分かっているのは私だけだ。
「――ファルファッラ」
私に呼ばれ、下げられていた銃口から黒い蝶が現れる。
いつの間に、という驚愕はいつまで経っても聞こえてこなかった。その代わり《跳ね馬》とロマーリオははっと息を呑みながら体を強張らせる。
これは恭弥の報復だ。目には目を、歯には歯を。先にルールを破ったのは私だから自分は悪くないとでも言わんばかり。舞い上がった蝶を肩にとまらせ、振り向いた恭弥は嘲るよう口角を吊り上げる。
「殺すなら校外でね」
恭弥の楽し気な一言で、それでなくとも張り詰めていた空気が更に針のような緊張を孕んだ。
「ちょっと聞きたい事があるだけだよ」
「どうだか」
私が努めて軽く答え、恭弥が同じくらい軽い調子で返しても空気はさっぱり緩まない。
まぁ、当然と言えば当然だが。
「お昼は応接室においてるから」
「そう」
今ここにある何もかもから興味を失くしたような顔で、素っ気なく答えた恭弥は振り返りもせず屋上を後にした。残されたのは私と《跳ね馬》とロマーリオと、如何ともし難い緊張感。
この程度で乱入をなかった事にしてくれたと、喜ぶべきかは微妙なところだ。
「なんでバラしちゃうかな」
思わずぼやきたくもなる。
とりあえずずっと押さえ込んだままだった体の上から退くと、起き上がった《跳ね馬》は慎重に私から距離をとった。心外だ。
「別にとって喰いやしないって」
無害である事をアピールするため肩口でひらつかせた両手に意味はない。恭弥が考えている以上に《ファルファッラ》は悪名高いのだ。心臓が弱い奴は名前を聞いただけでぶっ倒れてもおかしくない。
恭弥は知らないだろうけど、これでも有能な殺し屋なのだ。
「私、今休暇中だし」
それはもう「死」と同一視されるほどには。
(望んだ平穏と歪な現実/蝶と雲と跳ね馬。ゆびわ)
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