「――イレイザー?」
「っ」
何故、世界は穏やかに日々を過ごすことを許してはくれない。
何故、世界は私達を放っておいてはくれない。
「待てっ」
反射的に踏み出した足は、戸惑いと驚愕に支配された心とは裏腹に体を前へと運んだ。
行く手を塞ぐように現れた男をかわす為に体勢低く踏み込む。相手は怯まなかったが、急な方向転換についてこれるほどの〝目〟はない。
「リナ・ウォーカー!」
「違う」
自分にさえ聞こえないほど小さく呟いた言葉は、誰に聞かれることもなく、風に掻き消された。
さっと走らせた視線が黒光りする銃身を捉えると同時に、培われてきた直感がそれが脅威になりえないことを告げる。――相手はプロであるが故にこんな場所で引き金を引きはしない。いつもの私なら逃げ切れると、囁く。
だが逃げてどうする?
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緩やかに流れていく日常を、謳歌するようにリナは空を仰いだ。
伸ばした手が雲を掴むことはないが、気まぐれな風が指先を掠め駆けて行くだけで、自然と笑みが零れる。
「ねー恭弥、今度どこか遊び行こうよ」
世界はこんなにも温かい。私はそれを知っている。「温もり」を感じる「心」を獲得し、惜しみない温もりを与えられたから。
「――・・どこかって?」
「私の知らないところ」
晴れ渡る空から午睡を邪魔された雲雀へと目を移し、リナは屋上の中央へと一歩進み出る。
「私が行ったことのないところ」
「いいけど、いつ?」
「いつでもいいの。でも、約束は今して」
リナが光を背にしているせいで、雲雀にその表情を窺い知ることは出来なかった。
持ち上げた手を光に翳し――けれどリナの姿は遮らない――、雲雀は光の眩しさとは別の眩しさに目を細める。
「約束するよ」
君のためだけに、とはあえて言わなかった。
言わずとも伝わるだろうという傲慢な感情と、こんな想い自分だけが知っていれば十分だという、天邪鬼な感情がぐるぐると奇妙な螺旋を描く。
「ありがとう」
この世の光を集めたような彼女の存在が、誰よりも深い闇を内包しているという事実を、今は僕と彼女だけが知っていた。
――気を抜くな、逃げられるぞ
ギチギチと耳障りな音をたて軋む鎖。頭の中で響いたここにはいない女の声。揺らぐ力。
「カヅキ!」
「無茶言ってんなよオイ・・・っ」
たわんだ結界。
「だから狭霧[サギリ]に優男って言われるのよっ。――狂神の力は緩まり陽光の光は届かない、その束縛解き放て!」
膝を突いた華月を置き去りにして駆け出し、暁羽は矢継ぎ早に結界を解いた。
外界と遮断されていた内界に風の流れが戻る。同時に、鎖を引きちぎろうとする力も強まった。
「お願いだからもってよ・・」
一直線に伸びた鎖に沿って走る暁羽がそう呟いた直後、最後の砦である「古の鎖」はあっけなく地を這った。千切れたのではない。
「なんて面倒な仕事」
低く、吐き捨てるように暁羽は毒づいた。
進行方向から聞こえてくる金属音は空耳であると信じたい。
「カヅキ!」
叫ばれた名と揮われた腕に呼応して、不可視の刃が現れた妖狼に迫る。
それを憎らしいほど易々と避け、妖狼は暁羽に肉迫した。
ギラついた牙が喉首に突き立てられ、絶命する、刹那。
「――拒絶する」
どこか諦めたような表情で暁羽は告げた。たった一言だけ、拒絶する、と。
その言葉によって発現した力は、妖狼どころか周囲のあらゆる物を吹き飛ばし、絵に描いたような島の平穏を打ち破った。
「古の鎖」
妖狼の首に絡んだまま、ずるずると引きずられていた鎖が新たな命[メイ]を受け動き出す。
「捕縛せよ。そは服わぬ力、許されざる不服従を拒絶し力を示せ」
勝負はすぐについた。
「あーきーはー?」
日も昇って久しい時間帯。夕凪[ユウナギ]はぐっすり――というよりはぐったり――と眠るルームメイトの耳元で、努めて優しく囁いた。
「・・・・・なに・・?」
本当は起こしたくなどない。けれど起こさなければならない理由が、夕凪の手には握られている。
「夜おそーく帰って疲れてるとこ悪いけど、端末鳴ってる」
「ん・・ごめん」
赤いランプでの着信。
「気にしないで。――私講義あるから行くね?」
それを見た暁羽が目を瞠り、夕凪は彼女の手に端末を落とし込むと、鞄片手に部屋を出た。
「――もしもし?」
ぱたりと扉が閉じ、オートロックのランプが青から赤に変わる。
<モーニングコールには遅かったか?>
「・・あの妖狼がどうかしたの?」
電話越しに聞こえた女の声に、眩暈にも似たふらつきを覚え、暁羽は起き上がったばかりのベッドに逆戻りした。
倒れこんだ拍子にスプリングが悲鳴じみた声を上げたが、そんなことは気にならない。
<いいや、大人しいものさ。お前の捕まえ方が相当手荒かったとみえる>
「なら何の用?」
<お前、まだ巫女守[ミコモリ]を決めていなかったな?>
「・・下手な能力者を守につけても邪魔なだけ」
<だがこのままという訳にもいくまい?>
「何が言いたいの」
<遅くなったが姫巫女就任祝いだ。受け取れ>
「――何故」
全身を苛む痛みが意識を失う前の続きなのか、そうでないのか。
「何故貴様がここにいる」
目の前にある世界が本物なのか、そうでないのか。
「貴様は死んだはずだろう」
ここにいる私は私なのか、そうでないのか。
「 浅 葱 」
私には分からなかった。
赤黒く変色した血溜りの上に横たわる少女。
その、明け方の空を思わせる青色の双眸が捉えたのは、何の変哲もないリビングと一人の女だった。
「だれ・・?」
女は目を瞠り、手にしていた携帯を取り落とす。
「――ぇ?」
霞がかっていた意識が、その音と共に現実へと引きずり出された。
走馬灯のように駆ける記憶が、刹那で現在[イマ]へと辿り着く。
「どうして私がここにいるの」
私という存在は、失われたはずだった。
「・・・あれ?」
沖縄を離れてから、船の下層部にある貨物室にほったらかしにしていたバイクには、いつのまにかサイドカーがつけられていた。
もちろん琥珀がつけたものではない。小回りが利かず、乗せる人もいないので、今まで必要としたことすらなかった。
「どうかしたの?」
遅れて貨物室に現れたルヴィアが、バイクの覆いを取り払ったまま立ち尽くす琥珀の向こうを、彼女の背中ごしに覗き込む。
「・・まぁいいか」
「?」
「気にしないでください。独り言です」
ルヴィアと出掛ける分にはあって困ることはないだろうと自己完結して、琥珀はバイクを固定する金具に手をかけた。
「ハッピー・パースデイ、琥珀」
「――ぇ?」
「って、書いてあるけど?」
何のことかと顔を上げた琥珀に見えるよう、ルヴィアはサイドカーの座席から拾い上げたカードをひらつかせる。
(あぁ、そうか・・)
その、飾り気のない紙切れとも呼びうるカードに記された、思いがけず繊細な筆跡には見覚えがあった。
「桜って誰?」
「盾であたしの面倒を見てくれた人です」
「どんな人?」
「自分の目で見た物しか信じない、子供みたいに笑う人」
誕生日がないのなら、ルヴィアと出会った始まりの日にすればいいと言ったのも桜だった。
「琥珀はこの人に守られたのね」
「・・・はい」
周囲の反対も押し切ってあたしにジョエルの日記を見せ、銃の扱いを教え、小夜に最も近い――ルヴィアに会える可能性の最も高い――最前線の任務にあたしを推してくれたのも桜。
一昨年の誕生日には、免許もないのにこのバイクをくれた。
――人の子って分からないものね
薄暗い室内に一人。
床に染み付いた血は既に赤黒く変色し、それが流されてから相当の時間が経っているという事実を、女に教えた。
つまりそれは、女がこの場所をつきとめ訪れるために費やした労力や時間が、全て無駄になってしまったということ。
「・・・はぁ・・」
らしくないと、その場に女を知る者がいれば言っただろう。誰よりも女自身が一番よくわかっていた。溜息なんて、らしくない。
けれどそれを禁じえないのは、水泡に帰したものがあまりに大きすぎるからだ。
「ヴルカーンの奴、帰ったら覚えてろよ」
半ば八つ当たり気味にそう吐き捨てると、女は銜えていた煙草を落とし、苛立ちを紛らわすようにそれを踏み潰した。
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