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 一四三一年、この世に生を受けた後のワラキア公ヴラド・ツェペシュは、生まれながらに優秀な魔術師であった。
 一四五六年、邪悪なる儀式によって自らを人ならざる「吸血鬼」へと変貌させたヴラドは夜の支配者となり、魔性の者として世界にその名を広める。
 彼には血を分けた子が二人いたが、「純血」の娘・リトラは彼自身が「血分け」を行い、魔性の者へと変えた愛人・ニキータの子で、正妻であるキルシーとの子・セシルは呪われた混血児「ダンピール」だった。
 一四七六年、セシルは持って生まれた「吸血鬼を殺す力」によって実の父であるヴラドを手にかけた。こうして「真祖」と呼ばれる始まりの吸血鬼は昼と夜の分かたれた世界に別れを告げる。
 けれど彼を祖とする新しい種は、彼の死後も夜の支配者として君臨し続けた。


 深い夜が広がっていた。獣たちでさえ息を潜め気配を殺し、朝を待つ漆黒の夜が。
「――貴方も物好きね、コール」
 艶やかな女の声が冴え冴えとした空気を震わせる。冷たい石床をヒールが叩くカツリカツリという音を辿って、コールは女――カサノバ――へと目を向けた。
 夜の支配者たる彼らの目は容易く闇を見通す。
「お前か」
 愛想の欠片もないコールの言葉に肩を竦めて、カサノバは緩くくねる自慢の髪を指先に絡めながら、ごあいさつねぇと笑った。
「せっかく、貴方が知りたくて知りたくて仕方のない始祖鬼の情報を、持ってきてあげたのに」
 コールは目を瞠る。それはと、半ば無意識の内に零された言葉は掠れていた。
「聞きたい?」
 髪を絡めた指先を口元に寄せながら、カサノバは勿体つけて問う。
 コールは表情を歪めた。
「何が望みだ」


 優しい声がした。ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声。
「ユーリ、ユーリ、薔薇を持って来たよ」
 差し出された一輪の薔薇は、海の色を映したように鮮やかな青をしていて、ユーリの色だよと、声は笑った。
「ユーリに一番似合う色にしたんだ」
 あたしではない誰かの色。
「今度は花束にして持ってくるよ。土に根付いたら広い所に移して、花畑を作ろう」
 描かれる夢のような未来図に眩暈がした。真っ青な薔薇で埋め尽くされる世界。もしこの目で見ることが出来たなら、永遠だって信じられるだろう。
「二人で歩こうよ、ユーリ」

 泡沫の夢。

 幸せな夢から醒める。青の似合うユーリは平凡な女子高生の夕里に戻って、変化に乏しい日常のループに絡め取られた。
 虚しさばかりが込み上げる。
(二人で歩こう、か…)
 伸ばした手はありもしない薔薇を掴もうとして空を掻いた。幾ら手繰っても手繰っても手繰っても、夢の欠片は得られない。泡沫。
「あたしは夕里。立花、夕里」
 ユーリじゃないと言い聞かせるような言葉は一体誰に対してのものなのか、あたし自身わからなかった。取り違えるなという自分への警告なのか、それとも――。
「学校、行かなきゃ」
 カーテンの隙間からのぞく空はどこまでも晴れていた。まるであの夢のように。


「おはよーレンフィーちゃん」
「…おはよう」
 なかなか働き始めない頭を振って二人がけのソファーに沈むと、斜め前に置かれた一人がけのソファーに座るジキルが首を傾げた。
「今日は早いんダネ」
 肘掛に置いたカップに何杯目か分からない砂糖が落とし込まれる。
「目が覚めた」
「ソウ」
「…まだ入れるのか」
 カップの内容物を甘くすることではなく、砂糖を入れるという行為そのものが目的であるかのように、砂糖は足され続けた。
「レンフィーちゃんも飲む? 珈琲」
 少しして、ジキルが問う。
 柔らかく体を包むソファーの心地よさにまどろんでいた私は、ぼんやりとカップの中身が珈琲であることを理解した。力の抜けた腕が腹から落ちて、指先を絨毯が掠める。
「飲めもしないものを淹れるな、勿体無い」
「レンフィーちゃんが飲むかと思って」
 ジキルが〝態々〟飲めもしない珈琲を淹れたのだと理解して、ほんの少しだけ目が覚めた。
「…飲む」
 本当に少しだけ。横になっていたらまた眠ってしまいそうだったから、後ろ髪引かれながらも体を起こす。
 差し出されたカップ。
「小生今日は出かけるんだけど、レンフィーちゃんも来る?」
「いいや」
 ジキルが主に活動する時間帯を知っている私はすぐに同行を拒否して、カップだけは丁寧に受け取る。残念ながらお前ほどの酔狂さは持ち合わせていない。
「なら、レンフィーちゃんはお留守番」
 分かっていたように頷いて、そのまま開けっ放しの扉へ。歩く度に揺れる長い灰色の髪は、すぐに視界から消えた。
「そうだな」
 私を目を閉じる。冷めた珈琲の何とも言えない味がじわりと胸にしみた。


 部屋の入り口に放り出していたカバンと携帯だけを持って家を出る。あたし以外誰も居ない、寂れた二階建てアパートの一室。錆付いた外階段を降りて見上げれば、壁にはりついた蔦が時代を感じさせた。いかにも古そうで、実際古い。壁も薄いからたまに隣の部屋の話し声が聞こえてきたりもする。でも家賃は安くて、住人も大家さんも親切だから結構気に入っている。あたしは、ここが好き。
「いってらっしゃい夕里ちゃん」
 二階の窓から顔を覗かせた角部屋のお姉さんが、キャミソールのまま手を振った。風邪引きますよと苦く笑って、あたしは大きく手を振り返す。
「いってきます!」
 朝の静けさに包まれた街を急ぐことなく歩いた。通い慣れた通学路。毎日のように目にする街並みが、ゆっくりと流れていく。
(――ぁ、)
 何気なく見上げた空と夢の中の空とが重なった。青い薔薇の花弁が無数にひらひらと、あたしの幻想に落ちてくる。伸ばした手はやはり空を掻いた。泡沫と、呟いて固く拳を握る。現実逃避の仕方は忘れてしまったはずだ。
 あたしはもう現実から目を背けたりはしない。楽な方へ楽な方へと思考を持っていくことがさらなる苦行を引き寄せるなら、あたしはいつだって最悪の未来を選択する。不幸の底には裏切りも、絶望もないことを知っているから。
 緩く頭を振ることで振り払った花弁は、打ち捨てられ朽ち果てることなく消えてなくなる。幻想から目を背けあたしはアスファルトの地面を見据えた。泣いても笑っても、あたしはここで生きていくしかない。だって、ここで生まれたんだから。
 ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声がリフレインした。

「――混血の匂いがするな」

 暗転。


 はらりと花弁が舞った。
「……」
 ジキルの淹れた珈琲はまだ半分ほどカップに残されたまま、テーブルの上に随分前から放置されている。その少し向こうに置かれた硝子のコップ。入れられた薔薇の花弁が一枚、はらりと落ちた。
 普通の花ならそういうこともあるだろう。けれどこの屋敷で、その花が散るはずのないことを私は知っている。

 あれは二度と散らされることのない、約束された華だ。

「ジキル…?」
 まどろんでいた意識が急速に正常な働きを取り戻す。心臓が鼓動を増して、らしくないと分かっていても、部屋を飛び出さずにはいられなかった。無駄に広い廊下を駆けながら、伸ばした手は何もない空間から黒衣を引きずり出す。フードのついた、足元までを隙間なく覆うローブ。夜に溶け込むその色は、月のない世界では酷く浮いて見えた。
(クソッ)
 廊下の途中をエントランスではなくバルコニーへと曲がって、そのまま外へ。室内では抑えていた力を解放すれば周囲の景色が輪郭を濁した。人間の目では決して捉えられない速さで昼の世界を駆け抜ける。付きまとう違和感と倦怠感には目を瞑った。元々、日の光に弱い血筋ではない。
(どこに行った…)
 出かけると告げて出かけるようになっただけ進歩。けれど行き先くらい告げて行けばいいものをと思わずにはいれなかった。昔から、ジキルの気配だけは探すのに苦労する。無駄に薄くて頼りなく、今にも消えてしまいそうな存在感。
 それでも、見失うことはない。
(――いた!)
 何故なら私たちもまた〝約束〟されているのだから。
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 ヴァンパイアフィリア。――それがあたしにつけられた病名。酷い言われようだと思う。好血症なんて、まるでおまえは吸血鬼だと言わんばかりじゃないか。
「――立花 夕里が、ここに宣言する」
 立花夕里[タチバナユウリ]。今年で十八の高校三年生。性別・女。身長・一六七センチ。髪・最近切ってないからちょっと伸びたけど黒髪のショート。目・同じく黒。持病・ヴァンパイアフィリア、あるいは吸血病、あるいは好血症と呼ばれる血を好む症状を示す病気。趣味・
「あんたの負け」

 吸血鬼狩り。

 宣言された勝利によって、あたしの目の前で無様に這いつくばっていた吸血鬼が青い炎と共に燃え上がり、やがて灰と化す。その灰を持っていた携帯灰皿に詰め込んで、あたしはさっさと埃臭い廃ビルを後にした。
 日はとっくに暮れていて、見慣れない街並みに青白い夜が覆いかぶさっている。
(最近多いな…)
 あたしは生まれながらに吸血鬼を殺す術を知っていて、殺すことの出来る力を持っていた。何故知っているのか、何故持っているのかは自分でもわからない。でも、一つだけ理解していることがある。
 吸血鬼はあたしの命を狙っている。殺らなければ殺やられるという現実を前に持てる力の行使を躊躇うほどあたしは博愛主義者じゃないし、偽善者でもなかった。
 目には目を、歯には歯を。遠い異国の法典に則って、ではないけど、あたしはそうすることを選んだ。だからまだ生きている。
 なんて行き難い世の中なんだろう。「人間ではないから」なんて薄っぺらい言葉が、命を奪う免罪符になるはずもないのに。

「――混血の臭いがするな」

 ぴちゃりと粘着質な水音がして、あたしは立ち止まる。歩きながら考え込んでいたらしい。おかげで気付くのが遅れた。致命的でらしくないミス。
 鼻につくのは夜の冴え冴えとした空気に薄められて尚存在感を主張する、血の臭い。
 異質な気配がねっとりと肌を撫でた。
「名を聞こう、我が同胞を手にかけし者よ」
 限りなく満月に近い月の下、片手に大きな塊をぶら下げた男が少し先の曲がり角から姿を現す。塊は死んだか気を失ったかした人間で、男は口元を真っ赤に濡らした吸血鬼。
「立花、夕里」
 あたしは夕飯もまだでヘトヘトだ。
「憶えておこう。お前は優秀なハンターであるようだからな」
「それはどうも…」
 闘って勝てる状況ではないと分かっているのに、目の前の男相手に逃げおおせられるとは到底思えないせいで、足の裏は地面に縫い付けられたように動かない。
 もしかすると、あたしはここで殺されてしまうのかもしれない。
「だが残念だ。お前がハンターである以上、私はお前を倒さねばならん」
 嗚呼やっぱり。
「何か言い残すことがあるなら聞いてやろう。敬意を表して」
 あたしはここで終わるのか。こんなところで、まだ十八にもなってないのに。
(白馬の王子様の出前とか、ないかなぁ…)
 因果応報の名の下に。

「――――」

 夕里と名乗った若きハンターへ死の祝福を与えようと持ち上げた手は、風に紛れ届いた空耳ともつかぬ言葉の前に凍りついた。
 まさかと、掠れきった声が零れる。
 遅れて現れた気配と影は、夜よりも深く濃い闇を纏い舞い降りた。
 月光の下にありながら光を宿さない瞳が刹那のぞき、すぐに長く伸びた灰色の髪に覆われる。
「聞こえなかったのカナ?」
 コールは戦慄した。灰被りの吸血鬼は嗤う。自分の物だと言わんばかりに夕里の体を抱き竦めながら。
「小生は失せろと言ったんダヨ」
 言葉がそのまま力となってコールの存在を圧迫した。喘ぐようにしか呼吸できないという屈辱に歴然とした実力を見て、コールはさっとその姿を闇に溶かす。
 灰被りは前髪に覆われた容貌を純粋な歓喜に歪めた。
「――もうダイジョウブ」
 囁けば、夕里はぴくりと肩を揺らす。

――紡がれなかった命――

「どうやって動いたんだろう」
 純粋な好奇心で満たされたハルカの言葉に対する答はない。常識的に考えて、体を制御するために必要なプログラムの一切を持たない人工生体が動くはずはないし、今見た限りでは、〝彼女〟はちゃんとした自我を持って行動していた。
「カノエ」
「はい」
 何度データを確認しても、この部屋が完全にネットワークから遮断されていた事実は揺るがない。考えられるのは内側からの汚染。けれど人工生体の中に初めからバグが紛れていたというのも、俄[ニワカ]に信じがたい。
「当該エリアを緊急廃棄。〝椿鬼[ツバキ]〟プロジェクトに関わる全ての情報をAQUAネットワークより完全削除。ネットワーク第二層・ヴィルへのアクセスを一時的に制限。なお、この制限は僕が自室へ帰るまでとする。おやすみ」
 矢継ぎ早に面倒な指示ばかり残してハルカはそそくさと部屋を後にした。ガラスケースの封鎖を強制解除したせいで使い物にならなくなった機材と一緒に取り残され、私は少しだけ眉根を寄せながら部屋の中を見回す。
「部屋に連れ込んで何をする気ですか、貴方は」
 元凶である人工生体の姿はどこにもなかった。

「調子はどうだい? シュア」
 久しく立ち寄っていなかった〝アジト〟に足を踏み入れると、室内は相変わらず殺風景で、壁に設置された幾つかのモニターだけが室内を照らしていた。
<変わりありません>
 入り口正面にあるコンソールに向けて一歩踏み出して漸く、天井の照明に光が入る。
「相変わらずケイオスの壁は厚いか」
<同じアンダーグラウンドと言っても、各階層は全くの別世界ですから>
「ここからフラウに行くのも、アクセスするのも容易いというのに、上が下になっただけでこれでは堪らないな」
 床に描かれた蝶の真上を通り過ぎ、たった一つしかない椅子に落ち着いた。
<最近は特に、です。数ヶ月前までは、ケイオスの表層までなら侵入できていました>
「ハルカ君がまた何か面白いことをしているんだろう。彼は、過程を見られるのを酷く嫌う」
 モニターを流れていく情報を見るともなしに見ながらそっと笑みを含む。
 ハルカは完璧主義者だ。そして同時にアンダーグラウンドの支配者でもある。
<続けますか?>
「もちろんだよ」
 けれど万能ではない。
「この世界の全てが記されたオーパーツ、『蝶』を手に入れるためならどんな苦労も惜しまない。――そうだろう?」
<はい>
「いつもケイオスの相手ばかりだと疲れるだろうから、たまにはヴィルやフラウの方ものぞいてみるといい」

 いきなり何もない場所から放り出されたような感覚。何もない場所から、何もない場所へと放り込まれる。
 あたしがあたしであるということは、あまりにも唐突に始まった。
(紅、い…)
 目を開けてまず飛び込んできたのは、世界を埋め尽くす紅[クレナイ]。自分の体さえ見えないような〝紅い闇〟が広がっている。
 なんなんだろうこれは。そう思って試しに伸ばしてみた手は、ほどなく何か硬いものにぶつかった。カツンと、闇の中に音が響く。
「――――」
 すぐ傍で誰かのくぐもった声が聞こえた。聞こえただけで、あたしはそれがどこから聞こえてきたもので、誰が発した言葉なのかわからない。当然のことなのに、知りたいとあたしの中で誰かが訴えた。その〝誰か〟が誰なのかを、あたしは知りたい。
「――――」
 声は何かをはっきりと告げた。途端世界が大きく揺れて、あたしは紅い闇の正体が不透明な液体であることを知る。あたしと同じくらいの体型の人がもう一人くらい入ってもじゅうぶんな広さのあるガラスケースの中は、あっという間にあたしを残して空っぽになった。息をしようと喘ぐと、肺にたまった紅い液体でむせた。吐血したみたいに、手と口がべっとりと紅く染まる。
「――しているのか?」
「……」
 今度は少し聞き取れた。ガラス越しの言葉。声の主を確かめるために顔を上げると、――今まで液体の中にいたせいだろうか――体は自分のものじゃないみたいに重かった。ギシギシと軋む音が聞こえてきそうなほど動きは鈍いし、何かと何かがかみあっていないような気もする。
「僕の言っていることがわかるか?」
 ガラスケースの外に立っている人と、ケースの底に座り込んでいるあたしでは、あたしの方が目線が低い。目を逸らさないようにすることだけを考えながら、あたしは小さく顎を引いた。頷いて見せたつもり。体が変な感じだから、ちゃんと出来たかはわからない。
「自分が〝何〟であるかは?」
「?」
「……」
 その人はあたしが首を傾けると、少しだけ考えるような仕草をして、ガラスケースから離れた。

「動くな」

 咄嗟において行かれたくないと思って体を起こそうとすると、強い口調で止められあたしはケースから離しかけた背を、またぺったりと冷たいガラスへ押し付ける。
「カノエ、開けろ」
 私とその人との間に立ち塞がっていたガラスの境界は、まるで水銀のように融解して底にある溝の中に吸い込まれた。あたしが寄りかかっている側のガラスは融けずに残ったから、あたしは言われたとおり動かないでいる。
「話せるか?」
「は、なし…?」
 体と同じで、口もあたしの口じゃないみたいだった。ほんの少し動かして声を出すだけで、頭が疲れる。集中しないとあたしの体は考え通りに動いてくれない。
「…立てるか?」
 差し出された手に、あたしはすぐにでもつかまりたかった。なのに体はゆっくりとしか動かない。
「無理はしなくていい」
 ゆっくりと持ち上げた手をつかみ引き上げられ、あたしは眩暈がした。今まで存在を意識していなかった足が上半身につられてペタペタとケースの底を歩く感触が、どこか遠い。
「まだ慣れてないだけだから、大丈夫」
 あたしは半ば抱きかかえられながらも、自分の足で立っていた。つま先から踵までをしっかりと床につけ、ほんの少しだけ、自分の体を自分の力で支えている。
(へんな、かんじ…)
 それはどこかくすぐったくて、優しくて、あたしは意味もなくへらりと笑って、目を閉じた。
「大丈夫だよ」
 優しい声に守られて。

「――バッカじゃないの」

 酷く可笑しそうに、酷く不愉快そうに、吐き捨てるとルナはさりげなく俺に半歩近づく。

「ママに毒された匣でパパが倒せるわけ、ないじゃない」

 それはどこかそうなることを願っているような言い方で、俺は小さく眉根を寄せた。

「手、出すと後が怖いぞ」
「文弥に言われなくてもわかってる」
「…怖い?」

 すぐそばにあるルナの手を取る。いつもより少しだけ、冷たい。

「怖くなんてない」
「そう」

 握りすぎて手の平を傷付けないよう指を絡ませてやると、二人の距離はいっそう縮まった。ぴったりとよりそって、まるで温めあう雛鳥のよう。

「もし、ルナがどうしても我慢できなくなったら、その時は…」
「…その時は?」

 ほんの少しの期待が、ルナの瞳によぎる。でもそれは既に全てをわかりきっている勝利者の目にも見えて、俺は声を立てず笑った。

「二人で父さんに怒られよう」

 硝子越しに見える空は少し曇っていたが、サンルームの中は程よい暖かさに保たれていた。
 肌寒い廊下を歩いてきたイヴリースは温度差に小さく身震いし、暖まった空気が逃げてしまわないようすぐに扉を閉める。
 歪みのない扉は物音一つ立てることなく元あった場所に収まり、サンルームに置かれたベンチに横たわる少女はイヴリースが現れたことに気付きもせず、夢と現実の間に意識を彷徨わせていた。部屋の一角から湧き上がる清水さえ彼女に遠慮して息を潜めている。
 イヴリースは音を立てないよういつになく慎重に歩きながら、鮮やかな紅色の髪をした少女――ジブリール――を起こしていいものかどうか、考えていた。

「…ジル?」

 ベンチの背もたれに寄りかかり、控えめに口にした愛称にジブリールは気付かない。
 結局イヴリースは彼女を起こさないことに決めて、そっと何事か囁くと穏やかな時間の流れるサンルームを後にした。

 ちょっと出かけてくるよ。

「……――イヴ…?」





 住み慣れた屋敷の中でも、そこはイヴリースにとっても、他の住人たちにとっても特別な場所だった。

 〝扉の廊下〟

 その名の通り扉ばかり並んだ廊下は「地のエデン」と呼ばれるこの世界から抜け出す数少ない手段の一つであり、またイヴリースの持つ人ならざる力の象徴のようなものでもあった。
 扉の廊下に連なる扉の向こうには、一つ一つ、全く別の世界が広がっている。神の能力[チカラ]と呼ばれるイヴリースだけが許された世界創造の力によって生み出された世界は、扉の廊下に並ぶ扉の数だけ存在し、彼女の気まぐれで増減を繰り返す。

 けれどほんの一握りの例外もあった。

 廊下の扉には一様に、イヴリースともう一人――神の知識と呼ばれるジブリール――だけが読み解くことの出来る、到底文字とは呼び難い幾何学模様が刻まれている。幾何学模様以外のものが刻まれていれば、それはイヴリースの力が及ぶことのない〝例外〟の世界。

「この辺りだったような気がするんだがな…」

 緩やかに右へカーブしているせいで果ての見えない扉の廊下で、目星をつけていた辺りに並ぶ扉の模様を一つ一つ確認しながら、イヴリースは一つの例外を探していた。
 そして見つける。

「嗚呼、あった」

 イヴリースが立ち止まり手を触れた扉には翅[ハネ]を休める蜂の姿が鮮明に刻まれ、流れるような筆記体て『Alveare』と銘打たれていた。他の扉と見比べるまでもない、明らかな〝例外〟。
 イヴリースは笑った。普段の彼女を知る者ならば目を疑うほどの穏やかさ、彼女の家族ならば目を覆うほどの無邪気さで。

「さぁ、出かけようか」

 手をかけたドアノブの下に鍵穴はない。それもまた、その向こうに広がる世界に彼女の力が及ばないことの証。左手に嵌めた銀の指輪に軽く口付け、いってきますと囁きイヴリースは扉の向こうへ身を投げた。
 扉は音もなく閉じる。










「なちー!」
「……」

 見覚えのある背中を追ってコンビニを出た途端、照りつける日差しにどっと汗が噴き出した。呼び止めようとした背中は俺が暑さにたじろいでいる間にも、立ち止まることなく離れていく。追いかけるよりコンビニに戻るほうが涼しいし疲れなくてすむ。でも部活の時間はギリギリだ。

「待てよ那智! おいてくなって」

 街路樹の陰に沿って駆け寄り隣に並ぶと、那智はこの上なく面倒そうな視線を俺に向け、仕方なさそうに耳にかけたイヤホンを引き剥がす。音量が低いのか、何を聞いていたのかは分からなかった。

「おいてく?」

 いつもの二割り増しで機嫌の悪そうな那智が低く声を上げる。何を言ってるんだと、見下したような声色。

「言葉のアヤだって、聞こえてんなら無視すんなよ」
「…会話すんのもメンドイ、暑いし」

 そう言いつつ会話に応じてくれる那智は見かけの割りに優しい。というか、こうも暑い日じゃなきゃ見た目もイイ感じで、そりゃあもう女子にもてる。

「コンビニ寄る?」
「……馬鹿」

 本人にその気がないところがまた恨めしい。

「馬鹿ゆーな。…なー、もう今日部活よくね? どっか遊び行こうぜ」
「…どこに?」
「涼しいトコ、海とか」
「電車賃お前が出すなら」
「げー」

 あからさまに俺が表情を歪めると目の端で那智が小さく笑った。最近暑い日続きで険しい表情ばかり見ていた俺は嗚呼でも、それでもいいかなんて思って、那智のスポーツバッグの肩紐を掴む。

「おい!?」
「海行こーぜ!」
「……ったく…」

 進行方向を九十度変えて、走り辛そうな那智を引っ張って、俺は駅を目指した。

「カキ氷もおごれ」
「任しとけ!」

 もううだるような暑さも気にならない。










 安定しない扉の出口が目的の場所からさほど遠くなかったのをいいことに、楽をしようと滅多に使わない交通手段を選んだ。車にしろバイクにしろ迎えにしろ、容赦ない夏の暑さに手配する気力さえ失せる。

(来る時間を選ぶべきだった…)

 無人の券売機で取り合えず聞き覚えのある駅名を選んで、出てきた切符と釣銭――仕方ないから金だけは取り寄せた。知り合いの財布から――を持って改札を通り、人気のないプラットホームへ上がる。駅舎からせりだした屋根の下は涼しい風が絶えず行き交っていた。

「――ほら、急げって!」
「まだ時間あるだろ…」
「早く涼みたい!」

 改札の方から聞こえてくる会話を何ともなしに聞き流しながら、そっと指先を風にさらす。この世界の精霊はどちらかというと希薄だが、それでもじゃれるように指先で騒ぐ気配があった。くすぐるように指を動かすと、首元を風が掠め涼しさが増す。

「あ、電車来たぜ那智ー、鈍行だけどいいだろ?」
「次を待つよりは」
「よし」

 同時に何かピリピリとしたものが背筋を伝ったが、その真意を探る前に風の精霊はホームに滑り込んできた電車の纏う無遠慮な熱に追い立てられ、イヴリースの元を去った。

「……」

 風が何を伝えようとしていたのか、ジブリールのように全知ではないイヴリースには分からない。知る術がないこともないが、果たしてそこまでする必要があるだろうか。――この例外の世界は良くも悪くもイヴリースの思惑の外で回っている。

「おねーさん」
「っ…――なぁに?」
「あ、驚かせちゃった? ゴメンね。乗らないのかなーって思ってさ、次の電車までまだ三十分くらいあるから」

 ホームにも二両編成の電車の中にも、ざっと見人影はなかった。今この場にいるのはイヴリースと二人の少年。

「ごめんなさい、ぼーっとしてたみたい。…乗るわ、教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」

 気の良さそうな少年に道を譲られ、イヴリースは機械的な冷たさで満ちた車両へと乗り込む。続いて少年が乗り込むと、タイミングを見計らったように扉は閉じた。

「おねーさん外人?」

 少年にそう問いかけられ、常用している目晦ましを自身にかけ忘れていたことに気付く。黒髪が一般的なこの国で――しかも都心を少し外したこの辺りなら――、イヴリースの銀髪は珍しいのだろう。どう取っても見慣れてますというような反応ではない。
 今から記憶を操作するのも面倒だから適当に誤魔化しておこうと、イヴリースは肩口の髪を一房拾い上げた。

「ハーフよ。髪と目は母譲りで、父が日本人」
「日本語うまいよね、ずっと日本にいんの?」
「えぇ、だから母の国の言葉はさっぱり。――貴方たちはこの辺りの学生なの?」

 ぽつりぽつりと、まぁ初対面の人間どうしが交わしそうな会話を続ける内に幾つかの駅を通り過ぎたが、三人のいる車両はもちろんもう一つの車両にも、人が乗り込んできた気配はない。いい加減目の前の少年も気付かないものかと――気付いたらそれはそれで面倒だが――イヴリースは目を細めるが、先に異変を感じ取ったのは沈黙を通していたもう一人の少年だった。
 那智と呼ばれていた少年が弾かれたように進行方向に目を向け、何かを見定めるように眉根を寄せると、ほんの少し先の空間が揺れる。那智が声を上げるよりも早くその〝揺れ〟は〝歪み〟となり、――爆発した。

(チッ…)

 咄嗟に揮われたイヴリースの力を歪みが呑み込む。風の精霊もこうなることを分かっていたから警告したのだろうかと、今更なことを考えながらイヴリースは迫る歪みに更なる力をぶつけた。視界の端で那智が歪みに呑まれ姿を消す。既に一両目を呑まれている電車は走り続けているあたり、取り込むのは生き物だけだろうと予測して、新たに力を紡ぐ。

「――――」

 刹那囁いたのは忘却の言霊[コトダマ]。今日ここで不自然なことは何一つ起きなかったのだと、巻き込まれた少年の記憶を書き換える。そうしている間に、イヴリース自身が歪みを逃れる余裕はなくなった。だがただいいようにされてはやらない。歪みの修復はイヴリースが呑まれると同時に完了する。

(情でも移ったかな…)

 流れるように色を失い存在をぼやかされた体はやがて、消え失せた。





「ッ……」

 背中の痛みで目が覚める。最悪の目覚め方だ。おまけに頭が痛い。

「……どこだここ…?」

 目を開けてまず見えたのは灰色の空。曇っているわけでもなく空そのものが灰色をしているような感じで、――俺はこの時点で諦めと共に息を吐く。嗚呼やっちまったと、前髪を乱しながら体を起こせば周囲の状況がさっきよりは把握出来るようになった。戦争物の映画でよくあるような、荒廃した街並みが広がっている。空気も気持ち埃っぽい。

「最悪」

 意識を失う前、俺が見たのは世界の歪み。すぐ傍にいた慎[マコト]がその辺に転がってないところをみると違う場所に落ちたか、俺だけが巻き込まれたか……嗚呼、そういえばあそこにはもう一人いた。到底人間とは言い難い気配の女が、一人。

(あの女がやったのか?)

 慎は気付いてなかった。あの女は気配どころか見るからに俺たちとは異質な存在だったのに、――現に俺は、慎が声をかけるまで彼女の存在に気付かなかった。

「――思ったより落ち着いてるんだな」
「ッ!」

 まず聞こえたのは声。次に座り込んでいた俺の目の前で世界が歪んで――同じ〝歪み〟であるはずなのに、受ける印象はついさっき俺を呑み込んだ歪みとは明らかに違う――、時間をかけず一人の女を吐き出した。

「もっと取り乱すかと思ったのに」

 透けるような銀色の髪を持った女を。

「…あんたがやったのか」

 俺は低く問う。この状況では当然の問いかけだが、俺の中では確認だった。女を吐き出した歪みを禍々しくないと感じた瞬間から、俺はどこかでこの女は信用できるんじゃないかと思ってしまっている。根拠のない信頼。諦めたままなら何かを頼りにしてる方がいい。
 女は心外そうに表情を歪め、大仰に肩を竦めた。まさかだろうと、口角が吊り上げられる。

「私も被害者さ。全く、厄介なことになった」

 言葉とは裏腹に楽しそうな顔で周囲を見渡して、女は座り込んだままの俺に手を差し出した。反射的にその手を取った俺を片手で軽々と引き起こし、そのまま歩き出す。

「ほら、行くぞ」
「え、ちょっ…」

 少し力を入れれば折れてしまいそうな腕なのに握った手はびくともせず、俺は引かれるがまま瓦礫の中を歩いた。どこか行くあてでもあるのか、女の足取りに迷いはない。

「どこ行くんだよ」
「なるべく早くここを離れないと、食意地の張った狼が――「それってマガミのこと?」…来たか」

 一瞬何が起きたのか――今日は何もかもが突然だ――分からなかった。苦々しく女が舌打ちして後ろ向きに地面を蹴ると、その体が俺ごと宙に浮き上がる。不安定な体勢に不満を訴える間もなく、何かの遠吠えがビリビリと空気を揺らした。

「大口真神だ。運がいいなお前、滅多に見れるものじゃないぞ」
「おおぐち、まがみ…?」

 俺は女が口にした名を、噛み砕くよう口にする。神と名がついている割に聞こえてくる声は凶暴で、女の笑みは凶悪だ。

「平たく言うと狼の神だな、元が獣だけに本能に忠実で凶悪だ。気を抜くとぱっくりやられる」
「げっ…」
「死にたくないか?」
「あ、当たり前だろ!?」
「よし」

 何がよしなのか、聞き返す前に女は俺を手近な瓦礫の上に下ろし、小さな子供に言い聞かせるよう目を合わせてきた。
 左手に嵌められた指輪が、手の平の冷たさとは裏腹な温かさを伝える。

「私はイヴリース。いいか? お前は私の名を呼んで『契約する』とだけ言えばいい。それで万事解決だ」
「契約?」
「今必要なのは私がお前を助ける理[コトワリ]、私とお前が契約を交わしたという事実」
「んなこと急に言われても…」

 頭の中で女――イヴリース――の言葉が渦を巻いた。俺は俺の知らないところでとんでもないことに巻き込まれて、この状況は更にややこしくなるらしい。今のところ、這い上がる方法は示されていない。

「その子困ってるよ、イヴリース」

 ついさっきイヴリースの言葉を遮ったのと同じ声が、今度は随分近くから聞こえた。
 また舌打ったイヴリースは俺を置いて飛躍し、低い瓦礫に腰掛ける人影の前に降りる。

「思ったより早かったな」
「自分の気配は隠せても、何の繋がりもない子供までは手が回りきらないみたいだね」
「場所が場所だけに」

 ここから這い上がる方法を俺は知らない。ここがどこなのかすら知りはしないし、この先に何があるのかも知らない。

「気紛れならもうよした方がいいよ。これ以上は、貴女だって…」

 けれど、ここで踏み止まる術は示されたような気がする。

「私は一度手をつけたものは、最後まで面倒見る主義なんだ」

 ――なぁ? 那智

「…イヴリース、」

 教えてもいない俺の名をイヴリースが呼んで――嗚呼でも、電車の中で何度も慎に呼ばれたから、知っていてもおかしくはない――、対峙する少女がはっと表情を強張らせた。

「あんたと契約する」

 もう引き返せないのだと、その言葉を口にした瞬間俺は悟る。根拠のない直感。途端後姿だけでもそうと分かるほどイヴリースが肩を揺らして笑い、――世界が震撼した。

「マガミ、ジン!」

 イヴリースと対峙する少女が悲鳴じみた声で叫ぶと、その影から化け物じみた大きさの狼が飛び出し、どこからともなく白い髪の男が現れる。

「那智」

 瞬き一つの間に俺の傍へと舞い戻ったイヴリースは、俺の手を取り立ち上がらせると、眼下に並ぶ三つの存在に向け、悠然と告げた。

「また会おう」

 それは再会することが分かりきっていて、尚且つそうなることを楽しみにしているような言い方で、俺は周囲の急激な変化に意識を持っていかれる寸前、心の中で首を傾げる。

「紅銀狐の呪われ子」

 彼女らは、どうやらイヴリースにとって脅威となりうる存在ではないらしい。





 世界の創造主である彼女にとって、全てが紙一重の遊戯であることを俺が知るのは、もう少し後の話。
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